酔いどれ俳人の歩きし道を振り返る 


- 種田山頭火 Santohka Taneda -
<酒と旅の日々を生きた男>
 酒と旅に生きた俳人、山頭火。名前は、もちろん知っていましたが、俳句には疎いため、これまで取り上げていませんでした。今回、その人生と作品を振り返り、その生き様に様々なアーティストたちの人生を思い出させてもらいました。
 アメリカの酔いどれ作家チャールズ・ブコウスキー、ジャック・ケルアックや「オン・ザ・ロード」の登場人物たち、漫画家のつげ義春、フォークの父としてホーボー生活を続けたウディ・ガスリー・・・
 ここでは、彼の俳句を、彼の人生を振り返りながらそれぞれの時代ごとのに選んでみました。あくまでも、僕目線で選んだものなので、俳句に興味がある方は、是非、数多く出ている彼の句集をお読みいただければと思います。

 彼が生きた時代、日本は太平洋戦争に向かって、軍国主義路線を突き進んでいあした。そんな中、彼はそんな日本の流れに背を向けるように、一人放浪の旅を続けました。といっても、彼はそんな日本の政治を批判していたわけではありあせんでした。単に彼は普通の人生を歩くには、心が繊細過ぎただけだったのかもしれません。
 そのために、彼はアルコールに逃げ、宗教に逃げ、妻と子から逃げ、ついには自殺によって人生そのものから逃げようとします。それにも関わらず、彼の人生は暗いだけではありません。彼の俳句には、酒と女、温泉、美しい風景など、旅での楽しい思い出も数多く描かれています。ユーモアと悲しみと不安と喜びと狂気と失望と・・・様々な感情が彼の俳句から見えてきます。
 ただし、そうした彼の生き様や時代背景などを知ることなしに、素直にその俳句を詠むべきなのかもしれません。それぞれの人が、それぞれのイメージで読み、感じる方ことを、作者も望んでいる気がします。

<種田正一>
 後の種田山頭火、種田正一は、1882年(明治15年)12月3日、山口県防府市(現在)の旧家に生まれました。恵まれた家庭でしたが、父親竹治郎との不仲と経済的な不安から、彼が10歳の時、母親が井戸に身を投げ自殺。彼は母親の遺体が引き上げられる様子を目撃し、大きな衝撃を受けてしまいます。この時の衝撃が、彼に「死」と「家族を失う悲しみ」をトラウマとして残すことになりました。 
1901年
 成績優秀だった彼は、現在の早稲田大学である東京専門学校に合格し、東京に向かいます。ところが、東京での生活、大学での勉強、実家の経済的な問題などもあり、神経衰弱になってしまったことから、大学を退学し、帰郷してしまいます。彼自身の心の中には、東京で作家として成功したいという思いが残されました。
1907年 
 多額の借金を抱えていた実家、種田家は家屋敷を売り払い、酒造場を買いとって種田酒造場を始めます。
1909年
 父親からの強い勧めから、彼は7歳年下のサキノと結婚。翌年には長男の健が生まれます。
1911年
「サイダーの泡立ちて消ゆ夏の月」
 この頃、彼は望みだった文学の道をアマチュアとして目指していて、俳句の投稿者として、「山頭火」を名乗り始めています。しかし、生活は苦しく、夫婦の仲も早くも上手く行かなくなりつつあり、酒に溺れる日々が始まっていました。
1914年
「野良猫が影のごと眠りえぬ我に」
「今日も事なし凩(こがらし)に酒量るのみ」
1915年
「沈み行く底へ底へ時雨落つ」
 実家が始めていた酒造場が倒産し、家族は離散。父親も行方不明となり、彼は妻の実家があった熊本で古書店「雅楽多」を開業しますが、生活は苦しいいままでした。
1916年
「山の色澄み切つてまつすぐる煙」
「燕とびかふ空しみじみと家出かな」
1917年
「いさかえる夫婦に蜘蛛さがりけり」 
1918年
「またあふまじき弟にわかれ泥濘あり」
  弟の二郎が首つり自殺を遂げます。家族が離散してから親戚に預けられていた弟は、彼以上につらい立場にありました。そんな弟を助けられなかったことで、彼は再び大きなショックを受けました。彼自身にとっても、もう一度人生を見直すきっかけにもなりました。
1919年
「けふはじまりの汽笛長う鳴るかな」
 文学の道への挑戦をあきらめきれなかった彼は、この年、単身で東京へと戻ります。
1920年
「労れて戻る夜の角のポストよ」
 東京市事務員として一ツ橋図書館で働きながら、文学の道を目指すも上手く行かず、当然、家族を呼び寄せることもできないまま、ついに離婚に至ります。
1922年
 東京での孤独な生活の中、彼は神経衰弱を発症。
1923年
 東京を関東大震災が襲います。彼は地震を生き延びますが、混乱の中で社会主義者への弾圧が行われ、彼もそのメンバーの一人と疑われて逮捕されます。厳しい尋問を受けた後、彼は巣鴨刑務所に収監されます。結局、彼は釈放されますが、東京での仕事もなく、彼は再び熊本に戻ることになります。
1924年
 熊本に戻った彼はまともな仕事もなく、再び別れた妻の世話になる情けない立場となります。ついには泥酔した上に路面電車の前に立ちはだかり、再び警察の世話になります。さすがにこのままでは何をしでかすかわからない危険な状態だったことから、彼を曹洞宗報恩寺の住職が預かることになり、彼は禅門に入ることになります。
1926年
「分け入っても 分け入っても 青い山」
(この句は映画「イン・トゥ・ザ・ワイルド」の境地を思い出させます。大自然の中へどこまでも分け入り、そこに吸い込まれて消えてしまってもいい。そんな思いをも感じてしまいます)
「炎天をいただいて乞ひ歩く」
 山林での孤独な修行に耐えきれず、彼は自ら寺を出る決断をして一人旅に出ます。
「人間に対すれば憎悪がおこる。自然に向かえばゆうゆうかんかんおだやかに生きてをれる」
1927年~1928年
「この旅、果てもない旅のつくつくぼうし」
「だまつて今日の草鞋穿く」
「まつすぐな道でさみしい」
広島、山陰、徳島、四国、岡山、山陰を旅する。
1929年~1930年 
「また見ることもない山が遠ざかる」
(電車の窓から見える風景が、後ろへ後ろへと流れて行くのを見ながら、そこに残してきた風景と人への懐かしい思い出が・・・そんなキュンとした記憶がよみがえります)
「すべってころんで山がひつそり」 
「夕べの食へない顔があつまつてくる」
「物思ふ膝の上で寝る猫」
「ふりかへらない道をいそぐ」
「逢いたいホタ山が見え出した」
「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」
「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」
「いやな夢見た朝の爪をきる」
「病んで寝て蠅が一匹きただけ」
「すこし熱がある風の中を急ぐ」
「水飲んで尿して去る」
「秋風の旅人になりきつてゐる」
「空も人も時化る」
「乞ふことくをやめて山を観る」
「降ったり照ったり死場所をさがす」
「どうしようもないわたしが歩いている」
「ふる郷の言葉となつた街にきた」
広島、山陽、北九州、熊本(雅楽多)、大分、九州を旅する。
 1930年9月、それまでの日記や手帖をすべて燃やした彼は新しいノートの冒頭にこう書いています。

 所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だった。愚かな旅人として一生流転せずにはいられない私だった。浮草のように、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽している私をあわれみ且つよろこぶ。
 水は流れる。雲は動いてやまない。風が吹けば木の葉が散る。魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。
 旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのままに写さう。私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。 
1931年
「星があつて男と女」
「死をまへの木の葉そよぐなり」
1932年 
「けふもいちにち風をあるいてきた」
「ほつくりぬけた歯で年とつた」
「うつむいて石ころばかり」
「夏草、お墓をさがす」
「旅の法衣がかわくまで雑草の風」
「曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ」
「ふるさとの言葉のなかにすわる」
「水を渡って女買ひに行く」
「さみしい風が歩かせる」
長崎、島原、佐世保、山口を旅する。小郡町矢足に其中庵を得て拠点とする。(俳句仲間などの世話になる)
1933年
「ぬいてもぬいても草の執着をぬく」
「ほととぎすあすは山こえてゆかう」
「おもひでは汐みちてくるふるさとのわたし場」
「ふとめざめたらなみだがこぼれてゐた」
1934年~1935年
「墓石に帽子をのせ南無阿弥陀仏」
「死ねる薬をまへにしてつくつくぼうし」
「死ねる薬を掌に かがやく青葉」
「ころり寝ころべば青空」
「あるがまま雑草として芽を吹く」
「何を求める風の中ゆく」
福岡、広島、神戸、京都、名古屋、小郡(其中庵)を旅する
 8月6日、彼はカルモチンによる自殺を図りますが失敗。

 私はとうとう卒倒した。幸か不幸か、雨が降っていたので雨にうたれて、自然的に意識を回復したが、緑から転がり落ちて雑草の中へうつ伏せになつていた。顔も手足も擦り剝いた。さすがに不死身に近い私も数日間動けなかった。水ばかり飲んで、自業自得を痛感しつつ生死の間を彷徨した。
(山頭火はこの日を「第二誕生日」と名付けました)

 旅に出た、どこへ、ゆきたい方へ、ゆけるところまで。
 俳人山頭火、死場所をさがしつつ私は行く!

(12月6日)
1936年
「そこらに島をばらまいて春の波」
「ほつと月がある東京に来てゐる」
「ちんぽこの湯気もほんによい湯で」
「荒海へ脚投げだして旅のあとさき」
「酔ひざめの風のかなしく吹きぬける」
「水をわたる誰にともなくさやうなら」
「みんなかへる家はあるゆふべのゆきき」
岡山、広島、徳山、八幡、神戸、大阪、京都、伊勢、東京、其中庵を旅する。 
「ほんとうでない、といって、うそでもない生活、それが私の現在地」
(4月)
「独り遊ぶ - 三日間、私はアルコールなしに、ニコチンなしに、無言行をつづけた。これで、私の一生はよかれあしかれ、とにかく終わったと思ふ。満身の恥、通身の汗。流れるままに流れよう、あせらずに、いういうとして」
(7月)
1937年
「ぼろ着て着ぶくれておめでたい顔で」
 山口で友人の世話により材木店に就職。しかし、彼に堅気の仕事が務まるはずもなくにすぐに辞めてしまいます。挙句の果てに泥酔した末に無銭飲食で逮捕されてしまいます。
1938年
「ごろりと草に、ふんどしかわいた」
「ずんぶり濡れてけふも旅ゆく」
「これが最後の日本の御飯を食べてゐる汗」
「ぽろぽろ流れる汗が白い函に」
「御はおまつりお骨となつて帰られたか」
「うまれた家はあとかたもないほうたる」
大分、山口を旅する。友人たちにより、山口に「風来居」完成。
 懺悔、感謝、精進の生活道は平凡ではあるがそれはたしかに人の本道である - と思ふ、この三道は所詮一つだ、懺悔があれば必ずそこに感謝があり、精進があれば必ずそこに感謝があるべき筈である、・・・感謝があればいつも気分がよい、気分がよければ私にはいつでもお祭りである、拝む心で生拝む心で死なう、そこに無量の光明と生命の世界が私を待っていてくれるであろう、巡礼の心は私のふるさとであつた筈であるから。・・・
 夜、一洵居へ行く、しんみりと話してかへつた、更けて書こうとするに今日は殊に手がふるへる

(10月8日)

戦争は、私のようなものにも、心理的にまた経済的にこたえる、私は所詮、無能無力で、積極的に生産的に働くことは出来ないから、せめて消極的にでも、自己を正しうし、愚を守ろう、酒もできるだけ慎んで、精一杯詩作しよう、 - それが私の奉公である。・・・戦争の記事はいたましくもいさましい、私は読んで興奮するよりも、読んでいるうちに涙ぐましくなり遣りきれなくなる」
(10月22日)
 日本は中国で戦争中で、この後、すぐにアメリカとの戦争が始まることになります。彼は戦意高揚の句を読むよりも、兵士たちの悲劇に思いを寄せていたのでしょう。
1939年
「酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ」
「死をひしひしと水のうまさかな」
「ほろほろほろびゆくわたしの秋」
「風来居」、近畿、東海、木曽、四国、松山に友人たちが建てた「一草庵」へ。
1940年 
「六十にして落ちつけないこころ海をわたる」
「風は初夏の、さつさうとしてあるけ」
「しみじみ晴れて風なく一人」
「おちついて死ねそうな草履ゆる」
「ゆく春の夜のどこかで時計鳴る」
「日ざかり泣いても笑ふても一人」
「こしかたゆくするゑ雪あかりする」
「銭がない物がない歯がないひとり」
「もりもりもりあがる雲へ歩む」
「一草庵」、中国地方、四国、九州、「一草庵」
 10月11日、友人たちと「一草庵」で集まった夜、明け方に心臓麻痺にて死去。

<参考>
「山頭火」

(著)石 寒太 1995年 文春文庫
「山頭火 アルバム」
(編)村上護 1990年 春陽堂書店

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