- サチェル・ペイジ Sathel Paige -

<年間最多勝記録>
 大リーグにおける通算最多勝利記録保持者は、有名なサイ・ヤング賞の名前にもなっているサイ・ヤング。彼は生涯で511勝をあげています。511勝といえば、毎年20勝の勝ち星を記録し続けたとしt、26年かかる計算になる凄い数です。18歳でプロになりいきなりメジャー・デビューしたとして、26年後と言えば44歳になっています。しかし、18歳から44歳まで毎年20勝あげるなんて、現代野球ではまず不可能なことです。日本でも昔なら30勝あげるピッチャーがいましたが、そうしたピッチャーのほとんどはそのために選手寿命を縮めてしまい、20年活躍できた選手はほとんどいません。金田の400勝は、まさに前人未到、永遠に破られない記録になるように思います。
 しかし、世の中には上には上がいるものです。かつてアメリカに、生涯で2000勝を超える勝ち星をあげたピッチャーがいたというのです。それが、伝説の黒人投手、サチェル・ペイジです。でも、よく何がえてみてください。2000勝ということは、毎年60勝したとしても、34年投げ続けなければならないのです!この数字は、現在の大リーグや日本のプロ野球のように年間試合数が140程度では絶対にありえません。(中一日で投げ続けることなるのですから・・・)例え、年間の試合数が倍あったとしても、なお厳しい数字でしょう。それでは、どうやって2000勝もあげることができたのでしょう?2000勝は伝説にすぎないのでしょうか?
 それでは、伝説の投手、サチェル・ペイジについて書かれた名著「史上最高の投手はだれか」(佐山和夫)を参考に、その伝説と真実に迫ろうと思います。

<野球との出会い>
 サチェル・ペイジことLeroy Robert Paigeは、役所の記録によると1906年7月7日アラバマ州モービルで生まれています。ただ彼はこの日付は間違っていると語っていて、正確な彼の年齢はわからないままです。彼の父親は庭師で、彼がまだ小さいうちにこの世を去り、洗濯だった母親がわずかな収入で家族を支えていたといいます。11人兄弟の末っ子だった彼は家庭が貧しかったために子供の頃から学校に行かず働いていました。特に駅に着いた乗客の荷物を待合室まで運んで10セントのチップをもらうのは彼の重要な仕事だったといいます。両肩に10個以上の肩掛けバッグ(サチェル・バッグ)をかけた小さな少年の姿はまるでバッグが歩いているように見えたことから、彼のあだ名は「サチェル」になったのでした。
 そんな貧しい暮らしをしていた彼にとって唯一の楽しみだったのは、道端にころがる石をひろって的に当てることでした。ボールもバットも買えない彼にとって、野球は縁遠いものでした。しかし皮肉なことに、彼が野球と出会ったのは、その貧しさのおかげで彼が犯罪に走ったことが原因でした。ある日、彼は雑貨屋でオモチャの指輪を盗んだところを見つかり、救護院に入所させられます。それまでも悪い仲間たちと共に犯罪に手を染めていた彼は、5年にわたり牢獄暮らしを余儀なくされます。しかし、その間に彼はそこで野球を体験することになったのでした。そのうえ、彼は学問を学ぶ機会にも、恵まれることになり犯罪から足を洗うことができたようです。
 1924年、17歳で出所した彼は、ボクシングに挑戦したり、バンドのドラマーを目指したりした後、叔父さんが投手をしていたセミプロの野球チーム、モービル・タイガースに入団します。すると、18歳でデビューした彼は、いきなり30勝1敗という驚異的な活躍をします。翌年も同じように活躍した彼には早くもプロからの誘いの声がかかります。こうして1926年、彼は黒人リーグのプロ・チーム、チャタヌガ・ブラック・ルックアウツと契約。彼は月給50ドルでプロ選手としての活躍を始めます。彼の能力の高さはすぐに発揮され、月給も翌月には100ドルにアップ。翌年には、さらにその倍の200ドルになっていました。

<脅威のピッチング>
 彼の投手としての売りは、スピードとコントロールにありました。スピードは、メジャー・リーガーのボールをも受けたキャッチャーが彼のボールを受けた感覚では、160キロを完全に越えていたといいます。(一説によると170キロを越えていたとも言われています)しかし、長身のペイジはけっして力いっぱい投げ込むというタイプではなく長い手と身長を生かした弓にようにしならせるゆったりとしたフォームが特徴でした。そのため、彼のコントロールは常に安定していて、投球練習で彼はよくキャッチャーの前にハンカチや煙草の箱を置いてその上を通すというパフォーマンスを行っていました。観客もそんな彼のパフォーマンスを見るのが楽しみのひとつとなり、彼もそれに対応しハンカチをガムの包み紙に変えるなどして観客の期待に答えていたといいます。
 単に優れた投手だったのではなく、優れたエンターテナーでもあった彼は、時には先発のマウンドで「先頭打者から6人連続して三振をとる!」と宣言。そのとうりに、連続三振を奪うというパフォーマンスも得意にしていました。(もちろん、ホームの試合限定でアウェーではやらなかったようですが・・・)

<白人との対戦>
 当時、黒人メジャー・リーガーはまだ存在せず、プロ・リーグ自体が白人のリーグと黒人のリーグ、二つに完全に分かれていました。それでもシーズン・オフになると黒人リーグと白人リーグのチームが試合をすることは、けっこうあったようで、白人のメジャー・リーガーの中にもペイジと対戦した選手がいて、その記憶が後に彼の評価をさらに高めることになりました。その中でポール・リチャードという選手が後にこう語っています。

「私たちのオールスター・チームが、サチェルと対戦した時のことだ。彼は横手から、切れ込んでくる球を投げて来たが、その速さに私は思わず息を飲んだ。ところが、捕手のギブソンはその球を受けるや否やタイムをかけ、ピッチャーズ・マウンドに登って行って、ペイジにこう怒鳴っているのだ。『おい、サッチ。チェンジ・アップが必要な時は、俺の方から要求する。まじめにやるんだ。速球で来い』
 それからというもの、ペイジの投げる球の、いや、速かったこと!」


 これまた未確認ながら、彼は生涯で300は完封試合があり、ノーヒット・ノーランを55回達成しているといわれています。

<さらなる活躍>
 1930年代に入ると大恐慌の時代になりますが、彼の活躍はさらに勢いを増します。例えば、1934年。彼はビスマークというチームのピッチャーとして、105試合に登板して104勝をいあげたといいます?!当時、黒人リーグの試合は場所を変えながらほとんど毎日行われ、1日に二試合する日もけっこうあったらしいので、年間1000試合ぐらいしていたのかもしれません。(論理的な数字ではあっても、現実的、肉体的にはありえない数字のように思えますが・・・)
 黒人リーグにもアメリカン・リーグやナショナル・リーグなど様々なリーグがあり、その地域は限られていて、彼が活躍していたのはアメリカ北東部中心だったため、移動は今ほど大変ではなかったようです。確かに年間100勝すれば2000勝という膨大な数字も可能な数字に思えてきます。とはいえ、それだけ肩を酷使すれば、その影響が出ないはずはありません。30歳になる頃、彼は突然肩の痛みに襲われ、ボールを投げられなくなってしまうことになります。まだ若かった彼は、別の仕事を探すべきだったのかもしれませんが、野球が大好きな彼はコーチとして野球に関わる道を選択します。

<現役引退からの復帰>
 ところが、ある日、ブルペンから転がってきたボールをひろって投げ返すと肩が痛くないことに気がつきます。どうやら自然に肩が治っていたようです。1939年、彼は33歳で再び投手としての現役生活を開始することになりました。とりあえず、コーチとして拾ってくれたカンザスシティ・モナクスの先発投手となった彼はチームをニグロ・アメリカン・リーグのチャンピオンに導き、3年連続の立役者となりました。
 当時の彼は肩を壊す前とは投法を変え、相手のタイミングをづらす独特の投げ方をあみ出し、三振ではなく打たせてとるピッチングにより磨きをかけてゆきました。ボーク、ギリギリのその投法は、「ヘジテイション・ピッチ」と呼ばれ、大きな話題になったといいます。こうして、いよいよ彼の人気は高まり、彼はフリーのプロ野球選手として複数のチームに所属するようになります。なんと同時に10チームと契約していた時期もあったといいます。なにせ当時のアメリカのニグロ・リーグには数多くのチームがあったようで、彼は一試合ごとに契約し、ギャラをもらうようになっていました。そんなわけで、彼は生涯で250チームのユニフォームを着たといわれているそうです。そして彼は一日に何試合か出場することもあったため、着替えるのが面倒になり、ついには自分だけのオリジナル・ユニフォームを作ってしまい、背中に「PAIGE」とだけ入れて試合に出場するようにしたというのです。彼はある種ゲスト・スター扱いだったので、顔見世的に投げて次との球場に移動するということも多かったようです。(当時、彼は自家用の飛行機まで持っていたといいます)
 そうした彼のようなタイプの選手は、当時「インデペンデント・プレイヤー」と呼ばれていて、他にも彼のような選手はいたようです。彼のギャラは、メジャー・リーガーにも勝るものとなり、金銭的には彼のメジャー移籍は収入ダウンにつながることになりました。
 彼のエンターテナーぶりは、投球練習の時でけではなく、試合中にも発揮されていました。
 例えば、彼のチームがリードしていて試合が一方的になっていた時、彼はあえて相手チームのバッターをフォアボールで歩かせ、わざと満塁にして危機を演出したそうです。そのうえ彼はさらに試合を面白くするため、キャッチャー以外の守備のメンバーを自分の後に集めて座らせたといいます。選手によってはそこで集まってトランプをし始めることもあったとか・・・。こうして彼は、バッター相手に三振か走者一掃のヒットかの勝負を挑んだわけです。ほとんどの場合、彼はバッターを三振に討ち取ったので、敵チームにとっては気持ちがいいとはいえません。したがって、このパフォーマンスは地元限定で行われたようですが、それでも彼はこれを200回はやったと言われています。

<黒人選手のメジャー進出>
 1943年のニグロ・リーグのオールスター戦に彼はファン投票一位で出場。この試合の観客数は5万2千人近かったといいます。考えて見ると、1943年といえば、アメリカと日本が太平洋戦争を行っていた時期です。この年日本は野球どころではない状態でしたが、アメリカにとってはそれほど変わった年ではなかったのかもしれません。しかし、この戦争の影響は確実にアメリカにも影響を及ぼすことになります。
 1946年、黒人選手ジャッキー・ロビンソンがドジャースに入団。メジャー初の黒人選手が誕生しました。これはその後のメジャーの歴史を変える大事件だったわけですが、そのきっかけはやはり戦争でした。一般的には、戦争によって多くの若者が召集され戦場に向かったため、選手が不足し、それを補うために黒人選手をメジャー入りさせたと思われる傾向にありますが、実はそうではなかったようです。それよりも、戦争中、戦場では白人と黒人は差別なく命を懸けて戦い、さらにヨーロッパの人びとはまったく黒人差別を行いませんでした。そのため、ヨーロッパから帰った黒人兵士たちの多くはそれまで当たり前だと思っていた「人種差別」は、アメリカだけの間違った意識なのだと気づくことになったのです。そのことは、同じように戦争に参加し、黒人兵士とともに戦った白人たちにとっても言えました。彼らもまた黒人に対する差別が間違ったものであると認識することになったのです。戦後、日本を含めた世界各地に「民主主義」を広めることになるアメリカにとって、人種差別の撤廃はやらなければならないことが明らかになったわけです。
 しかし、なぜ黒人メジャー・リーガー第一号がジャッキー・ロビンソンだったのか?それは決して彼がニグロ・リーグ最高の選手だたからではありませんでした。彼より優れた選手は、当時いくらでもいました。それはたぶんに彼を使う側、白人経営者の都合によるものでした。白人ばかりのチームに入って活躍するためには、その社会に適応できる社会性が必要と考えられました。さらに一度その世界に入ったからには、そこで長く活躍し元がとれる若い選手である必要もありました。
 そこで、ドジャースはまだ28歳だったジャッキー・ロビンソンを雇い、彼を一年間ファームで育てた後、チームに合流させるという方法で黒人メジャー・リーガーを誕生させたのでした。まだ若く順応性があった彼は、すぐに活躍を開始し、彼をきっかけにして次々に黒人選手がメジャー入りすることになりました。

<遅すぎたメジャー入り>
 次々に黒人メジャー・リーガーが誕生する中、まだ現役だったペイジにはなかなかお声がかかりませんでした。残念ながら彼はすでに40歳を越えていたため、もう峠を越えていると判断されていたからでした。しかし、次々に黒人選手が活躍することで、どのチームも戦力補強に黒人選手を採用するようになり、投手の不足に悩む、クリーブランド・インディアンズが彼に声をかけてくれました。こうして、42歳というメジャー最年長の新人投手が誕生することになりました。
 彼がデビューしたのは、1948年7月9日。シーズン途中のことでした。その試合はすでに3点のリードを許した敗戦処理的な登板でしたが、それでも彼はその後2イニングを無失点に押さえています。
 その次の試合で先発に起用されると、彼は見事に完封勝ちを収め、その後は次々と好投をみせ、野球界を驚かせることになりました。彼はその後6勝1敗という成績を残し、チームも28年ぶりにワールドシリーズを制覇。全米チャンピオンに輝いてしまいます。彼にとって残念だったのは、このワールドシリーズで彼に登板のチャンスがまわって来なかったことです。(全米の注目を集める名誉ある試合に黒人投手を登板させることに監督が躊躇したという説もありますが、それは定かではありません)
 残念ながら彼は、その後、こうした大舞台に立つことがないまま現役を終えることになります。体力の衰えは隠せず、彼は2シーズンを終えたところでチームを解雇されてしまいました。それでもなお、彼はメジャー復帰をあきらめず、1951年にはセンントルイス・ブラウンズと契約。メジャー復帰を果たします。そして、1952年、彼はなんと12勝をあげて見せました。残念なことに1953年、ブラウンズはチームごと売却されることになり、彼もまたチームを去ることになります。

<伝説の投手を救え!>
 結局彼は現役復帰を望むもののチャンスはなく、その知名度を生かして映画に出演したり、セミプロのチームで投げたりしますが、しだいに生活に困るようになり始めます。そのうえ彼はメジャーでの選手生活が短すぎたため、年金をもらうことができませんでした。このままでは、偉大な選手があまりにもかわいそうだ。そう考えた野球関係者たちが彼を助けようと動き始めます。そして、考えられたのが、彼に年金需給資格を与えるために、もう一度メジャーに復帰させるという計画でした。
 するとカンザスシティ・アスレチックスがその願いに答え、彼を入団させてくれることになりました。こうして、なんと59歳のメジャー・リーガーが誕生することになったのでした。もちろん、この契約は彼に年金を受けさせるためのものなので、彼は試合に出場する必要はありませんでした。しかし、彼はマウンドに立つことになります。
 1965年9月25日、彼はボストン・レッドソックス戦のマウンドに立ちました。それはチームが彼に一度はマウンドに立ってもらおうという配慮によるものだったのでしょう。しかし、先発のマウンドに立った彼は59歳とは思えないピッチングを見せ観客を驚かせました。カール・ヤストレムスキーら現役バリバリの選手を相手に彼は見事3イニングを無失点で投げ終えたのです。
 こうして彼は現役を終え、その後野球の殿堂入りも果たします。当初は、ニグロ・リーグの選手はそこに入れなかったのですが、差別への批判が強まりニグロ・リーグの選手にも門戸が開かれるようになりました。彼は殿堂入りが決まるとインタビューでこう話したそうです。

「私は人種差別を受けているといは思わない。彼らは私のために場所を設けてくれた。それが野球殿堂の中のどこであろうと、私は誇りに思う。毎年プレーするにあたって、私は”今年が私にとって最良の年である”と言いきかせて来た。だが、今年こそは、本当に私のベスト・イヤーになった。ジャッキーが大リーグに入るまで、私たち黒人は、そこで働くことは出来ないでいた。が、私はそれを特に苦々しく思ったことはなかった。私が白人でありさえすれば大リーグへ行けるのにと、言ってくれる人たちもいたが、私自身は、つらくも何ともなかった。私は私の世界に満足していたからだ。私はいろんなところでプレーをし、黒人たちの間でのスターであることに満足していた。私はどこへでも出かけて行った。行ったことのないところなんて、ないのじゃないか。石炭鉱山や刑務所へも行った。そういうところでするのは好きだった。どこへ行っても子供たちがついて来たものだ。・・・・・」

 このインタビューを読んでいて同時代の黒人歌手ナット・キング・コールのことを思い出しました。クラブで歌う時、何度となく差別的な待遇を受けましたが、けっしてそれに対して怒りの表情を見せることはなかったといいます。純粋に音楽を愛していたからこそ、我慢し続けた彼のことを白人に従順な臆病者と呼ぶ黒人たちも多かったといいます。

<最後に>
 サチェル・ペイジの伝説は彼がギリギリ大リーグ入りすることができ、その名を後世に知られるとこになりました。しかし、それ以前の選手については、ほとんど記録はなく伝説としてもほとんど残ってはいないようです。
 ペイジ自身もインタビューで自分より優れた投手はまだまだいたと言っているだけに、きっとアメリカ各地のニグロ・リーグには他にもとんでもない選手がいたのでしょう。ちなみに、ジョン・ドナルドソンという投手は毎試合20個の三振を奪うことで知られていて、全盛期には3試合連続ノーヒット・ノーランというありえない記録も達成していたといわれています。恐るべし、アメリカ野球!

<参考資料>
「史上最高の投手はだれか Who's the Best Pitcher in History」
 1984年
佐山和夫 Kazuo Sayama(著)
潮出版社

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