「サタデー・ナイト・フィーバー Saturday Night Fever」 1977年

- ジョン・トラボルタ John Travolta、ジョン・バダム John Badham -

<青春映画の傑作と音楽>
 映画史に残る青春映画の名作を挙げてみると、そのほとんどは音楽が主役ともいえる作品です。それには実は明確な理由があります。1945年以前(第二次世界大戦以前)映画は大人のための娯楽であり、子供や学生のためのものではありませんでした。それは子供にはまだ贅沢な娯楽だったともいえます。戦後になって、世界的に経済が復興し、戦争に行かなくてすむことになった若者たちが学生として青春を謳歌できる時代がやってきます。そうなって初めて、若者たちが映画の観客として意識されるように、必然的に青春映画という新たなジャンルが誕生することになりました。したがって、青春映画と呼ばれるジャンルが誕生したのは、1950年代になってからだったわけです。そして、その頃、若者たちのライフ・スタイルになくてはならない存在になっていたのが、ジャズやR&Bそして、ロックン・ロールだったのです。
 世界最初のロックン・ロール・ナンバーといわれる「Rock Around the Clock」は、実は最初に発売された当初まったくヒットしませんでした。それは1955年に公開された映画「暴力教室」のテーマ曲として使われたことで初めて大ヒットすることになったのです。エルヴィス・プレスリーが世界的アイドルになったのも、彼が主演した映画「監獄ロック」(1957年)、「GIブルース」(1960年)、「ブルー・ハワイ」(1961年)などのヒットのおかげだったともいえます。マーロン・ブランドの「乱暴者」(1954年)やジェームス・ディーン「理由なき反抗」(1955年)あたりを最後に青春映画の音楽はオリジナルの映画音楽から、その時代のヒット曲を用いるように変わってゆきました。こうして、それぞれの時代の青春を描くには彼らが聞いていた音楽がどんな流行やファッションよりも重要な存在になってゆきます。

 1960年代に入ると「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」(1964年)のようなアイドル・バンドものが登場。ニューシネマの代表作「卒業」(1967年)もサイモン&ガーファンクルの音楽ぬきには語れない作品です。そして、「イージー・ライダー」(1969年)この映画は各アーティストに試写を見せて、すでに発表済みの曲からセレクションすることで、よりレベルの高い音楽映画になりました。「アリスのレストラン」(1969年)などは、同名タイトルのヒット曲をもとに作られた異色の映画です。
 その他にも、「小さな恋のメロディ」(1970年)はフォーク・ミュージック、「アメリカン・グラフィティ」(1973年)はロックン・ロール・リバイバル、「ハーダー・ゼイ・カム」(1973年)は元祖レゲエ・ムービー、「トミー」(1975年)はロック・ミュージカル、「さらば青春の光」(1979年)はモッズ・リヴァイヴァル、「フェーム」(1980年)「フラッシュ・ダンス」(1983年)はダンスものの先駆け、「再会の時」(1983年)は1960年代ヒット曲を用いた青春ものの先駆け、「シド&ナンシー」(1986年)はパンク・ロック、「ニュージャック・シティー」(1991年)はそのまんまニュージャック・スウィング、「ザ・コミットメンツ」(1991年)はR&Bとアイリッシュ・ミュージック、「リアリティ・バイツ」(1994年)ではグランジ・ロック、「トレイン・スポッティング」(1996年)は90年代ブリティッシュ・ロックとテクノ、「ロミオ&ジュリエット」(1996年)ではレディオ・ヘッドやカーディガンズなど、それぞれの時代、それぞれの土地でヒットしていた曲を背景に映画が作られてきました。そして、その多くはそこで使用された音楽を世界中に広め、ヒットさせることになりました。

<ディスコ・フィーヴァー世界へ>
 「サタデー・ナイト・フィーヴァー」は、1970年代後半の青春映画を代表すると同時にミュージカルとは異なるダンス映画の先駆作でもあります。しかしそれよりも、歴史上最もサントラ・アルバムを売った映画であることの方が価値が高いかもしれません。なにせ、あのマイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」が1984年に登場するまで、歴史上最も売れたアルバムの地位にいたのです!全米ヒットチャートのアルバム・ランキングでは25週連続ナンバー1となり、シングル・チャートでも一時はこのアルバムから「ステイン・アライブ」、「恋のナイト・フィーバー」、「愛はきらめきの中に」の3曲がベスト10上位にランク・インしていたこともあります。
 そう考えると、この映画は「映画」としてよりも「音楽」としての影響力の方が大きかったのかもしれません。特に1970年代後半に世界のダンス音楽界を席巻したディスコ・ブームの発信源として、この映画が果たした役割は映画界に与えた影響など問題にならない大きさでした。

<ディスコ音楽とは?>
 ところで、当時一大ブームとなっていた「ディスコ・ミュージック」とは、いかなる音楽なのでしょうか?
「ディスコというのは、電子音を使った民族色のないダンス音楽を単純化したもので、1970年代の半ばから後期にかけて全米を席巻した。本質的には黒人ファンクの生な感じを模倣、反復したもので、ミュージシャンが即興演奏によってグルーヴするのではなく、機械によって引き伸ばされてゆく音楽だ」
リッキー・ヴィンセント著「ファンク」より

 ディスコのブームは、」こうした単純化して踊りやすいダンス音楽によりダンスに縁がなかった若者たちをディスコに呼び寄せる役目を果たしました。(僕もそのひとりでした)しかし、そのおかげで優れたダンス音楽を演奏していたファンク・バンドが、ディスコ・ブームにあやかろうとグルーヴ感のないディスコ・ミュージックに手を出してダメになってゆきました。オハイオ・プレイヤーズ、アイズレー・ブラザース、クール&ザ・ギャングアース・ウィンド&ファイヤー、B・T・エクスプレスなど、1970年代前半に最高のファンク・サウンドを生み出していたバンドの多くがその勢いを失ってゆくことになりました。こうして、黒人音楽の世界は、1980年代に入ってヒップ・ホップが登場するまでの間、停滞の時期を迎えることになります。

<この映画を生み出した人々>
 この映画のサントラ盤には、ヒットして当然のキャッチーなナンバーばかりでしたが、演奏者の多くは元々ファンク系の黒人アーティストではありませんでした。ビージーズはオーストラリア生まれの白人コーラス・グループ、イボンヌ・エリマンはミュージカル映画「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」のマリア役で有名になった歌手、ラルフ・マクドナルドは元々はハリー・ベラフォンテのバックだったカリブ系のパーカッショニスト、K・C&ザ・サンシャイン・バンドはファンク・バンドですが白人・・・そんなわけでこのアルバムの曲は元々黒っぽいファンク・ナンバーではなく白人観客向けのダンス・ミュージックだったわけです。
 さらにいうと、この映画の場合、製作者のロバート・スティグウッド Robert Stigwoodもまたビージーズ同様オーストラリア出身のイギリス人でした。そして、原作小説「新しい土曜の夜の部族儀式」を書いたニック・コーン Nik Cohnはアイルランド出身のイギリス人ということで、アメリカ人ですらありませんでした。
 ニューヨークの下町を舞台にしたこの映画は、実はかなり客観的な視点でアメリカの底辺で生きる若者たちの姿を描き出した作品でもあったのです。そして、その象徴として用いられたのが、この映画でも重要な役割を果たしているマンハッタンと下町とを結ぶブルックリン橋です。もしかすると、この映画にとってはディスコのきらびやかな光よりも、この橋こそがテーマだったのではないか?僕にはそう思えます。
 原作者のニック・コーンは、「ロックの歴史」という著作もある音楽文化の研究者で当時アメリカの東海岸中心にブームになりつつあったディスコに興味をもち、ニューヨーク中のディスコをまわって映画の原作となる小説を書き上げ、1976年「ニューヨーク・マガジン」に発表。リアリズムにあふれ現代の若者像をとらえたこの作品は話題を呼び、それに目をつけたイギリスの音楽プロデューサー、ロバート・スティグウッドが映画化を熱望し、この企画が生まれることになりました。
 この映画の製作者ロバート・スティグウッドは、ロンドンでマネージメント会社を設立。ビージーズ、クリーム、ブラインド・フェイスなどのバンドをマネージメントした後、ショービジネスの世界に本格的に進出。ロンドンでアメリカ発のロック・ミュージカル「ヘアー」や「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」などの上演。その後、「ジーザス・クライスト・・・・・」をノーマン・ジェイソン監督で映画化(1973年)。さらにザ・フーのロック・オペラ・アルバム「トミー」をケン・ラッセル監督で映画化(1975年)。ともに大ヒットを記録しました。その後も、ビートルズの名作アルバムを映画化した「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」や「グリース」(1978年)などの映画も製作。ロック界出身の映画人として、一時代を築きました。

<B級映画界の巨匠?ジョン・バダム>
 この映画の監督は、ジョン・バダム John Badham。この映画のヒットの後もコンスタントに作品を撮り続け、アメリカ・ナンバー1のB級映画監督として長く活躍することになります。
 残念ながら、2作目となったこの作品を越える大ヒット作、話題作には恵まれていませんが「カプリコン1」の監督ピーター・ハイアムズとともに70年代から活躍を続けた数少ないB級映画の職人監督として21世紀まで活躍することになります。「ブルー・サンダー」(1983年)、「ウォーゲーム」(1983年)、「張り込み」(1987年)、「バード・オン・ワイヤー」(1990年)、「ニック・オブ・タイム」(1990年)など、どれも可もなく不可もなくというところでしょうか・・・。
 この作品において、彼は全編オール・ロケにこだわることで、ニューヨークの下町に生きる人々をリアルに描き出すことに成功。舞台となったディスコもセットではなく実際に当時人気があったディスコ「2001オデッセイ」が使われています。
 あまり印象に残っていないかもしれませんが、この映画で主人公のジョン・トラボルタは単純なヒーローとは描かれていません。人種的な偏見もあり、女性を差別する人間としてかなりリアルに描かれています。そのため、映画の完成後、製作会社のコロンビアは彼の演出を批判して彼を解雇したそうです。もちろん、映画がヒットしたおかげで彼は映画界に復帰できたわけですが、皮肉なことにこの作品を越える作品はその後生まれませんでした。
 この映画のヒットは、製作者の音楽へのこだわり、新人監督のリアリズムへのこだわり、原作小説の時代性などの数々の要因があったおかげだったのでしょう。しかし、その中心にジョン・トラボルタという魅力的な俳優の存在があったことを忘れてはいけないでしょう。

<ジョン・トラボルタ>
 この映画の主人公を演じたジョン・トラボルタ John Travoltaは、1954年2月18日ニュージャージー州イングルウッドに6人兄妹の末っ子として生まれました。母親が女優、演出家、演劇教師だったこともあり、彼の姉3人は女優となり、兄の一人も歌手になるという芸能一家に育った彼はやはり早くから俳優を目指していました。ニューヨークで演技の勉強をした後、オフ・ブロードウェイの舞台に出演。その後、ロサンゼルスでテレビ・ドラマに出演するようになり、その中の一本「お帰り、コター Welcome Back,Kotter」で大ブレイク。この映画の前にはブライアン・デ・パルマの出世作「キャリー」にも出演していました。(ちなみに、「Welcome Back,Kotter」のテーマ曲「ウェルカム・バック」はアメリカで大ヒット。この曲を歌った元ラヴィン・スプーンフルのジョン・セバスチャンにとっては、久々かつ最後のヒット曲となりました)

 日本ではほとんど知られていませんでしたが、この映画の撮影中、すでに彼の人気は凄まじく、ロケ現場にファンが集まり過ぎて撮影が中止されるとう事態にまで発展していました。そのため、その後の撮影中には彼の影武者が用意されてファンを別の場所にひきつけて撮影を行うという手法がとられたといいます。
 元はといえば、彼の役はアル・パチーノにオファーされたのですが、彼がダンスが苦手だったということで、ダンス経験があり、ブロードウェイのミュージカルにも出演していたトラボルタの名前があがったようです。彼はこの映画の撮影のために体重を10キロ落としダンサーになるための肉体改造を行いました。最近の彼の姿を思えば、同一人物とはいえないほど彼の肉体は美しく輝いていました。(この映画の撮影時、彼は24歳でした)彼はこの映画のヒットで一躍、人気スターの地位を獲得しますが「グリース」やこの映画の続編「ステイン・アライブ」など、二番煎じ的作品に出演しているうちにその存在感は過去のものになってしまいます。危うく彼は映画界から消えるところでした。しかし、この映画での彼のダンスが忘れられなかったクエンティン・タランティーノが、1994年の作品「パルプ・フィクション」に彼を起用。そこで彼はユマ・サーマンと素晴らしいダンスを披露し、見事に復活を果たします。17年の時を越え、彼は「サタデー・ナイト・フィーバー」で見せた輝きが本物だったことを証明してみせたのでした。
 ディスコ・ブームの頃、大学生だった僕も新宿ツバキハウスなどのディスコに時々行きました。懐かしいような恥ずかしいような・・・。もちろんトラボルタのように踊れたわけでもなく、なんともパッとしない青春時代でした。今思うと、そんなパッしない青春時代にピッタリの映画だったともいえそうです。

「サタデー・ナイト・フィーバー Saturday Night Fever」 1977年公開
(監)ジョン・バダム
(脚)ノーマン・ウェクスラー
(製)ロバート・スティグウッド
(原)ニック・コーン
(撮)ラルフ・D・ボード
(音)デヴィッド・シャイア、ビージーズ
(出)ジョン・トラボルタ、カレン・ゴーニー

<あらすじ>
 ニューヨークのブルックリンで生まれ育ったトニー・マネロ(ジョン・トラボルタ)は、街のペンキ屋で働き変わり映えのしない生活を送っていました。そんな彼にとって唯一の楽しみは、毎週土曜日の夜、ディスコで踊ることでした。ディスコで最高のダンサーとして尊敬される彼はある日、ディスコでステファニー(カレン・ゴーニー)という女性ダンサーと知り合います。優れたダンサーであると同時に下町を出てマンハッタンに進出しようという夢に向かって生きる彼女を見て、彼もまた自分の生き方を考え直し始めます。二人は優勝賞金500ドルがかかったダンス・コンテストにコンビを組んで出場しようと練習を開始。彼もまたステファニーとともに橋を渡り、新しい人生へと歩み出すことを思い描くようになっていました。

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