- 沢田教一 Kyohichi sawada -

<なぜ危険を目指すのか?>
 カメラマン沢田教一は、なぜ最前線へ向かったのか?これと共通する疑問は他にもいろいろ思い浮かびます。
 ジャック・マイヨールは、なぜ光の射さない海の底を目指したのか?
 ラインホルト・メスナーは、なぜエベレストの頂上を目指したのか?
 チャック・イエーガーは、なぜ音速の壁を越えようとしたのか?
 アムンゼンは、なぜ南極点を目指したのか?
 ジョン・C・リリーは、なぜ精神のルーツを求める危険な旅に挑んだのか?
それはまるで、彼らが「危険」に挑むことに喜びを感じていたかのようです。しかし、彼らに自殺願望があったわけではないし、単に危険だから挑んだというわけではないはずです。こんな疑問もあります。
 アインシュタインは、なぜ宇宙の本質に迫ろうとしたのか?
 シュリーマンは、なぜトロイの遺跡を探し求めたのか
 ダーウィンは、なぜ進化の秘密を探り続けたのか?
 ローマックス親子は、なぜ古い民謡を集め回ったのか?
 危険に挑む喜びよりも「真実」を知る喜びこそが、彼らの探求心の原動力だったはずです。ただ、まだ誰も知らない「真実」を知るためには、誰も到達したことのない領域に踏み込む必要があります。そして、人類の歴史上、未だ誰も到達したことのない領域は「危険」という障壁によって守られているか、「人知の及ばない謎」によって守られているか、そのどちらかなのかもしれません。
 もちろん、そう格好良い話ばかりではないでしょう。沢田教一もそうだったように、挑戦のきっかけとなる最初の原動力は、名誉欲や金銭欲だったかもしれません。しかし、それだけで命を失う危険をおかせるか?というと、それは否でしょう。死んでしまっては、お金も名誉もなんの意味もないのですから。ただ一度危険を克服する喜びを知った人は、その麻薬のような魅力の虜になってしまうというのも事実なのでしょう。その気持ちは、わずかながら僕にも理解できます。

<カメラマン沢田誕生>
 沢田教一は、青森市に1936年2月22日誕生しています。けっして豊かではない家庭に育った彼は、新聞配達のアルバイトをして稼いだお金で初めてカメラを買いました。その後、中学では写真部にいたものの、高校では特に写真に凝っていたわではなかったようです。大学受験の際も、彼は早稲田大学の政治経済学部を目指していました。しかし、受験に二度失敗したことで進学をあきらめ、青森市内の写真店に務めることになります。
 その店の主人、小島一郎は青森の自然をとらえた有名な写真集「津軽」の作者でした。41歳の若さで亡くなった、この伝説的なカメラマンと出会ったことで再び彼はカメラの世界に興味をもつようになったようです。

<ベトナムへとつながる街>
  その後、彼は三沢にできた支店に転勤することになりました。当時の三沢は朝鮮戦争の後方支援基地として米軍の重要な拠点となっていました。彼はその米軍基地内のPXショップの中で働きながら、後に結婚することになるサタさんと出会います。そこで彼は働きながら、カメラの構造だけでなく写真術についても学んで行きました。そして、彼はここで偉大な写真家たちの作品にも出会うことができました。それが当時のカメラマンのアイドル的存在、ロバート・キャパやアンリ・カルチェ・ブレッソンらの戦場カメラマンたちの作品でした。彼が、ぼんやりとながらカメラマンになろうと考えるようになったのは、この頃のようです。

<フリーメイソンとの出会い>
 この頃、彼はアメリカ軍の基地内にロッジをもっていた世界的な友愛団体「フリーメイソン」のメンバーと出会い、その会員になりました。中世ヨーロッパに生まれ、アメリカでは大きな影響力をもつ謎の秘密組織「フリーメイソン」に入会したことは、彼の生き方をどう変えたのか?それは謎に包まれていますが、少なくとも彼が東京に出て仕事に困っているとき、UPIのカメラマンの仕事を世話してもらえたのは、フリーメイソンのつながりのおかげでした。

<UPI入社>
 全世界のニュースを集め、それを世界中に発信する世界規模の通信社UPI(ユナイテッド・プレス・インターナショナル)は、1907年にそれ以前からあったAP(アソシエイテッド・プレス)に対抗して設立された会社です。海外のニュースを見ると必ずUPIとかAPとか書いているのは、そのニュースを配信したのがどこかを示しているわけです。沢田は、このUPIの日本支社写真部に務めるチャンスを得ることができました。しかし、写真部といっても彼の仕事はカメラの撮影ではありませんでした。アジア各地から送られてきた写真の編集作業が彼の仕事であり、カメラのシャッターを押す機会はまったくありませんでした。そのため、彼はプライベートでの写真撮影に打ち込んでいましたが、アジア各地特にベトナムから送られてきた報道写真を見ていると、いてもたってもいられない気持ちになってゆきました。

<戦乱の地、ベトナム>
 1954年のフランス軍撤退後、アメリカ軍が上陸して以降も、ベトナムでの内戦は収まらず、1961年にJ・F・ケネディーが大統領に就任する直前には、南ベトナム民族解放戦線(NFL)が結成され南ベトナム全土が戦場と化し始めていました。
 1963年には、ゴ・ジン・ジェム政権による仏教徒への弾圧に抗議してベトナムの古都ユエでは、僧侶たちによる焼身自殺が続き、その写真は世界中に衝撃を与えました。

<古き良き報道の時代>
 1960年代当時の報道は、90年代の湾岸戦争や21世紀のイラク戦争における統制され、管理されたものではなく、古き良き「報道の良心」が存在する時代でした。したがっって、記者個人個人の努力はけっして検閲されたり無視されることはなく、危険ではあっても報道の自由が確保されていました。だからこそ、多くのカメラマンたちにとってベトナムは誰もが一旗あげる可能性を秘めた魅惑の土地でもあったのです。

<ベトナムへ>
 こうして、ついに彼はベトナムへと向かう決心を固めました。と言っても、報道写真について経験も実績もない彼にベトナム行きの許可が下りるはずはありません。そこで彼は、一ヶ月間の長期休暇を取り、自費でサイゴン行きの切符を購入しました。プレス・カードなど取材に必要な許可証はUPIに手配してもらい、さらにいくつかの国内の新聞社からも取材協力という形で資金協力を得てなんとか実行に移すことができました。しかし、実際に彼がベトナムでどれだけ活動できるのか、それはまったくの未知数でした。
 幸か不幸か、彼がサイゴンに到着すると状況はさらに混沌としてきました。1964年8月「トンキン湾事件」をきっかけにアメリカはついに北爆を開始。いよいよベトナム戦争は泥沼化。サイゴンの街でも、テロ事件が頻発するようになります。そのため当初は、40、50人程度だった記者の数は、どんどん増え始め、日本の新聞社も特派員を送り込むようになってきたのはこの頃からでした。沢田はまさにカメラマンとして絶好の時期にベトナムに着いたのでした。
 ロバート・キャパは、1954年5月25日ベトナムで地雷を踏んでこの世を去っていますが、彼はベトナムに来たとき、こう言ったそうです。
「これはおそらく最後の面白い戦争さ、君たち皆が、フランス軍報道部とのやりとりの難しさに不平たらたらだけど、これこそ特派員にとっておきの戦争だって、ありがたく思わなきゃ!誰も何も知っていないし、誰も何も報道してくれないということは、君たちの腕次第で、毎日勝手に出向いていって、ホットな特種がつかめるということだ」
ロバート・キャパ著「戦争・そのイメージ」より

<戦場での撮影>
 ところで、戦場で取材カメラマンはどのように撮影を行うのか?
 カメラマンは、部隊が出撃する際、飛び立つヘリコプターの中から自由に乗りたいヘリを選ぶことができます。着陸した後も、カメラマンは登場したヘリの部隊に加わって行軍を行い撮影を行うことになります。もちろんその際、敵に彼が撃たれても、その責任を軍が負うことはありませんが、少なくとも彼の身は部隊が責任をもって守ることにはなっています。
 あとはカメラマン自身がいかに生き残るための経験を積んでいるか、運に恵まれているかにかかってくるわけです。しかし、本当に決定的な瞬間をカメラに収めるためには、誰よりも危険な地域に向かうことがその近道です。そのため、沢田はヘリを選ぶ際、最も危険な場所に向かうヘリを選んで乗っていたといいます。
 戦場での経験も浅く、何のコネもなく、ましてまったくフリーの立場の彼にとっては、危険に近づくことだけがチャンスをつかむ唯一の方法だったのです。

<決定的シーンとの出会い>
 当時、こうしたヘリ部隊は現場に着陸するとその周辺の村などを捜索し、ベトコンの痕跡などを見つけるとその村を焼き払うという「サーチ・アンド・デストロイ」をその主な任務としていました。
 1965年9月6日、いつものようにヘリに乗った彼は、ある村に降り立ちました。そlの村もまたベトコンの拠点としてナパーム弾による空爆を受けようとしており、村人たちは着の身着のままで逃げまどっていました。沢田はそんな混乱の中、川を必死に子供とともに渡る母親を見つけ、手助けをしながらもシャッターを押し続けました。
 この時彼が撮った作品こそ、彼の名を一躍世界中に広めることになる「安全への逃避」でした。この写真は見事に1966年のピュリッツァー賞を受賞し、彼を一気に「世界の沢田」にしてしまいます。

<ピュリッツァー賞>
 ピュリッツァー賞は、アメリカの新聞王ジョーゼフ・ピュリッツァーの意志を継いで、1917年に創設されました。16歳の時にハンガリーから移民したピュリッツァーは、31歳の時、自らの新聞社「ポスト・アンド・ディスパッチ」を立ち上げました。彼の信念は「我が新聞社は民衆以外のなにものにも奉仕しない」というもので、これがアメリカン・ジャーナリズムの原点になったとも言われます。
 彼の意志により、コロンビア大学にジャーナリズム学科が創設され、そこで毎年選定されているのがピュリッツァー賞です。沢田が受賞した報道写真部門は1942年に設立されています。
 ちなみに、ピュリッツァー賞には報道部門と報道写真部門があり、その他「編集」「小説」「伝記」「歴史」「音楽」などの部門があるそうです。
 かつて、アメリカこそ民主主義の模範だったように報道に関しても、アメリカは素晴らしい伝統を持っているのです。しかし、経済優先の民主主義の発達は、アメリカをしだいに名ばかりの民主国家にしてしまいました。勝ち組が支配する巨大企業の一部門となってしまった報道機関に民衆の側に立つ民主主義の基本を守る姿勢などあるはずはありません。イラク戦争における偏った報道は当然の結果だったと言えるでしょう。今のアメリカは、グローバリズムという名の領主が支配する封建時代の国家並みの民主主義レベルに退化してしまったようです。
 世界の沢田は、そうなる前の古き良き報道の時代が生んだラスト・ヒーローだったのかもしれません。

<サムライ・フォトグラファー>
 こうして、沢田の存在はどんどん戦場でも有名になって行き、アメリカ軍兵士たちの間では「サワダの伏せる方向に伏せれば安全だ」とまで言われるようになります。いつしか彼は戦場において、どの兵士よりも経験豊富な存在になっていました。当然、彼は何度も死の危険に直面していますが、ことごとくその危機を乗り切りました。アメリカの兵士たちが一目おくようになるのも当然かもしれません。特に1968年に古都ユエの街で繰り広げられた激戦における彼の活躍は、危険度の高いものでした。しかし、その闘いの後、ベトナム戦争の流れは少しずつ変わり始めます。世界的な反戦運動の高まりと数々の報道によって明らかになったアメリカ軍による虐殺事件の数々により、しだいにアメリカ軍はベトナムからの撤退を迫られるようになるのです。こうした、状況の変化もあり、沢田はベトナムからの移動を命ぜられ、しばらく香港支局で働くことになりました。しかし、そこでの平和な日々はもう彼にとってなんの魅力もなく、彼はすぐに戦場への復帰を願い出ました。こうして、彼は1970年再びインドシナへと戻ることになったのですが、今度の赴任地はベトナムではなく、カンボジアでした。当時のカンボジアは、新たな戦乱の地として、世界の注目を集めつつある重要な国になりつつありました。

<カンボジアの戦乱>
 カンボジアはベトナム戦争に対し、中立を保っていました。しかし、親米派のロン・ノル将軍がクーデターを起こし、国家元首のシアヌーク殿下が亡命したことでその政策が大きく変わりました。かつて、ベトナムに侵略された歴史をもつカンボジアでは、国内のベトナム人に対する虐殺が始まり、ベトコンとの戦争へと発展しました。さらにクメール・ルージュと呼ばれる反政府軍とカンボジア政府軍との戦闘も激化。カンボジア国内にはベトコンの生命線でもある補給路ホーチミン・ルートが通っていたこともあり、アメリカが支援する南ベトナム軍もまたカンボジアに侵攻。カンボジアは民族紛争と植民地戦争、そして資本主義と共産主義の代理戦争の場となり、ベトナム以上の混沌が生まれようとしていました。さらに混乱を生み出したのは、戦争の当事者たちです。しっかりと統制のとれたベトコンやアメリカ軍と違い、ほとんどが急ごしらえの兵士だったカンボジア政府軍と後にその異常さが明らかになるアナーキーな先頭集団「クメール・ルージュ」。どちらも何をするかわからない滅茶苦茶な軍隊でした。そのため、カンボジアでは次々に記者が行方不明となり、死者も続出していました。状況の危険さは明らかでした。しかし、彼は迷わずこの戦場へと向かい、二度目のピュリッツァー賞をとることを目指していました。しかし、その夢は叶うことはありませんでした。
 1970年10月28日、いつものようにジープで戦闘現場へと向かった彼は、そのまま帰らぬ人となりました。彼を殺した犯人は未だ謎のままです。享年41歳でした。

<沢田教一の目>
 以前NHKのアーカイブスで、沢田教一のドキュメンタリー番組を放送していました。その番組では、彼の生い立ちから死までを追うとともに、彼が撮った写真のうち発表されなかった作品を数多く紹介していました。
 考えてみると、彼が撮った写真のうち世に出ているのは、ほんのわずかです。そして、そのほとんどは戦場で撮られた危険と隣り合わせのものです。しかし、彼はそんな緊張感にあふれた写真ばかりではなく、つかの間の平和を楽しむ村人たちや道端で遊ぶ子供たち、それに休息をとる兵士たちなどの写真も撮っています。それらは、初めから報道写真としては価値がないものかもしれません。しかし、そんな平和な村の姿と戦場と化した死体の転がる村の姿、そのどちらもがベトナムの本当の姿であり、戦争の真実でもあります。
 彼はそんなベトナムの姿をまるごととらえようとシャッターを押していたのかもしれません。そして、そうやってすべてを見てきた目を持つからこそ、彼はたった一枚の写真に戦争の真実をこめることができたのだと思うのです。

photomania(人気写真家、フォトグラファーの写真集を口コミ!)

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