- スコット・フィッツジェラルド Scott Fitzgerald (後編) -

<「偉大なるギャツビー」>
 1925年、彼は自らの人生を象徴する代表作「偉大なるギャツビー The Great Gatsby」を発表します。1920年代アメリカ激動の時代「ローリング・トゥェンティーズ」を象徴するギャツビーのようなヤング・エグゼクティブたちは後に「ジャズ・エイジ」と呼ばれることになります。スコットとゼルダはニューヨークやパリの街で朝まで派手に酒とダンスに明け暮れる日々を続け、そんなジャズ・エイジのトレンド・リーダーとなってゆきました。普通は、こうした享楽的な生活にはまるのは夫の方で、妻はその犠牲となって苦しむものですが、二人の場合は違いました。彼らはまるで70年代パンクを代表する破滅型カップル、シド&ナンシーを彷彿とさせるように一緒に転落への道を歩んでゆくことになったのです。しかし、その悲劇の物語は、シド&ナンシーのような花火のように華々しいものではありませんでした。それはゆっくりと、しかし着実に二人を追い込んでゆくことになります。
(追記)スコット・フィッツジェラルドをこよなく愛する村上春樹氏が「偉大なるギャツビー」の新訳本を出しました。僕はまだ読んでいませんが、これから読まれる方にはお奨めです。

<ゼルダの崩壊>
 1930年、ゼルダはパリで突然精神病の発作に襲われ、スイスの精神病院に入院、精神分裂症と診断されます。もしかすると、彼女にはもともとそうした精神的な気質が受け継がれていたのかもしれません。さらに翌年、スコットの父親エドワーズがこの世を去り、彼はゼルダをヨーロッパにおいてアメリカに帰らざるを得なくなります。その後、彼は回復したゼルダとともにアメリカに戻り、ハリウッドで映画の脚本執筆を始めますが、今度はゼルダの父親が死去。再び、ゼルダの症状も悪化し、ボルチモアの病院に入院してしまいます。そんな状況の中、それでも彼は執筆活動を止めることなく、1932年には「ワルツと私と」、1934年には「夜はやさし」を出版しています。

「この二人の前を、人生はあまりに速く通り過ぎていった。しかし、それが残していったものは苦い思いではなく、悲しみを見つめる心だった。幻滅ではなく、痛みだけだった。・・・」
「残り火」より

<経済的破綻>
 実はこうした苦しい状況での執筆やハリウッドへの進出には、そうしなければならない理由がありました。ゼルダが精神分裂症と診断されて入院した頃、すでに彼の経済状況は破綻していたのです。毎日のように繰り返された夜遊び、そのための衣装、アクセサリーの購入費用などは彼の印税収入をはるかに越えるもので、借金は膨大な金額に達していたのです。
 そのうえ、1930年代にアメリカを襲った大恐慌は、彼の作品をあっという間に過去のものにしてしまい、その後の彼の作品もかつてのようには売れなくなっていたのです。そのため、彼は少しでも借金を減らすため、映画の脚本だろうが短編小説やエッセイだろうが、何でも仕事は受けなければならなかったのです。(当時は、不況ではあっても映画界はトーキーへの移行期でもあり、発展途上だったことから人材が不足していました。そのため脚本の仕事は着実にあり、小説よりはお金になりました)この時期に書かれた短編小説「哀しみの孔雀」「アルコールの中で」は、そんな人生の転落をリアルに描いた珠玉の名作です。考えてみると、大恐慌によって4人に1人が失業したといわれるこの時代に、彼の書くあまりにリアルな悲劇の物語は読者に嫌な思いをさせるだけだったのかもしれません。

<ローリング・トゥェンティーズ>
 「ローリング・トゥェンティーズ」というのは文字どおり、波のうねりのようにアップ・ダウンを繰り返したこの時代のことをいいます。第一次世界大戦で直接の被害を受けず、なおかつ巨額の借金を抱えたヨーロッパ諸国に資金を貸し付け、さらにはドイツからの巨額の賠償金をも立て替えていたアメリカはまさに一人勝ち状態でした。そのため、アメリカ国内には資金が世界中から集まり、そのお金が行き場を失って、かつての日本のような「バブル」を生み出したのでした。そのうえ、当時の世界は「バブル」ははじけるものだということを理解していませんでした。だからこそ、あのニューヨーク株式市場における大暴落が起きるまで、誰もそのことを指摘できず、なおかつそうなったときにはその状況に対処する方法を提示できる人もいなかったのです。そんなわけで、借金まみれのはずの作家は、それでもなおお金を借りることができたのでした。

<夢の都ハリウッドへ>
 彼は結局小説家として食べてゆくことをあきらめ、映画の脚本作家としての道を選びハリウッドへと移住します。それは小説家として一時代を築いた人間にとっては屈辱的な人生の転機であり、彼が「アルコールの中へ」落ち込んでゆくことも当然だったのかもしれません。そう考えると、この時点で彼の人生が終わりを迎えていてもおかしくなかったかもしれません。しかし、彼にはもう一度だけチャンスがめぐってきます。そのきっかけは、シーラ・グレアムという女性との出会いでした。
 1937年、彼はあるパーティーでシーラ・グレアムという女性と出会いました。彼女は結婚を間近に控え、公爵夫人になる予定でした。ところが、作家としての未来と愛する女性をともに失い失意のどん底にあった彼は、彼女に一目ぼれしてしまいます。それに対し、もともと彼の小説のファンだったというシーラもまた彼に一目ぼれしてしまいます。片や入院しているとはいえ妻のある身、片や結婚を目前に控ええる身というかなわぬ恋ではありましたが、二人の愛にまったをかけることは誰にもできませんでした。
 13歳という年の差もものともせず、二人は同棲生活を始め、その関係は1940年12月21日に彼が心臓発作によってこの世を去る日までしばしの間続くことになります。そんなわけで、幸いなことに彼は自らの最後を失意のうちに迎えたわけではありませんでした。死の直前まで、彼は再起をかけた作品の執筆に最後の情熱を注ぎ込むことができたのです。それが彼の死後、1941年に未完のまま世に出ることになった最後の長編小説「ラスト・タイクーン」です。未完成に終わったとはいえ出版できるところまでこの作品を書き進めることができたのも、やはり彼を励まし、世話を焼いてくれた最後の恋人シーラの存在があったおかげでした。

「・・・たしかにこの人は私の手を掴み、ちぎれるくらいにねじりあげるかもしれない。でも、そんなことはたいしたことじゃないんです。本当にたまらないのは横にいながら手を差し伸べることもできないってことなんです。何をしたところで結局は人を救うことはできないという無力感なんです」
「アルコールの中で」

<ヘミングウェイとスコット>
 彼は1925年パリでまだ無名の存在だった作家アーネスト・ヘミングウェイと知り合いました。当時ヘミングウェイはジャーナリストから小説家への転進を目指し短編小説を発表しながら出世作となる長編小説「日はまた昇る」の準備をしているところでした。「偉大なるギャツビー」を発表し絶好調だったスコットは、自分とはまったく異なるタイプの新人作家を高く評価し自分の作品を出版している出版社に紹介、ヘミングウェイ夫妻と家族ぐるみの付き合いをするほどの仲になったそうです。彼はヘミングウェイの作品について、こう言ったそうです。
「アーネストは牡牛で、僕は蝶だ。蝶は美しい。しかし、牡牛は存在する」
 しかし、二人の関係は1936年、突然終わりを迎えることになります。そのきっかけはヘミングウェイの小説「キリマンジャロの雪」の中にありました。彼はその中でスコット・フィッツジェラルドの名前を出し、彼が富におぼれる生活の果てに作家としての人生を終わらせてしまったと情け容赦なく描写してみせたのです。こうしたヘミングウェイのやり方は、その後も多くの友人たちを失う原因となり、彼自身もまた孤独のうちに悲惨な自殺を遂げることになります。
 華やかな活躍とそこからの転落におびえたのはスコット・フィッツジェラルドだけではなく、牡牛と呼ばれ「パパ」と愛されたタフガイ作家のヘミングウェイも同様でした。ただし彼の場合は売れる作品が書けなくなったというよりは、その体力の急激な衰えにより、生きがいでもあった危険への挑戦が不可能になったからなのかもしれませんが、・・・。

「そして今、私はこの失われてしまった私の街に別れを告げよう。早朝のフェリー・ボートから眺める街の姿は、もはやめくるめく成功をも永遠の若さをも私に囁きかけはしない。・・・」
「マイ・ロスト・シティー」

<青春の光と影>
 どんなに憎たらしい人物であったとしても、どんなに哀れな人生を送ることになった人物でも、それでもなお彼の文章が永遠の輝きをはなっていることに変わりはありません。44歳という若さでこの世を去ったとはいえ、彼の人生の輝きは、そのはるか以前、1920年代で終わりを迎えていたのかもしれません。あまりに早く輝いてしまった若者の悲劇。スコットとゼルダの物語は、その後20世紀に数多く生まれることになる「青春の光と影」の物語の象徴としていつまでも語り継がれ、彼の小説もまたその輝きを放ち続けるに違いありません。
 生きるためには働かなければならなかった、19世紀までの世界とは異なり、豊かな時代を世界に先駆けて迎えていたアメリカには、それまで世界史に登場したことのなかった「自由な青年」という新しい種族が現れるようになっていたのです。

「こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく」
「偉大なるギャツビー」より

「スコット・フィッツジェラルドとは、いうなれば、アメリカという国の青春期の、激しく美しい発露であった。その吐息が空中でふっと神話的に結晶したもの、それがフィッツジェラルドの作品群であり、またその人だった。彼はアメリカという国のもつもっともナイーブでロマンティックな部分を、その魂の静かな震えを、自然な生命ある言葉で鮮やかに描き出し、美しく陰影のある物語のかたちに託した」
村上春樹「スコット・フィッツジェラルド - ジャズ・エイジの旗手」

<追記>(2017年)
 それから記者は彼に質問した。あなたはジャズまみれ、ジンまみれのジェネレーションについて今ではどのように感じておられますか?あなたは彼らの狂乱的な振る舞いを、『楽園のむこう側』の中でいわば年代的に描写されたわけですが。彼らはいったい何をしたのでしょうか?彼らの存在はどのような意味合いを持っていたのでしょうか?
「僕がなぜ連中ののことを、いちいち考えなくちゃいけないんだ?」と彼は言った。
「僕自身のことをあれこれと考えるだけで手一杯だというのにね。連中に何が起こったのか、そんなこと、僕に訊かずとも、君だってよく知っているんじゃないか。あるものは証券仲買人になって窓から身を投げた。あるものは銀行家になってピストル自殺をした。なかには新聞記者になったものもいる。それから数としちゃ少しだが、作家として名をなしたものもいる」
 彼の顔はぴくぴくとひきつった。
「名をなした作家か!」彼はそう叫んだ。
「やれやれ、まったくな。名をなした作家か!」
 彼はよろめきながらキャビネットのところまで歩いていって、グラスにまたとくとくと酒を注いだ。

マイケル・モクによる1936年のインタビューより
(まるで彼の作品の中の一場面のようです!)
(訳)村上春樹

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