「海と毒薬」

- 遠藤周作 Shusaku Endo -

<世界に衝撃を与えた問題作>
 1986年、原作が発表されてから30年近い時を経て映画化された本書「海と毒薬」は、ベルリン国際映画祭において見事、銀熊賞を受賞しました。監督の熊井啓が長きに渡り映画化を希望しながら、重すぎる内容のために映画化のための資金が集まらずに苦労していたものがついに完成。この小説の物語が、ついに世界中に衝撃を与えることになりました。
 第二次世界大戦末期、九州大学の医学部で起きた捕虜の兵士を使っての生体解剖実験はいかにして行なわれたのか?実際に起きた事件を題材にしたこの小説は、かなり著者の創作部分も多く、ショッキングな内容を詳細に再現したノンフィクション作品ではありません。というよりも、そうした事件を生み出す背景となった当時の日本人の「生命観」「戦争観」について描き出した小説というべきでしょう。

<相川事件>
 太平洋戦争末期の1945年、5月から6月にかけて、九州大学の医学部において秘密裏に渡る手術が行なわれました。
(1)人間の血液は、どこまで生理食塩水によって薄めることが可能なのか?(これは戦闘中に負傷した兵士に対し、どこまで輸血せずに生理食塩水でごまかせるかを知るためのもの)
(2)人間はの肺は、どこまで切除することが可能なのか?(当時はまだ不治の病だった結核を治療するために肺を部分切除する際、どこまで切除可能かを知るためのもの)
 その他、血液中にどれだけ空気が混じると死に至るのか?など、人の「死」によって初めて確認可能になる人体実験を行なう。これが実験の目的でした。そして、その被験者すなわち犠牲者となったのが、日本本土の空爆の際、撃墜され捕虜になったアメリカ人兵士でした。
 どうやら、この実験のアイデアは、最初軍内部の医師から出されたものだったようです。しかし、その当人は戦時中に亡くなったため、その経緯は謎のままになりました。当初、このアイデアは具体化されることはなく、依頼を受けた民間病院はそれを断ったといいます。ところが、終戦間近の混乱の中、九州大学の第一外科部長だった石山教授が実現に動き、自ら執刀を担当しました。こうして、秘密裏にアメリカ兵8名の命が失われることになり、戦後になってその事実が明るみに出されました。ところが、ここでもまた執刀医の石山教授が刑務所内で自ら命を絶ってしまいます。彼は遺書の中で「すべては自分の責任で行なったことである」と罪をかぶり、事件の詳細は明らかにならないまま裁判は終結してしまったのでした。(こうして、一人の人間が罪を自らかぶることで事件を終わらせるというのもまた実に日本人的なやり方といえます)
 戦時下には他にも様々な事件が起きていますが、この事件は人の命を守るべき医師による病院内殺人という点で大きく社会を揺るがすことになりました。アメリカの検察も当然、この事件を重要視、徹底的に追求。軍部と大学関係者が30名以上起訴されることになり、その内5名が絞首刑に、4名が終身刑となりました。

<小説化>
 さて、この衝撃的な重い事件をいかにして小説化するのか?この事件について知っている人にも読ませるには、どうすればよいのか?たぶん著者の遠藤周作は、そのことについて悩んだと思われます。江戸時代の隠れキリシタンを描いた名作「沈黙」でも知られる彼は敬虔なクリスチャン作家としても有名ですが、かつてはテレビにもよく出演し、今で言うバラエティー番組の常連的な芸能人としても知られており、楽しいエッセイを得意とする作家でもありました。それだけに彼の作品には常にエンターテイメントの要素が織り込まれていて、多くの作品をベストセラーにしていました。そして、この「海と毒薬」もまたしっかりと読者に読ませる工夫が凝らされています。特に、医師が殺人を行なってしまうまでの過程を一般の読者に追体験させようという本書の試みは、かなりの効果を上げています。そのために、筆者はわずか150ページの小説を複雑な構成に分けて書いています。

<「私」と勝呂医師との出会い>
 この小説のプロローグともいえる最初の章は、終戦後の東京が舞台になっています。そこで胸に病をもつ普通のサラリーマンである「私」が、その治療のためにある一人の医師と出会うところから物語が始まります。腕は確かだが異常に暗いその医師のことが気になっていた「私」は、偶然、彼が有名な生体解剖実験に関っていたことを知ります。病のために兵士として戦場に向かうことがなかった「私」は、自分のすぐ近くに「殺人医師」がいたことに衝撃を受けます。しかし、よく考えると、自分の周りには他にも兵士として中国で殺人を体験してきた人物が数多くいることに気づいた「私」は、戦争の恐ろしさを今さらながら感じます。

「私はなにがなんだかわからなかった。今日までそうした事実をほとんど気にもとめなかったことが非常にふしぎに思われた。今、戸をあけてはいってきた父親もやはり戦争中には人間の一人や二人は殺したのかもしれない。けれども珈琲をすすったり、子供を叱ったりしているその顔はもう人殺しの新鮮な顔ではないのだ。・・・・・」

 こうして、読書と同じ立場に立つ「私」は、この事件の当事者のひとりである勝呂という医師と出会い、同時に読者もまた事件の真相に迫るための第一歩を踏み出すことになるわけです。

<勝呂医師>
 ここから物語りは終戦末期の九州に舞台を移します。そして、主人公はかつての勝呂医師となり、彼の視点から事件の経緯が語られることになります。医者として人の命を救うことを生きがいにしていた彼は、大学病院内の権力闘争や貧しい人々を切り捨てる医療現場の現実、そして次々に戦争や空襲によって命が失われてゆく敗戦が近い日本の未来を考えるうちに、生きる目標を失いつつありました。

「海は今日、ひどくくろずんでいた。黄いろい埃がまたF市の街からまいのぼり、古綿色の雲や太陽をうす汚くよごしている。戦争が勝とうが負けようが勝呂にはもう、どうでも良いような気がした。それを思うには身体も心もひどくけだるかったのである。」

 そんな状況の中、自分の母親と重ね合わせていた一人の女性が結核で命を落としてしまいます。彼女を救えなかった無力感もあり、彼は生体解剖手術への参加を断ることができませんでした。なぜ、断らなかったのか?と友人からきかれた彼はこう話しています。

「神というものはあるのかなあ」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押しながすものから - 運命という人やろうが、どうしても逃れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神とよぶならばや」
「さあ、俺にはわからん」火口の消えた煙を机の上にのせて勝呂は答えた。
「俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや」
「そやけど、おばはんも一種、お前の神みたいなものやったのかもしれんなあ」
「ああ」

 こうして、心優しき医師だったはずの勝呂もまた恐るべき実験にいつの間にか参加することになっていたのです。

<裁かれる人々>
 第二章では、この事件に関与したその他の人々が自らの視点で事件に関ることになった経緯を語っています。
 一人は、満州での結婚生活に破れ、傷心のまま帰国した看護師の女性です。子供もなく一人寂しく暮らす彼女は実験を担当する教授を密かに愛していました。教授の妻も知らない極秘の手術に関ることは彼女にとって教授との秘密の共有というあまりに暗い愛情の表現でもありました。
 もう一人、勝呂の同僚、戸田医師もまた自らが参加するに至るまでを少年時代にまでさかのぼって語ります。

 ただし、この生体解剖手術を実際に行なった責任者でもある教授については、客観的な事実を記すにとどめられています。それは実際の事件における石山教授が自らの心を明かさないまま自ら命を絶ったことから、あえて書かなかったのかもしれません。
 それとも、この異常な事件の中に読者が感情移入してゆくためには、勝呂医師のように当時、客観的に物事を見られていた人の立場に立つ方が有効と考えたからかもしれません。実際に執刀を担当した医師の中には、何の疑いももたない人物もいたかもしれません。そんな人物に読者が感情移入することは可能なのか?そして、それは意味のあることなのか?
 ここまでくると、この小説はあのノンフィクション・ノベルの歴史的傑作「冷血」との類似性を感じさせることにもなります。読者を「殺人を犯す側の心理」へと追い込みかねないその作品を書いた後、著者のトルーマン・カポーティはまったく作品をかけなくなってしまいました。この小説もまた人が人を殺すに至る心理を緻密に積み上げたノンフィクション・ノベルであり、主人公たちがダークサイドへと引き込まれるにk至った過程を見事に描写しきっています。当時、この小説を読んだ九州大学の平光吾一教授は、1957年に自らの意識で「文芸春秋」に「戦争医学の汚辱にふれて」という題の文章を発表しました。その中で彼は、当時の出来事を詳しく書き、それまで明らかになっていなかった事実を公表しました。
 ただし、この手記は「海と毒薬」を読んで自らの行動を悔い改めて書かれた反省の書というわけではなかったようです。というよりも、米軍による「軍事裁判」に対する不満の表明であり事実関係を明確化することが目的だったようなのです。
 勝呂の同僚が人を殺したことに対して自責の念がまったくわかないことに苦しむように、人によっては「人を殺す」という行為にまったく何の感情もわかないという人もいるでしょう。これもまた現実だと思います。そう考えると「人を殺す」という行為に迫ることは、それなりの覚悟を必要とすることなのだと気づかされます。今や映画でもゲームでもマンガでも「人を殺す」という行為に思い悩む人などいなくなりました。
 人はけっしてそう簡単に人を殺せるものではないが、だからといって、状況によってはいとも容易く人は「殺人を犯しうる」。そのことを証明してみせたこの小説は、人間の本当の怖さを描き出した恐怖小説の傑作ともいえるかもしれません。

<映画撮影秘話>
 この映画の撮影の際、熊井監督のこだわりは半端ではなかったようで、こんな逸話も残っています。

「熊井啓さんの映画で手術のシーンがあって、初めは豚の内臓やなんか使ってた。だけど、本物の血を使いたいって監督が言い出して、助監督から何からみんな献血させられたって。五日間、献血したって言ってたよ。・・・」
「頂上対談」ビートたけしと今村昌平との対談より

小説「海と毒薬」 1958年
(著)遠藤周作
角川文庫

映画「海と毒薬」 1986年
(監)(脚)熊井啓
(製)滝島恵一郎
(撮)柳沢正夫
(美)木村威夫
(編)井上治
(音)松村禎三
(出)奥田瑛二、渡辺謙、岡田真澄、成田三樹夫、岸田今日子、根岸季衣、神山繁、田村高広
ベルリン国際映画祭銀熊賞

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