「捜索者 The Searchers」 1956年

- ジョン・フォード John Ford、ジョン・ウェイン John Wayne -

<映画の歴史と西部劇の歴史>
 映画の歴史において、最初の大ヒットとなったドラマ作品、それはアメリカ人エドウィン・ポーターの西部劇「大列車強盗」でした。その後、アメリカの映画界はその中心地をニューヨークからカリフォルニア州LAのハリウッドへと移し、巨大娯楽産業へと発展して行きますが、西部劇はそんなハリウッド映画の発展を支えるドル箱のジャンルとして観客を楽しませ続けることになります。
 「駅馬車」(1939年)、「荒野の決闘」(1946年)、「黄色いリボン」(1949年)、「リバティ・バランスを射った男」(1962年)など、映画史における西部劇の傑作を数多く撮ったジョン・フォード。彼の活躍の歴史は、そのまま西部劇の歴史であり、ハリウッド黄金時代の歴史でもありました。
 しかし、娯楽映画の定番だった西部劇も、時代の流れとともにその内容は変化を余儀なくされます。1956年、ジョン・フォードにとっては晩年に近い作品ともいえる時期に作られた西部劇「捜索者」。この作品には、それまで彼が撮ってきた西部劇の要素が数多くの盛り込まれて、ある意味彼の集大成的な作品です。しかし、大きな時代の変化は、そうした集大成ともいえる作品に大きな影響を与えており、「捜索者」はそれまでの彼の作品とは明らかに異なるテイストをもつ作品となりました。だからこそ、この作品を見たヌーヴェル・ヴェーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールはこの作品を20世紀を代表する作品と位置づけたのです。
 西部劇の巨匠といわれるジョン・フォードですが、彼の作品はけっして西部駅ばかりではなく、「男の敵」(1935年)、「怒りの葡萄」(1940年)、「わが谷は緑なりき」(1941年)、「静かなる男」(1952年)などアカデミー賞監督賞を受賞した傑作の数々はどれも西部劇ではありません。逆に言うと、彼の場合、西部劇については娯楽作品に徹することにしていたともいえるかもしれません。それだけに、「捜索者」の異色さは際立っています。彼自身、この映画について「これはひとりの孤独な人間の悲劇だ」と語っているように、この作品は彼としては非常に珍しい「悲劇の西部劇」なのです。

<ジョン・フォード>
 ジョン・フォードは本名をショーン・アロイシャス・オフィーニーといい、彼の作品にも数多く登場するアイルランド移民の子として生まれました。生まれたのは、1895年2月1日メイン州のケート・エリザベスで、なんと彼は13人兄弟姉妹の末っ子でした。それでも、彼の父親は密造酒の販売で財をなしていたため、生活には困りませんでした。しかし、けっして幸せな家庭ではなかったようで、そのことが後に彼の映画における「家族」の大切さ訴える基礎になったとも言われています。高校を卒業した彼は、すでにハリウッドで俳優・監督として働いていた兄フランシスを頼って映画業界で働き始めます。先ずは大道具係りから始め、俳優としてもD・W・グリフィスの「国民の創生」などに出演したといいます。その後、助監督となり、1917年「颱風」で監督デビューを果たしました。その後は、当時の人気俳優ハリー・ケリーとのコンビでユニバーサルから次々にヒット作を発表しました。
 1927年、彼は映画の先進地だったドイツを訪れ、ドイツ映画界の巨匠F・W・ムルナウから直接、撮影や照明の技術を学びます。個々で学んだドイル表現主義の撮影手法は、その後の彼の作品に大きな影響を与えることになります。
(F・W・ムルナウ Friedrich Wilhelm Murnauは、フリッツ・ラングと並ぶドイツ表現主義の巨匠です。1919年に「Der Knabe in Blau」でデビュー。年老いた労働者の厳しい現実をリアリズム的手法で描いた「最後の人」(1924年)やドラキュラ映画の古典的名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922年)の監督としても知られる)
 「捜索者」においては、オープニングとエンディングで用いられている薄暗い家の中から扉を開けて外の抜けるような美しい景色を撮ったシーンが忘れられません。まるで黒い額縁の中の絵のようなモニュメント・バレーの眺め。そこに現れたイーサン(ジョン・ウェイン)の姿は、まるで西部開拓の歴史本から抜け出した英雄のようです。しかし、ラスト・シーンでは、この扉をイーサンが一人寂しく出てゆくことになります。そして、静に扉が閉まり、彼は西部開拓の歴史の中へと戻ってゆくのです。なんという悲しいラスト・シーンでしょう。しかし、こうした光と影の強烈なコントラストがドイツ表現主義の演出からの引用だったとは意外です。
 第二次世界大戦中、彼は志願して軍隊に入り、戦地の太平洋でドキュメンタりー映画「ミッドウェイ海戦」(1942年)や「真珠湾攻撃」(1943年)を撮っています。そんなこともあり、彼は右よりなイメージが強いのですが、けっして単なるタカ派ではなく男気のある民主主義者として左派の映画人を擁護することもありました。特に1950年代に吹き荒れた赤狩りの際、その急先鋒の一人だった映画界の巨匠セシル・B・デミルに面と向かってこう言ったそうです。
「私の名はジョン・フォード。西部劇を作る男だ。アメリカの大衆の求めるものをもっともよく知っているという頁では、セシル・B・デミル氏にかなうものはおるまい。しかし、私はあんたが嫌いだよ・CB」

<ジョン・ウェイン>
 1928年、彼はスタジオで雑用係として働いていた大柄な青年に目をつけます。その男がアイルランド系だったこと、大柄で見栄えがすることが良かったのか、彼は俳優として採用され、1930年には「ビッグ・トレイル」で主役となりました。こうして、ジョン・フォードとジョン・ウェインによる黄金の西部劇コンビが誕生することになりました。
 ジョン・ウェイン John Wayneは、1907年5月26日アイオワ州ウィンターセットで生まれています。彼の本名はマリオン・マイケル・モリソンといい、アイルランド系です。彼は南カリフォルニア大学在学中、アメリカン・フットボール選手を目指して活躍、将来を有望視されていましたが、怪我によってその道を断たれてしまいました。そのため、大学在学中に経験していた映画の仕事につくことを目指しすことになりました。
 ジョン・フォードは故国であるアイルランドへのこだわりが強く、作品としても「わが谷は緑なりき」(1941年)、「静かなる男」(1952年)、「長い灰色の線」(1955年)などでアイルランドを描いています。当然、彼はアイルランド人の俳優を好んで使う傾向があり、酒が大好きで喧嘩っ早いアイルランド人気質を演じるのにぴったりなジョン・ウェインはまさに彼が求めていた人材でした。(親分肌のジョン・フォードと不器用な俳優ジョン・ウェインの関係は、黒澤明と三船敏郎の関係を思わせます)
 彼はこうしてジョン・ウェインという自らの分身ともいえる俳優を得て次々に傑作を生み出してゆきます。ただし、彼にとってはもうひとつ重要な出会いが待っていました。それはこの映画の重要な傍役ともいえる存在であり、彼の作品の多くに登場し映画を盛り上げてきた最高の舞台装置、モニュメント・バレーとの出会いでした。現在でも、観光地として多くの人々が訪れる景勝地モニュメント・バレーには、ジョン・フォード・ポイントと呼ばれる有名な場所があり、そこから見える景色は未だに「駅馬車」の頃の眺めのままなのだそうです。実は、この素晴らしい眺めを最初にスクリーンに登場させたのはジョン・フォードでした。

<モニュメント・バレー>
 ユタ州に接しアリゾナ州北東部に位置するモニュメント・バレーは、アメリカ先住民のナバホ族が住む土地です。多くの先住民たちが白人たちによって不毛の土地に追いやられたように彼らの住む土地もまた生きてゆくには厳しすぎる土地でした。それでも美しい景色はアメリカ国内でも有数のものだったため、アメリカ各地から観光客が訪れることでなんとかナバホ族500人は生活を成り立たせていたといいます。しかし、1930年にアメリカ全土を襲った大恐慌は彼らの土地を訪れていた観光客の数を激減させてしまい、彼らの生活を危機に追いやります。その土地で唯一の交易所を経営していたハリー・グールディングもまた食べて行けなくなり、困っていました。彼はこの土地の美しさに魅せられて住み着いたよそ者の白人青年でした。自分だけでなくナバホの人々も生活に苦しんでいる様子を目にした彼は、なんとかその苦境を脱する方法はないかと考えます。するとその時、ハリウッドの撮影隊が西部劇の撮影場所を探しているという話を彼は聞いたのです。さっそく彼はモニュメント・バレーの写真を手に単身ハリウッドへと旅立ちました。そこで彼はジョン・フォードと会うことができ、さっそく自分たちの土地の写真を見せて撮影に使って欲しいと依頼しました。そのおかげで、ジョン・フォードの歴史的名作「駅馬車」はモニュメント・バレーで撮影されることになり、一躍その土地は西部劇の聖地となったのでした。この映画でも、地元のナバホ族は映画の登場人物であるコマンチ族に扮し役者としても活躍しています。世界で唯一の景観を得たことは西部劇という映画ジャンルにおけるイメージをも決定づけることになりました。
 その後、ナバホ族の聖地でもあるこの場所に住む人々は、国から再三にわたり国立公園の指定を受けるよう要請されましたが、それを断り続けているそうです。それは国の保護の元で生きるのではなく自分たちの手で生きることを願っているからでした。そうした誇り高い人々が住んでいるからこそ、この場所はアメリカの原風景のひとつになったのでしょう。そんなモニュメント・バレーの風景もまたこの映画の重要な主役の一人といえるでしょう。

<「捜索者」>
 この作品「捜索者」には、それまでジョン・フォードが描いてきた西部劇の要素がたっぷりと盛り込まれています。
「流れ者のガンマン」「インディアンによる白人女性の誘拐」「犯人を馬で追う追跡劇」「騎兵隊」「バッファロー」「砂漠」「雪」「カントリー音楽とダンス」「純情な恋の物語」「恋敵との喧嘩」・・・・まさに「西部劇の宝箱」です。しかし、この映画は公開当時、まったくの不評でした。それはたぶんこの映画には西部劇の定番的存在であるべきヒーローがいないからかもしれません。  いつもならヒーローであるはずのジョン・ウェインは、助けようとしていた姪のデビーを殺そうとし、インディアンの食料を奪うためとバッファローを無差別に殺し、インディアンとの混血のマーチンを嫌い、追跡隊の仲間を足手まといだと追い返してしまい、最後にはデビーを救出するものの、一人寂しく家族のもとを去ってゆきます。帰るべき場所のない彼の背中は西部劇の黄金時代がすでに終っていることを告げているようにも見えます。
 残念ながら、こうしたヒーロー不在の悲劇は、公開当時のアメリカでは受け入れられませんでした。しかし、その後、1960年代に入ると、次第にこの映画は再評価されるようになり、ジョン・フォードの代表作の一つとさえ言われるようになります。それはアメリカという国が世界のヒーローだった時代が終り、孤独で疑い深い悲劇的な存在となっていった時期、ベトナム戦争と公民権運動に揺れた時代の到来と時を同じくしていました。
 男気にあふれた昔かたぎの巨匠は、アメリカの当時の姿、「赤狩り」によって次々に才能ある人々を差別し排除する状況に激しい怒りを覚えていました。そして、共産主義者を単純に悪者として描く時代は終り、同じようにインディアンを白人の頭の皮を剥ぐ悪者と描く時代も終わりを迎えようとしていることも理解していました。こうして、西部劇によって時代をリードしてきたジョン・フォードはニュー・シネマの登場以降に生まれる新しい西部劇のプロトタイプをこの年すでに作り上げていたのです。
 後に脚本家のポール・シュレイダーは、この「捜索者」のストーリーからヒントを得てあの「タクシー・ドライバー」の脚本を書いたのだそうです。さらに彼は、よほど「捜索者」が気に入っていたらしく、その後1979年には自らが監督を担当、「捜索者」の現代版リメイク作品として、家出をしてポルノ女優になってしまった娘を探す父親のドラマ「ハードコアの夜」(ジョージ・C・スコット主演)を撮っています。

<参考>
ドキュメンタリー「映画の巨人 ジョン・フォード」
 ピーター・ボグダノビッチ監督によるドキュメンタリー作品、1969年に撮った彼のドキュメンタリー映画をもとに2006年に追加シーンを加えて再構成したものだと思います。出演は、クリント・イーストウッド、ピーター・ボグダノビッチ、マーティン・スコセッシ、ウォルター・ヒル、スティーブン・スピルバーグ、キャサリン・ヘップバーン、ヘンリー・フォンダ、ジョン・フォード・・・
 実に素晴らしいドキュメンタリー作品です。映画ファン必見の作品です。是非ご覧下さい!!!

この中で、ジョン・フォード作品の特徴について、以下のようなことがあげられていました。
(1)アメリカの歴史における数々の儀式を描く
 インディアンの儀式、軍隊の儀式、西部の儀式、アイリッシュの儀式、宗教儀式、葬式・・・
(2)儀式を描くために必要なことを描く
 音楽、ダンス、家庭、宗教、民族・・・
(3)儀式の中心となるものを描く
 死者の魂、神、自然・・・
(4)彼の作品は一本づつバラバラではなく、どれも関わりをもっており、すべてがジョン・フォード自身の思いを映し出している。そのことを観客に感じさせるために、彼は同じ俳優を何度も使っているのである。

 彼は合理主義者であるアメリカ人であるよりも、神や魂の存在を信じるアイリッシュであることにこだわった人物だったのだと思います。
 ちなみに、このドキュメンタリーのラスト・シーンは、この映画「捜索者」のラスト・シーンでした。やはり、この映画はジョン・フォード監督の作品全体をとおしても、そのフィナーレといえる作品だったのでしょう。

「捜索者 The Searchers」 (1956年公開)
(監)ジョン・フォード
(製)C・V・ホイットニー
(製総)メリアン・C・クーパー
(原)アラン・ルメイ
(脚)フランク・S・ニュージェント
(撮)ウィントン・C・ホック
(音)マックス・スタイナー
(出)ジョン・ウェイン、ジェフリー・ハンター、ナタリー・ウッド、ヴェラ・マイルズ、ウォード・ボンド

<あらすじ>
 イーサン・エドワーズ(ジョン・ウェイン)は南北戦争の後、何年もの間留守にしていたテキサスの兄の家に帰ってきました。(彼は兄嫁に好意を寄せていたために家を離れていたようです)ところが、彼らの土地に現れ牛を襲ったコマンチ族を追って出かけている隙に家が襲われてしまいます。家族は皆殺しとなり、生き残った二人の娘ルーシーとデビー(ナタリー・ウッド)は誘拐されてしまいました。
 養子として育てられていたマーチン・ポーリィ(ジェフリー・ハンター)とイーサンは二人を救出するために旅立ちますが、インディアンの血が混じっているマーチンをイーサンは決して信じませんでした。彼らはコマンチ族の後を追ったものの雪によって足跡を見失ってしまい、その後5年にわたり彼らはコマンチ族のリーダー、スカーを追って旅を続けることになりました。そして、ついにある日、二人はコマンチ族の一団を見つけ、そこで暮らすデビーを助け出そうとします。しかし、デビーは自分のことは忘れて欲しいといい、イーサンはそんなデビーをコマンチになりきってしまったからと殺そうとします。二人はコマンチ族に見つかり、その場を離れますが、再び騎兵隊とともにコマンチの村を襲うことになります。一人デビーを救出するために潜入したマーチンは無事に彼女を助けだせるのか?

<1956年の代表的作品>
AIP(アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ)が設立され、ロジャー・コーマンの活躍始まる
英国でフリーシネマ運動始まる

「愛情物語 The Eddy Duchin Story」(監)ジョージ・シドニー(脚)サミュエル・テイラー(出)タイロン・パワー、キム・ノヴァク
「赤い風船」(監)(脚)アルベール・ラモリス(出)パスカル・ラモリス、シュザンヌ・クルーティエ(カンヌ映画祭最優秀短編賞
「居酒屋 Gervaise」(監)ルネ・クレマン(原)エミール・ゾラ(出)マリア・シェル、フランソワ・ペリエ(ヴェネチア映画祭主演女優、国際映画評論家連盟賞
「王様と私 The King and I」(監)ウォルター・ラング(音)アルフレッド・ニューマン(ユル・ブリンナーがアカデミー主演男優賞
「風とともに散る Written on the Wind」(監)ダグラス・サーク(ドロシー・マローンがアカデミー助演女優賞
「傷だらけの栄光 Someday up there like me」(監)ロバート・ワイズ(出)ポール・ニューマン(ボクシングものの名作)
「黒い牡牛 Brave One」(監)アーヴィング・ラパー(アカデミー脚本賞受賞したロバート・リッチは赤狩りの犠牲になったドルトン・トランボの偽名だった。ハリウッド映画人が偽名と知って投票したとも言われている)
「原子怪獣と裸女」(監)(製)ロジャー・コーマン(出)リチャード・デニング
「攻撃 Attack ! 」(監)(製)ロバート・アルドリッチ(原)ノーマン・ブルックス(出)ジャック・パランス、エディ・アルバート(リアルな戦争映画の先駆け)
「ジャイアンツ Giants 」(監)ジョージ・スティーヴンス(出)ロック・ハドソン、エリザベス・テイラー、ジェームス・ディーン(音)ディミトリー・ティオムキン(アカデミー監督賞
「十戒」(監)(製)セシル・B・デミル(出)チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー、エドワード・G・ロビンソン、アン・バクスター
「知りすぎていた男 The Man Who Knew Too Much」(監)アルフレッド・ヒッチコック(出)ジェームズ・スチュアート、ドリス・デイ
「第七の封印」(監)(脚)イングマール・ベルイマン(撮)グンナール・フィッシェル(出)マックス・フォン・シドー、グンナール・ビョルンストランド
「沈黙の世界」(監)ジャック・イブ・クストー、ルイ・マル(カンヌ映画祭パルムドール
「追想 Anastasia」 (監)アナトール・リトヴァク(出)イングリッド・バーグマン(アカデミー主演女優賞
「抵抗」(監)(脚)ロベール・ブレッソン(原)アンリ・ドヴィ(撮)レオンス=アンリ・リュベル(出)フランソワ・ルテリエ、シャルル・ル・クランシュ
「鉄道員」(監)(脚)ピエトロ・ジェルミ(脚)アルフレード・ジャンネッティ、ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ(出)ピエトロ・ジェルミ、エドアルド・ネヴォラ
白鯨 Moby Dick(監)ジョン・ヒューストン(原)ハーマン・メルヴィル(出)グレゴリー・ペック、リチャード・ベスハート、オーソン・ウェルズ
「バス停留所 Bus Stop」(監)ジョシュア・ローガン(脚)ジョージ・アクセルロッド(出)マリリン・モンロー
「八十日間世界一周 Around the World in 80 Days」(監)マイケル・アンダーソン(なぜかこれがアカデミー作品賞
「ピカソ - 天才の秘密」(監)アンリ・ジョルジュ・クルーゾー(カンヌ映画祭審査員特別賞
ベニー・グッドマン物語 The Benny Goodman Story 」(監)ヴァレンタイン・デイヴ
「炎の人ゴッホ Lust for Life」 (監)ヴィンセント・ミネリ(出)カーク・ダグラス、アンソニー・クイン(アカデミー助演男優賞
「屋根」(監)ヴィットリオ・デ・シーカ(原)(脚)チェザーレ・ザヴァッティーニ(出)ガブリエラ・バロッタ、ジョルジュ・リストゥッツイ
「友情ある説得 Friendly Persyation」 (監)ウイリアム・ワイラー(原)ジェサミン・ウェスト(出)ゲーリー・クーパー、アンソニー・パーキンス

「太陽族」映画がブームとなる

「カラコルム」(ドキュメンタリー映画)(撮)中村誠二(ベルリン映画祭シルバー・ベア賞
「白夫人の妖恋」(監)豊田四郎(撮)三浦光雄(ベルリン映画祭色彩映画特別賞
「早春」(監)(脚)小津安二郎(脚)野田高梧(出)池辺良、淡島千影、岸恵子
「太陽の季節」(監)(脚)古川卓巳(原)石原慎太郎(出)石原裕次郎(裕次郎が鮮烈デビューを飾る)
「猫と庄造と二人のをんな」(監)豊田四郎(原)谷崎潤一郎(脚)八住利雄(出)森繁久弥、山田五十鈴、香川京子
「ビルマの竪琴 第一部」(監)市川昆(原)竹山道雄(出)三国連太郎(ヴェネチア映画祭サン・ジョルジョ賞
「真昼の暗黒」(監)今井正(脚)橋本忍(原)正木ひろし(出)左幸子、内藤武敏、草薙幸二郎
「夜の河」(監)吉村公三郎(原)沢野久雄(脚)田中澄江(出)山本富士子、上原謙、小野道子

溝口健二(監督)死去(58歳)

<1956年の出来事>
国際原子力機関成立
アラバマ大学に黒人学生ルーシーが入学
バスの人種差別に対して違憲判決が言い渡される
スエズ動乱
 (エジプトによるスエズ運河の国有化宣言、イスラエル軍のエジプト侵入)
ハンガリー動乱
 (反ソ運動に対するソ連軍侵攻、ブタペストの惨劇)
ポーランドで政変(ブムルカの10月革命)
モロッコ、チュニジア独立
パキスタン・イスラム共和国成立(イスカンダル・ミルザ大統領)
フランス軍、南ヴェトナムから撤退
<日本>
日本国連に加盟
日ソ共同宣言(日ソ国交回復)
<芸術、文化、商品関連>
ドライブスルーなどハイウェイ文化が発達(アメリカ)
オスカー・ニーマイヤーらのデザインによるブラジリア建設開始
石原慎太朗の小説「太陽の季節」大ヒット
 彼は太陽族と呼ばれた自分たちの世代について「価値紊乱の光栄」(価値を破壊する者と呼ばれることを光栄と思う世代」と言った。皮肉なことに、政治家となった彼は日本の平和主義という重要な価値を破壊する者となった。

<音楽関連(海外)>
「ブランデンブルク変奏曲」でグレン・グールドがアルバム・デビュー
ミュージカル「マイ・フェア・レディ」のアルバムが大ヒット
マイティ・スパローがカリプソ・キングになる(トリニダード・トバゴ)
フランコが自らのバンド、OKジャズを結成(ザイール)
ハリー・ベラフォンテにより、アメリカからカリプソ・ブームが世界へ
(シングル「バナナ・ボート」、アルバム「カリプソ」が大ヒット)
エジプトの国民的歌手ウンム・クルスーム Umm Kulthumの「愛しき我が武器よ」が新国歌となる
<音楽関連(国内)>
ペレス・プラード楽団来日(マンボ・ブーム日本にも)
民謡調の歌謡曲「あの娘が泣いてる波止場」「リンゴ村から」「哀愁列車」で故郷への思いを歌った三橋美智也が大ブレイク

<この年の音楽についてはここから!>

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