第二次世界大戦(0)
The Second World War

(1939年~1941年5月)
<第二次世界大戦の始まり>
 第二次世界大戦の始まりは、第一次世界大戦の終わり「ヴェルサイユ条約」の調印にあった。これは今では常識ともいえる考え方です。この条約により、戦勝国が敗戦国に対し、あまりに巨額の賠償金を請求したことで、再び戦争を起こすように追い込んだと考えられています。
 当時、パリで行われた講和会議にイギリスの代表団メンバーとして参加していた経済学者のケインズは、条約の内容に納得できず自ら役職を降りてしまいました。冷静な視点で見て、それは明らかに間違った内容だったのです。
 この条約の仕掛け人は、ヨーロッパ各国に巨額の戦費を貸し付けていたアメリカの銀行家グループだったといわれます。自分たちが貸し付けた資金さえ回収できれば、その後はどうなってもよい。そんな銀行家たちの「欲望」によって、ヨーロッパには次なる戦争が起きるための時限装置がセットされたのでした。

「1919年のパリ講和会議では、モルガンの人間がほんとうにどこにでもいたので、ウィルソンの側近だったバーナード・バルークは、事を仕切っているのは、J・P・モルガン・アンド・カンパニーだとぼやいた」
モルガン銀行の歴史書を書いたロン・チャーナウ

 戦争に負けたからといって、敗戦国は一方的に「悪=有罪」なのか?賠償請求された側のドイツに市民が、戦争による被害に加えて重い賠償請求が課されたことに不満を抱くのは当然でした。そして、ならば今度は戦争に勝てばいい、そう考えるようになったわけです。もちろん、再び悲惨な戦争を起こすことを誰もが求めていたわけではなく、軍事力による圧力により、敗戦によって失われた植民地や資産、そして名誉を取り戻せればいい。そんな思いだったのでしょう。ところが、そのための指導者として、彼らはヒトラーという指導者を選んでしまいます。
 様々なコンプレックスを抱え、精神的な闇を抱えた恐れを知らない小男を、多くの人は最初から信頼していたわけではありませんでした。八方ふさがりのドイツを変えてくれる政治家を求める大衆にとって、ヒトラーはカリスマ・アイドルとして一部の人気を集めます。(小泉ブーム、橋元ブームを思わせます)
 さらにドイツの政界は当時、国家経済同様混沌としていました。共産党の勢いはかつてないほどで、それに対して右派の政治家も台頭。そのバランスを取るべき穏健派は、民族主義と社会主義を巧みに組み合わせた新しい思想「ファシズム」の思想に魅力を感じ、試しにやらせてみようか、と軽い気持ちでヒトラーに首相を選んでしまったのでした。
 ところが、政権を任されたヒトラーは、ラインラント地方を奪い返したり、富を独占していると思われていたユダヤ人の資産を奪ったりと「ゲルマン民族」の栄光のために次々と結果を出してしまいます。その陰で、ユダヤ人だけでなく障害者や売春婦、ロマ、共産主義者たちが排除され続けていたのですが、そのことに大衆は見てみないふりをし始めます。大衆もまた「欲望」に目がくらみ始めていたのです。
 「第二次世界大戦」とは、人類の闇が抱える「狂気」の暴走を許してしまった人類のささやかな「欲望」が生み出したものでした。「パンドラの箱」のフタを開けたにも関わらず、誰もその責任を取ろうとせず、誰かが何とかしてくれるだろうと知らんぷりを決め込んだのです。
「ヴェルサイユ条約」締結に関わった人々
「ヒトラー」を首相に就任させた人々
「ヒトラー」の侵略作戦を見誤った人々
「スターリン」の暴走も止める人がいませんでした。
「日本陸軍」の暴走もまた止める人がいませんでした。
「ヒトラー」の尻馬に乗る者まで現れました。
 彼らの無責任な行動が戦争を世界中に広め、膨大な数の命をこの世から消し去ることになります。

<モルガンとヒトラーの責任>
  「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史 2つの世界大戦と原爆投下(1)」によると、歴史的にはヴェルサイユ条約でのドイツの賠償金が高すぎたことが、次なる戦争の原因になったとされていますが、その賠償金額は、当時支払いが可能な金額へと変更されていて、ドイツにとってそれほど異常な金額ではなかったという見方もあるようです。実は、その数字が大きすぎると主張し、国内を混乱させたのはヒトラーが率いるファシスト党で、それを利用することでドイツ国民の世論を、反ユダヤ、反連合国へと導いたと言われます。さらに条約の中に「戦争犯罪条項」が盛り込まれ、敗戦=戦争犯罪とされたことがドイツ国民に深い遺恨を残すことにもなったようです。
 ドイツの賠償金は330億ドル(フランスの要求額の5分の1)、それに加えて、すべての植民地、ダンツィヒ(グダニスク)の港、ザール炭鉱地帯なども失いました。
西ヨーロッパ(フランス・イギリス・イタリア・ギリシャなど)  東ヨーロッパ(ソ連・東欧) アフリカ(北アフリカ)  中国・東南アジア・太平洋 
 西ヨーロッパ(フランス・イギリス・イタリア・ギリシャなど)
<1923年>ヒトラーがムッソリーニに「ファシズム」について教えを受ける。ただし、彼にユダヤ人排斥という目標を与えたのは、ムッソリーニではなく「自動車王」ヘンリー・フォードでした。アメリカ経済を裏で支配するユダヤ系の資本家を敵とみなしていたフォードは、ユダヤ人の移民に反対しており、その考えをヒトラーに与えることになりました。
<ミュンヘン一揆>
 11月8日、バイエルンの州総監に任命されたリッター・フォン・カールがビュルガー・ブロイケラーというビア・ホールで集会を開催していました。そこへナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)の突撃隊を率いたヒトラーが第一次世界大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍を共に現れます。そして銃によってカールら幹部を脅し、バイエルン州が反ベルリン政府を宣言し蜂起するよう迫ります。カールらはそれを受け入れます。
 11月9日、ミュンヘン市内でヒトラーは武装した約3000人のナチ党員らにより、デモ行進を行っていたところにカールが警察官を率いて襲撃。しかし、ヒトラーらは捕えられ一揆は失敗に終わります。ムッソリーニが1922年に黒シャツを率いてローマに進軍。一気に実権を握ったことに刺激されての作戦でした。
「わが闘争」
 獄中のヒトラーは大衆のヒーローとなり、「打倒カール、ヒトラー万歳」と呼ぶデモ行進が続いたため、カールは退陣に追い込まれます。そしてヒトラーは獄中で書いた「わが闘争」を出版します。その後、牢獄から出たヒトラーを政治家として成功させるために支援したのは、偉大な作曲家ワーグナーの一族、ヴェニフレート・ワーグナーでした。彼はヒトラーを財政的に支援してくれるようヘンリー・フォードに依頼。その後、ナチスとフォードの関係は深まり、ドイツ軍が使用する軍用トラックの1/4を、ドイツのフォード系子会社が製造していたといいます。

<1930年>ナチ党の得票率が2.5%から18.3%に上昇
<1933年>
<ヒトラーの首相就任>
 ヒトラーが首相に就任。当初彼は連立与党のメンバーの一人にすぎず、大物議員たちはヒトラーの人気を利用するだけのつもりでした。ところが、ヒトラーはナチ党などの軍事的圧力を利用しながら、全権委任法を国会で通過させ、ナチ党以外の政党を国会から追放してしまいます。彼は合法的に敵対する政党を国会から排除できることになったのです。
<書物大虐殺(ビブリオコースト)>
 5月10日、ベルリンのベーベル広場で学生たちが大量の反ドイツ的書物を燃やします。その仕掛け人は宣伝大臣のゲッペルスでした。
<アウトバーン建設開始>
 9月23日、ドイツ国内の失業対策として「アウトバーン」の建設を開始します。これら公共事業の仕事を国民に与えることにより、ドイツは急激な経済発展を成し遂げて行きます。ドイツ国民にとってヒトラーはまさに英雄となっていたのです。
        
<1934年>「長いナイフの夜」6月30日~7月2日ヒトラーは、ライバルであり、彼の過去を知るエルンスト・レームら突撃隊幹部らを暗殺。自らが軍のトップとなり独裁者の地位を確立。
<1935年>ニュルンベルク法を成立させユダヤ人への差別を合法化

ドイツで反ナチスを主張し、強制収容所で九死に一生を得た神学者マルティン・ニーメラーは、後に以下の詩を発表します。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


<1936年>ドイツ軍が戦闘を行わずしてフランス領ラインラント地方を占領(ヴェルサイユ条約に違反)
<1938年>
<10月>
 10月18日、ナチスは12000人のポーランド系ユダヤ人をポーランドへと追放します。しかし、ポーランドへの入国を拒否された4000人が国境付近に取り残されることになります。フランス在住のユダヤ人、ヘルシェル・グリュンシュパンは、その難民たちの中に自分の家族がいることを知って激怒。パリのドイツ大使館に入り、ドイツの外交官エルンスト・フォンラートを射殺します。(11月7日)この事件の情報がドイツに伝わると、ドイツ各地でユダヤ人に対する暴動が起きます。
<11月>
「クリスタルナハト(水晶の夜)」
 11月8日から9日の夜、パリでの事件をきっかけにして、ナチ突撃隊がユダヤ人に対する無差別集団暴行を行い始め、それが反ユダヤ暴動へと発展。多くのユダヤ人の家やシナゴーグが襲われ、少なくとも91人のユダヤ人がこの夜殺されることになりました。この時破壊されたユダヤ系商店の割られたショー・ウィンドーのガラスのかけらから、この夜は「クリスタルナハト(水晶の夜)」と呼ばれることになります。
 後にユダヤ人への迫害が本格的になった悲劇のはじまりの日として知られることになります。
<1939年>
<8月>
「ポーランド侵攻作戦」(第二次世界大戦始まる)
 8月31日、ドイツ親衛隊員がラインハルト・ハイドリヒの指示により、攻撃開始のための秘密工作が行われました。
 ポーランドとの国境の街グリヴィツェ近くのドイツ税関とラジオ局が何ものかに襲撃されたかのように細工。ラジオ局からはポーランド語によるメッセージを発信。「ザクセンハウゼン強制収容所」から連れられてきた囚人にポーランド軍の軍服を着せて射殺。その場に放置してポーランド軍の侵攻の証拠をデッチ上げました。そして、ポーランドへの侵攻の合言葉「祖母が死んだ!」を発しました。
 第二次世界大戦は、こうして強制収容所の囚人が最初の犠牲者となることで火ぶたが切って落とされました。(まだこの時期の強制収容所はユダヤ人虐殺のための場所ではなく反政府勢力の政治家などを留置していました)
 この戦闘には当初、ドイツ陸軍300万人、40万頭の軍馬、20万の軍事車両が投入されましたが、多くの兵士には演習としか知らされずに移動していたといいます。相対するポーランド軍は、そうした疑わしいドイツ軍の動きに気づいていましたが、下手に動くと逆に戦闘開始の理由にされると考えて対応できずにいました。このことは、英仏からの指示によるものでもありました。ヒトラーはそれを見越し、あえて何の要求もせず、侵攻作戦の当日になって「十六か条の和平提案」を示し、それに何の返答もなかったからと侵攻を開始します。まさに騙し討ちでした。
<9月>
「第二次世界大戦始まる」
 ドイツ軍のポーランド侵攻を知った英国では、チェンバレン首相が国家総合員令を発令。それまでドイツの戦争準備をはったりと見ていた英仏両国は、その誤りにやっと気づきました。戦争が始まることを恐れていた英仏は、ヒトラーの狂気を見て見ぬ振りをしていましたが、あわててドイツにポーランドからの即時撤退を求めます。
 9月3日、ドイツへの最後通牒期限が切れたことで、ついに英仏両国はドイツへの宣戦を布告します。さらに英国に続き、同盟国であるオーストラリア、ニュージーランド、インド、南アフリカ、カナダも宣戦布告します。
 英国の首相チェンバレンは、戦争の開始に対応し政敵であるウィンストン・チャーチルを渋々ながら海軍大臣に任命。党派を超えた臨時内閣を作り本格的な戦争準備に入ります。それに対し、ドイツ人の多くは、英仏の宣戦布告に驚き落胆したといいます。それまでヒトラーは戦争をする気はないと国内で発言していて、ポーランド侵攻作戦も多くの国民は戦闘なしで終わると思っていたようです。
 ドイツ軍の侵攻開始後、ポーランドではドイツ系住民6000人がポーランド人によって殺される事態となります。そして、これがドイツ軍によって宣伝され、ポーランド人を絶滅させるべきという「民族浄化作戦」を正当化するために利用されることになります。(こうした情報戦略こそ、ヒトラー得意の分野でした)そして、1939年末までにポーランドでは6万5千人のポーランド市民が虐殺されることになります。ポーランドで行われたユダヤ人を中心とする市民の虐殺に対し、英仏軍は積極的な救援活動を行おうとしませんでした。ポーランドはこの時点で連合軍に見捨てられたともいえます。しかし、ポーランドの悲劇はこれだけでは済みませんでした。

「絶滅収容所誕生」
 9月1日、精神療養所に収容されていた2000人のポーランド人が射殺されます。これが無用とみなされる人々の殺戮による処分の始まりとなります。
 この後1941年8月までに、ドイツ人の精神障害者、肉体的な障害者7万人が殺されています。ここでは、ガス室における中毒死という方法が取られましたが、家族には病気による死亡などとして伝えられていました。そして、この被害者の中には一部ロマ(ジプシー)ひゃ売春婦などもいたようです。

<10月>
「スカパ・フロー軍港侵入事件」
 10月13日夜、オークニー諸島にあるイギリス海軍の主力基地スカパフロー軍港でイギリスの戦艦「ロイヤル・オーク」が潜水艦によって撃沈させられます。突然の攻撃だったため、乗員は逃げる暇がなく、1208名の乗員のうち833名が死亡する惨事となりました。この時、ロイヤル・オークを沈没させたのは、ギュンター・プリーン大尉が艦長を務めるドイツ海軍の潜水艦U-47でした。多くの障害物や狭い水路、見張りの監視を逃れて、潜水艦が突如現れたことにイギリス軍は衝撃を受けます。なぜ、そんなことが可能だったのか?当初は、島に住み着いていた謎の宝石商がスパイとして活動し、軍内部の情報を盗み出したと噂されますが、これは後に間違いだったことが明らかになりました。
 実は、港を守っていたはずの障害物には壊れている抜け穴がありました。さらにドイツの潜水艦は、その海域に何度も来て調査を行い、地形を十分に把握していました。そして、ドイツのスパイ、ヘルマン・メンツェル配下の情報員がこの海域を航行する輸送船の船長から軍港についての情報を得ていたことも後に明らかになりました。
 さらにUボート艦隊司令官カール・デーニッツ率いるドイツの潜水艦の中でも最も優秀な艦長だったプリーンは、潮流の変わり目や満潮の時間などを利用することで狭い海峡を見事に潜り抜ける優れた能力をもっており、そのことをイギリス軍は過小評価していたようです。

<11月>
「ヒトラー暗殺計画(ミュンヘン・ビアホール爆破事件)」
 11月8日、ヒトラーにとって、その政治活動の原点となったのは1923年11月8日の「ビアホール一揆」でした。彼はその初心を忘れないため(国民に忘れさせないため)に毎年同じ日、同じビアホール「ブリュガー・ブロイケラー」で記念演説行っていました。この日もいつものようにヒトラーは演説を行いましたが、例年より1時間近く早く演説は終わり、ビアホールでのその後の宴会には出席せず汽車でベルリンに戻りました。もし天候が良ければ、その日はミュンヘンで過ごし、翌日飛行機でベルリンに戻る予定だったようです。ということは、もしこの日天気が良かったら、ヒトラーは爆死して歴史は大きく変わっていたかもしれません。
 ヒトラーが9時過ぎに席を立った後、9時20分、ビアホールで大爆発が起き、建物全体が瓦礫と化しました。残っていた100人ほどのうち8人が即死。爆発の原因は、ビアホール中央に立っていた柱に仕掛けられ爆弾でした。事件後、スイスに脱出しようとしていた36歳の家具職人ゲオルグ・エルザーが逮捕され、彼のリュックから起爆用の信管やビアホールの絵葉書、共産党の会員証などが見つかりました。ゲシュタポの責任者だったハインリヒ・ミュラーはすぐにエルザーの尋問を始め、背後にいる組織や共犯者の存在を追求しますが、彼は単独犯であると主張。なんとか自白させようと、4人の催眠術師が呼ばれ、自白剤として開発されたばかりのペルビチンが大量に投与されましたが、結局彼は何も証言しないまま、終戦の一か月前、1945年4月にダッハウ収容所で処刑されます。彼には間違いなく協力者がいたはずですが、それは永遠に謎のままとなりました。
(ドイツは犯行グループを特定できないまま、イギリスの秘密情報局MI6によるものと発表しました)
<参考>
映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」(2015年)(監)オリヴァ―・ヒルシュビーゲル(脚)フレート・ブライナースドーファー、レオニー=クレア・ブライナースドーファー(撮)ユーディット・カウフマン
(出)クリスティアン・フリーデル、カタリーナ・シュットラー、ブルクハルト・クラウスナー、ヨハン・フォン・ビューロー

「アメリカの支援開始」
 11月4日、アメリカ大統領ルーズベルトは議会で「キャッシュ・アンド・キャリー」法案を通過させます。それまで「モンロー主義(孤立主義)」を重視し、戦争当事国との貿易を禁じていたアメリカは、この法案ににより、英仏への武器輸出が可能になりました。
<12月>
「ヨーロッパ新秩序」
 12月31日、ヒトラーはラジオ演説で「ヨーロッパ新秩序」を発表。
<1940年>
<4月>
「ヨーロッパ侵攻作戦開始」(ノルウェー、デンマーク)
 4月9日、ドイツ軍による西ヨーロッパへの攻撃を開始。ノルウェーの首都オスロ、デンマークの首都コペンハーゲンを占領。
 ドイツは、オランダ、ベルギーへの侵攻作戦の準備もしていて、その情報は漏れていました。しかし、オランダとベルギーは中立宣言をしており、英仏軍からの援助を求めることはドイツ軍に侵攻の理由を与えることになりかねませんでした。おまけにフランス国民の多くはドイツとの戦争を支持せづ、逆に英国に戦争に引き込まれることを恐れていました。そのため、フランス軍はマジノ線の守備を固め、自国の守りさえ固めていればそれでいいと考えていたようです。ただし、フランス軍の装備は古くなっており、通信設備や空軍の装備に至ってはまったくドイツにかなわない状況でした。フランス軍は、ドイツの侵攻を知っていながら、見て見ぬ振りをしていたともいえるのです。それは「蛇に睨まれたカエル」のような状態だったのでしょう。
<5月>
「四か国侵攻作戦開始」(オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、フランス)
 5月9日、ドイツ第18軍がオランダに侵攻。アムステルダム、ロッテルダムを占領。第6軍はアントワープとベルギーの首都ブリュッセルに侵攻。ルクセンブルグも含めたベネルクス三国への攻撃開始により、遅まきながら英仏両軍は支援のために軍を出動させることになりました。すると、その間にドイツの第12軍が「アルデンヌの森」を横切ってフランスに侵攻します。フランス軍が自国領土内ではなくベルギーでの戦闘を考えるとドイツ軍は読んでいました。フランス軍もまたドイツがフランスにまで一気に攻め込むとは考えていなかったのです。
 5月10日未明、ドイツ軍の侵攻が始まったという連絡を受けてもなお、フランス軍は動きませんでした。それに対し、ドイツ軍は空陸一体となった用意周到な作戦を展開し、フランス軍の予想をはるかに上回るスピードで進軍を続けました。オランダに予備の部隊まで向かわせたフランス軍は、自国の守りが一気に手薄になり、ベルギーに向かった部隊もまたフランスに逃げ込もうとするベルギーからの難民の波に阻まれ、身動きが取れなくなってしまいます。
 そこに名将ロンメルの第7装甲師団が攻撃を仕掛け、フランスの戦車隊を一気に粉砕してしまいます。名将ロンメルの神話はここから始まることになります。ドイツ軍の兵士たちは「ペルビチン錠」と呼ばれる覚せい剤の一種を服用しながら休むことなく全身を続けます。それに対しフランス軍はパニック状態となり、撤退しながら総崩れ状態となります。
<ナチスによる情報戦>
 ナチス・ドイツはフランスへの侵攻作戦を前に、ラジオを使ったプロパガンダ作戦を展開していました。ドイツ在住のフランス人をアナウンサーとするラジオ番組を立ち上げ、ドイツ軍の優秀さや兵器の能力の高さを語らせることで戦う前にドイツの優位が動かないとフランス人に信じ込ませました。この作戦はフランスでは見事に国民の戦意を挫くのに役立ったようです。

 5月13日、英国の首相に就任したウィンストン・チャーチルは議会下院で就任演説を行います。
「私は血と労苦と涙と汗以外に、捧げるべき何ひとつも持っていない。あなた方は(首相になった私に)政策は何かと聞かれるであろう。私はこう答える。海で陸で、そして空で、神が我々に与え給うた全ての力と精神力で戦争を戦うだけである。また我々の目的は何かと聞かれるだろう。私はたったひとつの言葉で答えることができる。勝利。それだけだ」

 5月14日、オランダが降伏。
 5月15日、英国首相チャーチルはフランスのレイノー外相からの電話により、フランス軍の敗北が近いことを知らされます。
「前線行くと、敵は逃げてしまうのです。フランスとイギリスはどちらも、世界大戦における敵国ですが、この戦いではわれわれの挑戦を受けて立とうとしないのです。実際、わが空軍機は天空を支配しています。われわれは敵の飛行機を一機も見ることなく、すべてはわが方のものばかりです。ちょっと想像してみてください。アミアン、ラン、シュマン・デ・ダムなどの拠点となる都市が、ほんの数時間で陥落したのです。1914年から18年にかけての戦争では何年もかかったというのに」
ドイツ第一歩兵師団伍長の言葉

「ベルギー降伏」 5月27日、ベルギーのレオポルド国王は条件付きでドイツに降伏。

「チャーチルの戦闘継続宣言」
 5月28日、英国首相チャーチルは全閣僚を集め緊急会議を開催。例えフランス軍が降伏しても、英国は単独で徹底抗戦を続けると訴えます。一度ドイツとの和平交渉を行い始めれば、必ず英国はドイツの「奴隷国家」となる、そうなるぐらいなら、徹底的に戦うべきである。チャーチルの力強い言葉により、英国議会もまたドイツでの徹底抗戦を支持することになりました。

「ダンケルク撤退作戦」(ダイナモ作戦)
 ゴート卿が率いる英国の海外派遣軍(BEF)は、フランス軍と共に戦闘を続けますが、フランス軍の敗色は濃厚でBEFは北フランスの海岸地域へと撤退。故国へと撤退する準備が開始されます。
 5月19日、北フランスの港町ダンケルクからの撤退作戦が始まります。しかし、撤退を待つ30万人を超える兵士に対し、英国はすべての艦船を使っても、最大で4万5000人しか救出できないことがわかっていました。そこでBBC(英国国営放送)などによる呼びかけが行われ、撤退作戦への協力要請に答えた600隻の船が参加します。しかし、ドイツ軍の攻撃により10隻の駆逐艦が沈没させられ、ダンケルクの街はドイツ軍によって包囲されてしまいます。撤退する船への乗船は英国兵が優先されたため、フランス軍との対立も深まります。
 5月26日から27日にかけては、わずか8000人弱しか脱出できませんでしたが、28日には18000人、29日には47000人が脱出。
 5月30日、兵の半数が残されたままのBEFを救出するために集められた「リトルシップス」たちが到着。ヨット、外輪船、タグボート、レジャーボート、漁船など様々な船がこの作戦にボランティアとして参加。これらの小さな船が大型船までの搬送を行うことで救出できる兵士の数は急増します。
 6月3日にこの作戦が終了した時点で、救出された兵士の数は33万8000人に達しました。(そのうち英国兵は19万3000人、仏兵11万)それでも港には8万人が残されたといいます。
 英国軍はここまでの戦闘で6万8000人の兵を失いました。
 この作戦はヨーロッパ戦線での敗北がもたらした「巨大な負け戦」でした。しかし、ここで救出された33万8000人の兵士たちは、その後、再び、ドイツとの戦闘に参加することになり、大きな戦力となります。ここから、連合軍の勝利は始まっていたともいえるでしょう。
<参考>
映画「ダンケルク」(1964年)(監)アンリ・ヴェルヌイユ(出)ジャン=ポール・ベルモンド(ダンケルクの戦闘を描いた作品とは言えないが、それを背景とした反戦映画)
TVドラマ「刑事フォイル」「臆病者」(BBC制作の第二次世界大戦下の英国を舞台にした刑事ドラマ)

<6月>
「イタリア軍の参戦」
 6月10日、ドイツ優位の戦況を知り、どさくさ紛れにイタリアが英仏への宣戦布告を行います。イタリアは今のうちに自分の領土を獲得しておこうと企んでいました。当初、フランスはイタリアに自国領土を渡す代わりに、ムッソリーニにヒトラーへの仲介を依頼しようと考えていました。もちろん、ヒトラーにはそんな和平案など通じるはずはなかったし、チャーチルもその案には徹底的に反対しました。

「ド・ゴールの脱出」
 6月16日、フランスのド・ゴール将軍が英国陸軍スピアーズ少将とロンドンに脱出。英国に亡命政府を置き、ドイツとの戦闘を続けることになります。しかし、フランス本国では9万2000人の兵士が死亡し、捕虜は200万人、フランス南部へと逃げる人の群れは800万人にも達していました。
 残されたフランス軍のペタン元帥は新政権を樹立し、ドイツとの和平交渉を行おうと、フランス全土に放送で呼びかけます。しかし、フランス共産党、フランス右派の対立は国内を統一することもできず、責任の所在が不明のままフランスはあっという間に降伏してしまいました。英国軍はさらに撤退を余儀なくされ、本国へと19万1000人が撤退します。
 6月18日、ド・ゴールは英国からBBC放送を通じてフランス全土に演説を行います。

「私はドゴール将軍。今、ロンドンから放送している。何事が起きようとフランス人の抵抗の炎を消してはならない。また消えることはない。・・・
 フランスは戦闘に敗れた。しかし、戦争に負けたわけではない」


 この力強い演説は多くのフランス国民の心に響き、フランス国民が「自由フランス」のための戦いを継続する記念日として記憶されることになりました。
 この時、彼の存在は英国、アメリカではまったく無名でしたが、ラジオからのフランスへの呼びかけにより、次第にフランス国内での人気が高まることになります。
 
 6月18日、英国ではチャーチルもまた英国下院議会で歴史的な演説を行っています。

「ゆえに、われわれはその責務にむけ覚悟を固め、その責務にみずから耐えようではありませんか。もし、大英帝国とその連邦が一千年続いても、振り返ってなお、、『あれこそまさにかれらの最良の時代であった』と人々に言われるように」

 こうして、ドイツとの戦いのバトンは、フランスから英国へと渡されました。

「ドイツによるフランス分割統治」
 6月25日、独仏の休戦。ドイツ国防軍はフランスの北半分と大西洋岸を占領。フランスのトップとなったペタン元帥にはフランス南部の2/5が残されました。さらにフランスには海軍も残されましたが、それがドイツ軍に渡ると危険なため、英国はフランスに海軍をヨーロッパから遠ざけるか、自沈させるよう要求します。しかし、その要求に応じなかったため、英国海軍とフランス海軍の間で戦闘が始まります。この期に及んでもなお、英仏の間には対立関係が存在していました。(過去の英仏戦争の歴史が続いていた)
<7月>
「カタパルト作戦」
 7月3日、英国の攻撃により、フランスの艦船「ダンケルク」、「プロヴァンス」が大破。「ブルターニュ」は転覆します。フランス海軍の兵士1297人が死亡する惨事となりました。これにより英仏間の信頼関係は急激に悪化。ロンドンでフランス軍の再結成を準備していたド・ゴールのもとに在英国のフランス兵が集まらなくなります。
 7月10日、フランス南部ヴィシーのカジノでフランスの国会が招集され、ペタン元帥をトップとして「ヴィシー政権」が誕生します。
 7月31日、「ベルクホーフ山荘」で全将軍を集めたヒトラーは、英国が降伏条件交渉に応じないならば、その前にソ連を倒すことを宣言します。そうすれば英国もあきらめるだろうと考えたのです。ただし、ソ連侵攻を開始する際、英国との戦闘を同時に行うことを避けるため、英国の空軍基地、海軍基地を爆撃によって壊滅状態にしておくように指示します。

<8月>
「暗黒の木曜日」
 8月13日、ドイツ空軍は「鷲の攻撃作戦」開始。300機による攻撃は英国空軍の勝利となります。
 8月15日、ドイツ空軍は1790機を投入するが、英国空軍に敗北。ドイツでは「暗黒の木曜日」と呼ばれることなりました。英国空軍は数ではドイツに勝てないものの、弱点を突き、さらに勇敢で優秀なパイロットをそろえることでドイツを上回りました。
<英国戦闘機軍団>
 英国空軍は、優秀な混成部隊でした。イギリス人2334人、ポーランド人145人、ニュージーランド人126人、カナダ人98人、チェコスロバキア人88人、オーストラリア人33人、ベルギー人29人、南アフリカ人25人、フランス人13人、アメリカ人11人、アイルランド人10人
 中でもポーランドから亡命して来た兵士は8000人と多く、彼らが空軍に参加することで英国空軍の戦力は大幅にアップしました。彼らは素晴らしい技術を持つと同時に母国を奪われたドイツへの復讐心に燃えていて空軍のレベルを押し上げました。ついには、シコルスキ将軍のもとでポーランド空軍も編成されることになります。
 それでもドイツ空軍は、苦戦しながらも数で上回ることで、なんとか優位を保ち、英国空軍基地への爆撃により、飛行機、滑走路、パイロットを失わせ、英国空軍を危機的状況に追い込んで行きました。ところが、ここで空軍トップのゲーリングは大きな失敗を犯してしまいます。
 彼は、英国国民に心情的により大きな打撃を与えるためには、ロンドンなど都市部への攻撃を行うべきと考えたのです。こうして、ドイツ空軍は攻撃対象を空軍基地からロンドンなどの都市部へと転換。これにより多くの市民の命が失われることになります。ところが英国空軍にとっては、そのおかげで空港整備や航空機の開発、パイロットの訓練を進めることが可能になりました。これが英国空軍を復活させる重要な要因になったといいます。
<参考>
映画「ダークブルー」(2001年)(監)ヤン・スヴェラーク(チェコ人パイロットを主人公にした戦争人間ドラマ)
TVドラマ「刑事フォイル」「レーダー基地」「エースパイロット」(BBC制作の第二次世界大戦下の英国を舞台にした刑事ドラマ)
映画「戦場の小さな天使たち」(1987年)(監)(脚)ジョン・ブアマン(ロンドンへの空爆を逃れ疎開した子供たちの田舎生活を描いたノスタルジックな名作)

<9月>
「日独伊三国軍事同盟」
 9月27日、日独伊三国軍事同盟に調印。アメリカはこの条約が対アメリカを意識したものと判断。
 ドイツは英国を降伏させることは困難と判断し、イギリスへの上陸作戦(アシカ作戦)を延期。潜水艦による海上封鎖による「兵糧攻め」とソ連への侵攻へと作戦へと方向を転換することになります。

<10月>
「イタリア軍のギリシャ侵攻作戦」
10月28日、イタリア軍が14万の兵によりギリシャ侵攻作戦を開始します。ドイツ軍の侵攻にあやかっての火事場泥棒的な作戦でした。ヒトラーは、イタリア軍のこの戦闘が英国軍のヨーロッパ侵攻を招き、バルカン半島のバランスを崩すことになると考え、反対だったようです。ヒトラーの恐れた通り、装備は劣るものの勇敢なギリシャの兵士たちはイタリア軍に対し善戦。さらに英国海軍の艦船によりイタリア海軍の戦艦3隻が沈没させられることになります。結局、イタリア軍は1941年4月にドイツ軍が侵攻するまでに4万の兵をギリシャで失うことになります。
 こうして軍隊としては、軍備のレベルも兵士の士気も劣るイタリア軍は、ドイツ軍の足を引っ張ることになりました。
<1941年>(1月~5月)
<1月>
 1940年12月16日、イングランドの工業都市コヴェントリーがドイツ軍の空爆をうける。それに対し、イギリスは一か月後、ドイツの港湾都市マンハイムを攻撃。これが連合軍が都市全体を攻撃する最初の空爆作戦でした。当時の爆撃機は目標を正確に狙うことができず、一般市民を巻き込む可能性が高い、非効率的で非紳士的な戦略として嫌われていた。(実は21世紀に入ってもなお爆撃の正確性には問題があるのですが・・・)
<3月>
「武器貸与法」
 3月8日、アメリカ上院議会で「武器貸与法」が可決。これにより英国はアメリカから武器を購入することが可能になります。
 すでに英国はアメリカに多額の借金をしていて、その返済のために南アフリカの金やロイヤルダッチ・シェル、ユニリーバなどの英国企業の株式を安値で売却していました。
<4月>
「ギリシャ降伏」
 4月19日、ギリシャ首相コソジスが敗戦を覚悟して自殺。連合軍の全面撤退が始まります。
 4月20日、ギリシャ降伏。
「クレタ島の攻防戦」
 1940年11月、英国軍はギリシャ沖の島、クレタ島を占領。この島は、中東、北アフリカへの中継地として重要な位置にあるため、ドイツ軍も狙いを定めていました。
 4月29日、バーナード・フライバーグ少将率いるニュージーランド第二師団がクレタ島に上陸。連合軍はドイツ軍の暗号を解読可能になっていたため、ドイツの空挺師団が攻撃してくることを事前に察知していました。
 5月20日、ドイツの空挺師団降下猟兵突撃連隊による攻撃が開始されます。空挺部隊が乗るユンカース52と40機のグライダーがクレタ島に到着します。ここでフライバーグ少将は、ドイツ軍の海からの攻撃を恐れたため、海側の守備に力を入れ、飛行場の滑走路を破壊せずそのまま残してしまいます。これはおまりにも大きなミスでした。
 パラシュートで降下してきたドイツ兵の多くは待ち伏せしていた連合軍兵士に狙撃され、ほとんどが命を落とすことになります。ところが飛行場が使用できたため、ドイツ軍は飛行場を占領後、航空機による戦力補強を行うことが可能になったのです。こうして空からの兵力増強に成功したドイツ軍は一気に島の制圧を実行します。
 作戦が成功したとはいえ、ドイツ軍はこの作戦で6000人の兵士を失う大きな被害を受けました。そのため、この後、ドイツ軍はパラシュートによる降下作戦をほとんどやらなくなります。逆に連合軍は、この方法にこだわるようになり、大きな被害を出しながらもノルマンディー上陸作戦などで大規模に実施することになります。
<参考>
小説「ナチュラル・ボーン・ヒーローズ」(クレタ島の攻防で活躍した勇士たちの伝説を追ったドキュメント・ストーリー)

<5月>
 フランスに居住するユダヤ人が集められ、4323人が二か所の強制収容所へ移送される。

「ルドルフ・ヘス単独で英国へ」
 5月10日、ナチス・ドイツのナンバー2の地位にいたルドルフ・ヘスが単独でスピットファイアーに乗り、低空飛行によりスコットランドへ向かいパラシュートで降下に成功。(機はその後墜落しています)彼の訪英の目的は、親独と言われていたスコットランドのハミルトン公に会い、彼の仲介を得てイギリス政府と秘密交渉を行うことでした。その交渉の内容は、イギリスとドイツが対共産主義(対ソ連)という共通の立場で不戦条約を結ぶという内容でした。ただし、この作戦は彼がたった一人で計画、実行したもので、そのことは出発前に手紙でヒトラーらに知らされたと言われます。ドイツを発つ際も、彼は目的地をノルウェーと管制塔に伝えていて、完全な単独作戦だったようです。
 ヘスの飛行を知ったヒトラーは、ヘスは精神障害の影響で無許可で飛行を行い行方不明になったと公式声明を発表。(ヘス自身、手紙でそう発表するよう依頼していた)成功する保証もなく、ハミルトン公の意思も確認せず、なぜ彼は無謀な賭けに出たのか?
 当時、ヘスはナンバー2の座を奪われつつあり、性格が真面目で大人しかった彼はヒトラーのやり方について行けなくなりつつあったともいわれます。結局、彼の行動はまったく無視されてしまいますが、イギリスMI6による調査の結果、ヘスは精神的におかしかったとも言えず、その後、彼は46年間収監され続け、最後はベルリンのシュパンダウ刑務所で自殺を遂げます。
 1987年8月17日、彼は93歳という高齢になって首吊り自殺を遂げたといわれます。高齢で自殺する体力があったとは思えないとされ、そこには謎が残されています。当時、彼の釈放に最後まで反対していたソ連が彼の釈放を認めたといわれ、何者かが彼が世に出ることを望まなかったのではないかともいわれています。
 東ヨーロッパ(ソ連・東欧など)
<1939年>
<8月>
「独ソ不可侵条約」
 8月21日、この条約の締結により、ドイツはソ連を敵に回すことなくヨーロッパでの戦闘を開始することが可能になりました。しかし、スターリンはドイツのリッベントロップ外相との間で密かに中部ヨーロッパを分割統治するという相談をしていたようです。
 スターリンもヒトラーも本当にワルです。
「ソ連軍のポーランド侵攻」
 9月17日、ソ連軍が突如ポーランドへの侵攻を開始します。その表向きの理由は、ポーランド軍がウクライナへの挑発行為を行なったからというものでした。さらにポーランド政府が崩壊しているため、両国間の不可侵条約も無効とされていました。しかし、これがソ連による火事場泥棒ともいえる悪辣な侵攻作戦であることは明らかでした。
 9月20日、唯一占領されていなかったワルシャワに対し、ドイツ空軍は620機の航空機による集中爆撃を行います。
 10月1日、ついにワルシャワも陥落。空爆により2万5千人の民間人と6000人の兵士が殺害されました。こうして、ソ連とドイツによりポーランドは世界地図から消されてしまいました。この時点で、ソ連とドイツは実質的に同盟関係になっていたといえます。
 ポーランド侵攻作戦によるドイツ軍の死者は1万1千人で、ポーランド軍は7万人が死んだと思われます。さらにいうとソ連軍の死者はわずか996人で、そのソ連軍に殺されたポーランド軍兵士の数はなんと5万人にのぼるといいます。この異常な戦死者の差は、そのほとんどが戦闘ではなく、隊ごとに集合させられた後にまとめて処刑されたからでした。その最も顕著な例が、後にアンジェ・ワイダ監督によって映画化もされた「カティンの森」事件です。(1943年になりドイツ軍がこの事件を暴露)
<参考>
映画「カティンの森」(2007年)(監)(脚)アンジェ・ワイダ(原)アンジェイ・ムラルチク(撮)パヴェル・エデルマン(出)マヤ・オスタシェフスカ、アルトゥル・ジミイェフスキ
(ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダが、この事件を題材に撮ったライフワークともいえる作品)
<11月>
「冬戦争」(ソ連・フィンランド戦争)
 11月29日、フィンランド人共産主義者からなる傀儡亡命政権からの支援要請に答えるという表向きの理由により、ソ連軍がフィンランドに侵攻、首都ヘルシンキへの空爆も行います。ポーランドに続くソ連によるどさくさ紛れの侵攻作戦です。ソ連はこの不当な侵攻作戦により国際連盟から除名されます。
 100万人を超えるソ連軍に対し、わずか15万人弱の兵士でフィンランド軍は戦いを挑むことになりました。カール・グスタフ・マネルヘイム元帥は、襲ってくるソ連の大軍に対し、地雷や塹壕での待ち伏せで対抗。「白い死」と呼ばれた雪の中に隠れたスキー兵によるゲリラ戦は、冬の戦いに慣れているはずのソ連兵をも苦戦させます。多くのソ連兵は、怪我をした後、そのまま凍死し氷の柱になって行きました。
 スターリンは、セミョーン・K・ティモシェンコ陸軍総司令官を向かわせ、戦車隊も大量投入、1940年2月に総攻撃を仕掛けます。そのまま攻撃すれば占領も可能でしたが、スターリンは英仏が参戦することを恐れ、和平交渉を行います。結局、この戦争でソ連軍は8万5千人を失い、フィンランド軍は2万5千人を失いました。多勢に無勢で大健闘したフィンランド軍は、巨大なソ連に勝利したともいえる結果でした。
 ソ連軍のフィンランド攻撃はヒトラーにも影響を与えます。このままだとソ連は、ドイツの同盟国スウェーデンへも攻撃を仕掛けるのではないか?そう考えるようになり、ならば先にこちらから攻撃を仕掛けるべきと考え始めたのです。 
<1940年>
<2月>
「ポーランド人の追放開始」
 2月10日、ポーランド人のシベリア、中央アジアへの追放が始まります。民間人13万4千人がソ連軍によって、家、財産、土地すべてを奪われ、身の回りの物だけを持たされ、家畜運搬車に乗せられて、3週間に及ぶ長い旅へと追い立てられました。スターリンによるポーランド人追放作戦の始まりです。ドイツが虐殺によって民族浄化を進めたのに対し、ソ連は広い国土を使った「島流し」によって民族浄化を実施して行くことになります。
<1941年>
<3月>
「ユーゴスラビアへの侵攻開始」
 3月27日、ドイツへの支持にまわっていたユーゴスラビアでクーデターが発生し、政権が反ナチスに転向。それに対し、ドイツ軍は首都ベオグラードへの爆撃を開始します。
 4月6,7日、ドイツ軍500機による爆撃により、首都ベオグラードの街は崩壊。1万から2万人の命が失われました。さらにこの日、ドイツはギリシャへの侵攻作戦も始めます。
 4月17日、ユーゴスラビアが降伏。この占領作戦には、ドイツだけでなくオーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアも参加しています。
 第一次世界大戦のきっかけを作りドイツの敗北の原因になったともいえるセルビア人をヒトラーは恨み続けていて、この後、ユーゴスラビアのセルビア人への徹底的な弾圧を行います。混沌とするユーゴスラビアからは多くの難民が出て、その多くがギリシャへと移動してゆくことになります。

<4月>
「日ソ不可侵条約」
 スターリンが日本と相互不可侵・相互中立のための国際条約を締結。
 ソ連はこの条約により、対独戦に集中できるようになり、日本も中国での戦争に集中できることになったが、中国は見捨てられた形となった。そのため、毛沢東の中国共産党とスターリンのソ連共産党が分裂。
アフリカ(北アフリカ戦線)
<1940年>
「コンパス作戦」
12月9日、連合軍がエジプト、リビアのイタリア軍を攻撃し一気に制圧に成功。
<1941年>
「コンパス作戦」
 1月19日、スーダン、エチオピアのイタリア軍への攻撃も開始。
 2月7日、北アフリカのイタリア軍は連合軍に敗れますが、この後、イタリア軍に代わってエルヴィン・ロンメル中将が率いる戦車軍団が北アフリカに上陸し、イタリア軍も配下にした枢軸国軍総司令官となり、再び北アフリカでの主導権を握ることになります。
「砂漠のキツネ登場」
 2月12日、ロンメル将軍がトリポリに到着。3月末には2万5000人のドイツ兵も到着。ロンメルは北アフリカでの戦闘準備に入るものの、ドイツではソ連攻撃作戦の準備が始まり、北アフリカでの戦闘は優先順位が下がりつつありました。ロンメルはエジプトまで攻撃を続ける覚悟でいましたが、本国からの支援が減った分をイタリア軍に頼る必要が生じてしまいます。ソ連に勝利するまで増援はないとされたものの、連合軍が弱体化しているとみた彼は本国の指示を無視して進撃を続けることになります。
 4月13日、ロンメルはトブルクへの攻撃を開始。しかし、トブルクを守るオーストラリア第9師団は優秀な部隊でドイツ軍の攻撃に耐え続けます。
「クルセイダー作戦」
 12月、英国軍による「クルセイダー作戦」が物量の差でかろうじて成功し、トブルクからロンメル率いるドイツ軍を追い出します。ただし、英国軍も大きな損害を受けました。
中国・東南アジア・太平洋
<1937年>
<7月>
「盧溝橋事件(マルコポーロ橋事件)」
 7月7日、夜間演習中に日本軍の兵士1名が行方不明となりました。その捜索のため日本軍は近くの苑平県城に入ろうとして中国軍と衝突してしまいます。実は、その日本兵は別の場所で無事に発見されていました。ところが日本軍はこの事件を利用して、中国に戦争を仕掛けようと南京政府に最後通牒を突き付けます。
 7月26日、日本軍は中国に対し攻撃を開始し、わずか3日で北京を占領します。中国軍は共産軍と国民党軍の対立もあり、軍備も貧弱で日本軍に対し勝ち目がないことは蒋介石もわかっていました。そのため中国軍は戦いを長引かせ消耗戦に持ち込むしかないと考えます。
<8月>
「第二次上海事変」
 8月9日、国民党軍の張治中将軍は上海の飛行場に部隊を送り込み、日本軍への攻撃を行います。さらに日本軍から攻撃したように見せかけるため、中国人の捕虜を射殺。日本軍は当時、北方での戦闘を南にまで広げる気はなかったといわれます。
 8月13日蒋介石もこの戦闘をやめさせようとします。しかし、8月13日日本軍の軍艦が上海の中国人地区に砲撃を開始。こうして、日中戦争は戦場を上海へと拡大。やはり軍備が圧倒的に強力な日本軍が優位に進めますが、ドイツのファルケンハウゼン将軍が指導する国民党軍は退却を続けながらも日本軍に抵抗し続けます。
 12月13日、日本軍は南京を包囲し、中国軍を全滅させます。多くの民間人は「南京安全区国際委員会」に逃げ込みました。
<1938年>
<5月>
「徐州占領」 5月1日、日本軍が徐州を占領。中国兵3万人を捕虜とします。
<7月>
「張鼓峰(ハサン湖)事件」
 満州南東部ソ連との国境で紛争が発生。中国軍はソ連軍の参戦を期待しますが、スターリンは日本による満州支配を黙認。日本との衝突を避けます。
「黄河堤防決壊作戦」
 日本軍による武昌、漢口への侵攻を阻止するため、蒋介石は黄河の堤防を決壊させます。この堤防決壊は大規模な洪水を起こし、日本軍は進軍が困難となり5か月近く足止めされることになりました。しかし、洪水は日本軍よりも流域住民により大きな被害を与えます。溺死だけでなく食料の不足による餓死や疫病による病死などにより、80万人が亡くなったといわれます。蒋介石は、自らの手で中国の人民を苦しめ、彼らを敵に回すことになりました。
<10月>
「広州占領」 10月21日
「武漢占領」 10月25日
<11月>
「長沙焼失」
11月13日、日本軍の侵攻を前に湖南省長沙を中国軍が自ら焼き払います。それは日本軍に食料などを奪われないようにするための作戦でした。ところが日本軍の侵攻作戦は誤報で、そのおかげで街の2/3と多くの農作物、そして2万人の命が失われることになりました。
<1939年>
<3月>
「南昌占領」 3月27日
<5月>
「ノモンハン事件」(ロシア側からの名前は「ハルハ河の戦い」)
 1939年5月12日、モンゴル軍一個騎兵連隊がハルハ河を渡り20キロ満州国領内に侵入。当初は満州国軍とモンゴル軍の戦闘でしたが、それぞれの国の実質的な支配国であるソ連と日本の国境紛争へと発展します。
 当初は日本軍が逆にモンゴル軍を押し返します。しかし2週間後、モスクワからジューコフ将軍が到着し、ソ連軍の増強部隊が兵員200名の日本軍を撃退します。当時、日本はアジア南部の中国・東南アジア方面への進出とソ連・モンゴル方面への進出、その二つの優先権争いで北部方面を担当する関東軍は、この戦闘で勝利し北部方面の実績を上げようと本国の指示を待たずに空爆を開始。本格的な戦争を開始するため、小松原道太郎中将の「第23師団」と「第7師団」の一部が投入されます。
 それに対し、ソ連軍は兵力5万8000人、戦車500輌、航空機250機に増強。8月31日、日本軍は犠牲者6万1000人という大きな被害を受けて大敗します。日本軍は、この敗戦を公にしないため、「ノモンハン事件」という名で小さな扱いに押し込めます。(この戦闘の悲劇を残してほしいという陸軍中将、荻州立兵の依頼により事件の様子を描いたのが藤田嗣治でした)
 この戦争は完全に日本の敗北でしたが、同じ時期にドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がヨーロッパで始まったことから、スターリンは日本からの停戦要請を受け入れます。この戦闘により、ジューコフ将軍はスターリンから「ソ連邦英雄」金星賞を授与され、この後のソ連軍の実質的なトップとして活躍することになります。そして、日本はこの敗北によりソ連との戦争をあきらめ、より倒しやすい中国を目標とする「南進」へと方向転換することになります。
 歴史から消されかかった「ノモンハンの戦闘」はこうして第二次世界大戦の流れを大きく変える分岐点の一つとなりました。
 1941年4月には、日ソ中立条約が結ばれることになります。
<参考>
小説「ねじまき鳥クロニクル」(1994年)(村上春樹のこの大作小説は「ノモンハン事件」を重要なテーマとして書かれています)
<1940年>
<3月>
「国民政府誕生」
 3月30日、日本は南京に汪兆銘を首班とする傀儡政府「国民政府」を樹立させます。この時点で、中国は毛沢東の共産軍、蒋介石の国民党軍、汪兆銘の「国民政府」の政府により3分割されていたことになります。
<1941年>

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