第二次世界大戦(1)
The Second World War

(1941年6月~1943年)


中国・台湾  太平洋・アジア ソ連(東部戦線) ヨーロッパ(西部戦線・イタリア・東欧など) アフリカ(北アフリカ戦線)
<第二次世界大戦>
 現在のところ、歴史上最後の世界大戦となっている「第二次世界大戦」について、その歴史を改めて追ってみました。
 思えば、それぞれ「ノルマンディー上陸作戦」や「ユダヤ人の虐殺」など、個々の歴史については知識がありつつも、そうした事件の数々がどんな歴史の流れの中に起きていたのか?そのあたりは、意外にわからない。そんな歴史の流れが把握できていたら、「バルジ大作戦」も「プライベート・ライアン」も、違って見えてくるかもしれない。
 そんなわけで、「第二次世界大戦」を俯瞰してみようと思います。

<愚か者の戦争>
 いかなる戦争も、その結果が悲惨なものであることにかわりはありません。
 しかし、上に立つ者の愚かさによっては、その悲惨さが倍増することも確かです。
 この年表では、戦場で亡くなった人の数も書いていますが、書いていても感覚が麻痺するほどの膨大な数です。
 特にソ連軍の死者の数は異常に多く、彼らが虐殺した数もそれに比例して多いことがわかりました。それはトップに立つスターリンという恐るべき独裁者の異常な感覚の影響であり、残念ながらその時の恐怖や恨みは現在にまで残っているようです。トップの人間が人の命を軽んじれば国民もまたそうなる可能性が高いということです。(チェチェン紛争など)今やスターリンの虐殺や死なせた兵士の数がヒトラーをも上回ることは常識となりつつあります。
 この戦争の歴史を追ってみると、戦争の勝敗は指揮官の判断力よりも、愚かさの競い合いで決まるものとも思えてきます。思えば、戦争を始める時点で愚かさの極みだったといえるので、当然といえば当然なのですが・・・。

<被害者たちの失われた物語>
 第二次世界大戦を俯瞰してみると、この戦争における最大の被害者は、戦争を行っていた兵士たちよりも、戦闘の現場に暮らしていた様々な人種の人々だったことがわかります。ロシアとヨーロッパの間に住んでいたウクライナ人、バルト3国の人々などその後ソ連の支配下となった地域の住人たち、ヨーロッパ各地に住んでいたユダヤ人たち、チェチェン人、クルド人などイスラム系の住人、日本と中国の間に住む朝鮮人、ヨーロッパと日本の間で争奪戦が行われた東南アジアの住民、アメリカ軍の攻撃の際、盾にされた沖縄の人々、日本軍撤退の際取り残された満州の開拓民・・・・
 ただし、統計的数字でみる俯瞰的な見方は、あくまでもひとつの見方にすぎません。第2次世界大戦により命を失った人は、6000万人から7000万人ともいわれますが、その一人一人に両親がいて、故郷があって、思い出があったはずです。そんなそれぞれの思いでもまた、歴史の記録・記憶として残されなければ、歴史の研究は統計学の一部にすぎなくなるはずです。
<参考資料>
 ここでは、そこまで書くことはできなかったので、参考となる本や映画を紹介しておこうと思います。
 残念ながら、第2次世界大戦を描いた映画や小説の多くはナチス・ドイツや日本軍を絶対悪として描いた勧善懲悪ヒーローものです。それでも20世紀も終わり頃になると、客観的に戦争を見つめ直す作品も登場するようになりました。ここでは、その意味で史実に忠実に近いものを選んでみました。
 是非、参考に見てみて下さい。

<ヨーロッパから世界へ>
 1941年、ヨーロッパで始まった戦争は、日本軍が真珠湾を先制攻撃したことで、いよいよ「世界大戦」へと発展することになります。そこでここでは、世界を5つのブロックに分けてみました。
 日本軍がかかわる、中国での日本軍の侵略、太平洋での米軍との戦闘、日本軍による東南アジアでの占領政策
 ドイツ軍がかかわる、ソ連との激闘、フランス占領、ユダヤ人大虐殺の始まり、北アフリカの砂漠での戦車戦
 戦争は、海でも、山でも、砂漠でも、世界中のいたるところで行われることになります。

<主な事件>
<日本関連>
「三光作戦」「ゾルゲ事件」「晥南(カンナン)事変」「真珠湾攻撃」「バターン死の行進」「ミッドウェイ海戦」「ガダルカナル島玉砕」「山本五十六の死」・・・
<ドイツ関連>
「日ソ不可侵条約」「レニングラード戦線」「ブラウ(青)作戦」「スターリングラードの戦い」「クルスクの戦い」「ユダヤ人大虐殺」「ランハルト・ハイドリヒ暗殺作戦」「ヴィシー政権下のフランス」
「ワルシャワ蜂起」「ベルリン空爆開始」「シシリア島上陸作戦」「カティンの森」「エルアラメインの戦い」「ダルラン提督暗殺事件」「カサブランカ会談」・・・
 
中国・台湾
<1941年>
<8月>
「三光作戦」
 日本軍北支那方面軍司令官、岡村寧次大将が中国共産ゲリラ掃討のため「三光作戦」を開始。殺光(殺し尽くし)、焼光(焼き尽くし)、搶光(奪い尽くす)ことにより、中国の華北地方の人口が4400万人から2500万に人に激減することになった。

<10月>
「ゾルゲ事件」
 ドイツ人の共産主義者リヒャルト・ゾルゲが日本でスパイ容疑で逮捕される。
<参考>
映画「スパイ・ゾルゲ」(監)(脚)(原)篠田正浩(出)イアン・グレン、本木雅弘、椎名桔平、上川隆也

<11月>
「晥南(カンナン)事変」
 中国共産党指揮下の「新四軍」が毛沢東の指示によるコースを進み「国民党軍」と衝突し戦闘状態となる。(後に毛沢東はあえて衝突するコースを指示したことが明らかになりました)この結果、中国国内の右派(国民党)と左派(共産党)による内戦が本格的に始まり、現在の台湾と中国の対立の構図が生まれました。
 この時期、中国に投入されていた日本兵の数は68万人。
<12月>
「上海占領」
 日本軍が上海を占領。(名目上は汪兆銘の南京政府の統治下ではあったが、実質的には日本の領土となった)
<参考>
映画「太陽の帝国」(1987年)(監)(製)スティーブン・スピルバーグ(原)J・G・バラード(脚)トム・ストッパード(撮)アレン・ダビウォー
   (出)クリスチャン・ベイル、ジョン・マルコビッチ、ミランダ・リチャードソン、ベン・スティラー、伊武雅刀、ガッツ石松、山田隆夫
<1942年>
<2月>
「反日華僑の虐殺」
 2月17日、日本の憲兵隊がペナン、マラッカ、シンガポールの中国人コミュニティーで検問を行い、敵性華僑を選別・逮捕。6000人弱がその後銃殺刑に処される。
<1943年>
「英米との不平等条約放棄」
 英米は「阿片戦争」、「義和団事件」後に結んだ中国との不平等条約をすべて放棄。日中戦争における中国の戦闘意欲を上げるための方策の一つだった。
太平洋・アジア
<1941年>
<12月>
「真珠湾攻撃」
 12月8日、日本軍によるハワイ米軍基地への奇襲攻撃が成功。
 米軍は188機の航空機、戦艦3隻を失い、2335人の兵士が死亡。それに対し、日本軍は29機のゼロ戦を失っただけでした。ただしこの作戦において、たまたま港から出払っていた空母を逃してしまったことが、その後の戦況に大きな影響を与えることになります。
 日本軍の奇襲攻撃はハワイだけが目標ではありませんでした。
(1)シンガポール(英国軍基地)の確保とマレー半島侵攻作戦(山下奉文中将の第25軍)マレー半島沖で英国海軍のプリンス・オブ・ウェールズが撃沈されます。
(2)フィリピン上陸作戦(第14軍)マニラで米軍は18機のB-17爆撃機と53機の戦闘機を失いました。
(3)オランダ領東インドの占領(第16軍)
(4)タイ・ビルマ南部侵攻(第15軍)12月23日ビルマ攻略作戦開始。当初はビルマ南部を占領し中国国民党への物資輸送ルートを断ち切るのが目的だった。しかし、あまりに簡単に作戦が成功したため、さらなる侵攻を行い、それが日本軍の輸送ルートを長く伸ばす結果となってゆきます。
<参考>
映画「トラ・トラ・トラ」(1970年)(監)リチャード・フライシャー、舛田利雄、深作欣二(出)マーチン・バルサム、ジェイソン・ロバーツ、山村聡、田村高廣
(黒澤が監督を降りた幻の作品だが、戦闘シーンの迫力は素晴らしい!CG多用の最近の戦争映画以上の迫力があるなかなかの作品です)
<1942年>
<4月>
「バターン死の行進」
 4月9日、米比連合軍が日本軍に降伏し、日本軍がフィリピンを占領。7万6千人の捕虜のうち、歩ける7万人がバターン半島を炎天下の中、100キロの徒歩移動をさせられ、7000人が命を落とした。
<参考>
映画「戦場のメリークリスマス」(監)(脚)大島渚(原)ローレンス・ヴァンデル・ポスト(出)ビートたけし、坂本龍一、デヴィッド・ボウィ
(「バターン死の行進」で生き延びた連合軍兵士たちの捕虜収容所での物語)

<6月>
「ミッドウェイ海戦」
 6月3日、アメリカ軍は日本軍の暗号を解読しており、日本軍の動きを察知していた。日本は空母4隻、巡洋艦1隻を沈められ(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)航空機250機を失う。それに対し米軍は空母を1機失っただけですんだ。この戦闘を機に太平洋戦争の形勢は逆転することになりました。
<参考>
映画「ミッドウェイ」(1976年)(監)ジャック・スマイト(出)チャールトン・ヘストン、三船敏郎、ヘンリー・フォンダ、クリフ・ロバートソン
(超大作だったが、アクションもストーリーもぱっとしない駄作)

<8月>
「インド国民会議派逮捕」
 8月8日、マハトマ・ガンディーを指導者として国民会議派がイギリス政府へ、インドからの撤退と独立承認を要求。それに対しイギリスは国民会議派メンバーを逮捕。インド国内で暴動が起き1000人が殺され10万人が投獄されました。
<12月>
「ガダルカナル島玉砕」
 2か月に及ぶ激戦の後、ガダルカナル島を米軍が占領。米軍によって、周辺海域を封鎖された日本軍は島内に孤立。食料不足により、戦わずして1万5千人が餓死した。ガダルカナル島での勝利により、米軍は太平洋における戦闘で完全に優位に立つことになりました。
<1943年>
<4月>
「山本五十六死す」
 4月18日、無線の傍受により山本五十六連合艦隊司令長官がラバウルからブーゲンヴィル島に移動することを知ったアメリカ軍は、P-38ライトニング18機により、9機のゼロ戦と2機の一式陸上攻撃機を攻撃。撃墜された機には山本長官が乗っていて死亡。
<12月>
「ブーゲンヴィル島玉砕」
 米軍がブーゲンヴィル島に上陸。百武晴吉中将率いる第17軍は、玉砕覚悟の反攻を行う。三日間の戦闘で日本側は5000人が死亡。米軍も1000人の死者を出した。まさかそこまでの大きな被害を受けるとは思っていなかった米軍は、思わぬ日本軍の反撃に衝撃を受け、この後の対日戦略に影響を与えることになります。
東部戦線(ソ連)
<1939年>
<5月~8月>
「ノモンハン事件」(ノモンハン戦争)
 満州国とモンゴル人民共和国との国境紛争。しかし、実質的にはソ連と日本による国境紛争であり「ノモンハン戦争」だった。結果的に日本はこの戦闘でソ連に敗れ、その後、日本の矛先は北ではなく南(中国、東南アジア)へと向かうことになる契機となりました。
<参考>
小説「ねじまき鳥クロニクル」(1994年)(著)村上春樹
<1941年>
<6月>
「バルバロッサ作戦」
 ドイツ軍のソ連侵攻作戦「バルバロッサ作戦」の主な目的は、石油と食料の確保にありました。特にソ連の穀倉地帯であるウクライナ地域を支配下に置くことは、ソ連国内を飢餓に追い込むことになり、3000万を飢餓に追い込めると考えられていました。そのためこの作戦は、ドイツ食糧省のヘルベルト・バッケ次官により「飢餓作戦」とも名づけられました。
 しかし、ドイツがソ連侵攻を計画しているという情報をスターリンは信用しませんでした。彼はバルト三国こそがドイツ軍の目標であると考えていたようです。
 6月22日、ドイツ軍によるソ連への侵攻作戦が始まります。それは完璧な奇襲攻撃で、ソ連軍は1800の航空機の大半が離陸できないまま破壊されることになりました。

 そこにはまた、ある種の安堵の空気も見て取れた。相手が卑怯なふるまいに出てくれたおかげで、ソ連邦はナチ・ドイツとの不自然な同盟関係から自らを解き放つことができたのだ。

「コミッサール指令」
 6月6日、ドイツ軍は捕虜の扱いに関する国際条約である「ジュネーブ条約」を無視し、ソ連の共産党員やユダヤ人などをパルチザンとみなして裁判なしで殺害し始めます。その後は、占領した土地のポーランド人やウクライナ人なども捕虜とせずに殺害して行きます。当然、この行為は相手方にも同じように残虐な行為をさせる原因となり、ソ連軍もまた同じようにドイツ兵を捕虜にせず虐殺するようになります。

 ソ連は重戦車KVや中戦車T-34を投入し、ドイツの戦車を上回る性能を発揮します。しかし、それを操縦する兵士は未熟過ぎました。戦車は1万4000台あったものの、乗員が3800人ほどしかそろわなかったといいます。ただし、フランス軍と違いロシア兵は徹底抗戦を続けました。ソ連軍はドイツ軍の10倍の犠牲を払いながら戦闘を続けます。そのため、ドイツ軍は撤退するソ連軍を追いながら2500キロの長い距離を進みます。ところがソ連はあまりにも広すぎました。ドイツ軍にとって、この戦争の終わりはまったく見えませんでした。
 ヒトラーは、そのままモスクワに侵攻することは後回しにし、先に「北方軍集団」がレニングラードを、「南方軍集団」がキエフを占領するよう作戦を変更します。
 7月16日、キエフをドイツ軍が占領します。
 9月6日、ヒトラーは「総統指令第35号」により、モスクワへの侵攻を許可します。こうしてモスクワ侵攻作戦「タイフーン作戦」の準備が始まります。しかし、この間もレニングラード攻略を担当するフォン・レーブ元帥率いる「北方軍集団」は苦戦を続けていました。ソ連軍は武器も持たない13万5000人の市民を民兵として働かせ人間の盾とし、そのために7万人が犬死することになりました。
 9月7日、ドイツ軍により包囲されたレニングラードには、50万人の兵士と250万人の民間人が閉じ込められました。ドイツ軍は当初からレニングラードを占領する気はなく、飢餓による全滅を目指し、その後街を完全に破壊してフィンランドに譲渡する計画だったと言われています。

「差別による虐殺の始まり」
 ドイツ軍は進軍しながら、NKVD(内務人民委員部)による大量虐殺の現場を目撃。さらに原始的な集団農場や生活の後を見て、「ユダヤ・ボリシェヴィキは文明人以下である」と思うようになります。報道もそうした差別意識を煽ることで、ソ連軍の兵士や民間人を人間以下と見なす風潮を作り上げて行きました。
 ウクライナの人々は、当初ドイツ軍の侵攻はそうしたソ連共産軍からの解放のチャンスかもしれないと考えていたようです。ところがドイツ軍はウクライナの男性を兵士として徴用しただけでなく、ソ連共産軍を上回る残虐さで民間人を苦しめることになります。
 ドイツ軍は10月までにソ連兵300万人を捕虜としますが、食糧も水もろくに与えず、屋根もない場所に押し込むことで、多くが餓死または病死し、1941年だけでも200万人をこえる兵士が死亡したと言われます。そのため、ウクライナ人をはじめ様々な人種、国籍の人々が反ナチの組織「パルチザン」として活動するようになり、その数は1941年末には2万人に達します。ドイツ軍より、見せしめのために村人全員の殺戮などが行われても、逆にそれがパルチザンの数を増やすことになりました。
 ユダヤ人への虐殺はドイツ兵だけではなく、反ユダヤのリトアニア人やウクライナ人によっても行われ、前線の兵士たちが去った後で、彼らはユダヤ人からの略奪や虐殺を行っていました。
<ユダヤ人虐殺>
 ソ連のユダヤ人の多くは固まって集団生活を営んでいたため、ナチスの虐殺作業は簡単だったようです。おまけに多くのユダヤ人はヒトラーがユダヤ人を憎み、抹殺しようとしていることを知りませんでした。そのため彼らはドイツ軍から疎開のために集合するように指示されると素直に集まり、虐殺現場までまとめて運ばれることになりました。
 1942年末までにソ連で殺されたユダヤ人は135万人をこえています。生き残ったのは150万人でほぼ半分が殺されたことになりました。

<9月>
「モスクワ侵攻作戦」
 7月21日、ドイツ空軍によるモスクワへの空爆が開始されます。
 9月30日、モスクワ侵攻作戦(タイフーン作戦)開始。第2装甲軍がモスクワの南に位置する都市オリョールに向けて侵攻。
 10月2日、第3装甲集団、第4装甲集団がモスクワへの侵攻開始。
 この頃、日本でスパイ活動を行っていたリヒャルト・ゾルゲから日本軍の南進とアメリカと戦争計画情報が送られてきます。スターリンは、これで日本軍のロシア侵攻の可能性はなくなったと考え、東方の軍隊から多くの部隊をモスクワへと移動させます。
 10月に入り、モスクワ周辺ではみぞれ交じりの雪が降り、それが泥濘となってドイツ兵たちの動きを遅らせるようになります。
 11月6日、ドイツ軍の侵攻に脅え混乱するモスクワ市民や兵を安心させるため、スターリンが自らがモスクワに残り、ドイツ軍を全滅させる指揮をとると宣言。この宣言により、モスクワは街全体が戦闘態勢に入ることになります。

<12月>
「レニングラード攻防戦」
 スターリンは、レニングラードの街をモスクワを見下すインテリゲンチャの街と見なしていて、そこに住む市民を守る気がなかったと言われます。幸いドイツ軍の主力部隊がモスクワに向かったことで、レニングラードへの攻撃がやみますが、街の包囲は続きます。そのため、市民は飢餓と寒さにより、死の淵に追いやられます。12月に入り、街に隣接するラトガ湖が凍ると、そこを食料を積んだトラックが通れるようになり、やっと全滅の危機から脱することができました。

「ソ連軍の逆襲開始」
 12月5日、ジューコフ将軍率いるソ連軍が逆襲を開始します。新型T-34の投入、雪に強いコサック兵たちが馬で歩兵を攻撃、スキー兵の活躍、空軍の制空権奪取、増員により兵力アップ、さらにドイツ軍の兵器が寒さに弱く、寒冷地用資料の不足していたことなど、様々な要因でドイツ軍は劣勢に立ち始めます。
 ドイツ兵の多くが恐れたいた通り、ナポレオンの時代と同様、冬のロシアで戦闘で勝ち目はなかったことが明らかとなり、ドイツ軍は撤退を余儀なくされることになります。<6月>
 ドイツが「対ソ侵攻作戦」開始。これにより、第2次世界大戦における「英米ソ」対「独日伊」の構図が定まりました。
<12月>
「モスクワの戦い」
 ドイツの猛攻に防戦一方だったソ連軍が冬の戦闘に入り形勢を逆転。「モスクワの戦い」で首都モスクワを守り切ると、その後、冬季間に体制を立て直し、逆襲に転じることになります。

<12月~1942年>
「レニングラード戦線」
 ドイツ軍に包囲されたレニングラードの市民228万人のうち春までに街から逃げられたのは51万4千人で、62万人が死亡した。食料も医薬品も燃料も不足した街では冬をこえることは困難だった。包囲されていた期間中、レニングラードでは人肉を食べたとして2000人が逮捕され、子供を誘拐して食用にしたという事件も多かった。
「クルスク戦線」
「私は身の毛もよだつような光景を目にした。地平線まで続く広大な空間に、わが方の戦車とドイツ軍の戦車がひしめき合っていた。戦車のあいだには、数千人のロシア兵とドイツ兵がいて、立ったり坐ったり横たわったりしている。みな完全に凍りついていた。互いに身を寄せ合ったり、抱き合ったり。小銃をつっかえ棒にして立っているものもいれば、軽機関銃を握りしめたままのものもいた。多くのものが脚を途中で断ち切られていた。うちの歩兵たちがやったのだ。ドイツ野郎の凍結した脚からブーツを脱がせることができず、壕内でじっくり温めるために、折って中身ごと持ち去ったのだ。・・・」
レオニード・ラビチェフ(ソ連軍将校)
 ドイツ軍はかつてのナポレオン軍のように冬将軍の到来とともにソ連兵の前に敗北を喫することになります。しかし、ソ連軍も4月までに100万人の兵士を失うことになります。
<1942年>
「ブラウ(青)作戦」
<6月~>
ドイツが計画した「ブラウ作戦」とは、
(1)ロシア南西部の港湾都市、ヴォロネジの確保
(2)「第6軍」によりソ連軍を包囲し、スターリングラードまで到達。(街の確保までは必要なし)
(3)「第4装甲師団」「A軍兵団」がカフカス地方を攻略。(石油資源確保は目的)
 ところが、ヒトラーはこの3段階を同時に進行させ、スターリングラードの攻略まで指示することになります。
 1942年6月28日に作戦がスタート。それまでにドイツ軍は準備を着々と進めていました。それに対して、ティモシェンコ率いるソ連軍は何も知らずにドイツに攻撃を仕掛けます。ソ連軍の第6軍と第57軍は深く進攻し過ぎたために増援を得ることができずにドイツ軍に逆に包囲されてしまいます。戦意を失ったソ連軍はドイツ軍に降伏。24万人の兵士が捕虜となり、2000の野砲と大量の戦車がドイツ軍の手に渡ることになってしまいます。
 8月にはドイツ空軍がスターリングラードの空爆を開始。当時、街には周辺からの避難民も流入していて人口は60万人に達していて、そのうち空爆開始後2日間で4万人が死亡した。
 この大勝利はドイツにとって最高の結果でしたが、ヒトラーはこの結果に自信を深めることになり、その後の「スターリングラードの戦い」ではその過信によって大きなミスをすることになります。
「これはもはや戦争の域を超え、二つの世界観の潰し合いなのだとしか、ぼくには言えません」
(ドイツのオートバイ偵察兵)
<8月>
「シニャーヴィノ攻勢開始」
 8月19日、レニングラードに増援された部隊により。ドイツの再攻勢(オーロラ作戦)を前に包囲されていたソ連軍が攻撃に出ます。ドイツの攻勢を防ぐことには成功したものの、ソ連軍は4万人の戦死者を出すことになりました。
「ロシア解放軍設立」
 ドイツが反共軍事組織ROA(ロシア解放軍)を設立。メンバーはドイツ軍によって捕虜になったソ連兵が中心。その指揮官は、モスクワの戦いで活躍したソ連軍のヴラソフ将軍。
 戦争中、ドイツは、100万人近いソ連人を補充兵(ヒヴィ)として採用します。その多くは反共主義者ではなく、捕虜になったことで、処刑・餓死よりはましと嫌々ながらの志願だった。(350万人のソ連軍捕虜のうち60%は飢餓や病気で死亡しています)
 人種的なうちわけとしては、警官や看守が多かったウクライナ人(10万人)、ラトヴィア人、エストニア人、ボスニアのイスラム系住民などが参加していた。
 その後、反共の正規軍「ロシア解放軍」は10万人規模に拡大します。

「スターリングラードの戦い」
 8月25日、スターリングラードで戒厳令発令。ドイツの攻勢にそなえて本格的な戦争の準備が始まりました。ドイツはそれに対して指令を発します。

「総統閣下はかく命じられた。入城の折は、市内のすべての男性を除去すべし。筋金入りの共産主義者は100万をようするスターリングラードは、特段に危険な場所だからなり」

 ソ連、ドイツ両国の最高指導者のいずれもが、退くに退けないプライドの問題と捉えていたということです。

 「第三帝国」はすでにその最大版図に達してしまった。いまやドイツ軍は東はヴォルガ川、西はフランスの大西洋岸、北はノルウェー最北端のノール岬、南はサハラ砂漠まで展開していた。だが、ヒトラー自身の関心は、もっぱらスターリングラードの確保にのみむいており、しかもそれは都市名に”スターリン”がついているという、ただそれだけの理由からだった。

 スターリングラードでの攻防は、死闘であり、激闘であり、究極の消耗戦でもありました。それはこの戦争における膨大な死者の数からもわかります。それは20世紀の戦争とは思えない肉弾戦の連続だったといえます。

 「スターリングラードの戦い」には戦略面にすぐれた天才は必要なかった。農民の狡猾さと、人命を決然と消費できる非情さだけが必要だったのだ。

「ドイツの反攻」
 9月13日、ドイツは最初の大規模な攻撃を開始します。爆撃機シュトゥーカが上空から攻撃。その後、歩兵部隊が侵攻を開始。ソ連兵の多くがドイツ軍の勢いに押されて逃亡を企て、そのために1万3000人が逮捕・処刑されたといいます。
 当時、ソ連軍とはいっても半分はロシア人ではなく3分の1はウクライナ、カザフ、白ロシア、タタール、ウズベク、アゼルバイジャン、ユダヤ人などの民族からなる寄せ集め部隊でした。子供時代からファシズムの教育を受け、ナチス・ドイツのために命を落とすことを恐れないドイツ軍兵士とはモチベーションが違うのは当然でした。
 ただし、瓦礫と化した街はドイツ軍得意の機動力を生かすことができず、人海戦術で戦うソ連軍に有利な戦場でした。そして、そんな場所だからこそ脚光を浴びたのは、スナイパーの活躍です。
 ヴァシリー・ザイツェフは、この戦闘で最も有名な「狙撃手」としてサッカーのスター選手のようにアイドル的人気を誇ったといいます。各スナイパーは、ノルマの達成により英雄となることを目指していました。(ソ連には女性用の射撃学校を創設しています)
 11月9日、ヒトラーは物資輸送用の馬15万頭を後方へと移動させます。大量の飼料を送る手間を減らすと同時に、すべての隊が撤退できないようにしたと思われます。彼の頭の中には、負けるという発想はなく、常に勝つための作戦しか頭に浮かんでいませんでした。スターリングラードに関しても、ヒトラーはソ連軍はもう崩壊が近いと考えていたようですが、実は戦車やロケット砲の追加配備を着々と進めていました。逆にドイツ軍の方が弱体化が進んでいて、側面支援を担当していたルーマニア軍はまったく統率がとれない状態になっていたようです。
<参考>
映画「スターリングラード」(2000年)(監)(脚)ジャン=ジャック・アノー(原)ウィリアム・クレイグ(出)ジュード・ロウ、ジョセフ・ファインズ、レイチェル・ワイズ
(ヴァシリー・ザイツェフの伝記を中心にしたスターリングラードの戦いをリアルに描いた傑作)
映画「スターリングラード」(1993年)(監)(脚)(撮)ヨゼフ・フィルスマイヤー(出)トーマス・クレッチマン、ドミニク・ホルヴィッツ
(スターリングラードの攻防を描いたドイツの大作映画。悲惨な戦場をリアルに描いた名作らしいです。残念ながら未見です)

「火星作戦」と「天王星作戦」
 11月初め、ソ連軍はスターリングラード周辺のドイツ軍を逆に包囲する「天王星作戦」とルジェフ付近で陽動のための攻撃を行う「火星作戦」を計画。
 「火星作戦」の情報は、ドイツから送り込まれたスパイ「マックス」によって、ドイツに流出しました。しかし、これは暗号名「マックス」ことデミャーノフは逆スパイで「火星作戦」の情報はわざとドイツに漏らされていたのです。ただし、この情報漏えいは「火星作戦」の指揮官ジューコフ元帥に知らされていなかったため、ソ連軍は死者7万人という大きな被害を受けました。
 11月19日、「天王星作戦」が始まります。
 29万のドイツ軍がソ連軍によって包囲され、冬を前にかつてのナポレオン軍と同じ状況になりつつありました。ヒトラーは撤退を認めず、どちらにとってもこの戦闘こそ、この戦争の勝敗を決めるものと全滅覚悟の戦いを続け、年を越えました。
<1943年>
<1月>
「スターリングラードの戦い終結」
 ヒトラーの玉砕命令を無視して、1月31日ドイツ第6軍のパクルス元帥が降伏。もうひとつ第11軍のシュトレッカー将軍も2月2日、ついに降伏。長く悲惨な「スターリングラードの戦い」が終わりました。この戦闘でソ連軍、ドイツ軍ともにほぼ同数の50万人が死んだといわれています。ソ連の勝利とはいっても、被害の大きさは同じだったのです。
 この戦いでソ連軍はドイツ兵9万人を捕虜としますが、ほとんど食料、医療を与えなかったため、春までには半分が死んでいます。

「イスクラ(花火)作戦」
 1943年1月12日、レニングラードを開放するための「イスクラ作戦」が発動されます。スターリンが派遣したジューコフ将軍は本土側から「第2打撃軍」、レニングラード側から「第67軍」を進行させます。二つの軍は3万4千人の犠牲を出した後に合流に成功し、レニングラードの封鎖を破ることに成功しました。

<7月>
「クルスクの戦い」
 4月15日、ヒトラーはロシア南西部クルスクへの攻撃命令(「ツィタデレ作戦」)を発します。ドイツにとっては、東部戦線において実質的に最後の大勝負といもいえる作戦でした。しかし、ソ連は国を挙げて兵器の増産を実施。ドイツを上回る戦車を準備していました。さらにソ連軍は兵士の数も大幅に増員しており、ドイツの78万人に対し190万人に達していました。
 ドイツ軍はティーガー重戦車を槍として用い一気に敵陣に侵入する作戦でした。
 7月4日、ドイツ軍が「ツィタデレ作戦」開始。ソ連側は、それに対し対戦車砲をうまく隠して待ち伏せしていましたが、砲弾は跳ね返されます。その後はキャタピラーを攻撃することで戦車の動きを止める作戦に出ます。こうして「史上最大の戦車戦」が始まりました。
 7月10日に連合軍がシチリア島に上陸したため、7月13日、ヒトラーは作戦を中止し、軍をイタリアに回すよう指示します。この戦闘でドイツ軍は敗走し5万人を失いますが、勝ったソ連軍はクルスクで17万7000人、その後、「ベルゴロド=ハリコフ攻勢」で25万、オリョールで43万人を失いました。戦車もソ連軍はドイツ軍の5倍を失っています。ソ連軍の勝利は、物量と膨大な人的損失の上に成り立つものでした。
ヨーロッパ(西部戦線・イタリア・東欧など)
<1933年>
「強制収容所の創設」
 ヒトラーの政権奪取後、ナチスの強制収容所が創設。当時は政敵を入れるための存在で、ダッハウ収容所ではSS警備部隊のヒムラーが担当した。髑髏のマークだったことから髑髏部隊と呼ばれるようになった。
<1941年>

<8月>
「ユダヤ人虐殺指令」
 ヒトラーが親衛隊指導者のヒムラーに「ユダヤ人の物理的絶滅」の推進を指示。
「ユダヤ人にむけて、この世の終末と最後の審判を思わせる悪口雑言、非難の言葉を口にしながら、ヒトラーは大量殺戮の細部については驚くほど聞きたがらなかった。・・・」
アントニー・ビーヴァー
 1942年の末までに西欧、中欧、ソ連出身の400万人近いユダヤ人が4万人のロマと共に絶滅収容所で処理されます。オズヴァルド・ポールSS大将は、強制収容所のトップに立ち、強制労働のためのキャンプだった収容所を改変し、営利組織に発展させ、作業のシステムを構築。最後には、効率良く人間の処理をする工場となります。
「アウシュヴィッツへの道は憎悪でつくられ、無視によって舗装された」
イアン・カーショー(イギリスのて歴史家)
<9月>
「毒ガスによる虐殺開始」
 アウシュビッツ収容所で「ツィクロンB」という毒ガスを使用した大量殺戮のための実験が行われた。本格的なガス室が設置されたのは、ベウジェッツ絶滅収容所で11月に着工された。
 ヒトラーは執務室の壁に彼と同じ反ユダヤ主義者だったヘンリー・フォードの肖像画を掲げていて、1938年にはフォードに「大十字ドイツ鷲勲章」を授与しています。ユダヤ人の絶滅収容所の作業手順は、フォード自動車工場の作業工程が参考になっているという説もある。
<10月>
「ユーゴのカリスマ指導者チトー登場」
 セルビアで共産系パルチザンがドイツ兵21人を殺害。それに対する報復として、ドイツ軍はユダヤ人とジプシーを2100人射殺。(ドイツ兵一人に対し100倍)この時、パルチザンのリーダーとして闘っていたのがヨシップ・ブロズは、後にその綽名「チトー」の名で世界中に知られることになります。
 スペイン内戦でも活躍し、ユーゴスラヴィア共産党を立て直したチトーは、様々な人種、宗教が混在するユーゴスラヴィアをそのカリスマ的魅力により統一することになります。ドイツ軍はその後もユダヤ人を虐殺し、1万5千人以上が命を落とした結果、セルビアにはほとんどユダヤ人とジプシーがいなくなります。
<11月>
「ゴルゴポタモス鉄橋爆破作戦」
 11月25日、イギリスのSOE2名がパラシュートでギリシャに潜入。北アフリカのドイツ軍に物資を運んでいた鉄道を破壊するため、ギリシャのレジスタンスと襲撃部隊を組織。ゴルゴポタモスの巨大鉄橋の爆破作戦を実行しました。大量のプラスチック爆弾によって破壊された鉄道は4か月間運航不能となりました。
<12月>
「ドイツの対米宣戦布告」
 12月11日、ドイツの外相リッベンドロップがアメリカの在独大使に宣戦布告。
「偉大な国家は宣戦布告されることはない。みずから宣戦布告するものである」(ヒトラーの言葉の引用らしい)
 当初、アメリカはイギリス、フランス、オランダが植民地を復活させるための戦争には協力する気はないとしていた。
 しかし、「真珠湾攻撃」と「ドイツの対米宣戦布告」により、アメリカはそれまでの孤立主義を完全に捨て、国民・議会が挙国一致による戦闘態勢に入ることになります。
 日本も、ドイツも、本気になったアメリカがどれだけ強力な敵になるのかを予測できていなかった。
<1942年>
<5月>
「毒ガス虐殺車ユーゴへ」
 荷台に排気ガスを引き込み一酸化炭素中毒によって収容者を殺処分する車がユーゴスラヴィアのベオグラードに到着。これにより7500人のユダヤ人が走行中に殺害され、そのまま共同墓地に埋められた。
 5月29日、治安警察の指揮官はベルリンにこう報告したといいます。
「ベオグラードはヨーロッパで唯一、ユダヤ人ゼロの偉大な都市になりました」

「ランハルト・ハイドリヒ暗殺作戦」
 5月27日、コードネーム「エンスラポイド作戦」の名前でドイツからチェコで統治を行っていた親衛隊幹部ラインハルト・ハイドリヒの暗殺計画が実行された。作戦のためにチェコ人の若者二人がイギリスでSOEの訓練を受けた後、パラシュートでチェコに戻り、機関銃と手製爆弾により目標の乗る車列を攻撃し暗殺に成功。
 しかし、犯人だけでなく彼らに協力したとされた2つの村もドイツ軍により男性全員が処刑された。
<参考>
映画「暁の七人」(1975年)(監)ルイス・ギルバート(原)アラン・バージェス(撮)アンリ・ドカエ(出)ティモシー・ボトムズ
(上記事件を史実にのっとって描いた悲劇の戦争青春映画)

<7月>
「ユダヤ人による人体実験」
 ダッハウ収容所でヨーゼフ・メンゲレ医師らが行った医学実験では、1万2千人のユダヤ人が命を落としています。そこでは、病原菌の注射や気圧や極寒など異常な環境下での人体の反応などを実験。死体は、皮膚をはがされ、それは鞍、ズボン、ハンドバッグなどに再利用され、脂分は石鹸に用いられた。
「私が正午の休息をとったベレザ=カルトゥスカ強制収容所では、1300人のユダヤ人が昨日射殺された。かれらは町の郊外にある谷間に連れていかれた。男も女も子供たちも、真っ裸になるよう強制され、ひとり一発づつ、後頭部に銃弾を撃ち込まれた。かれらの衣服は再利用するため消毒された。戦争がこの先も長く続いたら、きっとユダヤ人たちはソーセージに加工され、ロシア人の捕虜や特権ユダヤ人労働者のための食料用に供されると、私は確信している」
ドイツ軍の経理部将校

「ユダヤ人虐殺工場稼働」
 「トレブリンカ第二収容所」が本格稼働開始。管理スタッフはSSが25人、ウクライナ人の補助が100人という編成で、1943年8月までの間(13か月間)にユダヤ人、ジプシーを約80万人虐殺。そこは効率よくユダヤ人の命を奪うための向上でした。
 収容者を安心させるために、到着したユダヤ人たちは楽団の音楽で迎えられました。そこには切符売り場や食堂もあり、人々は当初安心して収容所に入った。しかし、その後服を脱がせ、髪を切り、ガス室へと追い込まれることになります。そこで20分から25分で死に至ることになりました。その後、死体からは金歯が抜かれ、ユダヤ人の作業班が死体を運んで穴に埋める。この作業が続きました。最後の残されたユダヤ人たちも、1943年8月2日一斉蜂起し750人が脱走を図ります。しかし、ほとんどがつかまり処刑されます。生き残ったのは70人ほどでした。
 アウシュヴィッツでも100万人が処理されていますが、それは33か月がかりの数字でした。(トータルでは、300万人近いユダヤ人が殺されることになりました)

「ヴィシー政権のユダヤ人迫害」
 7月16日、ドイツをフランス占領後、フランス人のファシスト政治家に自治を行わせました。フランスには、ドイツと組むことでフランスは植民地大国として復活できる、と考える政治家も多かったようです。ジャック・ドリオの「PPF(フランス人民党)」、マルセル・デアの「RNP(国民人民連合)」、ウジェーヌ・ドロンクルの「MSR(社会革命運動)」などはナチ党に自ら接近しています。こうして誕生したヴィシー政権の下でフランス警察トップに任命された官僚のルネ・ブスケは9000人のパリ警察を使いパリ在住のユダヤ人の身柄を拘束。その後、拘束されたユダヤ人たちは東方の収容所に送られて行くことになります。
 後にフランスの大統領となるミッテランはヴィシー政権時代に働いていた経験があったため、ドゴールは彼を嫌っていたし、この年12月に暗殺されるダルランはヴィシー政権の首相を務めた人物でした。

<8月>
「ジュビリー作戦」
 8月19日、ルイス・マウントバッテン卿指揮による英米加連合軍がフランス北岸のディエップに上陸作戦を敢行。カナダ兵が中心の6000人が参加するが、洋上での移動中ドイツの輸送船団に遭遇してしまい作戦がばれてしまいます。それでも上陸には成功したものの、海岸線で撃退され4000人以上の犠牲者を出す大失敗となった。この失敗により、1944年のノルマンディー上陸作戦までフランスへの上陸作戦は行われないことになります。
 逆にヒトラーは上陸作戦を簡単に阻止できたことに「大西洋の壁」に自信をもち、戦線を対ソ連に集中することになります。
<10月>
「暗号機エニグマ回収」
 連合軍が地中海で沈んだUボートから暗号機「エニグマ」を回収に成功。2月に新しい4つ目のロータを追加したために解読不能になっていた暗号解読がこの回収で可能になった。(ドイツ軍はエニグマが回収されたとは知らなかった)そのために、連合軍の船団はUボートの通信を解読できるようになり回避することが可能になった。
<参考>
映画イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(2014年)(監)モンテン・ティルドゥム(原)アンドリュー・ホッジェズ(出)エネディクト・カンバーバッジ
(ドイツ軍の暗号を解読した悲劇の天才数学者アラン・チューリングの人生を描いた人間ドラマ)
<1943年>
<1月>
「ワルシャワ蜂起」
 わずか7万人に激減していたポーランド、ワルシャワのユダヤ人たちが、このままでは全員が収容所に送られると覚悟し下水道を通路として使いながら最後の戦い開始。きっかけは6500人のユダヤ人移送を行おうとしたのに対して起きた武力衝突。ワルシャワ市民は以前から数百挺の銃を隠していて、これを使うことで最後の戦闘を開始した。しかし、限られた武器での戦闘には限界があり、ゲリラ戦により抵抗を続けたものの援軍もなく、5月16日についに前面降伏。5万6065人が逮捕されます。ほとんどの逮捕者はその後収容所に送られ、ほとんどがそこで命を落とすことになります。この時の数少ない生き残りの一人が「戦場のピアニスト」として伝記映画化されたシュピルマンです。
<参考>
映画「戦場のピアニスト」(2002年)(監)(製)(脚)ロマン・ポランスキー(原)ウワディスワフ・シュピルマン(出)エイドリアン・ブロディ、トーマス・クレッチマン
(ワルシャワの悲劇がそこで生き残った一人のピアニストの目から描かれた巨匠ロマン・ポランスキーによる傑作)
映画「地下水道」(1957年)(監)アンジェイ・ワイダ(脚)イェジ・ステファン・スタヴィンスキー(出)タデウシュ・ヤンチャル、テレサ・イジェフスカ
(ポーランドの巨匠が描いたナチス・ドイツと戦った市民たちのゲリラ戦を描いた歴史的名作)

「ベルリン空爆作戦開始」
 イギリスはドイツによる空爆によって4万1000人の命を失いました。それに対し、イギリスは都市部への攻撃を本格化させます。しかし、爆撃機の操縦士たちは常に撃墜される恐怖におびえていて、30回の出撃ノルマ前に精神を病む場合が多かった。「フラック・ハッピー」と呼ばれる症状で戦線を去る乗組員が多かったが、当時は単なる「臆病者」としての扱いした受けなかった。
 その後、トランスポンダー(電波信号の応答機)やパスファインダー(照明弾による目標表示)などにより精度は向上。さらに焼夷弾と通常爆弾の併用が爆撃に有効であることがわかると、都市部への攻撃がさらに過激化するようになります。ドイツ空軍も弱体化していて、連合軍は制空権を完全に確保していました。

<4月>
「カティンの森事件」
 1939年にドイツとソ連がポーランドを分割占領した際に捕虜となったポーランド人将校、兵士、警察官らがソ連軍により虐殺され、その死体がソ連国内グニェズドヴォ近郊の「カティンの森」に埋められていることをドイツ軍が暴露。ポーランドの亡命政府は国際赤十字に調査を要求したが、ソ連との関係悪化を嫌う連合国がその事実をうやむやに。ソ連も第三インターナショナル(コミンテルン)の解散を発表するなどして、幕引きを行います。戦争の終結とポーランドの共産化、冷戦の始まりにより、事件の真相は闇に葬られかけます。しかし、ペレストロイカの流れが再び事件の真相を明らかにし、当時ソ連のNKVD(内務人民委員部)が秘密裏に22000人もの捕虜を虐殺していたことが明らかとなりました。ただし、ロシア政府は、この事実を「スターリンという独裁者」による暴走が原因の惨事であり、ソ連には責任はないと現在でも謝罪を拒否し続けています。21世紀に入ってもウクライナでの惨事を思うと、プーチン支配下のロシアは当時のソ連とそう変わっていないように思えます。
<参考>
映画「カティンの森」(2007年)(監)(脚)アンジェ・ワイダ(原)アンジェイ・ムラルチク(撮)パヴェル・エデルマン(出)マヤ・オスタシェフスカ、アルトゥル・ジミイェフスキ
(ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダが、この事件を題材に撮ったライフワークともいえる作品)

<7月>
「シチリア上陸作戦」
 7月10日、「ハスキー作戦」が発動され、連合軍がシチリア島に上陸。夜間にパラシュート降下を行い、2600隻の艦船により地上軍八個師団が上陸。(兵士8万、車両3000台、戦車300、火砲900門)この作戦の規模は、翌年に行われるノルマンディー上陸作戦と同一規模でした。
 シチリアではモントゴメリー将軍率いるイギリス軍とパットン率いるアメリカ軍が、それぞれに侵攻。競争の結果、パットンが首都のパレルモに一番乗りを果たします。この後も、米軍、英国軍の間や将軍たちの間で競争が行われることになります。
<参考>
映画「最前線物語」(監)(脚)サミュエル・フラー(撮)アダム・グリーンバーグ(撮)リー・マーヴィン、マーク・ハミル、ロバート・キャラダイン、ステファーヌ・オードラン
(監督のサミュエル・フラーの実体験をもとに作られた戦争映画。それまでの戦争映画よりもリアルで無様な戦場描写が高い評価を受けた作品)
「ミンスミート作戦」
 イギリス海兵隊の将校に似せた死体にギリシャ、サルディーニャ島への上陸作戦の計画書をもたせて、ドイツと同盟関係にあったスペインの海岸に漂着させました。偽の恋人の写真まで持たせる凝った死体にドイツ軍も騙され、シチリアに駐屯していた部隊の多くをギリシャに移動させました。その隙に「ハスキー作戦」が実行されました。

「ムッソリーニ失脚」
 7月24日、ローマで「ファシスト大評議会」が開催され、反ムッソリーニのディーノ・グランディ伯爵が立憲君主制による民主的議会の復活を求める動議を提出し認められる。翌日、ムッソリーニは逮捕され、クーデターが成功。それに対し、ヒトラーはすぐに軍隊を動かしイタリア北部に侵攻します。

「アラリック作戦」
 ドイツの空挺部隊がローマに入城。16個師団がイタリア軍の武装解除を行った。これにより65万人を捕虜とし、ユダヤ人8000人を収容しました。イタリア国王と新首相パドリオ元帥はさっさと逃亡。それに対し連合軍はイタリア西岸から上陸作戦を開始。空軍による爆撃によりイタリアもまた都市部の多くが瓦礫と化すことになります。
 ローマ北方のアペニン山中のスキーリゾートに囚われていたムッソリーニはドイツの特殊部隊によって救出され、再び「イタリア社会共和国」のトップとしてイタリアの占領を正当化する顔を演じることになります。

<11月>
「テヘラン会議」
 イランの首都テヘランで行われた連合軍の会議に、スターリン、ローズヴェルト、チャーチルが出席。この場で、後に「ノルマンディー上陸作戦」と呼ばれる「オーヴァーロード作戦」の時期が決定されます。
 「オーヴァーロード作戦」が行われた後、東部戦線でソ連が攻撃を開始しドイツを倒す。その後、ソ連は対日宣戦布告を行い、連合軍に合流して日本軍を倒す。という流れを確認しました。この時、まだ決まっていなかった作戦司令官には、ローズヴェルトがドワイト・デヴィッド・アイゼンハワー将軍を指名します。
<1944年>
<2月>
「重水運搬船破壊工作」

 ノルウェーにあったヴェルモク重水工場で製造された「重水」を運搬中のフェリーをノルウェーのレジスタンスが時限爆弾によって破壊。船ごと湖に沈没させました。この「重水」はドイツ軍が進めていた「原子爆弾」開発に必要な物質として運搬される途中でした。結局、ドイツは原子爆弾を開発することはできませんでした。
アフリカ(北アフリカ戦線)
<1942年>
<1月~2月>
「砂漠のキツネ」
 1月から2月、ロンメル将軍率いるドイツの機甲部隊に圧倒され、イギリス軍がリビア北東部から撤退。 ロンメル将軍はその後「砂漠のキツネ」として連合軍からも英雄扱いされる存在となります。ヨーロッパ都市部での市民を巻き込んでの戦闘とは異なり、砂漠を舞台にした北アフリカでの戦闘は、昔風の騎士道精神が残る戦車対戦車の一騎打ちのような戦いだったと言えます。
「こちらの戦いには、ロシア遠征時のようなことばを失うほどの恐怖や悲惨さはありません。破壊され、瓦礫と化すような村や町もありません」
「当地のイギリス兵はあらゆることを、まるでスポーツかゲームのように捉えています。・・・すべては決定的勝利にむけた前段階だと」

 
<7月~10月>
「エルアラメインの戦い」
 ドイツのアフリカ軍団はエジプトを目指して進撃を続けます。イギリス軍はその目的を暗号解読により察知していながら止められませんでした。追い込まれたイギリス軍は、北アフリカでの戦闘を続ける最後の砦として、港湾都市エルアラメインでの戦闘を開始します。そして、イギリス空軍の活躍により、しだいに連合軍が挽回。ドイツ軍は進撃のスピードが速すぎたために補給部隊が追いつけなくなり、その勢いを保つことができなかったともいえます。そのうえ、ドイツ軍は東部戦線に多くの兵士、武器を導入していたため、北アフリカ戦線のドイツ軍は厳しい状況に追い込まれつつありました。
 10月19日、英米空軍がドイツ軍の飛行場を爆撃。北アフリカに上陸するため、オラン、アルジェを占領する作戦を開始します。それまでドイツ軍を指揮していたシュトゥンメ将軍が戦場視察中に心臓発作を起こしたため、急きょ病気療養中だったロンメルが空路アフリカに向かいますが、彼は状況をみて勝機はないと判断。撤退を認めないヒトラーの指示を無視して撤退を始めます。これにより連合軍の北アフリカへの上陸が可能になりました。
<11月>
「トーチ作戦」
 11月8日、英米軍による北アフリカ上陸作戦「トーチ作戦」開始。カサブランカ、オラン、アルジェに連合軍は上陸作戦を開始しますが、上陸地点を間違えるなどのミスが重なったうえ、親ナチスのヴィシー政権下のフランス軍からの攻撃を受けることになります。その後なんとか上陸に成功するものの、多くの犠牲を出したこの作戦は連合軍に多くの教訓を与えることになりました。
<12月>
「ダルラン提督暗殺事件」

 12月24日、連合軍総司令官アイゼンハワーにより北アフリカ担当の高等弁務官に任命されたダルラン提督がイギリスの工作機関SOE(特殊作戦実行部)に指導されたレジスタンスによって暗殺されました。
 ダルランはヴィシー政権のメンバーとしてユダヤ人の収容所送りに協力しており、ロンドンのフランス臨時政府の代表ド・ゴールやレジスタンスのメンバーにとっては許せない存在でした。連合軍はフランス国内と北アフリカでの混乱を収めるために、あえて彼を取り込もうと考えたのでしたが、結局暗殺されることになったのです。もちろん連合軍側は、そのことを知っていたようですが、事実はもみ消されています。
<参考>
映画「カサブランカ」(1942年)(監)マイケル・カーティス(脚)ハワード・コッチほか(出)ハンフリー・ボガード、イングリッド・バーグマン
(ヴィシー政権下のモロッコを舞台にしたサスペンス映画、ヴィシー政権への批判が散りばめられた政治的反ファシスト映画でもある映画史に残る傑作)
<1943年>
<1月>
「カサブランカ会談」
 1943年1月14日、ルーズヴェルト大統領がカサブランカ入りし、チャーチルら連合軍の司令官らと会談。カメラマンたちの前でヴィシー政権に参加していた右派のジロー将軍と共和派のド・ゴールが握手を交わし、フランス統一に向けた流れが発表されました。
<3月>
 北アフリカで苦戦を続けていたロンメルは黄疸が悪化し、ついに戦線を離脱。ドイツに戻ります。その間にドイツ軍は追い込まれて行きますがヒトラーは最後まで戦うことを指示。
 撤退が遅れてしまい、5月2日の戦闘終結時、ドイツ側は25万人もの兵士が捕虜となりました。
<4月>
「麗しの淑女号」消失事件

<参考>
「第二次世界大戦 1939年-45(中) The Second World War」
 2012年
(著)アントニー・ビーヴァー Antony Beevor
(訳)平賀秀明
白水社

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