第二次世界大戦(2)
The Second World War

(1943年~1944年)
<戦闘の激化>
 1944年、各地で展開されていた戦闘は激しさを増します。
 日本軍は中国、東南アジアでは勝利を重ねますが、太平洋では米軍が本気を出し始め、サイパン、フィリピンを奪回し勢いを増してゆきます。
 ドイツ軍は、レニングラードでのソ連との激闘に敗れ、クリミア半島から撤退、イタリアも失いつつあり、ついに連合軍による上陸作戦「ノルマンディー上陸作戦」が始まります。
 しかし、華々しい上陸作戦の成功により、連合軍が一気に勝敗を決するかに見えましたが、そこから「ヒュルトゲンの森」における悲劇など多くの兵士が命を落とす本当の激闘が始まることになります。
 英国空軍によるドイツへの空爆も始まりますが、ドイツは降伏せず最後まで戦闘を続ける覚悟をみせます。
 戦争の悲劇は最後に大きな山場を迎えるようとしていました。

<主な事件>
<日本関連>
「インパール作戦」「1号作戦」「サイパン島攻略作戦」「レイテ島上陸作戦」「レイテ島沖海戦」「カミカゼ特攻隊誕生」・・・
<ドイツ関連>
「ソ連の民族浄化」「イタリア戦線」「ハンガリー傀儡政権誕生」「ノルマンディー上陸作戦」「バグラチオン作戦」「ヒトラー暗殺計画」「ポーランドの叛乱」「アンヴィル作戦」「マーケット・ガーデン作戦」「チャーチル・スターリン会談」「ハンガリーの叛乱」「ヒュルトゲンの森の悲劇」「アルデンヌ攻勢」「ハンガリー解放」・・・

 アジア・太平洋・日本 ヨーロッパ 
アジア・太平洋・日本
<1943年>
<11月>
「アメリカ軍の侵攻」
 連合軍はタラワ、マキン(現ブタリタリ)両島を確保。さらにマーシャル諸島への侵攻準備を進めます。この時点で太平洋におけるアメリカ側の有利は揺るがない状況になっていました。空軍もゼロ戦の能力に迫る新戦闘機グラマンF6F(ヘルキャット)を投入し、日本軍に追いつきつつありました。
 米軍はマッカーサーによるフィリピン攻略作戦とニミッツ司令長官による中部太平洋の島々の占領作戦が競い合うように進行していました。しかし、島のジャングルえの戦闘では米軍は日本軍による攻撃に過剰反応し、同志撃ちを繰り返しており、不利な戦闘が続いていました。
<1944年>
<1月>
「1号作戦」と「インパール作戦」
 日本軍は太平洋における米軍との戦闘に勝利はないと判断。中国南部に攻撃をしかける「1号作戦」とビルマからインドへと攻め込む「ウ号作戦」(インパール作戦)を計画。大陸での勝利をもって和平に有利な条件を獲得することを考え始めていたのです。
<3月>
「サーズデー作戦」
 3月5日、バーナード・ファーガソン率いる「第16旅団」が北ビルマのレドからインドへと行軍。ジャングル内に基地を作り、飛行場として整備。アメリカの「ガラハッド隊」、イギリスの「チンディット隊は、ジャングルでの日本軍との戦闘に苦戦を続けます。
「インパール作戦」
 3月8日、牟田口廉也中将の「第15軍」がインパール作戦を開始。コヒマの駐屯地をめぐる攻防戦が始まり、日本軍に囲まれた守備隊は危機に陥るが、日本軍は補給物資が不足。逆に英国軍は戦車などの増援もあり日本軍を追い込みます。その後、日本軍は食糧不足からくる飢えで弱体化し、消耗戦の末に7月3日作戦は中止となります。
 「第15軍」は、投入された8万5千人のうち5万5千人を失いましたが、その半数は飢餓と病死によるものでした。(連合軍もまた2万人の兵を失っています)
<4月>
「1号作戦開始」
 中国で「1号作戦」(大陸打通作戦)が開始されます。それは日本陸軍による最大規模の攻勢で、中国に派遣されていた日本人兵士62万人のうち51万人が投入されました。ただし、この時すでに日本軍は制空権を失っていて、国民党軍170機、米軍機230機に対し、わずか100機の戦闘機しか残されていませんでした。
 「1号作戦」では先ず米軍「第14空軍」の飛行場を一掃することになっていました。そのための最初の作戦「京漢作戦(2号作戦)」で、満州の「関東軍」による増強がなされた「第1軍」がその中心でした。この時期、国民党軍の主力部隊は、ビルマに回されていて、米軍も中国を重要とは考えていなかったため、国民党軍は厳しい状況に追い込まれて行きます。
<6月>
 6月1日、飢饉のため300万人が死んだという河南省駐留の国民党軍30万人が敗走すると日本軍は南下を開始。桂林、衝陽のアメリカ軍基地を目指します。国民党軍の薛学(せつがく)将軍は日本軍との戦闘を開始しますが、日本軍が圧倒します。
 6月26日、衝陽のアメリカ軍の基地が日本軍に占領されます。

「サイパン島攻略作戦」
 マリアナ諸島最大の島サイパンには日本軍3万2千人が集結し、太平洋における最後の作戦に備えていました。それに対しミッチャー提督の「第58任務部隊」の戦艦7隻が二日間にわたって艦砲射撃を加えた後、海兵隊が上陸作戦を敢行します。
 7月7日、激戦の後、北端に追い込まれた生き残りの日本兵3000人が、銃剣、刀、手榴弾で武装し最後の「バンザイ攻撃」を行い、2日間の激戦の後、終結します。
 日本兵3万人が死亡し、アメリカ兵も死亡、戦傷で1万4千人を失うことになった戦闘の中、日本人の民間人1万2千人のうち7000人が「バンザイ・クリフ」からの投身自殺などによって命を失っています。
<7月>
 7月26日、アメリカ海兵隊がマリアナ諸島全域を制圧。マッカーサーはルーズヴェルト大統領と会談を行い「フィリピン上陸」と解放の許可を得ます。
<9月>
「ペリリュー島の激戦」
 9月15日、パラオ諸島最大の航空基地があるペリリュー島に米軍が上陸。第一海兵師団は、3,4日で占領できると考えていた。しかし、「蒸し暑さ」、「隠れるところのない岩ばかりの地形」、「日本兵の粘り強さ」に苦戦を強いられます。結局、島を占領するのに1か月を要し、米軍は6526人を失い、増援に来た第81師団も3278人を失うことになりました。この島を避けて先に進めばこれほどの被害はでなかった・・・。

<10月>
「レイテ島上陸作戦開始」
 10月20日、フィリピンの新大統領と共にマッカーサー将軍がフィリピン東部のレイテ島へ上陸。
「フィリピンの人々よ、私は還ってきた!全能なる神の御恵みにより、わが軍はふたたびフィリピンの土地に復帰したのだ」
 フィリピンでの彼の人気は高くアイドル並みの存在となりました。
「レイテ島沖海戦」
 レイテ島沖にはトーマス・キンケイド中将率いるアメリカ第七艦隊が待機。(護衛空母18隻、戦艦6隻)さらに北にはハルゼー提督の第三艦隊が控えていました。(高速空母16隻、駆逐艦81隻)
 10月23日、米国艦隊に日本軍が攻撃を仕掛けます。レイテ島での戦闘が続く中、連合艦隊司令長官、豊田副武大将のもと、4つの艦隊(小沢艦隊、栗田艦隊、志摩艦隊、西村艦隊)と米海軍との「レイテ沖海戦」が始まります。
 この海戦では、ハルゼー艦隊がおとりとなった小沢艦隊の動きにひっかかりサンベルナンディノ海峡の守りを離れてしまい、その隙に上陸していた部隊が危機に陥る事態になったものの、制空権を握っていた米軍は空と潜水艦からの攻撃で日本軍を圧倒します。
 日本軍は空母4隻すべてを失い、武蔵と2隻の戦艦、9隻の巡洋艦、12隻の駆逐艦を沈められ大敗を喫しました。
<参加>
映画「野火」(2015年)(監)(製)(脚)(撮)(編)塚本晋也(原)大岡昇平(出)塚本晋也、リリー・フランキー、中村達也、森勇作、中村優子
(レイテ島で餓死寸前に追い込まれた兵士の体験を徹底的にリアルに描いた作品)
映画「野火」(1959年)(監)市川崑(原)大岡昇平(脚)和田夏十(撮)小林節雄(出)船越英二、ミッキー・カーチス、滝沢修、星ひかる

「カミカゼ特攻隊誕生」
 この海戦でもうひとつ注目すべきなのは、初めて「カミカゼ特攻隊」が登場したことでしょう。
 10月25日、ルソン島に基地を置く「第一航空艦隊」のパイロットたちが片道の燃料だけで空母などに体当たりをする自爆攻撃を行います。後に「カミカゼ特攻隊」と呼ばれることになるこの戦法は、兵器としての効果はそれほどでもなかったのですが、米軍に精神的な恐怖感をもたらすことになります。
 そして、日本軍による玉砕戦法を恐れる米軍は、直接的な戦闘よりも空爆による攻撃を繰り返すことで勝敗を決する方が被害が少なくて済むという考えに傾かせることにもなり、それが最終的に「原子爆弾」という究極の兵器を誕生させることになるのでした。

<12月>
「1号作戦終了」
 日本軍による「1号作戦」が終了。部隊は重慶や昆明にも迫っていたが、補給路が伸びきっており、それ以上進むことは困難でした。さらにフィリピンや沖縄が危機的状況にあり、兵士はそちらに回す必要がありました。
 結局、この戦闘は日本軍の勝利となりましたが、それはまた中国共産党軍にとっての勝利でもありました。なぜならこの戦闘によって国民党軍は、食料生産基地といえる地域を失い、多くの兵士も失うことになったからです。
「グアム、テニアン、サイパン島占領」
 連合軍がグアム、テニアン、サイパン島の日本軍を降伏させ、日本に一気に近づき日本本土の空爆が可能になる。しかし、安全に日本に爆撃機を向かわせるために最後の障害となる硫黄島の日本軍基地をたたく必要がありました。
 こうして硫黄島をめぐる死闘が始まることになります。
 ヨーロッパ
<1943年>
<10月>
「イタリア作戦」
 アメリカの上層部、ローズヴェルト大統領とマーシャル将軍は、ノルマンディーへの上陸作戦こそドイツ制圧のために最も有効な作戦と考えていました。
 それに対して、英国側のチャーチル、ブルック参謀総長は、地中海地域を制圧し、そこから北上する方が確実な方法と主張。しかし、その間も連合軍によるイタリアでの戦闘は続いていたが、ドイツ軍は撤退しながらも様々な妨害工作を行い連合軍はイタリアをなかなか制圧できずにいました。
 ヒトラーはイタリアの首都ローマを失うことはドイツ軍の今後にとっても大きな意味を持つと考えていたため、ケッセルリング元帥からの要請に答え、イタリアに戦力を集中させます。戦略的も優れていたドイツ軍は各地で連合軍を苦しめますが、物量に勝る連合軍は着実にローマに迫ります。
<12月>
「ソ連の民族浄化」
 クリミアに住むイスラム系タタール人は、ソ連共産党に対立する存在として差別の対象となり、20万人にも及ぶ人々がソ連軍によってウズベキスタンに追放されます。それに対し、彼らのうち10%の人々がドイツ軍兵士と行動を共にしてソ連軍と戦う道を選びました。ソ連軍は残されたタタール人への報復を開始。追放の旅の途中にも、7000人が飢餓などで死亡。その後の生活でも悲惨な生活を余儀なくされました。
 同じようにチェチェン人39万人もまた同じように追放処分となり、そのうち7万8000人が命を落としたといいます。
 スターリン(ソ連)によるロシア人以外の人々への民族差別は戦争の混乱に乗じて勢いを増していました。「カティンの森」事件もそのひとつです。この戦争の期間中、最も多くの人々を民族浄化の名のもとに虐殺したのは、実はヒトラーではなくスターリンだったのです。
<1944年>
<1月>
「レニングラード封鎖終了」
 1月14日、ソ連軍は地上攻撃とフィンランド湾からのバルト艦隊による砲撃によりドイツ軍を攻撃。長きにわたった包囲網を崩し、1月27日、880日続いたレニングラードの封鎖は終わりを迎えます。

<3月>
「ハンガリー傀儡政権誕生」
 3月18日、ドイツとの同盟から抜けようとしたハンガリーの代表ホルティ提督らを呼び出したヒトラーは、一行を軟禁状態にし、翌日には自らの選んだメンバーで傀儡政権を成立させます。その後、ヒトラーはハンガリーに住んでいたユダヤ人75万人をアウシュビッツなどの強制収容所に送ります。

<4月>
「クリミア半島からの撤退」
 南方方面クリミア半島司令官フォン・マンシュタイン元帥が帰国。総統大本営(狼の巣)でクリミア半島の状況を説明し、撤退することで東欧の守りを固めたいと進言します。しかし、ヒトラーは、撤退すればルーマニア、ブルガリア、フィンランドなどの同盟国はドイツから離れると考え、進言を受け入れませんでした。
 確かにこの時期、まだドイツ軍の兵力は950万人と史上最高レベルにありましたが、優秀な兵士の多くはすでに失われていて、外人部隊や若年兵が中心になりつつあり、それに対しソ連軍は640万人の兵力ながら軍備は増強され続けていて、兵士のモチベーションも上がっていました。
 4月10日、結局オデッサのドイツ軍は海路脱出する道を選びます。そして一か月後にはクリミア半島からドイツ軍は完全撤退することになります。
<5月>
「混沌のイタリア戦線」
 イタリアではローマを占領するために連合軍が先を争うように侵攻作戦を展開、様々な国籍からなる軍がそこに参加していました。
 ポーランド「第2軍団」ヴワディスワフ・アンデルス将軍は5万6千人がドイツ人への復讐に燃えて参戦。ジュアン率いる「フランス遠征軍」、オリバー・リース中将のイギリス「第8軍」、勇敢なグルカ兵を擁するインド「第八師団」、アフリカの部族民からなるグミエ部隊は山岳戦に長けた隊。そして、アメリカのクラーク将軍とアレグサンダー将軍は、同じ国の中でローマへの先を争っていました。クラーク将軍に至っては、英国軍に先を越されそうになれば銃を向ける指示を出すほど病的になったいたといいます。上官のアレグサンダーからの指示を無視した彼は6月4日いち早くローマへの入場を果たすことになりました。
<6月>
「Dデイ(オーヴァーロード作戦)」(ノルマンディー上陸作戦)
 ノルマンディー上陸作戦のダミーとしてノルウェー上陸作戦がでっちあげられます。パットン将軍の第1軍集団が上陸するとして戦車、航空機、上陸用舟艇の準備が行われました。元々ノルマンディー上陸作戦はダミーであるという偽情報が流され、ドイツ情報部はそっちを信じていたようです。
 英国のハリス中将やアメリカ「第8空軍」のスパーツ将軍は空爆によるドイツへの攻撃を継続していれば上陸作戦など不要と主張していましたが、当時の爆撃制度はお粗末なもので、ドイツへの空爆のはずがスイスを爆撃していたこともあったといいます。結局、ドイツは空爆では降伏せず、いよいよオーヴァーロード作戦の決行が決まります。
 Dデイは6月5日と決定しますが、天気予報では6月1日から天候が悪化すると発表され、一時は延期の指示も出されました。しかし、5日も夕方には天候が回復すると発表されたため、急きょアイゼンハワーはGOサインを出します。もし、この時延期していたら、大潮になってしまうため、2週間は遅れることになったはずです。(さらに2週間後には嵐もやってきました)逆にドイツ軍は上陸作戦は5日まではないだろうと判断していて、ロンメル将軍はドイツに一時帰国していたといいます。
 6月5日、軍艦300隻、機雷除去の掃海艇277隻が参加し、数百の輸送機が北フランスに向かい、空挺隊員がパラシュートで降下します。しかし、対空砲火により編隊が崩れれてしまい、空挺隊員はバラバラに着地してしまい、上陸した部隊が移動できるように橋を確保することができませんでした。(オルヌ川のペガサス橋のみ確保)
 6月6日、午前1時各艦艇に乗っていた13万人の兵が上陸艇に乗船を開始。すぐに船はノルマンディーに向けて出発するが海は荒れていて多くの兵士が船酔いに苦しみました。水陸両用のシャーマン戦車の一部は荒波によって浮力となる浮きがしぼみ乗員を乗せたまま沈んでしまいました。さらに上陸用のボートの多くは岸に乗り上げたまま動けなくなりました。上陸した場所によって、成否は大きく分かれ、西の端ユタビーチに上陸したアメリカ軍「第4歩兵師団」はほぼ無事に上陸することができました。
 その東、オマハビーチは岸が上陸しずらく爆撃機の支援爆撃はみな味方を避けて内陸に落とされて意味を意味をなさず、トーチカなどがそのまま残り、多くがドイツ軍の攻撃により海岸で命を落とした。
 英国軍が上陸したゴールドビーチでは予備兵力の3000人がアメリカ軍が夜中に落としたダミーのパラシュート兵(爆弾仕込み)の捜査に出ていたおかげで上陸に成功します。
危機的だったオマハビーチでも上陸できたシャーマン戦車と海岸ギリギリまで地下づいて砲撃を行った駆逐艦のおかげでなんとか上陸が始まりました。カナダ軍担当のジュノービーチでは上陸後、ドイツ軍の厚い守りにはばまれます。
 英国軍のソードビーチでは「高潮」により戦車の上陸が遅れ、上陸後も地雷や砲撃で進むことができませんでした。
<参考>
映画「プライベート・ライアン」(1998年)(監)(製)スティーヴン・スピルバーグ(脚)ロバート・ロダット他(出)トム・ハンクス、トム・サイズモア、マット・デイモン、ヴィン・ディーゼル
(ノルマンディー上陸作戦から始まる連合軍の戦いを超リアルに映像化して戦場のリアルを観客に体感させた歴史的作品)
映画「史上最大の作戦」(1962年)(監)ケン・アナキン他(脚)(原)コーネリアス・ライアン(撮)アンリ・ベルサン他(音)モーリス・ジャール
   (出)ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ジャン=ルイ・バロー、ロバート・ライアン、ロバート・ミチャム、アル・レッティ、ショーン・コネリー、ロッド・スタイガー、ロバート・ワグナー、ポール・アンカ、クルト・ユルゲンス、ゲルト・フレーベ、クリスチャン・マルカン、エディ・アルバート、メル・ファーラー、リチャード・ベイマー
(ノルマンディー上陸作戦をオールスター・キャストで描いた超大作)
映画「最前線物語」(監)(脚)サミュエル・フラー(撮)アダム・グリーンバーグ(撮)リー・マーヴィン、マーク・ハミル、ロバート・キャラダイン、ステファーヌ・オードラン
(監督のサミュエル・フラーの実体験をもとに作られた戦争映画。それまでの戦争映画よりもリアルで無様な戦場描写が高い評価を受けた作品)
映画「パットン大戦車軍団」(1970年)(監)フランクリン・J・シャフナー(脚)フランシス・F・コッポラ、エドマンド・H・ノース(撮)フレッド・コーネカンプ
   (出)ジョージ・C・スコット(アカデミー主演男優賞を拒否)、マール・マルデン、スティーヴン・ヤング
(アメリカ軍の第二次世界大戦の英雄の一人、パットン将軍の伝記映画。単なる英雄と描かなかった優れた人間ドラマ作品)

「バグラチオン作戦」
 6月23日、ソ連軍は白ロシアのミンスクを攻略し一気にドイツ軍を撃退する作戦を開始します。動員されたのは、兵員が167万人、戦車・自走砲が6000輌、榴弾砲などの大型火器3万門、航空機7500機。ドイツ軍はすでに制空権を失っていたので、ソ連軍の大規模攻撃を予測できず、一気に後退を余儀なくされます。
 7月3日、ミンスクはソ連軍によって解放されますが、ソ連軍はすでに目標をベルリンに定めていて、第八親衛軍のチェイコフ将軍はベルリン一番乗りを目指し、休むことなく進撃を続けます。そのスピードの早さにマイダネク収容所でのユダヤ人虐殺の記録は焼却を免れました。
 この作戦におけるソ連軍の犠牲者(死者、負傷者)は77万人にのぼり、ドイツ軍の40万人を上回りましたが、ソ連軍にその数を補うだけの補充兵がいたため、さらにソ連軍はドイツ軍を圧倒し続けることになります。
<7月>
「トレブリンカの悲劇」
 7月23日、ドイツ軍が「トレブリンカ第一収容所」の存在を消すために収容されていたユダヤ人全員の処刑を実行。ポーランド人大工のマックス・レヴィットだけが銃殺の際、死体の中に埋もれることでただ一人生き延びることになり、悲劇の全容を証言することになりました。

 この時期、他の収容所でもユダヤ人虐殺の証拠を残さないように大量のユダヤ人がガス室に送られ、それでも間に合わない場合は、穴を掘らせてその前で銃殺して埋めるという簡略化も進みます。そうした作業を休まず続けたのは、同じユダヤ人のゾンダーコマンド(特殊部隊)たちでした。彼らはいつかは自分たちもガス室に送られると知りつつも、黙々とナチスの指示に従って作業を続けていました。
映画「サウルの息子」(2015年)(監)(脚)ネメシュ・ラースロー(脚)クララ・ロワイエ(撮)エルデーイ・マチャーシュ(出)モーリグ・ゲーザ、モルナール・レヴェンテ
(ゾンダーコマンドの一人が死体の中に息子を見つけ、その葬儀を行おうと収容所をさまようホロコースト体感映画)

「戦争神経症」
 ノルマンディー上陸作戦後、連合軍はドイツ軍の待ち伏せ攻撃に苦戦することになります。そのため、多くの兵士が精神を病むことになり、アメリカの主力部隊「第1軍」で戦争神経症と認定された兵士は約3万人に及び、この戦争中の前線における精神疾患の発症率は10%に達していたといわれます。
 特に訓練をほとんど受けずに補充兵として前線に送り込まれた若い兵士には多かったようです。それに比べてドイツ軍、ソ連軍には精神疾患が少なかったのは、子供時代から国のために命を懸けることを叩き込まれていたからかもしれません。(どちらが幸いだったのか?)そんなアメリカの心弱き兵士たちの中に「ライ麦畑でつかまえての著者J・D・サリンジャーもいたわけです。

「ヒトラー暗殺計画」(ヴァルキューレ作戦)
 ベルリン周辺の外国人らが叛乱を起こした場合、その鎮圧のために作られた仕組み「ヴァルキューレ」を利用して、ヒトラーの暗殺計画が立てられました。「ヴァルキューレ」が発動される状況でヒトラーが死亡した場合、親衛隊の関与をはずし、国内予備軍に権限をもたせるように密かに規定の変更が行うことで、暗殺後のクーデターを成功させるというのが狙いでした。
 ちょうど国内予備軍司令部に転属されたクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐が中心となって計画が進められました。しかし、チュニジアでの戦闘で片目、片腕を失っていた大佐一人に暗殺をまかせるのは困難だとして協力者の勧誘も行われていました。(ロンメル元帥も計画について知っていたともいわれます)しかし、上層部になるほど作戦への協力を拒否。このままだと和平交渉を行う前にドイツは無条件降伏することになってしまう。そう考えたメンバーは暗殺計画を実行に移す決断を下します。
 7月20日、シュタウフェンベルク大佐は爆弾入りのブリーフケースを戦況会議に持ち込み途中で中座。爆発を確認後、彼はベルリンに戻り、クーデターの開始を指示します。しかし、ヒトラーの暗殺が成功したのかどうかもわからず、一部のメンバーが裏切る中で計画は中断。結局ヒトラーは生きていて、ラジオで演説を行い、そこでスターリングラードの戦いでソ連軍を倒せなかったのは暗殺計画に関わった裏切者たちのせいであると主張しました。(ヒトラーはこうして暗殺事件をも利用する抜け目のなさをもっていました)
 結局、シュタウフェンベルクを含めほとんどのメンバーが処刑されましたが、ハンス・シュパイデル将軍は処罰の対象とならず、戦後、西ドイツ軍に所属し、NATO中央軍の司令官となります。こうして、暗殺を逃れたヒトラーは、その後、疑わしいと思われる上層部のメンバー5000人を逮捕し、大幅な入れ替えを行いました。こうしたヒトラーによる陸軍上層部への批判は、軍隊内のヒトラー離れを加速させることになり、ヒトラーへの忠誠を誓う者とそうでない者が分かれるようになりました。
ました。
<参考>
映画「ワルキューレ」(2008年)(監)(製)ブライアン・シンガー(脚)クリストファー・マッカリー他(出)トム・クルーズ、ケネス・ブラナー、ビル・ナイ

<8月>
「ポーランドの叛乱」
 8月1日、ポーランド国内軍司令官タデウシュ・コモロフスキ将軍がドイツ軍に対し一斉蜂起を指示します。ソ連軍に占領される前に自分たちでドイツ軍を倒さなければ、ポーランドは確実にスターリンの支配のもとに置かれることになる。そう考えたからです。「カティンの森」においてポーランドの兵士たちがソ連軍に虐殺されたことで明らかなように、ポーランド人はソ連をまったく信用していませんでした。ポーランド市民は女子供も含めドイツ軍と戦い、戦車に飛び乗って手榴弾を投げ込む9歳の少年もいたといいます。
 8月4日、スターリンは嫌々ながらポーランド亡命政府代表団と面会。彼はすでに自分の思い通りに動く「ポーランド解放委員会」という名の暫定政権を作っていたために、反共の亡命政府に協力する気はなく、ポーランド市民を支援することはありませんでした。それどころか、スターリンはわざとポーランドへの軍の侵攻を遅らせ、ポーランドではワルシャワ市内だけで3万人の市民がドイツ軍によって虐殺されることになりました。ポーランド市民は見殺しにされたのです。(米英軍はパラシュートで物資を投下するしか援助のしょうはなかった)
 10月2日、ついにポーランドのコモロフスキ将軍はドイツ軍に降伏します。

「アンヴィル作戦(ドラグーン作戦)」
 8月15日、フランス南岸のコートダジュールへの連合軍兵士15万1千人上陸作戦を開始、ブルターニュ地方に進軍します。(カナダ軍、英国軍、ポーランド軍、米軍、チェコ軍、ベルギー軍、オランダ軍が参加)ただし、最高司令官のアイゼンハワーはドイツ軍の主力を追うことを重視していて、この後のパリの解放は二の次と考えていたようです。
 8月19日、アルジェからド・ゴール将軍がフランス入り、連合軍に早くパリを解放するよう要求します。そんな中、ジュロウ将軍率いる「フランス第2機甲師団」は密かに燃料を盗んでパリに向かう準備を進めていました。そして、8月24日の夜、命令を無視してパリに進撃し、見事にパリ1番乗りを果たしました。
 ヒトラーから「パリを破壊せよ!」と命令されていたコルティッツ将軍は、その命令に従わず、早々に降伏していました。そのおかげで、パリの街はポーランドのワルシャワとは対照的に大きな被害を受けずに戦争を乗り越えることができたのでした。
<参考>
映画「パリは燃えているか」(1966年)(監)ルネ・クレマン(脚)フランシス・F・コッポラ、ゴア・ヴィダル(撮)マルセル・グリニヨン
(出)ジャン=ポール・ベルモンド、シャルル・ボワイエ、グレン・フォード、アラン・ドロン、カーク・ダグラス、イヴ・モンタン、ジョージ・チャキリス、アンソニー・パーキンス
(パリを燃やしつくそうとするドイツ軍と連合軍の戦いを豪華オールスター・キャストで描いた超大作)

<9月>
「ベルギー解放」
 9月3日、英国「近衛機甲師団」がベルギーの首都ブリュッセルを解放します。しかし、ベルギーは50万人もの国民を労働力として連れ去られていたため、復興のための人出が不足。亡命政府は動き出すものの40万人の対独協力者のうち逮捕は6万人にとどまり、厳しい復興の始まりとなりました。10月の「アルデンヌの戦い」に巻き込まれ3000人の民間人が死亡するなど、まだまだ悲劇は続くことになります。

「マーケット・ガーデン作戦」
 9月17日、英国、米国、ポーランドのパラシュート降下兵による一大空挺作戦が実施されます。その目的は、二本の運河マース川とワール川、それとライン川に架かる橋を確保し、連合軍がドイツに侵攻するための道を準備することにありました。ところが、この大作戦は様々な理由により大失敗となります。
(1)悪天候により、思い通りの場所に降りられなかった。
(2)降下地点の選定に失敗し、橋からあまりに遠すぎる地点に着いてしまった。
(3)無線交信の機材不調
(4)ドイツ軍の対応が早く、連合軍の攻撃にいち早く対応した。
 多くの兵士はドイツ軍の真ん中に降りてしまい、着地する前に空中でドイツ軍に射殺されることになりました。
 結局、この戦闘で連合軍は1万5千人の兵士を失い、ドイツ軍は6000人を捕虜とすることになりました。
<参考>
映画「遠すぎた橋」(1977年)(監)リチャード・アッテンボロー(脚)ウィリアム・ゴールドマン(原)コーネリアス・ライアン
(出)ダーク・ボガート、ショーン・コネリー、マイケル・ケイン、ジーン・ハックマン、ロバート・レッドフォード、エドワード・フォックス、アンソニー・ホプキンス
ライアン・オニール、ジェームス・カーン、マクシミリアン・シェル、ローレンス・オリヴィエ、ハーディー・クリューガー、リブ・ウルマン、エリオット・グールド・・・
(超オールスター・キャストで描いた「マーケット・ガーデン作戦」の全貌。出演者も多く、話も複雑なので原作本を読んでから見た方がいいかも。僕は映画を見る前に原作の本を読みましたが、それでもわかりずらかった。まあ、豪華な俳優たちの顔をながめるだけでも見ごたえがありますが・・・)

「オランダの悲劇とマナ作戦」
 「マーケット・ガーデン作戦」の際、オランダの鉄道員がストライキを始めることで連合軍に協力。それに対し、ドイツは食料品の輸入禁止という報復を行い、そこからオランダの国民は長い飢餓の危機にさらされることになりました。そんな状況の中、1944年8月までアンネ・フランクら8人のユダヤ人たちをかくまっていた人たちは素晴らしい!
 1945年4月になって連合軍による食糧支援が始まります。「マナ作戦」と呼ばれたこの作戦では、英国空軍は3000回もの出撃を行い6000トンの食料品をパラシュートで落としました。ドイツもこの食糧支援に対しては妨害を控えたといいます。しかし、援助が開始されるまでにオランダでは2万2000人が餓死したと言われます。
<参考>
映画「アンネの日記」(1959年)(監)(製)ジョージ・スティーヴンス(原)アンネ・フランク(脚)フランセス・グッドリッチ(撮)ウィリアム・C・メラー
   (出)ミリー・パーキンス、シェリー・ウィンタース、ダイアン・ベイカー、リチャード・ベイマー
(動きの少ないドラマを見事に映画化した傑作。アカデミー賞も「ベンハー」がなければ・・・)

<10月>
「チャーチル・スターリン会談」
 10月9日、モスクワのクレムリンで英ソ首脳会談開催。戦後の国境問題についての話し合いが行われ、二人の間で具体的に数字のやり取りが行われました。その時、チャーチルが提案したメモによると、以下のような内容が書かれていたようです。
ルーマニア:ロシア90%、その他10%
ギリシャ:イギリス(アメリカと共同で)90%、ロシア10%
ユーゴスラビア:50%づつ
ハンガリー:50%づつ
ブルガリア:ロシア75%、その他25%
 それに対し、スターリンはブルガリアの75%を90%に書き換え、メモをチャーチルにあずけたといいます。しかし、スターリンの頭の中には、自分の地図がすでにあり、チャーチルの言うことなどどうでもよかったのかもしれません。どちらにしても、なんとしてもドイツに勝ちたい英国にとって、東欧の国々はソ連に渡す生贄でしかなかったのです。
「アーヘン爆撃」
 10月12日、米軍のコートニー・ホッジス中将がドイツ軍に無条件降伏を要求。要求を拒否すれば、アーヘンの街を砲撃すると伝えました。ドイツ軍がそれに対し降伏はずはなく、砲撃が始まり街は崩壊します。しかし、連合軍が街の占領に侵攻すると街中の多くの建造物の中にはドイツ兵が隠れていたり、ブービートラップが仕掛けられていて、多くの兵士が命を落とすことになりました。
「国民突撃隊設立」
 10月18日、親衛隊全国指導者に就任していたヒムラーから、「国民突撃隊」という名の大衆民兵組織の設立に向けた徴収開始が発表されます。すでに多くの兵士を失い、その補充が困難になっていたドイツ軍はいよいよ老人と子供までも兵士として駆り集める必要に迫られていたのです。そして、彼らに与えられた武器ももう新品ではなく中古の小銃や手作りの手榴弾だけになっていました。
「ハンガリーの叛乱」
 10月11日、ハンガリー王国の執政ホルティ・ミクローシュ提督がソ連の外相と密かに会談をもち、ドイツへの宣戦布告を条件に合意文書に調印。しかし、ドイツ軍はすぐにホルティを拘束、後任の執政にサーラン・フェレンツ(ハンガリー・ファシスト組織のトップ)を据えました。さらにホルティーの息子を誘拐し反逆行為をやめるよう脅迫します。その間にもハンガリーではユダヤ人の虐殺が続けられていましたが、スウェーデン、エルサルバドル、ニカラグア、スペイン大使館が、ユダヤ人にビザを発行して、施設などにかくまっていました。(スペイン大使館では代理大使だったアンヘル・サンス=ブゥリースと後任のジョルジュ・ペルラスカが個人の判断で5000人のユダヤ人をかくまっていました)
 ソ連軍が近づき逆にユダヤ人への虐殺が急がれる中、ハンガリー人も含め多くの人がユダヤ人をかくまっていたようです。
<参考>
映画「コンフィデンス/信頼」(1979年)(監)(脚)イシュトバン・サボー(原)(脚)エリカ・サント(撮)ラホス・コルタイ(出)イルディコ・バンシャーギ、ペーター・アンドライ
(戦争映画ではありませんが、ナチス占領下のハンガリーを舞台に描かれた人間ドラマ)

「ギリシャ解放」
 10月12日、ドイツ軍最後の部隊がアテネを去り、ギリシャは実質的に解放されました。共産党系の「民族解放戦線(EAM)」も含む国民統合政府がイギリスの主導によって誕生。ギリシャの共産化を恐れるチャーチルは、英国軍をアテネに進駐させ、人民解放軍ELASを封じギリシャ国王による統治を復活させようとします。

<11月>
「ヒュルトゲンの森の悲劇」
 11月、連合軍がドイツ・ベルギーの国境地域にある「ヒュルトゲンの森」に達します。そして、ここで最後で最悪、最長のドイツ軍からの反撃に出会うことになります。森の中には戦車も入れず、飛行機による援護もできないため、待ち伏せるドイツ軍にとっては最高の環境でした。森の中の様々な地雷やブービートラップ、巧妙に隠された塹壕からスナイパーによる狙撃により、次々に兵士が倒されてゆきました。この森だけでアメリカ兵は3万3000人が犠牲となった。その数は参加した兵の1/4にあたりました。
 この戦闘で米軍第28師団に所属するエディー・スロヴィック一等兵は、逃亡の罪で銃殺されましたが、これは第2次世界大戦中、米軍による唯一の処刑だったといいます。この森ではそうまでしなければ逃亡が止められないほど、脱走や自殺、精神崩壊が多発していてということなのです。そこまで厳しい状況に兵士たちが追い込まれていたことを、アメリカ本国ではほとんど知られておらず、兵士の数は逆に減らされる傾向にありました。
 この悲劇の戦場を実際に体験した兵士の中にあのJ・D・サリンジャーがいました。
<参考>
テレビ・ムービー「プライベート・ソルジャー」(1998年)(監)ジョン・アーヴィン(脚)V・W・ヴォウト(撮)トーマス・バースティン(出)ロン・エルダード、ザック・オース
(新米兵士が投入され、経験不足とドイツの待伏せ攻撃により、次々に死んでいった悲劇の森の戦闘をリアルに描いた作品。未見ながら掘り出し物のようです)

「アルデンヌ攻勢」(バルジ大作戦)
 11月20日、ヒトラーは連合軍の隙をついて攻勢に出て、大幅に地域を挽回し、それを機に連合軍との和平交渉を有利に条件で始めようと考えます。そのための「ヘルプストネーブル(秋霜作戦)」では、48時間でムーズ川に達し、2週間以内にアントワープを奪回するという計画でした。それによって、カナダを戦争から脱退させようと考えていました。
 12月16日、計画から2週間遅れで20個師団により「アルデンヌ攻勢」が始まりました。1900門の砲が一斉に火を噴いて戦闘開始。ドイツの本格的な反撃を予想していなかった連合軍は大混乱に陥りました。さらに作戦開始当初、天候が悪かったことで連合軍の航空部隊が飛ばなかったため、制空権を奪われていたドイツ軍には好都合でした。
「パリにドイツ軍は向かっている!」、「アイゼンハワー、ブラッドリー、モントゴメリーら連合軍の将軍たちが暗殺される」などのデマが飛び交うほど、連合軍側は混乱していたといいます。ドイツ軍は一気に連合軍の中へと突き進みますが、その突出部(バルジ)に横からパットン将軍率いる三個師団が攻め込みます。ドイツ軍は伸びすぎた補給線で燃料や物資を届けられず、機甲師団はその勢いを失うことになり、天候の回復で空からの攻撃にもさらされることになって一気に連合軍がドイツ軍を押し返すことになりました。結局、この戦闘によりドイツ軍は一気に燃料や兵器を使い切る結果になり、敗戦は早まることになったといえそうです。
 この戦闘によるドイツ軍の死者は1万2700人で、勝利したはずのアメリカ軍も同じ1万2700人を失っています。
<参考>
映画「バルジ大作戦」(1965年)(監)ケン・アナキン(脚)フィリップ・ヨーダン、ミルトン・スパーリング、ジョン・メルソン(撮)ジャック・ヒルデヤード
   (出)ヘンリー・フォンダ、ロバート・ショー、ロバート・ライアン、チャールズ・ブロンソン、テリー・サバラス、ダナ・アンドリュース、ピア・アンジェリ
(この時代のハリウッド映画にしては珍しくドイツ軍がカッコよく描かれた実録戦争映画の名作。ロバート・ショーがカッコ良い!)

「ハンガリー解放と虐殺」
 12月30日、マリノフスキー将軍率いるソ連軍は降伏勧告を拒絶されたため、ハンガリーの首都ブタペスト攻略を開始します。この時、ハンガリー人の多くはソ連軍による占領を恐れ、ドイツ軍に協力しています。そんな混乱状況の中、ドイツ軍によるユダヤ人の虐殺が続けられますが、その中心となったのはハンガリー人のファシストでした。ヒトラーが軍の退却を認めなかったため、ドイツ軍は最後まで戦い続けることになり、そのためにブタペストの街もまた破壊しつくされることになり、多くの市民が犠牲となりました。戦闘は長い冬の間も続き、翌年2月12日、やっと終わることになります。
 街を攻略した後のソ連兵の行動は、ハンガリーの人々が恐れていた以上にひどいものでした。女性へのレイプは数知れず、暴行・殺人から金品だけでなく食料などあらゆるものの略奪行為と放火。それは、軍隊ではなく虐殺集団であり、盗賊集団でした。

・・・スターリンの統治時代、愛や性をめぐる想いは、「個人の非個人化」を目指す政治環境のもと、容赦なく抑え込まれた。性教育は禁じられた。国民の性衝動を抑圧せんとするソヴィエト国家の試みは、あるロシア作家が言うところの「兵舎の性欲亢進」状況をつくりだした。それは「最も下劣な外国製ポルノグラフィー」をも凌駕する、原始的で暴力的なものだった。・・・
(著)アントニー・ビーヴァー

 ソ連兵によるドイツ領内での強姦の被害者は200万人にのぼると言われます。ベルリン市内だけで10万から13万人になり、そのうち1万人は輪姦された後に殺されたか自殺したといいます。恐ろしい数字です。
<参考>
「第二次世界大戦 1939年-45(下) The Second World War」
 2012年
(著)アントニー・ビーヴァー Antony Beevor
(訳)平賀秀明
白水社

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