<1月>
「ルソン島攻略作戦」
前年にレイテ島に上陸した米軍は、1月5日ルソン島攻略作戦を開始します。ルソン島守備隊の山下泰文大将は、15万2000の兵士を島の山岳地帯に配置。米軍とのゲリラ戦に備えます。結局、この島での戦闘は終戦まで長く続き最後に山下大将が降伏して山を降りてきたのは、この年の9月2日、終戦後2週間たってからのことになります。
<2月>
「硫黄島玉砕」
沖縄上陸作戦を前に硫黄島の占領がスプルーアンス提督に命じられます。
しかし、硫黄島は長さわずか7kmの小さな島ですがその構造は天然の要塞ともいえる存在でした。さらにその島を守る日本軍の栗林中将はすぐれた指揮官で、アメリカ軍の上陸に予想して用意周到な備えをしていました。総延長25kmにも及ぶトンネルと2万1000人の兵士。それぞれの兵士が一人10人の米兵を殺すと誓いをたたて潜んでいるのですから、米軍が苦戦するのは当然でした。
米軍は先ず上陸前に76日間に及ぶ空爆を行い、地上にある施設をすべて破壊。そして、2月19日上陸作戦を開始します。当初は海岸線の地形に苦労、多くの兵士が犠牲になりますが、日没までに3万人の兵士が上陸。一部の部隊は天然の岩山を使った要塞「擂鉢山」に向かいます。
栗林中将は無駄死にともいえる「バンザイ攻撃」を許さず、米軍の侵攻を待ち伏せて一人でも多くの米兵を殺す作戦で立ち向かいました。擂鉢山は3日間の激闘の後、米軍が占領し、頂上に星条旗が立てられました。
3月25日まで戦闘は続き、米軍はその島だけで6821人の兵士を失いました。しかし、日本軍はそこで2万1000人もの兵士が死亡。ほとんどが自決する道を選んだため、生き残って捕虜になった兵士はわずか50名にすぎませんでした。
<参考>
映画「父親たちの星条旗」(2006年)(監)クリント・イーストウッド(原)ジェームズ・ブラッドリー(脚)ポール・ハギス、ウィリアム・ブロイルズJr(撮)トム・スターン
(出)ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード、アダム・ビーチ、ジェイミー・ベル
映画「硫黄島からの手紙」(2006年)(監)クリント・イーストウッド(原)栗林忠道(案)ポール・ハギス(案)(脚)アイリス・ヤマシタ(撮)トム・スターン
(出)渡辺謙、二宮和也、伊藤剛志、加瀬亮、中村獅童、ルーク・エバール、nae、松崎悠希
写真「硫黄島の星条旗」(撮)ジョー・ローゼンタール(ピュリツァー賞受賞作)
「ヤルタ会談」
2月4日、連合軍の首脳による「ヤルタ会談」が始まります。会場がバルカン半島のヤルタになったのは、スターリンの飛行機嫌いだったためでした。フランスの亡命政府トップ、ド・ゴールは、この会議に呼ばれずに激怒しました。そこで話し合われた議題は、・・・
(1)終戦後のドイツ分割問題(2)終戦後の占領地区割り問題(3)敗戦国からの賠償金・・・
ただし、アメリカはヨーロッパの戦争を早く終わらせて日本との戦いに専念したがっていました。
(4)国際連合の設立について
国際連合の設立はルーズヴェルトの夢でもあり、そのためにはソ連への妥協も仕方ないと考えていました。そして、スターリンはスパイの情報から英米がどこまで要求を飲むつもりなのかを把握していました。
(5)ポーランドの独立問題
ポーランドにおける自由選挙に亡命ポーランド政府(反共)を入れるかどうか。
(6)ソ連の対日宣戦布告
アメリカはソ連に参戦してもらうことで早く戦争を終わりにしたかったので、なおさらソ連の要求を飲むしかなかった。
様々な議題が山積みの会談は、スターリンの思いどおりの展開となりましたが、この時すでにルーズヴェルトは体調がすぐれず2か月後にはこの世を去ることになります。彼はもう体力的にもスターリンの勢いに対抗できるはずはなかったのです。
<3月>
「東京大空襲」
3月10日、ルメイ将軍率いるアメリカの「第21爆撃機軍団」が東京への焼夷弾を中心とする大規模爆撃を行いました。B-29爆撃機334機によるじゅうたん爆撃で25万戸を超える建物が焼け、死者は8万3000人に達しました。マッカーサーは都市部への無差別爆撃に反対したがルメイはそれを無視しました。(彼はベトナムでも同じように無差別爆撃を行うことになります)
この後、東京への空襲は何度も行われ、東京は焼け野原となります。
<4月>
「沖縄上陸作戦開始」
牛島満陸軍大将率いる「第32軍」の兵員は10万人。彼もまた栗林中将同様、米軍を待ち伏せるゲリラ戦法をとります。それに対し、米軍は6日間に及ぶ艦砲射撃を行い、4月1日ターナー提督率いる部隊による上陸作戦が開始されます。6万人の兵士が上陸し、死者はわずか28人というあっけない上陸でした。
ターナー提督率いる艦隊は九州、台湾から来たカミカゼ特攻隊の攻撃を受けます。4月6日、7日に355人のカミカゼ・パイロットが発進。4月7日片道の燃料しかもたない戦艦「大和」が米潜水艦と爆撃機からの攻撃により、あっけなく爆発し数千人の兵と共に海中に沈んで行きました。
沖縄戦ではカミカゼ・パイロット1465人が出撃し、米軍は29隻を沈められ、3048人を失いました。
上陸後、首里を目指す米軍は日本軍による待ち伏せ攻撃により9日間で2500人を失いまったく進めなくなります。
5月10日、バックナー中将は首里戦線にむけ五個師団による総攻撃を命令。10日間の戦闘となり米軍は2662人を失います。やっと米軍は前に進み始めます。
6月22日、ついに日本軍は降伏し、牛島大将が自決して沖縄戦は終結します。この間、日本軍の死者は10万人を超えていました。(米軍の犠牲者は8000人)さらに沖縄の民間人4万2000人も戦争に巻き込まれたり、自決することで命を落としています。
<5月>
「国民党軍と共産党軍」
ドイツが降伏した時期、中国に展開していた日本軍の部隊に東京から撤退命令が出されました。それに対し、国民党軍は北の穀倉地域を奪回しようとしますが、米軍のアルバート・ウェデマイヤー将軍は日本軍の退路を断つよう指示します。米軍の助けなしには戦闘が続けられなかった国民党軍はその指示に従わざるをえず、その隙に中国本土の多くを共産党軍に抑えられてしまいました。すでに中国では、終戦後の政権争いが蒋介石と毛沢東の間で始まっていたのでした。
「七三一部隊」
この時期、連合軍の間で「七三一部隊」の存在が明らかになりつつありました。この部隊の正式名称は、「関東防疫給水本部」といいます。創設は1938年ごろにで、3000人の科学者、医師が集められ、2万人の職員を抱える巨大研究機関として、ペスト、チフス、コレラ、炭疽などの細菌を兵器として使用する研究を行い、3000人を超える中国人が人体実験に使われました。
ここで使用された細菌兵器は実際に戦場で使用されたといわれます。しかし、戦後、この部隊の関係者は石井四郎中将も含め、誰もその罪を問われることがありませんでした。なぜなら、その情報をそのまま米軍に引き渡すことで、その責任を問われることを免れたのでした。この謎の部隊については、まだまだ多くの謎が隠されているようです。この部隊についての情報はまったくのねつ造とする人々もいるようですが・・・。世界的な常識としては、これは実際にあったことのようです。
<8月>
米軍は、もし九州の占領を行うため上陸作戦を行うと連合軍の犠牲者は10万人に達すると試算。さらに本州にまで及ぶとすれば、さらに25万人を失うことになると見込んでいました。ドイツの場合も、結局、いくら空爆を行っても降伏させることはできなかっただけに、日本も同じことになるかもしれない。そう考えられていました。そんな状況に「原子爆弾」という新兵器が誕生。そのうえ、その新兵器はソ連も持っていない。では、これを一発使ってスターリンを黙らせてやろう・・・そう考えるのは当然でした。
「マンハッタン計画続行の判断」(2016年5月追記)
マンハッタン計画として始まったアメリカの原爆開発は、当初はドイツより先に原爆を完成させることが目的でした。しかし、ドイツは早々と原爆開発を断念していたことがわかり、科学者たちの間には計画の目的が失われたと考える人々も現れます。そこでロス・アラモスの研究所で計画続行の是非を問う集会が行われました。しかし、この時は計画の中心人物ロバート・オッペンハイマーがここで計画を中止しても、核兵器は世界各地に誕生することを止めることはできない。ならば、我々がそれを完成させ、その恐ろしさを実証した後、その管理、制御のための先駆となろうと説得。それにより科学者たちは全員計画の継続を支持。さらにはそれを日本で使用することにもゴーサインを出すことになります。この時カリフォルニアの原野で、世界初の原爆開発計画の成功のために科学者たちは、悪魔にその魂を売ったのでした。
ロスアラモスでの実験は見事に成功します。しかし、この時、喜んだ科学者は誰一人いなかったといいます。それどころか、一人の科学者は実験の成功を目にして、オッペンハイマーに対し、「オッピー、これで俺たちはみんなクソッタレだな」と言ったそうです。
この時期、理論物理学者ジョセフ・ロートブラットがただ一人研究所を去っており、彼はその後イギリスへと移住し、バートランド・ラッセルとアインシュタインが提唱した核廃絶の核廃絶のためのラッセル=アインシュタイン宣言に署名し、その拡大のために立ち上げられたパグウォッシュ会議の初代議長を勤め、後にノーベル平和賞を受賞します。
「広島への原子爆弾投下」
8月6日、朝8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。エノラ・ゲイが投下したたった一発の新兵器により、広島の街は焼け野原となり、10万人以上の市民が瞬時に命を落としただけでなく、放射線被爆によりその後も数万人が命を落とすことになりました。
<参考>
映画「黒い雨」(1989年)(監)(脚)今村正平(原)井伏鱒二(脚)石堂淑朗(撮)川又昴(出)田中好子、北村和夫、市原悦子、沢たまき、三木のり平、小沢昭一
映画「原爆の子」(1954年)(監)(脚)新藤兼人(製)吉村公三郎(撮)伊藤武夫(出)乙羽信子、滝沢脩、宇野重吉、清水将夫
テレビ「一番電車が走った」(2015年)(演)(脚)岸善幸(脚)岡下慶仁(撮)夏海光造(出)黒島結菜、阿部寛、清水くるみ、秋月成美、山本浩司
「ソ連軍の満州侵攻」
8月8日、ソ連軍が「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄し、満州に侵攻開始。
「長崎への原子爆弾投下」
8月9日、広島に続き長崎にも原子爆弾が投下されます。この結果、再び長崎市民のうちおよそ7万人が犠牲となりました。
「玉音放送」
長崎への原爆投下の後、さらなる原爆投下により国民への被害が増えることを防ぐため、ついに天皇陛下は無条件降伏の受け入れを決断します。連合軍側も日本が降伏を受け入れやすくするための譲歩案として、国体の護持を約束し、天皇を残すことを認めます。そして、8月14日、ポツダム宣言受諾の発表を行うための放送(玉音放送)の録音を行います。しかし、陸軍の一部にはまだ敗戦を受け入れず、「玉音放送」の放送を阻止しようと考える兵士のグループが存在いました。そのため彼らはその翌日早朝、「玉音放送」を阻止するためそのレコードの破壊を狙い皇居内を探索します。もし、その夜、「玉音放送」のレコードが発見、破壊されていたら、終戦は伸び、さらに多くの人々の命が失われることになったはずです。
幸いなことに、レコードは見つけられず、内大臣の木戸幸一らは金庫室に隠れて難を逃れ、クーデターは失敗に終わりました。
8月15日、正午、日本中にラジオを通して「玉音放送」が流され、日本人は天皇陛下自身の声により、日本の敗戦を知ることになりました。(これがアナウンサーの声や大臣などの声だったら、その説得力は半減したかもしれませんが、ほとんどの国民は初めて天皇陛下の声を聴いたので本物かどうかもわからなかった)
<参考>
映画「日本のいちばん長い日」(1967年)(監)岡本喜八(原)大宅壮一(脚)橋本忍(撮)村井博(出)宮口精二、戸浦六宏、笠智衆、三船敏郎、山村聡
映画「日本のいちばん長い日」(2015年)(監)(脚)原田眞人(原)半藤一利(撮)柴主高秀(出)役所広司、本木雅弘、松坂桃李、堤真一、山崎努、蓮沸美沙子
「アメリカ軍の上陸」
8月30日、アメリカ軍が横浜港に上陸。米軍主体による占領体制がここから始まります。
この後、10日間に神奈川県内で1336件の米兵による強姦事件が起きています。日本政府はこうなるであろうこうと予測していたため、急きょ「RAA特殊慰安施設協会」を設立。慰安婦を米兵に提供するための施設を準備。第1号が東京郊外に作られた後、数百か所も作られました。
<参考>
ノンフィクション「兵士とセックス 米兵は何をしたのか?」(著)M・L・ロバーツ(訳)西川美樹(出)明石書店(フランスにおける米兵の強姦事件などを中心に兵士とセックスを研究)
ノンフィクション「東京アンダーワールド」(著)ロバート・ホワイティング(戦後の闇市、慰安施設などを仕切った男たちの歴史)
満州に攻め込んだソ連軍は強奪、強姦を繰り返し、さらに67万4000人の兵士を捕虜としてシベリアなどの強制収容所で働かせます。捕虜にはならなかった日本人開拓民22万人のうち無事日本に帰れたのは14万人でした。
<参考>
映画「氷雪の門」(1974年)(監)村山三郎(原)金子敏男(脚)国弘威雄(撮)西山東男(出)二木てるみ、鳥居恵子、岡田可愛、栗田ひろみ、藤田弓子
「香港、再び英領となる」
日本軍の撤退が始まると、中国ではイギリスが香港の奪還に動ます。太平洋艦隊を動かして、香港を再びイギリス領に復帰させます。国民党は当然、それに対し抗議しますが、英米軍との関係を保たなければ共産党軍に勝てないことは明らかだったため、香港が英国領になることを認めます。しかし、国民党の議員のほとんどが私腹を肥やすことしか考えない政治家ばかりだったことから、国民の支持は共産党に流れ続けます。さらにソ連から援助を得ていた共産党軍は、兵力的にもどんどん力をつけており、国民党は結局中国本土をすべて共産党に奪われることになりました。民衆の英雄、毛沢東の人気は高く、まさにカリスマ的存在でしたが、そんな「英雄」もその後「権力」を増す中でいつの間にか「独裁者」へと変貌を遂げることになります。 |