ハリー・トルーマンと「悪魔の選択」


「第二次世界大戦の終わりと原子爆弾」
1941年~1945年

- ハリー・トルーマン Harry S. Truman -

<トルーマンの選択>
 時代は1941年。ナチス・ドイツは、いよいよその矛先をソ連に向け、孤立したイギリスは、アメリカに参戦を求めます。しかし、アメリカ国内は参戦に反対で、その間にもソ連は危機的状況に追い込まれます。ルーズベルトは、このままではドイツによってヨーロッパ全土が支配されてしまうとし、イギリスへの軍事援助を決断します。それでもなお、米軍は参戦に後ろ向きでしたが、ソ連の孤軍奮闘にアメリカ国内も参戦へと動きつつありました。そして12月の真珠湾攻撃により、アメリカはついに戦争に巻き込まれることになります。
 アメリカの参戦により、戦況は一気に連合軍の勝利へと傾くことになります。そんな中、ルーズベルト大統領が任期途中でこの世を去ってしまいます。偉大なる大統領の後を受け継いだのは、それまでほとんど実績のなかった副大統領のハリー・トルーマンでした。新任大統領のもとでアメリカ軍は、第二次世界大戦を終わらせようとします。しかし、勝利がもう目前となった頃、彼の耳元で悪魔が、「世界制覇を可能にする魔法を与えよう!」と囁きます。
 そして、ハリー・トルーマンは、この後の世界を大きく変えることになる恐るべき選択をすることになります。

<レンドリース法>
 1941年、アメリカ国内での参戦反対の世論が力を持つ中、ヨーロッパではイギリスが危機的状況に追い込まれていました。このままではヨーロッパ全域がナチス・ドイツに占領されるかもしれない状況でした。イギリス政府から悲鳴のような援助要請を受け、ルーズベルトは軍隊は出さないものの、イギリス軍への武器供与を可能にするレンドリース法(武器貸与法)を議会で可決させます。ただし、この法律の成立は、あくまでも兵器輸出を可能にしただけのもので、アメリカがドイツに対し宣戦を布告したわけではありませんでした。この時のアメリカは、まだ戦争に巻き込まれることを回避しようとしていたのです。しかし、そうした政府の姿勢に対して、民主党の議員ジョシュア・リーはこう訴えます。

「ヒトラーは狂っています。その狂人の手に、人類史上最悪の武器が握られているわけです。焼き尽くされた街並みを見ればわかるように、彼はそのスイッチを押すことに何のためらいもありません。アメリカが全面戦争を避ける方法はただひとつ、イギリスだけです。アメリカを血の洗礼から守っている防護壁は、いまやイギリスだけなのです」

 アメリカは少しづつ第二次世界大戦への参戦に動きだしつつあった中、この年の12月日本軍による真珠湾攻撃を受け、ついに参戦を決意、ヨーロッパへも兵を送り始めることになります。

<ソ連の危機>
 1941年、ドイツ軍によるソ連への奇襲攻撃「バルバロッサ作戦」は大成功となり、ソ連はドイツ軍の攻勢によって一気に危機的状況に追い込まれます。連合国の中でこの後圧倒的な犠牲を強いられることになるソ連は、他の連合国に対し、急きょ3つの要請をします。
(1)軍事的な援助の要請
 軍事的な援助やその他の援助物資はわずかながら送られますが、兵力の援助はほとんど行われませんでした。
(2)ヨーロッパの領土問題
 1939年の独ソ不可侵条約の後でソ連が獲得した地域を戦後も所有させてほしい。
(リトアニア、エストニア、ラトビア、ポーランド東部、ルーマニア、フィンランドの一部)
(3)第二戦線開始の依頼
 ソ連とは別にドイツへの攻撃を行うヨーロッパ上陸作戦の実施。これが唯一ノルマンディー上陸作戦として実行されますが、予定より一年半遅れ、ソ連は孤軍奮闘を余儀なくされます。そうなると、さすがにアメリカ国内の世論もソ連の戦いに対して応援のエールが送られるようになります。

「ソ連軍の強力な軍備、戦闘能力、そして偉大なる勇気は、ナチスの支配から人類を救った決定要因として語られることになるだろう」
オーヴィル・プレスコット「ニューヨーク・タイムズ」

 そうしたアメリカ国内の世論の動きに呼応するように、元々左派が多いハリウッドの映画界でも、1942年にはソ連をテーマとした商業映画が撮られ話題となりました。当時の代表作としては、「ミッション・トゥ・モスクワ」、「北極星」、「ロシアの歌」、「三人のロシア娘」、「炎のロシア戦線」などがあります。

「戦争に勝つためには、ソ連の力が何としても必要である。・・・もしも現在戦っている数百万人のロシア人が突然手を引いたなら、その穴を埋める者はどこにもいない」
リーランド・ストウ

 ソ連の孤軍奮闘に対し、アメリカはヨーロッパの国々に対し、ほとんど貢献をしていませんでした。そのため、外交的にアメリカの立場は弱くなり、経済的な好調とは別にアメリカは、世界をリードする何かをしなければならない状況に追い込まれつつありました。

 アメリカはこの戦争中に、かつてないほど大きな経済力と軍事力を身につけていた。だがソ連との交渉という点では、どうしても立場が弱かった。ソ連が最も苦しんでいた時期に、約束した支援を与えることができなかったからだ。ただし、アメリカには切り札が一枚残っていた。戦争でぼろぼろになったソ連の復興を、経済的に支えるという提案ができるからだ。一方、かつての超大国イギリスは、この交渉で最も弱い立場に置かれていた。大国の地位を保ちたいという主張を押し通す力もなく、アメリカの好意にすがるしかなかった。ヤルタ会談で露わになった溝は、やがて連合国をばらばらに引き裂くことになる。

 ソ連は英雄的な戦いを続け、連合国内でも高い評価を受けるようになりますが、実はその裏で密かに戦後を意識した恐るべき作戦も展開していました。
「カティンの森事件」
 ソ連は、危機的状況の中でも自国の領土拡張のため、恐るべき作戦を行っていました。その代表的な事件が「カティンの森事件」です。ソ連は、ドイツ軍に占領されたポーランドを自国の領土にしようと企みます。そのため、戦後、ポーランドを統治するであろうロンドンに亡命中の政権の力を弱めようと考えます。そのためには、亡命政府に従う勢力を一掃しようと、何千人ものポーランド軍の将校をカティンの森の中で大量に秘密裏に虐殺してしまいます。

<ルーズベルトの死とトルーマンの登場>
 1945年4月12日、戦後処理について話し合われた連合国によるヤルタ会談の後、予想外の出来事が起きます。それはアメリカ大統領ルーズベルトの急死でした。そのため副大統領になったばかりで、ルーズベルトとは2回しか会っていなかったハリー・トルーマン Harry S. Truman は突然、アメリカ大統領として世界の未来を担う役目を与えられます。
 実は、トルーマンは無能ゆえに操りやすい人物として大物政治家たちに上手く利用されてきた政治家でした。そのため、就任当初、彼は周囲の右派政治家に操られスターリンとの交渉で失敗を繰り返すことになります。
 それでも彼は自分が右派の政治家に操られ米ソの対立を深めてしまったことに気づきます。国内世論も独ソ戦でのソ連軍の勇気ある戦いぶりと悲惨な状況から、ソ連への同情、共感ムードが広がっており、ポツダム会談(1945年5月)の時点では米ソ関係はかつてないほど良好になっていました。このまま終戦を迎えれば、米ソは良好な関係の状態で世界を仲良く支配していたかもしれません。
 ところが、ここで悪魔が現れ、トルーマンの耳元でこう囁きます。
「大統領、原子爆弾の実験が成功しました!」

 原子爆弾の登場は、第二次世界大戦の結果を変えたわけではありませんでしたが、その後の世界の運命を大きく変えることになります。
「原子爆弾を手にしたからには、ソ連との覇権争いは勝ったも同然だ」
 そう思ったとしても不思議はなかったでしょう。
 ポツダムから帰る途中、彼はおつきの将校にこう語ったといいます。
「なぜならアメリカはいまや、まったく新しい種類の武器を手に入れたからだ。この強力な新兵器さえあれば、ソ連などわれわれには必要ない。もはやどこの国にも頼る必要はないのだ」

 日本人は、「無条件降伏」がこくたい(天皇制)の廃止と、天皇が戦争犯罪人として裁判にかけられて処刑される見通しを意味すると考えた。

「天皇の退位や絞首刑は、日本人全員の大きく激しい反応を呼び起こすであろう。日本人にとって天皇の処刑は、われわれにとってのキリストの十字架刑に匹敵する。そうなれば、全員がアリのように死ぬまで戦うであろう」
南西太平洋司令部の調査報告より

 そのため、アメリカ国内でも早く戦争を終わらせるために、「天皇の退位」を除くという条件を示すべきという意見は多く出されていました。しかし、アメリカはあくまでも「無条件降伏」にこだわり続けます。そこには、日本人に対する異常なまでの差別意識もあったようです。(アメリカ兵の多くは、日本人をサル以下の動物、ネズミと呼んでいました)その表れが、日本に対して行われた市街地を狙った空爆であり、東京へのナパーム弾攻撃であり、原子爆弾の投下でした。
 実は、アメリカ軍は第二次世界大戦においても、フランス国内ドイツ軍基地への空爆が市民に被害が出るとして回避するなど、市街地への空爆に消極的だったことがわかっています。同じ白人であることから、ドイツへの攻撃には人道的な意識が働いていたのかもしれません。それが変わったのは、ナチスによるユダヤ人迫害の事実が明らかになりだしてからのことでした。市街地への大規模な爆撃として有名なドレスデン市街への爆撃は、1945年2月のことでした。
 日本への攻撃についても、当初ヘイウッド・ハンセル少将は都市部での焼夷弾の使用に反対していましたが、軍は彼を呼び戻し、代わりの人物を送り込みます。それが「アイアン・アス(鉄のケツ)」と呼ばれたカーティス・ルメイ大将です。
「東京大空襲」
 1945年3月9日から10日にかけて、アメリカ空軍は334機の爆撃機によって東京を攻撃。10万人の市民を殺害します。その他、日本各地の100以上の都市、町に焼夷弾が落され、膨大な数の市民が焼き殺されました。

<原子爆弾の投下>
 ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、「アメリカが残虐行為においてヒトラーを上回ると誹謗されるのは見たくない」とトルーマンに進言したといいます。しかし、アメリカではこうした市街地への爆撃に対する批判の声はあがらず、その容認の流れが原子爆弾の使用をも進めることになりました。原子爆弾を手にしたトルーマンにとっては、日本がポツダム宣言をのもうがのむまいがソ連へのデモンストレーションのためにもそれを使用したかったのです。逆に、ぐずぐずしているとソ連が日本に攻め込んでしまい原子爆弾を使用する前に戦争は終わってしまうかもしれない。そう考えていたとも考えられます。

 1945年7月、日本に発せられたポツダム宣言への回答を待たずトルーマンはできるだけ早い時期に原子爆弾を投下するよう指示します。この時点で、日本が無条件降伏するかどうかは問題ではなくなっていました。
 1945年8月6日、広島へ原子爆弾が投下され、20万人もの人々が亡くなることになりました。
 ニュールンベルク裁判の首席判事テルフォード・テイラーは後にこう語っています。彼は8月9日の長崎市への原子爆弾投下は戦争犯罪であると考えていました。
「広島の是非については議論の余地があるが、長崎を正当化するに足る理由を私は聞いたためしがない」
 こうして、アメリカ軍は日本に2発の原子爆弾を投下しました。しかし、皮肉なことに、日本を降伏させた最大の原因は、ソ連の侵攻だったと言われています。

「広島の惨状が広く知られるようになるにはしばらく時がかかった。・・・それに比して、ソ連参戦はただちに壮絶な衝撃を与えた。東京に伝わる報告にはソ連軍が『大挙して攻めてくる』とあった。それにより深刻な衝撃と懸念をもって受け止められた。なぜなら私たち日本人は『ヨーロッパの強大な赤軍が日本に矛先を変える』という鮮烈な心象を胸に抱いており、ソ連侵攻をつねに恐れていたからである。」
河辺虎四郎中将

「日本はすでに敗北しており降伏する用意ができていた・・・
 広島と長崎に野蛮な兵器を使用したことは日本に対するわが国の戦争になっら貢献していない。はじめてこの兵器を使用した国家となったことで、われわれの道徳水準は暗黒時代の野蛮人レベルに堕した。私は戦争とはこのようなものではないと教えられてきたし、戦争は女子どもを殺して勝利するものではない」

統合参謀本部議長だったウィリアム・リーヒ提督

 同盟軍であるイギリスのチャーチルも、広島・長崎への原子爆弾の使用には、恐れを感じていたようで、ある会見の席でトルーマンにこう語ったと言われています。
「大統領、あなたと私が天国の門を守る聖ペテロの前に立ち、聖ペテロが”その方ら二人に原爆投下の責任があるそうだが、申し開きをしてみよ”と言ったとき、あなたに答えられる用意があることを願っています」

 こうしてアメリカが行った原子爆弾の恐るべきデモンストレーションは、スターリンに強い確信を植えつけることになります。
”アメリカはその意思を貫くためならどんな手段をとることもいとわないのだから、血に飢えたアメリカに対する抑止力としてソ連独自の原爆開発を急がねばならない”

 アメリカだけでなく世界の常識が、「敵国であれば市民を攻撃することも、OKである」という現在の状況ができたのは、第二次次世界大戦のこの時期だったと考えられます。現在の中東やアフガニスタンへの米軍やロシア軍の空爆が、当たり前のように受け入れられるようになったのは、ごく最近のことだったわけです。
「私たちは虐殺というものに麻痺してしまったのである。ミトリダテス6世は毒に対して免疫をつけるために毎日少量の毒を摂取し、その量を徐々に増やしたと伝えられる。この10年で徐々に惨事が増えてきたために、私たちはみな程度の差こそあれ『道徳のミトリダテス6世』になったのだ。他人への共感に対する免疫を獲得したのである」
ドワイト・マクドナルド(社会批評家)

<参考>
「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史(2) 2つの世界大戦と原爆投下 The Untold History of the United States」
 2012年
(著)オリバー・ストーン Oliver Stone、ピーター・カズニック Peter Kuznick
(訳)大田直子、鍛原多恵子、梶山あゆみ、高橋璃子、吉田三知世
早川書房

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