- セルジオ・メンデス Sergio Mendes -

<ブラジリアン・ポップの原点>
 僕と同世代の人たち(1960年前後に生まれた方)にとって、最初に出会ったブラジリアン・ポップと言えば、セルジオ・メンデスとブラジル66だったのではないでしょうか。もちろん、ジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビンカエターノ・ヴェローゾミルトン・ナシメントなど、セルジオ・メンデス以上の評価を得ているブラジルのアーティストも数多いのですが、彼らの音楽と出会う前、先ずは彼の音楽を聞いたのが原点だったという方が多いのではないでしょうか。
 かつて1970年代の初め頃、我が家(当時往年の人気ブランドJUNのブティックでした)ではモータウンの「ゴールデンヒット曲集」とセルジオ・メンデスのアルバム「フール・オン・ザ・ヒル」は、ヘビー・ローテーションでかかっていたものです。僕は店の二階に住んでいたので、耳にタコができるほど聞きました。その後、僕はアメリカン・ロック、ブリティッシュ・ロック、それにソウルばかりを聴くようになり、ブラジルの音楽とはすっかりご無沙汰になりました。再会したのは、それから10年ほどたった頃、大学を卒業して就職、給料で好きなだけレコードを変えるようになった頃です。ロックからR&B、ブルースへとルーツをたどり、そこから海外の黒人音楽へと向かうと、そこにはロックやジャズに影響を与え続けてきたブラジル音楽との再会が待っていたわけです。そして、そうやって世界中の音楽を聴きながら思ったのは、自分にとってポップスを聞くときの重要な価値基準の一つは記憶の奥深くにまで刻みつけられたセルジオ・メンデスのポップ・ミュージックなのだということでした。
 売れ筋の「アダルト・コンテンポラリー・ミュージック」の原点であり、ひと足早い「エスニック・ポップ」であり、しっかりと作り込まれた「スタジオ・ワーク作品集」であり、新たなブラジルの才能を世界に紹介する「ニュー・スタイル集」でもあったセルメン・サウンド。それは僕に「ポップスの先進国は、けっしてアメリカとイギリスだけじゃないぞ!」という重要なことを教えてくれた気がします。

<セルジオ少年、ジャズにはまる>
 セルジオ・メンデスは、1941年リオ・デ・ジャネイロの対岸に位置するニテイロという街に生まれました。父親が医者だったということもあり、小さな頃から音楽に親しむ機会を与えられ、ピアノを早くから習っていました。そのうえ彼は脊椎彎曲症という病のおかげで、他の子供たちのように外で走り回ることができず、自然にピアノに集中するようになりました。さらにジャズを聞くようになった彼はジャズ・ピアノの大物たち、スタン・ケントンやホレス・シルヴァーらに憧れるようになります。いつしか彼は厳しい父の目を盗んで生のジャズを聞くため、対岸のリオに船で渡るようになり「小瓶横町」と呼ばれる飲屋街の店に入り浸るようになります。父親にお金の使い道を説明できなかった彼は、いつもお金を持たせてもらえず、帰りの船賃が無くて店の常連客たちにカンパしてもらったこともあったそうです。(この「小瓶横町」は、その後ボサノヴァ発祥の地のひとつとして有名になります)

<ピアノ弾きとしてのデビュー>
 1960年代に入ると彼は、それらの店でピアノを弾くようになっていました。しかし、20歳になったばかりのお坊ちゃんはギャラをもらうこともできず、逆にお金を払って店内で飲み食いをするように言われていたそうです。(かなりお人好しだったのかもしれませんが、この頃苦労した分、彼は厳しい音楽業界を生き抜くすべを身につけられたのかもしれません)
 それでも音楽的才能を持ち合わせていた彼は、ジャズとボサノヴァを弾きこなし、数多くのアーティストたちとセッションを行いながら周りからも認められるようになります。1961年にブラジリアン・ジャズ・セクステットに参加した後、いよいよ自らがリーダーを勤めるバンド、ボサ・リオ・セクステットを結成します。

<伝説のライブから世界へ>
 1962年11月21日、彼はニューヨークのカーネギー・ホールで行われた歴史的なボサノヴァ・イベントに弱冠21歳の若さで参加します。若いとは言え、それまで下積みで苦労をしてきたせいか、彼は他の出演者たちに遠慮することなく自らの意志を主張しています。
「自分は、トップで出演するか、トリをとるかどちらかにしてほしい。そして、絶対に他のアーティストのバックは務めない!」とコンサートのプロデューサーに宣言したそうです。その後の彼のアメリカでの成功は、こうした彼の抜け目なさと強気な姿勢のおかげだったのかもしれません。
 こうして、一躍その名をアメリカでも知られるようになった彼は、ジャズ界の大物たち、キャノンボール・アダレイ、ハービー・マン、ポール・ウィンターらのアルバムにゲスト参加。アメリカでのボサノヴァ・ブームを支えて行く存在になります。
 その後、ブラジルに戻った彼は、ブラジルの大手ファッション・ブランド「ホーディア」のためのショーを行うため、ナラ・レオンや自らのバンドを率いてヨーロッパや日本など世界中を回るツアーに参加します。

<アメリカでの活躍開始>
 アメリカに移住しロスに落ち着く決意を固めたセルジオは、ある日「シェリー・マン・ホール」というクラブで演奏していると、最前列に座って男が突然立ち上がり、こう叫んだそうです。
「演奏を止めるんじゃないぞ!15分で戻るからな!」そう言って男は店を飛び出して行きました。それはジャズ・ギタリストのバーニー・ケッセルでした。彼は約束どおり15分で店に戻ってくると、ステージに上がって一晩中ジャムセッションを繰り広げたのだそうです。それだけ、ジャズ・ミュージシャンたちにとってブラジルのミュージシャンたちは刺激的な存在だったわけですから、アメリカで一旗揚げようという気になるのも当然のことかもしれません。(ただし、こうして多くのボサノヴァ系ミュージシャンが故国ブラジルを離れたことで、ブラジル国内のボサノヴァ・ブームはあっという間に終わってしまったのも事実です。

<ハーブ・アルバートとの出会い>
 1965年こうして彼はアメリカのロスに家を構え、西海岸を中心に本格的な活動を開始します。しかし、その頃の彼はまでジャズにこだわっており、けっして万人向けのポップスを演奏していたわけではありませんでした。そんなボサノヴァ風クールジャズ・スタイルが大きく変身をとげたのは彼と同じく西海岸を根城に一旗揚げようとしていた若者ハーブ・アルバートとの出会いがきっかけでした。
 ハーブ・アルバートは、トランペッターとして自らティファナ・ブラスというインストロメンタル・ラテン・ポップ・バンドを率い大きな人気を得ており、その勢いで自らレコード会社A&Mを立ち上げたばかりでした。この会社の打ち出していたイメージは、西海岸的なさわやかなポップスで、その集大成として後にカーペンターズが登場。一気に世界的なレコード会社になって行きます。しかし、当時はまだ所属するアーティストがなく、社長自らが新しい個性を探しているところでした。
 そして、セルジオもまたそれまでのボサノヴァとは異なるポップなサウンドを目指しており、ジャズ的な要素(インプロビゼーション部分など)を取り除き、その演奏にスムーズにのるような女性ヴォーカルを加えようと考えていました。そんな彼の狙いにぴったりの声をもつヴォーカリスト、ラニー・ホールをシカゴで見つけた彼は、さっそく彼女を加えた新しいバンドをつくり、リハーサルを始めます。ちょうどそのリハーサルを行っていた時、ハーブ・アルバートがスタジオを訪れ、彼らの演奏を耳にします。その演奏がA&Mが求めている音楽にぴったりであることを確認した彼は、さっそくセルジオと彼のバンドをA&Mのライン・アップに加える決断を下し、さっそく自分のバンド、ティファナ・ブラスのツアーに前座として参加させました。

<ブラジル’66デビュー>
 ハーブ・アルバートは豊富なスタジオでの経験をいかして、セルジオの新しいバンド、ブラジル’66のデビュー・アルバムをプロデュース。いよいよ彼らのファースト・アルバム「セルジオ・メンデス&ブラジル’66」が発売されました。シングル・カットされたジョルジ・ベンのカバー曲「マシュ・ケ・ナーダ Mais Que Nada」は見事なヒットとなります。アルバムも、全米アルバム・チャートに126週間も居座るという快挙を成し遂げています。
 女性二人のヴォーカルとボサノヴァ風にアレンジされたロック、ソウル。ポップスの名曲たち。それはまったく新しいポップスのスタイルであり、他のアーティストがそう簡単にマネできるようなものでもありませんでした。(実際、彼らのスタイルをマネたアーティストはいたかもしれませんが、誰も成功しなかったと言っていいでしょう)
 彼が取り上げた楽曲は、ビートルズ(レノン&マッカートニー)やバート・バカラックから、オーティス・レディング、そしてまだほとんど無名だったジョルジ・ベンやエドゥ・ロボらのMPBナンバーなど多彩です。この選曲の良さもまた彼の大きな強みでした。常に新しいスタイルを取り入れようとする彼の姿勢は、年に一枚のペースでコンスタントに発売されていたアルバムを聴いても明らかですが、10年ごとに変えられるバンド名にもそのこだわりが表れていたといえるでしょう。(ただし、1979年にセルジオ・メンデス&ブラジル’88名義で「マジック・レディー」発表後は、ソロとして活躍しています)彼はバンド名を改めるたびにメンバーのほとんどを入れ替えて、新しいスタイルへの挑戦を始めていました。そして、その中で故国ブラジルから現れた新しい才能を紹介。彼らが世界的な活躍を始めるきっかけを与える役目も果たしました。

<セルジオ再ブレイク>
 特に1992年発表の「ブラジレイロ Brasileiro」では、まだ無名だったバイーアのパーカッショニスト、カルリーニョス・ブラウンと彼のグループが大きくフィーチャーされ、この作品の大ヒットとともに彼らは世界進出を果たすことになりました。さらにこの作品はセルジオ自身にとっても、3年間の空白の後に発表した入魂の一作であり、一時期ほどの勢いを失いつつあった人気を再び盛り返すきっかけとなった作品です。同じ時期、彼の一連の作品が世界各地のDJたちによって見直され、再評価の動きが起きていたこともあり、1990年代彼はポップス界のトップへと返り咲いたのでした。(「ブラジレイロ」はグラミー賞においてワールド・ミュージック部門のアルバム賞を受賞しています)
 アメリカへ移住後も、ブラジル人としてのアイデンティティーをしっかりと保ちながら活躍を続けた彼の再評価が行われた1990年代。それはカエターノ・ベローゾ、マリーザ・モンチ、ミルトン・ナシメント、セパル・トゥラ、マリア・ベターニャ、カルリーニョス・ブラウン、シコ・サイエンス、チタンス、レニーニなど新しい才能たちによってもたらされたMPBの世界的ブレイクの時期とも重なっています。セルジオがつくった小さな道は多くのアーティストたちによって、より大きな道へと広げられたと言えそうです。

<締めのお言葉>
「ハービー・ハンコックとミルトン・ナシメントのコラボレーションを見ていると興味深いね。ふたつの違う世界がたがいに好奇心を抱いている感じだ。今でも私はホレス・シルヴァーやバド・パウエルを聴いている。スティーヴィー・ワンダー、ヘンリー・マンシーニ、バート・バカラック、パット・メセニー・・・・・ブラジルに影響されていない人間がいるかね?」
 

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