「恥 Shame」

- サルマン・ラシュディ Salman Rushdie -

<パキスタンの現代史>
 この小説の舞台はパキスタン。時代はインドとパキスタンが英国から分離独立を果たし、その後、パキスタンとバングラディッシュが分裂。さらにパキスタンに誕生した軍事政権とその後の民主化。そして、民主政権がしだいに独裁化してゆくことで再び軍によるクーデターが起き、その後の政権がイスラム原理主義に基づく非民主的な国政を行うに至る第二次世界大戦から1980年代までが描かれています。
 ここでいう民主政権の指導者は、パキスタン人民党のトップだったズルフィカール・アリ・ブットのことだそうです。そして、その後保守化、独裁化していったブット政権を倒した軍のトップとは、ズイヤー・ウル・ハック将軍のこと。熱心なシーア派の信者だったという彼は、その後、過激なまでのイスラム原理主義的な政治改革を行い、逮捕していたブット前首相の復活を恐れて、彼を処刑するなど、過激さを増すことになりました。その政治は、その後イランを中心に世界中に広まることになるホメイニ師を中心とするイスラム原理主義政治の先駆けだったといえるかもしれません。
 ただし、この小説の背景にはこうしたパキスタンの現代史があるのですが、物語そのものはまったくそうした歴史と別に展開する大人向けのファンタジーです。

<大人向けファンタジー小説>
 彼がこの小説を書くきっかけとなったのは、彼が住むイギリスの首都ロンドンの地下鉄で起きたアジア人女性の白人青年たちによるレイプ事件だったいうことです。

・・・ここで二つのケースを想定してみよう。一つは深夜の地下鉄の中で、十代の男の子たちに襲われた少女の場合である。この少女はまたもや例の<アジア人>であり、男の子たちは予想どおり白人である。あとになって、自分がなぐられた場面を思いかえすとき、彼女が感じるのは怒りではなく、恥の思いである。彼女はただ事件がもれないことを願うだけである。・・・
 黒煙をあげている都市をわが家のテレビで見ているときなど、わたしは商店や警官の盾や車に放火しながら街をかけ抜けて行く若者たちの額に、めらめらと恥の思いが燃えさかっているのを目にする。彼らはわたしに、あの無名な少女を思い起こさせる。人々に長いこと屈辱を強いれば、彼らの中から狂暴性がふき出してくるのだ。・・・
 わたしは、こうした怒りが地下鉄のあの少女の中で解き放たれたとしたら、どのような事態になったろうと想像する。・・・

 正直、この小説は話の流れを把握するのにもけっこう時間がかかり、100ページぐらいまでは我慢して読む必要があるかもしれません。そのうえ、この小説に登場する地名や名前はイスラム系のなじみのないものが多く憶えにくいのも確か。しかし、物語の本筋はけっこうシンプルな娯楽小説なので、後半は一気にページが進むはずです。
 それに彼は小説の中でパキスタンの歴史や自らの心情など様々な解説を加えてくれます。例えば、イギリスに住み、故国パキスタンを捨てた自分が、故郷について書くことの意味をこう説明しています。

<部外者じゃないか!でしゃばりめ!この問題について、おまえなんかに語る資格があるのか!・・・>
 それはわかっている。誰もわたしを逮捕はしなかったし、これからも、しそうにないのだから。
<密猟者!剽窃者!われわれはおまえの権威など認めないぞ。こちらには、おまえの正体が割れているんだ。おまえはよその国の言葉で、旗みたいに自分をくるんでいるんだ。お得意の二枚舌でわれわれのことをしゃべり散らしたところで、おまえの言えることは嘘だけじゃないか>
 わたしはつぎのような問いによって、それに対する答えとしたい。歴史とは、はたして、そこに参加している者だけに領有権があるとみなされるべきものだろうか?いかなる法廷で、そういった権利は主張しうるのか。いかなる国境策定委員会が、そうした区分線を入れうるのか。
 死者のみが語ることを許されるのか?
 わたしは自分に向かって、これはいわば、いとまごいの小説、わたしが何年も前に離脱しはじめた東洋に関する最後の作品でなるだろうと言いきかせる。・・・


 面白いのは、自ら「歴史」について語ることを宣言しているようでいて、それはあくまでも「おとぎ話」にすぎないのだ、とも書いていることです。

 もしわたしがリアリスティックな本を書いてきたのであれば、今ごろになって、わたしはたんにパキスタン一国についてではなく、世界的な問題について論じているのだ、などと抗議したところで、何の役に立つだろう。
 本は発禁になり、くずかごに投げ捨てられ、燃やされてしまったろう。努力がすべて水の泡となるのだ!こうして、リアリズムなるものは、作家の心をずたずたに引き裂きかねないのである。
 しかし、さいわいなことに、わたしはただ現代のおとぎ話を語っているにすぎないのだから、その点はまったく問題ない。・・・

 現実には、この本はパキスタンに対する批判の書として、母国で発禁処分になりました。さらに、この作品の後に発表した世界的な話題となった作品「悪魔の詩」によって、彼がイスラム過激派から命を狙われることになるのを考えれば、あえて「おとぎ話」だとことわることを批判することはできないでしょう。
 この小説は政治的な主張をカムフラージュするかのように書かれていて、その合間に少しずつ著書の思いや歴史的な事実が挟み込まれています。例えば、「パキスタン Pakistan」という国名に隠された秘密について書かれている部分。

 これはよく知られていることだが、Pakistanなる語は頭文字を組み合わせて作った言葉であり、もともとはイスラム教徒の知識人グループが英国で考えついたものであった。PはPunjab(パンジャブ地方)、AはAfghan(北西辺境部)、KはKashimir(カシミール地方)、SはSind(スィンド地方カラチ周辺)、Tanは伝えるところによるとBaluchistan(パキスタン西部山岳地域)をそれぞれ現している(読者もお気づきのように<東翼>に関してはまったく無視されている。つまりこの名称の中に、ベンガル地方(のちのバングラデシュ)はもともと含まれていなかったのであり、やがて彼らはその間の事情を察知して、パキスタンのインドからの分離運動を離脱するにいたるが、こうした二重の分離が人々の身にどのような影響を与えたか、想像していただきたい!) - というわけで、パキスタンという言葉は異郷で生まれ、後に東に移ったもの、二国にまたがって生まれ、あるいは移植され、歴史の上に強引に押しつけられたものである。

 アジア人女性のレイプ事件からインスピレーションを得て書き始められたこの小説は、虐待され、差別されてきた人々がある時を境に反抗に転じてゆく物語とうこともできます。そして、その中に主人公の医師オマル・カイヤーム・シャキールとスーフィア・ゼノビア・ハイダルというカップルが登場して「美女と野獣」が展開されます。さらにスーフィアは、知能の発達が遅れた少女であると同時にある瞬間殺人鬼に変身してしまう怪物でもあります。それはまさに「ジーキル博士とハイド氏」の女性版です。
 こうして、この小説は「ファンタジー小説」「歴史」「政治小説」「パロディー」「ホームドラマ」などのゴッタ煮に「解説」までもが文章の中に収められている不思議なスタイルの作品となりました。

 物語をはじめるまえに、わたしの手の中にあるのは極端なまでに男性的な物語、つまり性的なライバル関係や、野心、権力、庇護、裏切り、死、復讐といったもののサーガなのだと、わたしは考えていた。しかし物語はどうやら女性たちに乗っ取られてしまったようである。彼女たちは物語の辺境から進軍してきて、女性たちの悲劇や歴史や喜劇も容れろと要求する。そこでわたしは曲がりくねった複雑な表現を用いて物語を語らねばならなくなり、わたしの<男性的な>筋立てを、いわばその裏返しの、女性の側のプリズムを通して、屈折させて見えざるをえなくなった。

 そして、こうして生み出された物語はさらに、もうひとつの女性イスカンダルの妻ラーニ・フマユーンによって予言されていて、18枚のショールへの刺繍によってあらかじめ記録されていました。(予言されていました)

 ウールの碑文。十八枚の記憶のショール。すべて芸術家は、おのれの創造物に名前をつける権利がある。やがてラーニは、勢力をもちはじめてきた娘に作品を贈るにあたって、トランクの中に一枚の紙片をしのばせることになる。この紙に書くべく彼女が選んだタイトルは『イスカンダル大王の恥知らずな行状』となるだろう。

 さらに二人の男の対立は、フランス革命におけるロベスピエールとダルトンにも例えられています。

・・・彼(ダントン)が首をちょんぎられるのは、あまりにも快楽を愛しすぎるがためである。享楽主義には破滅的な要素がある。民衆はロベスピエールに近い。彼らは楽しみというものに不信感を抱いているのだ。
 この二つの対立 - 快楽主義対、禁欲主義者 - こそ、その劇の語るところによれば、歴史における真の弁証法なのである。左と右、資本主義と社会主義、黒と白といった構図は忘れたまえ。善対、悪徳、禁欲僧対、淫売婦、神対、悪魔 - この両者の勝負なのだ。
 ムシュー、マダム。さあ、どうぞお賭けください。


 こうしたタイプのゴッタ煮的な小説は、読者にとってやっかいな存在かもしれません。肝心の物語の本筋からいつの間にか「歴史」や「政治」の授業にそれてしまい把握しにくいからです。まして、パキスタンの歴史や中東問題に興味がない人にとっては、そうした本筋以外の部分はつまづきのもとです。なんなら、そのへんを飛ばして読んでもいいと、僕は思います。がまんして読んでゆけば、ラスト100ページはまったく先が読めなくなりどんどん読み進むことになるはずです。
 そして、そんな意外なラスト近くになって、やっと著者の本音が差し込まれます。アジア的ファンタジー小説というオブラートで包んだイスラム社会を外から見た当事者からも主張。イスラム社会を侵略し続けてきた外部の人間(西欧人)と彼らに対して反抗の狼煙をあげた内部の人々(イスラム原理主義者)へと発せられた彼のメッセージは、どれだけ届いたのでしょう?
 残念な事に、その後も2つの異なる文化圏の対立の度合いは深まることになり、ついにはあの同時多発テロ事件という最悪の事件が起こるところまで進んでゆくことになります。

 世に言うイスラム原理主義は、パキスタンの場合、人々の間からわき起こったものではない。それは上から押しつけられたものである。・・・
 しかし無理じいされたという事実には、変わりはない。しまいに、人はそれにうんざりしてくる。信仰に対して信頼を失ってくるのだ、神への信仰ではないにしろ、少なくとも国家の基盤としての信仰に対して。そのとき独裁者は失墜し、人々は、彼が神まで道づれに引き倒してしまったことに - 国を正当化する神話まで破壊されてしまったことに、気づく。この時点になると、わずか二つの選択しか残されていない。国が分解するか、新たな独裁か・・・いや第三の道がある。わたしはその可能性を否定するほどペシミスティックではありたくない。
 第三の選択は、古い神話を新しい神話に代えることである。こうした神話は三つあり、それぞれ在庫があるので、すぐにでも取り寄せることができる。自由、平等、友愛。
 わたしはこれをぜひ推奨したい。


<著者、サルマン・ラシュディー>
 著者のサルマン・ラシュディーSalman Rushdie は、1947年、インドとパキスタンがイギリスから独立した年に生まれています。彼の父親はインドの大都市ボンベイの裕福な実業家で、イスラム教スンイー派に属していましたが、イギリスのケンブリッジ大学を卒業したインテリでもありました。彼もボンベイにあるキリスト教系の学校で英語での教育を受け、14歳になるとイギリスの名門パブリック・スクール、ラグビー校に入学しました。ところが、そこで彼は厳しい人種差別にあい大きなショックを受けました。それでも彼は成績優秀だったこともあり、ケンブリッジ大学のキングス・カレッジに進学します。
 幸いな事に、この時期世界はベトナム反戦運動や若者たちの意識改革の影響で大きく変わりつつありました。そのため、大学で彼はそれまでのような人種差別に苦しまずに勉強することができたといいます。
 1968年に大学を卒業した彼は、両親が移住したパキスタンのカラチに戻り、そこでテレビのための台本を書く仕事につきます。しかし、英国の生活に慣れてしまった彼にパキスタンという国の古い体質は耐えられるものではなく、すぐに彼は英国に戻ってしまいました。当初、彼はプロの劇団に入り、そこで戯曲を書いたりしていましたが、生活して行くことができず、コピーライターとして働き始めます。
 安定した収入を得た彼は、仕事以外の時間を使い小説を書き始めます。そして、1977年アラビアの神話をSF風にアレンジした小説「グリマス Grimus」を発表。その後に発表した「真夜中の子供たち」は分厚い作品にも関わらず、世界中で高く評価され、イギリス最高の文学賞「ブッカー賞」を受賞します。しかし、「真夜中の子供たち」は当時インドのトップにいたガンジー首相を批判していたため、インドでは発禁処分となり、本書もまたパキスタンの政権を批判していることは明らかだったため、故国パキスタンで発禁処分となっています。そして、この後発表された「悪魔の詩」はイスラム教に対する冒涜として、イランの最高指導者だったあのホメイニ師から処刑宣告が発せられることになります。彼のそれ以後、常に死の危険にさらされながら、警官による護衛のもとで住居を転々と変えながら生きることになりました。
 彼の写真を見るとわかるのですが、彼の目力は半端ではありません。どんな権力にも屈しないという強い意志が感じられます。いったいどこからそうした強い意志は生まれたのでしょうか?
 命がけで小説を書き続ける彼にとって、この小説はまだ楽しんでかける余地があった時代だったのかもしれません。そのせいか、この小説はけっこうユーモアもあり、一級品のエンターテイメント小説として、十分に読み応えがあります。

 独裁者はいかにして倒れるのか。ばかげた楽観主義にもとづいて、いずれ終わるのが圧政というものの運命である、と延べた古い格言がある。もしそうなら、始まり、継続し、地歩を固め、そしてしばしば前よりもさらに強大な権力によって維持されるのも、圧政というものの運命だと言えるはずである。
 まあ、まあ、そう肩ひじを張らないで。考えてみれば、わたしはただ、おとぎ話を語っているにすぎないのだから。したがって、わたしはただ、おとぎ話を語っているにすぎないのだから。したがって、わたしの独裁者は悪鬼的、妖精的手段で権力の座から引きずりおろされることになるだろう。「作者にはその方が楽だろうからね」というあからさまな非難の言葉も聞こえてきそうだが、それに対しわたしは、ええ、そうですよ、たしかにそのとおりです、と答えるしかない。しかし、いくぶん嫌みにとられるかもしれないが、こうつけ加えさせていただきたい。「ご自分でもたまには独裁者を追放してごらんになったらいかがです」


「恥 Shame」 1983年
(著)サルマン・ラシュディ Salman Rushdie
(訳)栗原行雄
早川書房

<あらすじ>
 現在のパキスタン辺境にある街に住む大金持ちのシャキール家の三人娘チュンニー、ムンニー、ブンニーは結婚しないまま一人の男の子をもうけます。その子、オマル・カイヤーム・シャキールは3人の母親たちにより家から出ずに育てられました。頭は良いものの、覗き趣味をもつ孤独な少年は、その後、家を出て優秀な医者になります。
 パキスタンとしてイギリスから独立した新しい国の混乱する政界をまとめ民主化を進めることになったイスカンダル・ハラッパーは、それまでの軍事政権と異なる政治を行い民衆の支持を得ていました。しかし、彼には跡継ぎとなる息子はなく、妻のラーニとの間に男まさりの女の子アルジュマンドがいるだけでした。そんな彼にとって息子のような存在だったハロウン・ハラッパーは、イギリスで放蕩生活をした後に帰国。彼をおとなしくさせようとイスカンダルは、彼にとってライバル的な存在ともいえる軍人ラザ・ハイダルの娘ナヴィードとの結婚を進めます。
 しかし、ナヴィードはポロ競技のスター選手でもある警察官タルヴァール・ウルハックと恋仲になり子供を身ごもったことで宗教的に結婚せざるを得なくなります。
 ナヴィードの姉スーフィア・ゼノビア・ハイダルは肉体だけでなく知能も発達が遅れていて、社会から隔離されて育てられていました。そんな彼女の治療を担当していたオマル・カイヤームはいつの間にか彼女を愛するようになり、二人は秘かに結婚することになります。

「自分のことを海だと思うのですよ」とスーフィア・ゼノビアに言った。
「そう、そして彼を、男を、海の生きものだと考えなさい。男とはそういうものなのですよ。生きるために彼らはあなたの奥深くにもぐっていかなければならないの、あなたのかくされた体の潮の中にね」


 ところが、スーフィアには、野獣の本能ともいえる恐ろしい能力を隠しもっていて、それが爆発するたびに悲劇が起きることになります。パキスタンでは再び内政が混乱し始めます。イスラム教から離れ、民主化を進めるイスカンダル政権に対し、イスラム原理主義グループや軍部が反旗をひるがえしクーデターを起こします。そして、その中心人物がラザ・ハイダルでした。
 政権を追われたイスカンダルの運命は?しかし、そんな政治状況の中、謎の殺人事件が各地で勃発します。その犯人は誰なのか?

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