「裸の島」から「一枚のハガキ」へ

- 新藤兼人 Kaneto Shindo -

<異色のセリフなしドラマ>
 この映画が作られたのは1960年(昭和35年)のこと。僕の生まれた年です。もちろんタイトルは知っていましたが、見る機会がなく半世紀たってやっと見ることができました。でも、もしこの映画を学生時代に見られていても、たぶんその良さはわからなかったと思います。おまけにこの映画、登場人物たちにセリフがないため、ドラマらしいドラマがほとんどありません。セリフがないのに、ドラマが不自然に見えないのは、この映画が黙々と働き続ける家族の姿だけを追っているからです。もし、その仕事が強盗や医師とか特殊なものなら、セリフがなくても面白いかもしれません。しかし、彼らの仕事は農業。そして、映画が映し出しているのは、そのほとんどが家族が水を運ぶ様子です。ところが、その水を運ぶという単純な作業が見るものを感動させるのです。
 「映画とは、映像が語るべきもの」という新藤監督の意思が貫かれたこの作品は、究極の映像詩と呼べる作品です。僕もこの映画が映し出す家族の風景をしみじみ味わえる年齢になったおかげで、この映画の良さが理解できるようになりました。しかし、新藤監督の自伝「ながい二人の道」を読むと、この映画にはもっと深い思いや意味が込められ、監督の人生だけでなくまわりの人々や日本映画の歴史をも変える重要性があったことがわかりました。
 先ずは、新藤監督が「裸の島」を撮るまでの道のりをたどりたいと思います。

<新藤兼人>
 新藤兼人(本名は兼登)は、1912年4月23日広島県の佐伯郡に生まれています。彼の祖父は宮大工と灸点師として財をなした資産家でしたが、彼の父親はその資産を受け継ぐものの少しずつそれを失い、彼が15歳の時、破産してしまいました。財産だけでなく住む家も失った彼の家族は、バラバラになってしまいます。長男は警察官となって尾道へ。長女は家の破産を救うためにアメリカに移民した日系人のもとに嫁ぎ。もう一人の姉も家計を支えるため、看護婦として働くため広島へと出て行きました。結局、まだ子供だった彼だけが家に残され、両親とともに唯一残された土蔵の中で生活することになりました。しかし、貧困苦の中、母親もまたこの世を去ってしまったため、彼は大阪に住む長男の家に預けられることになります。そして、ある日、映画館で山中貞雄監督の映画「盤嶽の一生」を見た彼は自分も映画監督になろうと思うことになりました。
 彼は思い立ったが吉日と何のつてもないまま、山中貞雄が映画を撮っている京都の太秦へと向かいます。兄の警察関係のコネのおかげで彼は現在の東映京都撮影所に入社することができました。

<映画界での修行スタート>
 彼は撮影所で先ず初めにフィルム現像の仕事を与えられることになりました。しかし、元々映画監督になりたくて入社していた彼は、現像の参考資料として渡される映画の脚本を持ち帰り、家でじっくりと読むようになり、自学自習で脚本の執筆を始めます。こうして、彼の最初の目標、脚本家修行が始まることになりました。
 しかし、すぐに脚本家になれるわけはなく、彼は当時美術担当として活躍していた水谷浩に誘われて彼の元で映画美術を学びます。この経験は後に大いに役立つことになりますが、彼はその仕事のおかげで大切な人を出会とことができました。彼は美術担当として、当時巨匠として活躍していた溝口健二の映画「愛怨峡」の撮影に参加。初めて巨匠の演出を目にした彼は、その仕事ぶりを学ぼうと美術担当として彼の大作「元禄忠臣蔵」の撮影にも参加しています。さらに彼は、スクリプター、編集者として映画の仕事に関わっていた妻のすすめもあり、溝口健二のもとで脚本家として修行を積もうと決意します。

<脚本家修行開始>
 溝口健二に弟子入りを申し込んだ彼は、さっそく脚本も持ってくるよう言われました。ところが、彼が持っていった脚本を読んだ溝口健二は、こう言ったといいます。
「これはシナリオじゃありませんね。ストーリーですよ、こんなものじゃ仕方ないね」
 この言葉にショックを受けた彼は脚本家になることをあきらめかけますが、妻の激励によりもう一度やり直そうと古本屋で近代劇曲全集を買い、それを何度も読み返しながらゼロから脚本について学び直しました。そして、彼は軍からの訓練招集で体験した軍事教練を参考に「強風」という脚本を書き、それを軍の情報部が募集していた国民映画に応募。見事に入選をした彼は再び脚本家として働く自信を取り戻したのでした。

<妻の死>
 やっと脚本家として働き出した彼は内田吐夢監督の作品を担当していた時、突然、妻が血を吐いて倒れたと連絡を受けました。時代は戦時下、彼の妻は当時不治の病だった結核に冒されており、回復の見込みはありませんでした。こうして、彼は1943年まだ27歳という若さの愛妻を失ってしまったのでした。その直後、彼は招集されて入隊。命など失ってもよいと思うほど落ち込んでいたのですが、なぜか彼はくじ引きにより最も安全な本土にある軍の施設で働くことになり、多くの同僚を命を落とす中、終戦を無事迎えることになりました。(運命を分けたハガキによるこの抽選のエピソードを映画化したのが、2011年新藤監督の遺作となった「一枚のハガキ」です)

<戦後映画界の混乱期>
 戦後、彼は松竹に脚本家として入社。しかし、映画界は戦後復興の中、大混乱に巻き込まれることになります。それは政治的混乱の中で起きた「急激な民主化」とその反動ともいえる「赤狩り」、そして映画会社による組合つぶしとそれに対抗するストライキなど、様々な事件がその時期集中したのです。各映画会社では経営陣と組合の対立が生じ、ストライキとそれに対する会社の首切りで多くの才能が仕事場を失うことになりました。
 そんな中、彼は師匠的存在だった監督、吉村公三郎、俳優の殿山泰司らとともに松竹を出て、1950年に独立プロダクション「近代映画協会」を設立します。そして、大映などメジャーの配給会社と提携しながら作品を撮ってゆくことになりました。幸い当時は映画の黄金時代だったこともあり、需要がいくらでもありました。そのおかげで自由な作品作りが十分可能になる恵まれた時代だったといえます。
 黄金期だった吉村公三郎の作品はどれもヒットに結びつき、そのおかげで経営が安定したことで、彼にもついに監督をするチャンスが巡ってきました。その頃、彼は自らの脚本家修行時代の体験をもとに亡くなった妻に捧げる「愛妻物語」を書き上げていました。しかし、思い入れがつまったその作品の監督を他人に任せる気にはなれませんでした。
 こうして、彼は亡き妻への思いを胸に初監督にのぞむことになり、そこで再び運命的出会いを果たすことになります。

<乙羽信子との出会い>
 大映から「百万ドルの笑顔」というキャッチ・フレーズでデビューした新人女優、乙羽信子は、何本かの大映映画に出演するものの泣かず飛ばずの状態が続いていました。そんな中、彼女は「愛妻物語」の脚本のことを知り、自らその映画への出演を志願しました。貧しい生活の末、結核にかかり血を吐いて死んでゆくという悲惨な役どころは、新人アイドルには相応しくないと周りからは反対されますが、彼女の決意は変わりませんでした。こうして、「愛妻物語」は乙羽信子と宇野重吉の主演により映画化されることになりました。
 当初、新藤兼人は自分にとって大切な脚本を自分の手で映画化したら、再び脚本家の仕事に戻るつもりだったようですが、完成した「愛妻物語」(1951年)は予想以上のヒットとなり、彼には次の作品を撮るチャンスが巡ってくることになりました。そこで彼は亡き妻とともに忘れられない存在だった故郷広島のために映画を撮ろうと決意します。

「原爆の子」 1952年
(監)(脚)新藤兼人
(撮)伊藤武夫
(音)伊福部昭
(出)乙羽信子、滝沢修、宇野重吉、山内明、清水将夫、細川ちか子、北林谷栄
 1945年に広島に原子爆弾が落とされて7年がたっていました。彼はその街を舞台にある女性教師が教え子たちに会うために広島を訪れ、そこで様々な人々と出会い原子爆弾の恐ろしさを改めて知ることになります。

 当時の日本は原子爆弾を投下したアメリカ軍の占領下にありました。そのため、撮影が無事にできたとしても、その作品を公開できる保障はまったくありませんでした。当然、製作費用のための資金をメジャーの映画会社に出資させることは不可能でした。それでも地元広島の人々は彼の映画への応援に積極的で、宇野重吉を中心とする劇団民芸と近代映画協会が資金を折半することでなんとか撮影は行われることになりました。完成後、メジャーの配給会社に協力を断られたため、独立系の配給会社によって公開されることになったこの映画は口コミで全国的なヒットとなりました。そして、この映画にも主演した乙羽信子は、この作品を機に大映を退社し、近代映画協会のメンバーとなりました。

<不倫関係と危機の始まり>
 この頃、すでに新藤と乙羽は恋愛関係にありましたが、彼には妻も子供もいたため、その恋愛は道ならぬものでした。しかし、彼女はそのことを知っており、決して結婚することはできないと知りながらも、彼のために働く決意を固めていました。当然、そのことで彼女はマスコミから叩かれることになり、アイドルとしての道は完全に断たれることになりましたが、これ以後二人はまさに死が二人を分かつまで一緒に闘い続けることになります。
 「原爆の子」は興行的に成功しましたが、その後、近代映画協会はヒット作に恵まれず、経営はしだいに厳しいものになってゆきました。そんな中、協会の中心だった吉村公三郎は大映に誘われて移籍。近代映画協会はその柱を失い、経営的に危機的状況を迎えることになります。
 その後、彼はビキニ環礁で行われたアメリカによる水爆実験によって被爆した日本の漁船「第五福竜丸」を題材としたドキュメンタリー・タッチの映画「第五福竜丸」を製作。大きな話題となった事件なだけにこの作品は大映によって公開されることになりましたが、興行的には赤字となり、いよいよ近代映画協会は倒産の危機に追い込まれることになりました。

「裸の島」 1960年
(監)(製)(脚)(美)新藤兼人
(撮)黒田清巳
(音)林光
(出)乙羽信子、殿山泰司、田中伸二、堀本正紀
 倒産寸前の経営危機の中、開き直った彼は、どうせ最後の作品になるなら思い通りに作品を撮って終わりたい、そう思っていました。そんな思いを胸に作られたのが、この作品でした。だからこそ、セリフを排除して映画の原点に戻るというエンターテイメント性を無視した作品作りが可能になったともいえます。ドキュメンタリー性と芸術性、両方を併せ持つ異色の映画はこうして生まれることになりました。
 映画の舞台となったのは、瀬戸内海に浮かぶ小さな島「宿弥島」(すくねじま)です。その島は当時、廃人同然になっていたひとりの男性が住んでいるだけで、無人島同然の状態でした。雨の中に煙るその島の姿は、アルノルト・ベックリンの有名な絵画「死の島」を思わせる不気味な情景です。しかし、晴れた日に上空から見るその島は、まるで光り輝く天空に浮かぶ天国のような美しさです。「裸の島」というタイトルが示すように、この映画は水源がないためにほとんど植物が育たない土だけの島を主人公とする映画です。
 裸の島とそこに住む夫婦と二人の男の子。この小さな島で繰り広げられる水の運搬を中心とする厳しい農作業と彼らのささやかな暮らし。それは究極の宇宙であり、世界の縮図のようにも見えます。そのため、その島は普段はのどかな場所のように見えますが、一度自然バランスがくずれれば、すぐにでも住人たちに危機が訪れることになります。この映画は、セリフを無くし、セットも無しで、限られた空間と限られた出演者によって世界と宇宙を表現しようとする試みだったようにも見ることができます。
 しかし、その壮大な試みのために集めることができた製作資金は、わずか500万円でした。(当時一般的な映画を撮るために必要な資金は5000万円程度だったそうです)そのため、製作スタッフには当初13名が集められ、撮影終了時には10人だけになってたといいます。そのうちわけは、監督1名、カメラマンと助手で3名、助監督2名、製作2名、照明3名、スクリプター1名、俳優2名(乙羽、殿山ほかは地元の素人さんたち)もちろん、スタッフたちは民家を借りて自炊生活をしながらの撮影でした。

 この映画の冒頭、映画のタイトルが出る前に次の言葉が映し出されます。
「乾いた土」
「耕して天に至る」

 この言葉は見事にこの映画のすべてを表しています。(なんだかプロジェクトXを思わせる文章でもありますが、・・・)乾いた土地を耕すため、夫婦は天秤棒で水の入った桶を島の頂上へと運ぶ作業を繰り返します。それはまるで天を耕すかのような行為でした。そして、この島の頂上は天国に最も近い場所でもあったことが映画のラストで明らかになります。「耕して天に至る」とは文字どうり、島の天辺まで畑にしようと働き続ける彼らの人生そのものです。彼らは死してなお、そこに埋葬され肥料となることでその営みを続けることになります。
 この映画の素晴らしさは、こうした象徴的な夫婦の営みを描くために、地味な農作業のリアルさをどこまでも追求したことにあります。本物の天秤棒を用い、本当に水を入れることで、天秤棒には本物の「しなり」が生じました。その重さは二人の歩を遅くし、不安定にしますが、そこには本物の重さを見ることができます。
 伝馬船を漕ぐ夫婦の櫓の動きも実に見事です。一本の櫓で船をまっすぐに進ませるのは相当な訓練を要するはずですし、船を岸につけるのはさらに難しかったはずです。手に豆ができるほど練習したおかげで夫婦は見事な技術を身につけました。こうした生活の基本がしっかりしているからこそ、夫婦が目を見詰め合っただけで心の動きが表現できるのです。
 セリフがないからこそ、それを補うため、この映画のカメラはそれぞれの構図がじっくりと計算され、島の美しさと自然の厳しさを見事に切りとっています。島の天辺から眺める海の景色のなんと美しいことか!四季折々に村で行われる行事や親子が訪れる尾道の街のなんとノスタルジックなことか!そして、そんな美しい映像のバックに流れる音楽もまた実に印象的で、忘れられません。担当したのは、その後、日本の映画音楽界を代表する存在となる若き日の林光です。彼は、この映画の撮影中に島を訪れ、そこでしばらくスタッフとともに生活しながら曲作りをしたといます。

<モスクワ映画祭グランプリのおかげで>
 こうして、スタッフたちの2ヶ月に渡る合宿生活によって生み出された裸の映画は無事完成。しかし、完成はしたものの、この映画を公開してくれる映画会社はなく、そのままお蔵入りしそうになります。もし、そうなっていれば近代映画協会は倒産に追い込まれ、新藤監督も映画界を離れなければならなかったかもしれません。それを救ったのが、モスクワ映画祭でのグランプリ受賞でした。まさかの受賞のおかげで「裸の島」には世界各国から買い付けの申し込みが来たため、製作資金などの借金をすべて返済することが可能となり、なおかつ次の作品のための資金までも稼ぐことになりました。
 その後も、彼はこの時に行ったスタッフ全員による合宿生活による映画製作のスタイルを続けます。少数精鋭のスタッフと愛妻乙羽とのコンビが、独立プロの草分けである近代映画協会の運営を支え続けることになります。

<その後の代表作>
「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」1975年
(監)(構成)(台本)(インタビュー)新藤兼人(撮)三宅義行(出)田中絹代、入江たか子、京マチ子、永田雅一、宮田一夫
 新藤兼人自らがインタビュアーとなり、様々な証言者から日本を代表する映画監督、溝口健二の作品作りや人間性などについてのエピゾードを聴き取ったドキュメンタリー映画。なかでも田中絹代の証言部分は、彼女の熱い思いが伝わり感動させられます。ドキュメンタリー映画の傑作

「竹山ひとり旅」1977年(監)(脚)新藤兼人(音)林光(出)高橋竹山、林隆三、乙羽信子(モスクワ映画祭監督賞、ソ連美術家同盟賞
「絞殺」1979年(監)(脚)(製)新藤兼人(出)西村晃、乙羽信子、狩場勉(ヴェネチア映画祭イタリア批評家連盟主演女優賞
「北斎漫画」1981年(監)(脚)新藤兼人(製)赤司学文、中條宏行(原)矢代静一(出)緒方拳、西田敏行、田中裕子、樋口可南子
「さくら隊散る」1988年(監)(脚)新藤兼人(原)江津萩枝(撮)三宅義行(音)林光(出)吉田将士、未来貴子
「墨東綺譚 」1992年(監)(製)(脚)新藤兼人(原)永井荷風(撮)三宅義行(音)林光(出)津川雅彦、墨田ユキ、杉村春子、乙羽信子
「生きたい」(監)(原)(脚)新藤兼人(撮)三宅義行(出)三国連太郎、大竹しのぶ、吉田日出子

「午後の遺言状」1995年
(監)新藤兼人(製)新藤次郎(撮)三宅義行(出)杉村春子、乙羽信子、観世榮夫、津川雅彦、永島敏行(モスクワ映画祭批評家賞
 避暑地に毎年やって来る老女優(杉村春子)を世話する農家の主婦(乙羽信子)。そこにかつて舞台女優になったばかりの頃の同僚が夫に連れ添われてやってきます。アルツハイマーになり記憶も失いつつある友人の前でかつて一緒に演じた「かもめ」を演じると突然彼女は台詞を話し始めます。そして翌日、突然、家に脱獄犯が進入します。老人たちの運命は・・・・?二大女優にはさまれた観世榮夫の抑えた演技もまた魅力的です。けっして暗い映画ではなく、ユーモアにアクションまで盛り込んだ楽しくて、やがて悲しい名作です。
 「老い」をテーマにした物語ですが、芝居に生きる女優の生き様がカッコいい。その後、主役二人がこの世を去ることを考えると感動せずにはいられません。この作品は杉村春子、乙羽信子という日本を代表するに大女優の遺作となったこともあり、公開時大きな話題になりました。これまた素晴らしい作品です。
 監督と長い間二人三脚で映画を作り続け、人生を歩んできた乙羽信子は、この作品の撮影前、末期の肝臓癌と診断されていました。しかし、彼はそのことを彼女に告げず、最後まで撮影を行いました。(たぶん彼女自身も自らの死を予期はしていたのでしょうが)それは人生の最後を映画の撮影で終わらせてあげたいという夫の願いでもありました。
 1994年12月22日乙羽信子は映画の公開を前にこの世を去りました。享年70歳でした。
「耕して天に至る」

<杉村春子>(2016年追記)
「杉村の人生の転機は、かならずといっていいほど男性の存在がある」と中丸さんは書く。といって男性に溺れることはない。
「男に道標を示されたように見えて、男の方が途中で倒れても決して振り向かないという性質をもっていた」。恋する女、可愛い女は同時に自立精神を持った強い女性でもあった。つねに、いい芝居をしたいという大きな目標があったからだろう。・・・

川本三郎「映画の戦後」より

「一枚のハガキ」(2011」年)(2014年追記)
 新藤監督98歳での遺作。100人の兵隊の中から上官による抽選によって、戦場に行かずに済む6人の中に選ばれた彼自身の実体験を元に書かれた物語です。二人の夫に戦死され、両親にも死なれてしまった未亡人の悲劇がけっして悲惨なだけでなく、時にはコメディタッチで描かれています。
 大竹しのぶと豊川悦司の二人芝居のように作られていて、二人の演技力なしにはあり得ない作品でもあります。かなり低予算で作れたと思いますが、十分映画としての迫力があると思います。主役の大竹しのぶの貧しいはずなのにやけに洒落た柄の作業着を着ていますが、あれは「裸の島」における乙羽信子の衣装へのオマージュでしょう。その後、彼女が天秤棒で水を運ぶ場面は、まさに「裸の島」の再現です。自分の最後の作品で、亡き妻と自らの出世作へのオマージュを捧げていたのでしょう。
 それにしても、大竹しのぶの演技力は凄い!
2012年5月29日、新藤兼人監督は100歳を目の前にしてこの世を去りました。改めて、ご冥福をお祈りいたします。

<参考資料>
「ながい二人の道 - 乙羽信子とともに -」
(著)新藤兼人
東京新聞出版局

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