神への問いかけと沈黙という解答の意味


「沈黙 サイレンス Silence」

- マーティン・スコセッシ Martin Scorsese -
<沈黙の意味>
 この映画のタイトル「沈黙 Silence」とは、単に音のない「無音状態」をさす言葉ではありません。それは、人間に対する神の「無言」のことを指しています。人々を襲う苦難、悲劇の数々に対し、彼らが叫ぶ「なぜ私がこんな目に合わなければならないのですか?」「私は、この状況に対して、どう対処すればよいのですか?」・・・そんな問いかけに神は答えず「無言」のままです。
 映画のオープニングとエンディングで、まったくの無音状態から虫の鳴き声だけの日本的な音だけの静かな世界が映像のない状態で表現されています。この映画は、「日本」という異世界を舞台にした人と神との対話を描いた作品です。でも、本当に神からの返答はないのか?

<神への問いかけ>
 この映画の監督マーティン・スコセッシ は、自ら望んで神学校に入学し、神父を目指した程の熱心なカトリックの信者でした。残念ながら彼は途中で神父になることを止めてしまい、映画の道へと進むことになりますが、彼の「キリスト」への思いは消えたわけではありませんでした。
 1988年の「最後の誘惑」は、そんな彼の熱い思いが生んだイエス・キリストの伝記映画でした。そこで、彼はイエス・キリストが自らの死の淵で悪魔による「最後の誘惑」を拒否し、天に召されて行く日々を描きました。それは、イエス・キリストの天の父なる神への問いかけの映画だったといえます。それに対して、彼はこの映画「沈黙」でキリストではなく若い神父(パードレ)から神への問いかけを描いています。さらにいうと、この映画は「悪魔」による誘惑ではなく「大名(井上)」という権力者による誘惑がテーマになっています。
 「最後の誘惑」で行われた試みを、この作品でスコセッシはより身近なところへと移し変えたといえます。その意味では、是非、この映画と対になる「最後の誘惑」もご覧になることをお薦めします。

<日本版「地獄の黙示録」>
 もう一本、この作品との類似性が気になる映画があります。この作品は、その雰囲気だけでなくストーリーも、フランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」を思い出させます。いうなれば、この作品は日本版「地獄の黙示録」であり、「天国への黙示録」と言えそうなのです。
 ヨーロッパにとって未開の地である日本に潜入するイエズス会の神父は、ベトナムの奥地に潜入する秘密任務をおびたウィラード大尉と同じ立場です。(当時のイエズス会の神父は、植民地化政策を進めるヨーロッパ列強国にとっての先導隊の役割を果たしていたことは歴史が示しています)
 ベトナムでの任務を放棄し、そこで反旗をひるがえした米軍のカーツ大佐は、日本で大名井上のもとで隠れキリシタンを弾圧する側にまわったフェレーラ神父とそっくりの存在です。そしてベトナムのジャングルへ隠れキリシタンの村を巡りながら、奥深くへと向かう主人公の旅は、ウィラード大尉によるメコン川上流への地獄旅とそっくりです。
 映画のオープニングでさらし首がならぶキリシタンの処刑場の風景は、かつてウィラード大尉がカーツ大尉が支配する地域にたどり着いた時の風景を思わせます。そして、主人公はこの旅の中で「地獄の黙示録」よりも恐ろしい体験をすることになります。
 こうした、主人公が誰かもしくは何かを求めて旅をして、最後にラスボス的人物もしくはその解答と出会う。そんな物語の展開は、もとはといえばギリシャ神話の時代に生み出された基本中の基本パターンです。同じような「探索の旅」を描いた映画史に残る名作は「第三の男」、「捜索者」、「2001年宇宙の旅」、「ブルーベルベット」、「惑星ソラリス」、「スター・ウォーズ」、「未知との遭遇」、「ブレードランナー」、「オズの魔法使い」・・・など数え上げるときりがありません。

<何が正しい選択だったのか?>
 ギリシャ神話のように主人公が英雄となって帰って来るとは限らないのが、現代の「地獄めぐり」です。この映画の主人公も、「最後の誘惑」に対して、「英雄」として死を選ぶ選択もありましたが、それは多くのキリシタンを道ずれにすることでもありました。ならば、さっさと踏み絵を受け入れて、信者たちにも表向きだけ踏み絵をするよう指示する方法もあったかもしれません。
 でも、何が正解といえる選択だったのでしょう?
 厳しい年貢に苦しめられ、自然とも戦いながらギリギリの生活を続けていた当時の農民たちにとって、生きる目的は何だったのでしょうか?ただ生き延びることに精一杯だった彼らに、生きる目的をあたえ、死後の幸福が示されたなら、たとえ悲劇的な死を迎えてもそれは幸福な人生になり得たのかもしれません。ただ飢えに耐える人生から救い出してくれた神に彼らは感謝して死んでいったのかもしれず、それを否定することはできるのか?そう思ってしまいます。
 生きるために行っていた「百姓一揆」に光り輝くテーマを与えてくれたのですから、その不況を幕府が恐れたのは当然です。だかたこそ、幕府はそのキリスト教を布教しようとする神父を最大のターゲットしていたわけです。そして神父を転ばせることで一気にキリスト教の布教にストップをかけることに成功したわけです。キリスト教の拡がりを防いだことは、もしかするとその後の日本が明治維新後に欧米諸国の植民地にならずにすんだ原因の一つだったかもしれません。

<豪華な日本人俳優陣>
 この作品には日本の俳優さんたちが数多く出演しています。それも注意して見ていないとわからないぐらいちょい役だったりしますので、二回目に見るならそこの要注目です。だって、世界の巨匠マーティン・スコセッシの作品に出演できるなら、ノーギャラだって出たいですよね。
 僕の弟は、1990年代にS社の洋画部門にいたため、マーティン・スコセッシから映画化に出資してほしいという依頼を受け、スコセッシ本人から直接説明を聞かされたそうです。当時、主役の神父役にはレオナルド・ディカプリオが上がっていたようです。(その後、ベニチオ・デルトロに代わり、最終的にはアンドリュー・ガーフィールドになったようです。
 撮影の現場も、当初は長崎とその周辺での撮影が考えられていたようですが、予算と風景の問題から台湾での撮影に変更されたようです。長崎、平戸、五島列島のキリスト教施設が世界遺産に登録されようとしているだけに、撮影も日本で実現していればよかったのですが・・・惜しかった。

「沈黙 サイレンス Silence」 2016年
(監)(製)(脚)マーティン・スコセッシ
(製)アーウィン・ウィンクラーほか
(製総)デイル・A・ブラウン、マシュー・J・マレク
(原)遠藤周作
(脚)ジェイ・コックス
(撮)ロドリゴ・プリエト(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥのカメラマンとしてスタートし、スコセッシ作品にも参加しています)
(PD)(衣)ダンテ・フェレッティ
(音)キム・アレンクルーゲ、キャスリン・クルーゲ
(出)アンドリュー・ガーフィールド(ロドリゴ神父)、アダム・ドライヴァー(ガルベ神父)、リーアム・ニーソン(フェレーラ神父)
イッセー尾形(井上)、浅野忠信、窪塚洋介
蓑田ヨシ、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、PANTA,片桐はいり、伊佐山ひろ子、洞口依子、青木崇高、SABU、渡辺哲、AKIRA(EXILE)、中村嘉葎雄、高山善廣(プロレスラー)、斉藤歩、黒沢あすか

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