- 進駐軍クラブ出身のアーティストたち -

<時代の区切り>
 このサイトでは、1960年代後半のロック黎明期について、海外だけではなく日本についてかなり力を入れて紹介しています。20世紀の歴史において、1960年代から70年代にかけてが重要な時代の区切りであるのは「音楽」だけに限ったことではありません。
 同じように20世紀の歴史において重要な区切りとなった年として「1945年」があります。第二次世界大戦が終わった年、この年を境に世界は東西二つの陣営に分かれて行くことになり、「冷戦時代」と呼ばれることになります。さらにこの年、広島と長崎にアメリカによって原子爆弾が落とされ、人類は「核」と共存する危険な時代に突入することになりました。そして、敗戦国の一つだった日本にとって、1945年はさらに重要な年だったといえます。
 「天皇」を神から人へと配置換えしたこと。
 「平和憲法」を持ち、軍隊のもつことを永遠に放棄したこと。
 「民主主義」を導入し、教育現場が「軍国主義教育」から「民主主義教育」へと一転したこと。
 様々な変化があった中、「音楽」の世界でも当然大きな変化がありました。

阿久悠が敗戦後に『平和』を意識し、『自由』を実感したのは、政治的スローガンでも何でもなく、この窓を開け放して流行歌のレコードが聴けると思った時の解放感だったと語っている。」
高澤秀次「ヒットメーカーの寿命」

<音楽界の変化>
 1945年以降、戦時中、敵性音楽として禁止されていたジャズやポップスが解禁されただけでなく、進駐軍とともに一気に押し寄せてきました。当然、ミュージシャン側もその変化に対応し演奏する音楽を変えてゆくことになります。1945年からの5年ぐらいの間に日本のポピュラー音楽は大きな変化を遂げ、「歌謡曲」というその後1980年代にまで続くことになるポップスのスタイルを生み出してゆくことになります。そして、その中心となったのが進駐軍クラブという米軍兵士たちのための娯楽スペースで、そこで活躍した日本人ミュージシャンやスタッフたちこそが、その後の日本歌謡界を形作ることになります。
 ここでは、その発信地となった「進駐軍クラブ」を中心に昭和の歌謡曲が誕生する時代を振り返りたいと思います。

<RAA誕生>
 1945年8月15日、日本は終戦を迎えました。その後、占領軍としてアメリカ軍が上陸することになり、それに対し日本政府は大慌てで受け入れ態勢を整えることになりました。そうした体制作りの中でも特に日本政府が急いで作ったのが、特殊慰安施設協会という組織でした。この時のことについては、2012年に放映された吉田茂を主人公としたNHKのスペシャル・ドラマ「負けて勝つ」に詳しく描かれていました。
 8月21日、特殊慰安施設協会の設立が閣議決定されます。その運営に関わったのは、東京飲料組合、接客業組合、待合業組合、吉原貸座敷業組合などで、その組織の実際の目的は、アメリカ兵の慰安のためというよりも、上陸した米兵によって一般市民がレイプされることを防ぐことでした。
 この組織はその後GHQによって内容を変更され、その名前も正式にRAA(Recreation and Amusement , Association)となりました。そこには、食堂部、キャバレー部、慰安部、遊戯部、芸能部、特殊施設部、物産部などがありました。そして、その中の芸能部には「音楽」も含まれており、そこにミュージシャンが集められることになります。
 慰安所では、当然、性交渉も行われていましたが、すぐに性病が蔓延し始めます。そのため、1946年の3月には米兵の立ち入りが禁止となり、経営も悪化。1949年には、廃止されることになります。

<進駐軍クラブ>
 「進駐軍クラブ」は、RAAが米兵受け入れのために準備した慰安施設として誕生しました。進駐軍クラブには兵士の階級によってランク分けがありました。階級の上から順番に、将校クラブOC(Officers Club)、下士官クラブNCO(Non Commissioned Officers Club)、兵員クラブEN(Enlisted Men's Club)の3つです。(実際はさらに兵員クラブには白人用と黒人用があり、当時、黒人用のクラブでは、いち早くビバップが演奏されていたといいます)
 それぞれの進駐軍クラブでは、飲食以外に、床屋、クツみがきなどのサービス、ダンサーや歌手によるショー、バンドの生演奏によるダンス、手品師やコメディアンによるエンターテイメント・ショー、ビンゴ大会など、様々なイベントが行われていました。
 その多くのバックになくてはならない存在だったのが、ビッグバンドでした。多くの進駐軍クラブは、そのためにそれぞれ専属のビッグバンドを持つようになります。しかし、ついこの間まで禁止されていた西洋音楽を演奏できるミュージシャンは日本人の中にそうはいませんでしたし、ましてバンドで使用する楽器を持つミュージシャンはさらに少なかったはずです。そこで先ずバンドの中心となったのが、戦時中軍楽隊に所属していた音楽家たちでした。しかし、初め多くの音楽家たちは、進駐軍クラブなどという日本人にとって恥ともいえる場所で働こうなどとは考えず、NHK交響楽団などクラシックの楽団に入りました。しかし、戦後の瓦礫の中、クラシック音楽を演奏する場などほとんどなく、どの楽団にも仕事はほとんどありませんでした。それならば、少なくともお金にはなる進駐軍クラブでの演奏の方がましかもしれない、そう考えるようになります。そのうえ、進駐軍はどんどん増えており、進駐軍クラブもまた増え続けます。そうなると、楽団は引っ張りだことなり、いくらでも仕事はありました。こうして、進駐軍クラブで演奏する音楽家、いやミュージシャンが急速に増えてゆくことになります。

<仲介業者たち>
 当時500以上はあったという進駐軍クラブはバンドをまだまだ必要としていたたため、不足するバンドを手配する仲介業を始める者が現れます。彼らはバンドごとマネージャーとして面倒を見ることもありましたが、常にバンドを必要としているのは大きなクラブだけでした。それ以外のクラブでは週末やイベントのある時だけバンドを必要としていたのです。そこで仲介業者は、「拾い」という方法によってフリーのミュージシャンをかき集め、彼らをクラブに連れて行くというものです。駅にトラックで乗りつけた彼らは、そこで、「トランペッター二人いないか?」とか「ベースは?」など、一人づつミュージシャンをピックアップしトラックに乗せてゆきました。当時は、そうした拾われるミュージシャンたちのために楽器を預かる専門の楽器預かり所までもがあったといいます。(新宿駅近くには3つはあったとのこと)この時期のミュージシャンたちの生き様を描いた阪本順治監督・脚本の映画「クラブ進駐軍 この世の外へ」には、「拾い」の場面が詳しく描かれています。
 こうなると、演奏さえできれば高校生でも、女性でも、大学生でもOKでしたが、中には演奏もろくにできないのに数合わせのために参加したミュージシャン?もいたようです。それでも、一流のクラブは実力が求められることもあり、ベテランのミュージシャンたちの中にはジャズのアドリブ演奏についてゆけずに引退した人も多かったようです。逆にそんな中でまだ学生だった秋吉敏子や小阪和也などは、そこで経験を積みながら成長することになりました。

<格付け審査>
 1947年、ミュージシャン、バンドとクラブ間の契約をスムーズに行うため、バンドの格付け審査が行われることになりました。(1950年5月まで実施されます)その後全国各地でバンドのオーディションが行われ、それぞれが6段階にランク付けされ、そのランクによって支払い金額が決められるようになります。この年だけで、200ものバンドがオーディションを受け、最高ランクのスペシャルAからスペシャルB、A、B、C、Dまでのランキングが行われました。
 こうして、進駐軍クラブはシステムとして日本に根を下ろすようになりますが、そこにはいくつかの種類がありました。
(1)RAAが主催する進駐軍クラブ(いうならば、本物の進駐軍クラブ)
(2)各部隊が独自で運営する進駐軍クラブ(一応正式なもの)
(3)立ち入り禁止区域の外に日本人が立てて運営する米兵専用のクラブ(これもまた必要から生まれた存在)

<進駐軍クラブ出身のアーティスト・スタッフたち>
原信夫(海軍軍楽隊出身のサックス奏者。のちのシャープス&フラッツのリーダーで美空ひばりのバックも勤めた)
宮間利之(海軍軍楽隊出身。1958年ビッグバンドの先駆となったニューハードを結成。紅白歌合戦でも活躍)
小野満(ジャズ・ベーシスト、ジョージ川口、中村八大、松本英彦とのジャズ・バンド、ビッグ・フォーで活躍。その後スイング・ビーバーズを結成)
中村八大(シックスジョーズのメンバーであり、坂本九の「上を向いて歩こう」の作曲者としても有名なジャズ・ピアニスト&作曲家)
スマイリー小原(渡辺プロ所属でスカイライナーズのリーダー。「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」などのバックを担当)
服部良一(戦前はコロンビアの専属作曲家として活躍。戦後、ブギの女王、笠置シヅ子のヒット曲を書きその後も日本歌謡界を代表する作曲家として活躍)
堀威夫(後のホリプロ社長。もとはバンドマンだったが、自らプロダクションを設立。その後日本の歌謡界を代表するミュージシャンを次々と世に送り出した)
渡辺美佐・晋(美佐は東北地方で仲介業を営んでいた。晋はベース奏者で、その後、ナベプロを設立し日本の歌謡界をリードし続ける)
秋吉敏子(満州生まれ、女子高校生でありながらバイトで進駐軍クラブに出演しジャズを学んだ。その後。日本を代表するジャズ・ピアニストとなる)
宮沢昭(陸軍軍楽隊出身のジャズサックス奏者。日本を代表するテナーサックス奏者)
ウィリー沖山(高校生時代から進駐軍クラブに出演し、その後ヨーデル歌手として有名になる)
ジョージ川口(元ビッグフォー。日本を代表するジャズ・ドラム奏者)
ペギー葉山(1954年から14回連続して紅白歌合戦荷に出場。高校生の頃から進駐軍クラブに出演していた)
小坂和也(高校時代に進駐軍クラブにロカビリー歌手として出演。その後、アイドル歌手から渋い俳優へ活躍を続けます)
松尾和子(進駐軍クラブから力道山のクラブ「リキ」へ、その後デビューして「東京ナイトクラブ」「誰よりも君を愛す」などをヒットさせ、その後俳優へ)
永島達司(通訳から将校クラブのマネージャーへ、その後キョードー東京を設立しビートルズなど大物外タレの呼び屋として大活躍することになります)
クレージー・キャッツ<メンバーはハナ肇(ドラム)、植木等(ヴォーカル、ギター)、谷啓(トロンボーン)、犬塚弘(ベース)、石橋エータロー(ピアノ)、安田伸(テナー・サックス>
その他にも、笠置シヅ子、雪村いづみ江利チエミディック・ミネ・・・。 

<その後の歌謡界>
 1952年ごろ、日本にはジャズ・ブームがやってきます。しかし、そのブームはすぐに下火となり、同時に進駐軍の撤退もこの年から始まります。そうなると、進駐軍クラブでジャズを演奏していたビッグ・バンドは仕事場を失うことになり、彼らはジャズではなく歌謡曲のバック・バンドとして生きる道を選ぶようになります。幸いなことに、彼らが進駐軍クラブなどで演奏していたアメリカ製のポピュラー音楽を日本語に翻訳したカバー曲が、歌謡曲として次々とヒットします。
「テネシー・ワルツ」江利チエミ、「ドミノ」ペギー葉山、「カモナ・マイ・ハウス」江利チエミ、「ブルー・ハワイ」ディック・ミネ、「想い出のワルツ」雪村いづみ、「アニバーサリー・ソング」ダークダックス・・・
 そうしたビッグ・バンドの多くはテレビ時代のはじまりとともに歌謡番組の伴奏役として活躍することになります。カラオケも口パクもない生放送時代のテレビにビッグバンドはなくてはならない存在でした。そのため、歌謡曲にとってビッグバンドの演奏は必須のものとなり、レコーディングの際にはそのための編曲が行われることになります。そうした編曲の影響は、歌謡曲のスタイルを決めることになり、1980年代ピンクレディーの時代にまで続くことになります。
 さらに進駐軍クラブに関わったミュージシャンやスタッフたちの多くは、その仕事の中でアメリカ式の音楽ビジネスのやり方を学びました。そして彼らはその後、歌謡界のけん引役として活躍することになります。それは、1970年代に渋谷に集まって日本のロック音楽の基礎を作ることになる「風都市」関連のミュージシャンたちに匹敵する重要な存在だったといえるでしょう。

「コーンパイプの魔のけむり」より(作)阿久悠
はるかな昔の8月の終わり 夏と秋とが混ざり合う そんな季節に
一人の男が胸をそらして 焼けた大地に降り立つ
ダグラス・マッカーサー ぼくらは忘れない ぼくらは忘れない
レーバンのサングラス ポケットに入れた左手 そして そして コーンパイプの魔のけむり
ぼくらを酔わせて眠らせた・・・

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