<元祖「スター・ウォーズ」>
 映画「スター・ウォーズ」に大きな影響を与えただけでなく神話をもとにした様々な映画や冒険ファンタジー作品の作者たちに多大な影響を与え続けてきた神話学のレジェンド、ジョーゼフ・キャンベルの総決算とも言える著書「神話の力」。その中では神話だけでなく様々な問題が語られています。(「スター・ウォーズ」についても)
映画「スター・ウォーズ」は、なぜ惑星タトゥウィーンから始まったのか?
神様はなぜ何人もいるのか?
いつの時代も人々が神話を求めるのはなぜか?
なぜ映画は映画館で見た方が楽しいのか?
なぜ女性は差別されてきたのか?
砂漠の神と熱帯雨林の神はどこが違うのか?

<神話としての「スター・ウォーズ」>
B・M
 わが家の末息子が<スター・ウォーズ>を、12回目か13回目でしたが、見て帰ったあと、私が「なんでそんなに何度も見に行くんだい」とたずねると、彼は「お父さんが年じゅう旧約聖書を読むのと同じだよ」と答えました。彼は新しい神話の世界に入っていたんです。
J・K
 たしかに<スター・ウォーズ>には納得のいく神話的な視野があります。それは国家をひとつの機械として示し、「この機会ははたして人間性を粉砕するのか、それとも人間に仕えるのか」という問いを出します。人間性は機械からではなく、心から生まれるのです。
 目からウロコの文章ばかりですが、僕なりにこれは!と思う部分を選び出してみました。もちろん、この本を一冊お手元に置いてもらえればと思います。
 あなたが、文学、芸術や音楽など創作に関わることがお好きなら、きっと役に立つはずです。そして、それらの作品の見方がきっと変わるはずです。

<神とは?宗教とは?神話とは?>
<真理を開示する場所>
「唯一の正しい知恵は人類から遠く離れたところ、はるか遠くの大いなる孤独のなかに住んでおり、人は苦しみを通じてのみそこに到達することができる。貧困と苦しみだけが、他者には隠されているすべてのものを開いて、人の心に見せてくれるのだ」
カナダ北部カリブー・エスキモーのシャーマン、イグジュガルジクの言葉
(映画「スター・ウォーズ」が辺境の惑星から始まる意味がわかりました)

<真理を伝える方法>
「伝道者たちは、人々を説得によって信仰に導こうとするからうまくいかない。むしろ、自分自身の発見の輝きを示すべきだ」
ジョーゼフ・キャンベル(J・C)

 ある国際的な宗教会議でアメリカ人の社会哲学者が神道の司祭にこう尋ねました。
「私たちはたくさんの儀式に参加したし、あなたがたの神殿もずいぶん見せていただいたが、そのイデオロギーがどうもわからない。あなたがたがどういう神学を持っておられるのか、理解できないのです」
 すると相手の日本人は・・・
「イデオロギーなどないと思います。私どもに神学はありません。私たちは踊るのです」


<神話とは?>
「神話とは、経験の旅をした人々が描いた内面的経験のロードマップではないでしょうか?」
ビル・モイヤーズ(B・M)

「神話は我々の精神的潜在力を開くかぎである、それは喜びに、光明に、いや恍惚境にさえ人を導いてくれる」
J・C

<神話がもたらすものとは?>
 それはみな生活の知恵の物語です。ほんとうにそうです。私たちが学校で学んでいるのは生活の知恵ではありません。私たちはテクノロジーを学んでいます。情報を得ています。奇妙なことに、学者たちは彼らの主題にどれだけ生活面での価値があるかを明らかにしたがらない。

 専門分化が激しい現代の学問では、そうなるのは当然のことです。専門化すればするほど、実生活には役立たないはずです。

<神話とは?神とは?>
・・・辞書の定義によれば、神話とは神についての物語です。そこで次の疑問が出てくる。神とはなにか。神とは、人間の生命の営みのなかでも、また宇宙内でも機能している動因としての力、ないし価値体系の擬人化です。あなた自身の肉体のさまざまな力と、自然のさまざまな力との擬人化です。神話は人間の内に潜んでいる精神的な可能性の隠喩です。・・・ただし、特定の社会や、その社会の守護神だけに関わる神話もあります。言い換えれば、全く種類の異なる二つの神話があるというわけです。一方に、私たちを本来の人間性と自然世界とに - 私たちがその一部である自然世界とに - 結びつける神話がある。他方には、厳密な意味で社会的な神話が在り、これは私たちをある特定の社会に結びつけます。私たちは単なる自然人ではなく、ある特定の集団の一員です。ヨーロッパの神話の歴史をたどると、これら二つの体系の相互作用が見えてきます。一般に特定社会を重視する神話体系は、絶えず移動している遊牧民族のものであり、それだけに人々は自分たちのグループの中心がその神話にあることを学ぶのです。自然を重視する神話はたぶん農耕民族のものでしょう。
 さて、聖書の伝統は社会的な方向性を持った神話体系です。自然は悪しきものとして呪われています。19世紀の学者たちは、神話と儀式とを自然を支配するための試みと見なしました。しかし、自然を支配しようとするのは魔術であって、神話や宗教ではありません。自然宗教は自然を支配する試みではなく、人々が自然と調和を保つことができず、自然を支配する、あるいは支配しようと試みる。・・・
J・C

<神の超越性>
J・C
・・・神の究極のところ、「神」という名前をも含めて一切のものを超越している。神は名前や形を超えています。・・・
 生命の神秘にはあらゆる人間の観念を超えています。私たちが知っているあらゆるものひゃ存在と非存在、多と一、真理と誤びょうといった観念用語の範囲内にあります。私たちはいつも対立した諸観念のなかでものを考える。しかし、究極者である神はあらゆる対立観念を超越している。
B・M
 なぜ私たちは対立項のなかでものを考えるのでしょう。
J・C
 それ以外には考えようがないからです。

<神とは?>
 多くの哲学者が頻繁に使ってきた神の定義があります。神は知覚できる球体 - 五感ではなく、知性だけが知りうる球体で - で、中心は至るところにあるけれども、外周はどこにもない。そして、ビル、中心はまさにあなたが座っているそこにあるんです。もう一つの中心は私が座っているここにある。・・・
 もし、中心はまたあなたと向き合っている他人のなかにもあるということを自覚しないと、いま言ったことは粗野な個人主義に堕してしまう恐れがあります。


<命をつなぐ神的存在>
 人にとって最も重要なものは、日々生きて行くための食料です。その食料をもたらしてくれる存在は何なのか?それこそが「神」ではないのか?大昔の人々がそう考えるのは当然のことでした。
「人間に対して生と死を行使する<支配的な動物>がいる。もし、その支配者がいけにえになる獣を送り返してくれなかったら、狩猟者とその家族は飢え死にしてしまう。こうして古代社会は、『生命体の本質は、それが他のものを殺して食べることにある。それこそ神話が扱うべき偉大な神秘だ』ということを学んだ」狩猟はいけにえのための儀式になり、狩猟者は肉体を去る動物たちの霊に対する償いと和解の儀式を行うことによって、その霊をなだめ、再び犠牲になってくれることを祈ったのである。獣たちはそういう別世界からの使いと見なされた」
J・C

<神は一つでも名前は複数>
「真理はひとつである。賢者はこれを多くの名前で呼ぶ」
インドの聖典より
 神に対して我々が与える名前とイメージのすべては、当然のことながら、言語と芸術を超越した究極的存在を暗示する仮面だ、とキャンベルは言った。神話も神の仮面、つまり、目に見える世界のかげにあるもののメタファーである。神話的な伝統がたがいに違っていようとも、それらは、生きることそれ自体をより深く意識させる手だてだという意味では共通している、とキャンベルは言った。

<自分の中の神>
 インドでは、私の内にある神を、肉体に「宿る者」と呼んでいます。自分自身の内面にあるこの神聖不滅な面と一体になれば、私は神性と一体になれるのです。
J・C

<超越者としての神>
 男とか女というのは超越者のなかに飛躍するためのスプリングボードです。そして、超越者というのは超越すること、二元性を超えていくことを意味します。時間・空間の領域のなかにあるものはすべて二元的です。肉体的顕現は男性または女性のように見えますし、私たちのひとりひとりが神の肉化です。
J・C

<科学は神を否定しない>
 彼は「人間を矮小化したり、神聖なものから切り離した元凶は、科学ではない」と主張する。それどころか、新しい科学的発見のかずかずは、この宇宙全体のなかに「我々自身の最も内面的な性格の反映」を拡大して見せてくれるという意味で、我々を「再び古代人に結びつけてくれる」
J・C

<結婚とは?>
 例えば、結婚。結婚とはなんでしょう。神話はそれを数えてくれます。それは分離されていた二者の再統一です。もともとあなたがたは一体だった、いまこの現世では人は二つに分かれているけれども、精神的にはやはり一体だと認識することが結婚の本質でしょう。それは情事とは違う。・・・・
 私たちはまともな相手と結婚することによって、人間の姿を取った神のイメージを再構成する。それですよ、結婚のいちばん大事なところは。
・・・
J・C
 結婚とは単なる契約による肉体関係ではありません。それはひとつの試練です。そして、その試練とは、二者が一体になるという関係においてエゴを犠牲にすることを意味しています。
<友愛の限界>
・・・私が知っている神話の友愛は、たいがいある限界領域内の社会に限られています。境界線に囲まれた社会では、攻撃性は外に向けられます。
J・C

<女性と蛇は罪の象徴>
J・C
・・・蛇と月は同じ意味を持ったシンボルです。ときどき蛇は自分自身の尻尾に食いついている円環として表現されています。それは生命のイメージです。生命は一世代、また一世代と、脱皮を繰り返して生まれ変わっていく。・・・
B・M
キリスト教の神話では蛇は誘惑者ですが。
J・C
 要するに、生命の肯定を拒絶するという意味を持っています。私たちが受け継いだ聖書的な伝統からすると、生命は腐敗しており、あらゆる生命の衝動は、割礼や洗礼を受けないかぎり罪深いものと見なされています。蛇はこの世界に罪をもたらした。そして最初の女は人間にリンゴを手渡した者です。女と罪との同一視、蛇と罪の同一視、ひいては生活と罪との同一視は、聖書の神話のすべてと人類堕落説とに与えられた例外的な特徴です。

J・C
…女はこの世界に生命をもたらします。エバはこの時間的な世界の母親です。もともと私たちはあのエデンの園に夢のようなパラダイスを持っていました。時間も、生誕も、死もない、そして生もないパラダイスを。死んで生き返る、殻を脱ぎ捨てておのれの生命を新たにするヘビは、暗闇と永遠tがそこで合体する<中心となる木>の王です。彼は実際、エデンの園の主神なのです。・・・
J・C
 実は歴史的な説明があるんです。ヘブライ人がカナンにやって来てカナンの人々を隷属させた、という歴史に基づく説明です。カナン人が主として信じていたのは女神です。そして女神にはヘビが伴っていました。それが生命の象徴なのです。男性神を崇め続けてきたグループはこれを排斥しました。言い換えると、エデンの園の物語には母なる女神を排斥するという歴史的な意味が込められているのです。

<大人になるということ>
 現代の未開文化社会において、少女は初潮の経験を通じて女になります。ひとりでそうなってしまう。自然がそういう働きをするのです。その結果、少女は変身する。
 (それに対し、男は「儀式」に参加することで、大人に変身することになります)


<分離した人間の性別>
 プラトンの「饗宴」のなかでアリストパネスが語るギリシャ伝説も同類の一つですね。アリストパネスによれば、原始には、現在ならば二人の人間に相当する生物がいました。それらは、男・女、男・男、女・女の3種類でした。やがて神々は、それらすべてを二つに切り離した。ところが切り離されたあと、各半身が考えることといえば、もとの一体性を回復するために、ふたたびおたがいに抱き合うということだけ。だからいまの私たちも、自分の半身を探して一体になることをひたすら求めながら生き続けている、というわけです。


<性の枠組みを超える神>
 男とか女というのは超越者のなかに飛躍するためのスプリングボードです。そして、超越者というのは超越すること、二元性を超えていくことを意味します。時間・空間の領域になかにあるものはすべて二元的です。肉体的顕現は男性または女性のように見えますし、私たちのひとりびとりが神の肉化です。

<子宮内体験は神話の原点>
 最初の段階は子宮内の胎児でした、「私」とか、存在しているとう意識をなにひとつ持っていない。やがて、誕生の少し前に子宮のリズミカルな動きが始まると、とたんに恐怖が生じる!不安こそ最初のものであり、「私」と言うのもそれです。そのあと、生み出されるという恐ろしい段階に入る。産道を通るという困難な過程。そして - なんと、光!まあ想像してごらんなさい!すごいじゃありませんか、神話が語っていることをそっくりそのまま経験するなんて。・・・

<神話の類似性について>
 世界の神話はなぜ似ているのか?
 二つの説明が可能です。ひとつの説明は、人間の精神は基本的には世界中どこでも同じだということです。精神は人間の肉体の内面的な経験ですが、その肉体はあらゆる人類を通じて基本的には同じです。みんな同じ器官を持ち、同じ本能を持ち、同じ衝動を持ち、同じ葛藤を経験し、同じ不安や恐怖を抱くのですから。この共通の基盤からユングが元型(アーキタイプ)と呼んでいるものが出てきた。それが神話の共通理念です。・・・
 さて、もうひとつ違った立場から神話の相似を説明するものとして、伝播説があります。例えば、耕作の技術はそれが最初に発達した地域から各地に広まり、それにつれて、大地を肥沃にさせるとか、実のなる植物を育てるとかいったことと関係のある神話も広まる、という考えです。

<神話は芸術の源>
 神話というのは詩魂の故郷であり、芸術に霊感を与え、詩を鼓吹するものだと思います。人生を一編の詩と観じ、自己をその詩の参与者と見なすこと。それが私たちにとっての神話の機能なのです。・・・
 言葉の形式というよりも、行動と冒険の形式としての詩です。

<神話と民話の違い>
 民話は娯楽を目的としたもの、神話は精神的な教化を目的としたものです。

<司祭とシャーマンの違い>
 司祭をシャーマンの相違は、司祭が職能であるのに対して、シャーマンは社会に奉仕するために学んだ人です。・・・

 教会の司祭は社会的な役職です。社会がある神々をある決まったやり方で崇拝する。そして司祭はその儀式を遂行する役に任ぜられるのです。彼が仕える神は、自分が来るより前にそこにいた神です。一方、シャーマンの力は、彼自身の個人的な体験を支配する神々によって、象徴されます。彼の権威は、社会的な任命ではなくて、心理的な体験から生じているのです。
 それからまたブラックエルクの場合のように、シャーマンは彼のヴィジョンの一部を、自分の部族のために儀式化して見せることもあるでしょう。的な体験を人々の外的な生活の場で示すわけです。
(これが宗教の始りと言えます)

<体験から得られる理解>
 神秘的な体験をした人ならば、それの象徴的な表現はすべて不完全だということを知っています、シンボルは体験を説明するのではなく、それを暗示するのです。その体験のない人がどうしてそれを知ることができるでしょう。スキーの喜びを雪なんかまるで見たこともない熱帯地方の人に説明してみればわかるでしょう。メッセージをつかむには経験が必要です。なにか手がかりが必要です。

<カトリックの儀式体験>
 カトリックの儀式の素晴らしい点のひとつは、聖体拝領に参加できることです。そこであなたは、これこそ救い主の肉であり血であると教えられ、それをいただくと、あなたは内面に目を向け、自分のなかでキリストが働いていることを知るのです。それは自己の内面で働く精神を経験するために、瞑想をうながすひとつの手段です。人々が聖体拝領から戻ってくるのを見ると、彼らは心を内に向けています。・・・

<聖地はどこにでもある>
 例えば、私たちは聖地エルサレムを訪れるかもしれない。そこは私たちの信仰の発症の地だからです。しかし、ほんとうはあらゆる土地が聖地でなくてはいけない。人は風景それ自体のなかに、そこにある生命エネルギーの象徴を見出すべきです。古い文化的伝統に生きる人々はみなそうしています。彼らは自分たちの風景を神聖視しているです。


<時代と共に変化する神話>
<神話の枠組みの拡大>
 神話の主要なモチーフはみな同じだし、昔から同じだったのです。あなたの自身の神話を見つけようと思ったら、どういう社会に属しているかを知ることが肝心です。あらゆる神話は限界領域内の特定の社会で育ってきました。それからそれは他の神話と衝突し、相互関係を持ち、やがて合体して、より複雑な神話になるのです。
 でも、現代は境界線がありません。今日価値を持つ唯一の神話は地球というこの惑星の神話ですが、私たちはまだそぅいう神話を持っていない。私の知るかぎり、全地球的神話にいちばん近いのは仏教でして、これは、万物には仏性があると見ています。有用な唯一の問題はそれを認識することです。まず行動を、というのでは決してありません。大事なのはただ、在るものを在るがままに知ること。そのあとで万民万物の友愛にふさわしい行動をすることで
J・C

<求められる神話とは?>
B・M
「私たちにはどういう種類の新しい神話が必要なのでしょう」
J・C
「個々人を地域グループと同一化するのではなく、この惑星全体と同一化するような神話が必要です。そういう神話のひな形はアメリカ合衆国です。ここでは13の異なった小さな植民国家がどの一国の利益をも無視すまいと努力しながらも、共同の利益のために協力して活動しようと決心していたのです。

<神話と夢の違い>
B・M
 なぜ神話は夢と違うのでしょう?
J・C
・・・夢は私たちの生活を支えている、あの深くて暗い基礎についての個人的な経験であるのに対して、神話は社会の夢だからです。神話は公衆の夢であり、夢は個人の神話です。あなたの個人的な神話である夢が、たまたま社会の神話と合致しているとしたら、あなたは自分の社会集団とよく調和しているのです。もしそうでないとしたら、あなたは行く手にある暗い森のなかで冒険をしなくてはなりません。

<神話なき世界>
ビル・モイヤーズ
「社会がもはや強力な神話を持つことをやめてしまったとすると、どんなことになるでしょう?」
ジョーゼフ・キャンベル
「いま私たちが手にしているものです。一切の失った社会がなにを意味するか知りたければ、<ニューヨーク・タイムズ>を読むんですね」
B・M
「そこに見つかるのは?」
J・C
「その日その日のニュースです。…文明社会でどう振舞えばいいか知らない若者たちによる破壊行為や暴力ざたなども含んだ。・・・」
B・M
「社会は、そういう若者が、部族やコミュニティーのメンバーになるために必要な儀式を与えてこなかったんですね」

<神話に代わるもの>
J・C
 これから長い間、私たちは神話を持つことができません。物事は神話化されるにはあまりにも早く変化しすぎているので。
B・M
 では、私たちは神話なしでどう生きるのでしょうか?
J・C
 各個人が自分の生活に関りのある神話的な様相を見つけていく必要があります。基本的に見て、神話は四つの機能を果たします。第一に神話的な役割 - いま私が話してきたようなことで、宇宙がどんなにすばらしいものか、自分がどんなに不思議なものかを自覚し、この神秘の前で畏怖の念を抱くことです。・・・
 第二は宇宙論的な次元、科学が関わる次元でして、神話は宇宙がどんな形であるかを示します。といっても、やはりその神秘が表れるような形で示すのですが。・・・
 第三は社会学的な機能です。ある種の社会秩序を支え、それに妥当性を与えるという機能。この点で神話は地域ごとに大いに異なっています。・・・
 しかし、神話にはもうひとつの機能があります。・・・それは教育的な機能、いかなる状況のもとでも生涯人間らしく生きるにはどうすべきかを教えてくれる機能です。・・・


<アメリカが法律国家な理由とは?>
 かなり長い間同一の民族によって構成されていた文化社会では、人々は生活のよりどころとしている多数の不文律、黙認されているルールがあるんです。そこにはあるエトスが、ある生活様式が、「私たちはそんなふうにはやらない」という共通の理解があるのです。・・・・・・
 アメリカは非常に多様な背景を持った人々がいて、それがひとつの群れをなしていっしょに暮している。だからこの国では法律がきわめて重要なものになっているのです。法律家と法とが私たちをひとつにまとめているのです。エトスはありません。
・・・・・
J・C
 アメリカほど何もかもを法律により判断する国は他にありません。その理由は国民の多様性が統一した見解を持てないようにしているから。確かにそうかもしれません。

<神を殺したアメリカ文化>
B・M
 現代のアメリカ人は、自然に対する自分たちの支配権を妨げられたくないというので、自然は神性を持つという考えを拒絶しているんじゃないでしょうか。木々を切り離し、土地を裸にし、川までも不動産に換えてしまうなんてことは、神を殺すことなしには不可能でしょう?
J・C
 そうです。が、それはなにも現代アメリカ人の特徴ではありません。それはアメリカ人が自分たちの宗教を通じて受け継いだ、聖書に基づく自然断罪の観念です。彼らはそれを主としてイングランドからアメリカに持ち込んだのです。神は自然から分離されている。自然は神によって呪われている。ほら、「創世記」にも書いてありますよ。われわれ人間が世界の支配者にならなければならないと、と。

<宗教の変化>
B・モイヤーズ
 しかし、最も偉大な聖者のうち幾人かは、可能ならばどこからでも借りてきたんじゃないでしょうか。こちらからも借り、あちらからも借りして、新しいソフトウェアを作り上げてきたのでは?
J・キャンベル
 それが宗教の発達と呼ばれるものです。聖書のなかにもそれが見られます。最初、神はただ単に多くの神々のなかでいちばん強い神、一地方の部族の神であるに過ぎません。その後、紀元6世紀ですが、ユダヤ人がバビロンで流刑生活を送っているあいだに、救い主がやって来るという思想が生まれ、聖書の神は新しい次元に入るのです。古い伝統を守るには、必ずそれを現代社会の状況や条件に合わせて革新していかなければなりません。旧約聖書の時代には、世界は小さな三層のケーキに過ぎませんでしt。中近東の中心部、周囲360~400Kmというのがその世界の全部だったのです。アステカ族のことなど、いや中国人のことでさえ、だれも聞いたことがなかった。世界が変ると、宗教も変わらざるをえないのです。

<世界は今のままで良い!>
J・C
…世界は今のままでも偉大なものです。修復しようなんて考えないほうがいい。前より少しでもよくした人なんて、ひとりもいないんです。いまよりよくなることなど、決してない。そういうわけですから、それを受け入れるか捨てるかのどちらかです。世界を矯正するとか、改善するなんて無理な話ですよ。
B・M
 その考えを進めると、悪に対していささか消極的な態度をとることになりませんか?
J・C
 あなた自身が悪に加担しているのです。さもなければ生きていけませんから。あなたがなにをやろうと、それはほかのだれかにとって悪なのです。これは被造物すべてにとってのアイロニーのひとつです。

<神話を生かすための挑戦>
 神話は生かされるべきです。それを生かすことのできる人は、なんらかの種類の芸術家です。芸術家の役割は環境と世界の神話化です。


「神話の力 The Power of Myth」 1988年
(話)ジョーゼフ・キャンベル Joseph Campbell
(聞)ビル・モイヤーズ Bill Moyers
(訳)飛田茂雄
早川書房