1970年

- 黒人ダンス文化を発信し続けた音楽番組の放映開始 -

<1975年>
 1975年、当時僕は中学生でした。実家はその頃、流行の最先端だったメンズ・ブランド「JUN」のショップ(いや、ブティックでした)を営業していました。そのため、店の二階の僕の部屋では、1階でかけられていたロックやソウルのヒット曲をいつも聞くことができました。その「JUN」がスポンサーだったこともあり、夜遅くの放映だったにも関わらず(たぶん10時半ごろ?)、我が家では欠かさず「ソウル・トレイン」を見ていました。ちなみに、当時「ソウル・トレイン」は、その時間帯で毎週やっていたわけではなく、ヘレン・レディーが司会をしていたポップス系、ロック系アーティストによるステージ・ライブ番組「ミッドナイト・スペシャル」と「トム・ジョーンズ・ショー」もしくは「エンゲルベルト・フンパーディンク・ショー」が交代で放映されていたように記憶しています。(放映していたのは、テレビ東京でした)
 ダンス好きの弟は、ペアでダンスを披露するライン・ダンスのコーナーのなるといっしょに踊り出し、家族に大受けでした。「ソウル・トレイン」は、我が家みんなの重要な楽しみのひとつでした。毎週欠かさず見ていると、常連のダンサーたちの顔もすっかり覚えてしまい、ソウル・トレイン・ギャングたちは、すっかり身近な存在になっていました。
 今改めて振り返ってみると、「ソウル・トレイン」はステージ上で演奏するアーティストたちよりも、ステージの下で踊るダンサーたちこそが主役だったのかもしれないと思います。このことは、その後のブラック・ミュージックの世界が向かうことになる大きな変化を先取りしていたようにも思えます。

<ダンス重視の番組>
 当時、この番組でかかる曲のほとんどはレコード音源で、ほとんどのアーティストが口パクだったというのはよく知られています。それはたぶん、テレビ放映のために生じるトラブルを事前に防ぐための手段だったのでしょう。(それは、放映時間枠にぴたりと収めるためとか、演奏ミスによる録り直しや編集作業を減らすためとか、PAの手間やミスを防ぐためなど、いろいろな理由が考えられます)当時、多くのアーティストが、このやり方に不満だったようで。ジェームス・ブラウンやアル・グリーンなど、一部の大物アーティストたちは特別にライブ演奏をさせてもらっていました。(どちらにしても、ジェームス・ブラウンに口パクほど似合わないものはないでしょう。彼の場合、バンドのメンバーたちは、皆、JBの一挙手一投足に合わせて演奏することになっていました。したがって、彼が何かに合わせて歌うなどありえなかったのです)そのうえ、当時は今では信じられないほどのテクニックをもつファンク・バンドが一杯いました。彼らもまた自分たちの高い演奏能力を見せたかったはずですが、それも認められませんでした。
 こうして、ライブ演奏から口パクに切り替えたことは、ある意味アーティストのパフォーマンスではなくダンサーのパフォーマンスを重視していたことの表れだったのかもしれません。もちろん、黒人音楽には昔からダンスが常に付き物ではありました。しかし、この番組はテレビとして初めて、そのダンサーを主役に近い位置においたという点で画期的だったのです。そして、こうしたダンサー中心の番組の姿勢は、レコードをかけてダンスを踊らせるディスコ文化の先駆けだったとも思えるのです。この流れは、その後レコードをミックスし、観客を徹底的に踊らせることを仕事とするDJという新しいアーティストを生み出すことになります。もちろん、「ハウス」や「テクノ」のような「ディスコ」以降に誕生したダンス・ミュージックは、その延長線上にあるといえます。20世紀後半のブラック・ダンス・ミュージックの歴史は、1970年に放映が始まったこの「ソウル・トレイン」とともに始まり、その番組の中でその変化が常に映し出されることになります。20世紀が終ってもなお走り続けるソウル・トレイン号へ、ようこそ!

<ドン・コーネリアス>
 ベトナム戦争から帰還した元海兵隊員の黒人青年ドン・コーネリアスは、シカゴのソウル系音楽の専門ラジオ局でDJとして働きながら、「ソウル・トレイン」の前身となる番組の企画を提案します。それは1957年に始まり、全米の人気を獲得していたポピュラー音楽番組「アメリカン・バンド・スタンド」の黒人版ともいえる番組として企画されていました。スポンサーは、当時シカゴ最大の企業であり、全米一の百貨店「シアーズ」でした。(1950年代に入り、アメリカ経済は右肩上がりが続いており、その恩恵を受けた黒人社会の購買力も急激に上昇。黒人家庭へのテレビの普及も進んでいたため、黒人向けのテレビ番組が求められていたのです。
 こうして、1970年8月17日シカゴのWCIUテレビで誕生した元祖ソウル・トレインは、毎週月曜日から金曜日までの週五日間という枠で、その放送が始まりました。黒人音楽専門のヒット曲発信番組ということで、シカゴ周辺で人気を高めたこの番組は、シカゴ・ローカルの番組からしだいに他局にも広がり始めました。そして、一年後の1971年には全国ネットの番組になるための足がかりとして、スタジオをロサンゼルスに移します。こうして、再スタートを切った「ソウル・トレイン」の記念すべき第一回のゲスト・スターは、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、ハニー・コーン、エディー・ケンドリックスというメンバーでした。ここから、定番的な「ソウル・トレイン」の番組スタイルが始まったようです。

<テーマ曲>
 この番組の最初のテーマ曲は、キング・カーティスの「Hot Potates」でした。しかし、数年後、一大ブームとなっていたフィリー・ソウルの大御所、ケニー・ギャンブルとレオン・ハフのコンビによる「The Sound of Philadelphia」になります。「ソウル・トレイン」のイメージを決定づけることになったこの曲の演奏は、フィリー・サウンドの要として大活躍していたスタジオ・シグマのミュージシャンたちからなるMFSBで、ヴォーカルとしてスリー・ディグリーズ The Three Degreesも参加しています。後に「TSOP(The Sound of Philadelphia)」と呼ばれることになるこのソウル・トレインのテーマは、見事全米ナンバー1ヒットとなり一気に番組を全国区へと押し上げることになりました。

<ソウル・トレイン・ダンサーズ>
 この番組の見所は毎回変わるゲスト・スターの豪華さだけではありません。「ソウル・トレイン・ダンサーズ」(当初は「ソウル・トレイン・ギャング」と呼ばれていました)と呼ばれる素人ダンサーズたちが見せる個性的ファッションとダンスはある意味演奏するミュージシャン以上に流行の先端を行っていたといえます。何十人も出演しているダンサーたちの中で目立つには、どうしたらよいのか?それぞれのダンサーたちはダンスだけでなく、衣裳やヘアー・スタイルにも趣向を凝らしており、それが視聴者にとってはもう一つの魅力になっていました。
 特に男女のペアが並んで歩きながら踊るコーナーは、完全にダンサーが主役になっており、この番組のもうひとつの見所になっていました。その後のヒップ・ホップ・ダンスに近いアフロバチックなものやユーモラスなロボット・ダンス、ペアならではのお熱いダンス、そうかと思えば、衣裳をバッチリ決めておいて、ほとんど動かないクールな動きで見せる伊達男と見ごたえ十分な役者(ダンサー)ぞろいでした。
 日本でのスポンサーだったファッション・ブランドのJUNは、この番組の人気に乗って「ソウル・トレインTシャツ」を発売したり、銀座にディスコをオープンさせたりと、この番組から新しいファッションを展開させディスコ・ブームを牽引して行くことになります。まだ、全国的にはディスコは珍しかったこともあり、ダンスをマネするよりも、ファッションから黒人音楽もしくはダンスの世界に入っていった人も多かったように思います。(日本における全国規模のディスコ・ブームは1975年にヴァン・マッコイが「ハッスル」をヒットさせ、さらに1977年に映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が大ヒットしてからのことになります)
 今や日本では、ヒップ・ホップやR&Bはポップスの主要ジャンルとなった感がありますが、それらの先駆けとなったアーティストたちの多くは、この「ソウル・トレイン」を見て黒人音楽に触れ始めた世代だといえるでしょう。(近田春夫やバブルガム・ブラザースなどはその代表的なアーティストですが、久保田利伸などは「ソウル・トレイン」に実際に出演しています!)
 「ソウル・トレイン」は日本において、ディスコ・ブームの原点となっただけでなく、ヒップ・ホップ・ブーム世代の原点ともなった番組あったといえるでしょう。

<「ソウル・トレイン」の変遷>
 「ソウル・トレイン」が始まった当初は、その当時ソウル界をリードしていたフィリー・ソウルやモータウンのアーティストたちを中心にソウル・コーラス・グループが中心に番組は構成されていました。しかし、ブラック・ミュージックの世界ほど、流行の変化が激しい業界はありません。その後、「ソウル・トレイン」に出演するアーティストたちはどんどん代わってゆきます。1970年代も中盤になると、人気の中心はコーラス・グループから大所帯のファンク・バンドたちへと移り始めます。クール&ザ・ギャング、BTエクスプレス、オハイオ・プレイヤーズ、コモドアーズなど。そして、この頃になるとK・Cことハリー・ウェイン・ケーシーのように白人ミュージシャンでありながら、この番組に出演するアーティストも現れ始めます。(もちろん、それまでは出演アーティストもダンサーたちも黒人オンリーでした)ちなみに、この番組に最初に出演したソロ白人アーティストは、1974年「ベニー&ザ・ジェッツ」を歌ったエルトン・ジョンだったそうですが、その後はデヴィッド・ボウィやキャプテン&テニール、ホセ・フェリシアーノなど、フィラデルフィアのシグマ・スタジオで録音を行ったアーティストたちを中心に次々と出演することになります。
 しかし、1975年の「ハッスル」のヒットからは、白人、黒人関係なくディスコ・ヒットがこの番組の中心になってゆきます。この番組の偉大さは、ディスコのブームが去り、1979年の「ラッパーズ・ディライト」のヒットから始まるヒップ・ホップの時代が訪れ、ブラコン(ブラック・コンテンポラリー)のブームやハウス、ゴーゴーなどのブームが次々と訪れる中でもなお放送が続けられてきたことです。ソウルの時代が終ってしまって以後も、21世紀まで続く歴史的長寿番組となったことです。
 その間、番組の創設者であると同時に名物司会者でもあったドン・コーネリアスは、1993年に司会を引退し、プロデュース役にまわりましたが、未だに番組の中心として活躍しています。(ただし、家庭内暴力で訴えられるなど、プライベートでの問題は多いようですが・・・)
 放映開始当初から、ドンはこの番組においてダンス・コンテストで優勝した若者に大学に進学するための奨学金を与えるなど、常に黒人の地位向上を目標とした番組作りをしていました。当時、日本版にでは放映されていなかったと思いますが、この番組では有名な黒人政治家のジェシー・ジャクソン氏のインタビューを行うなど政治的、社会的な問題を取り扱うこともありました。この番組が、黒人音楽がどんなに変わろうと、時代がどう変わろうと、放映を続けられたのは、こうした社会意識が番組スタッフを支えていたからなのでしょう。逆にいえば、この番組の目指す黒人の地位向上は21世紀になってもなお果たされていないということでもあるのですが・・・・。
 1970年から21世紀まで黒人音楽の変化を映し出し続けてきた「ソウル・トレイン」。かつて、公民権運動の中から育った黒人社会の意識改革を明日へと伝えるため、そして、黒人音楽の伝統である時代の先を行くダンス文化を先導するため、いつまでも、どこまでも走り続けてほしいと思います!

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