なぜ、人々は殺し合ったのか?「スペイン内戦」の複雑さとは?


- スペイン内戦 The Spanish Civil War -
<カタルーニャ独立問題と「スペイン内戦」>
 2017年、住民投票の結果を受け、突如、スペイン東部のカタルーニャ州が独立宣言を発表。世界中を驚かせました。確かにカタルーニャは経済的にスペインでも裕福な地域であり、独立してもやっていける可能性はあるかもしれません。しかし、そうなれば様々な問題が生じ、バルセロナ市民も今まで通りの生活が変化を余儀なくされることは確実です。そこまでして、カタルーニャの人々が独立を望むのは何故なのでしょうか?
 我々日本人にはなかなか理解できませんが、スペインとカタルーニャの長い歴史を知れば少しはわかってきそうです。その中でも、「スペイン内戦」もしくは「スペイン戦争」は最も重要な事件のようです。スペイン国民を分断しただけでなく、お互いを憎しみ合わせ、未だにその影響を残すスペイン内戦の歴史について学んでみたいと思います。
 ここで参考にするのは、歴史家、ライターとして有名なアントニー・ビーヴァーの著作「スペイン内戦」(上下巻)です。ボリューム満点のこのノンフィクション作品は、長い間、「スペイン内戦」の決定版と言われてきました。1982年に初版が発表された後、時と共に様々な歴史的事実が明らかになってきたことから、2006年に改訂版が出版されました。
 ヘミングウェイの「武器よさらば」やジョージ・オーウェルの「カタロニア讃歌」、そしてロバート・キャパのあの有名な写真「崩れ落ちる兵士」を生み出した「スペイン内乱」は、多くのアーティストや記者たちを惹きつけ、他国から数多くの志願兵を呼び寄せたことでも知られています。なぜ、その戦争はそこまで人々を惹きつけたのか?
 同じ国に住む人々を、同じ民族、同じ地域に住む住民、同じ家族までもが憎み合い、殺し合うようにさせてしまったのか?
 その謎に満ち、魅力にあふれた戦争について、年代順に調べようと思いますが、先ずは内戦が勃発するに至ったスペイン国内の問題点をあげることから始めようと思います。
<スペインの後進性がもたらした戦争>
 その背景には、スペインという国の歴史に深く根ざした社会的・・経済的矛盾、社会階級の対立、貧困と無知、封建的な土地制度、教会の精神的支配、それに牢固とした軍部の存在があった。フランスとの国境をなすピレネー山脈を越えるとアフリカが始まるといわれていた。内戦で左右両派がおこなった、目を覆わんばかりの蛮行・愚行、内戦の国際化と長期化、その招いた大流血という悲劇もまた、当時のスペインが他の西欧諸国に比べて抱えていた度し難いほどの後進性と結びついている。
根岸隆夫(訳者)

<内戦の原因>
 「スペイン内戦」は、単に政治的な対立から始まった戦争ではありません。様々な要素が絡み合い複雑な対立と協力関係によって始まった戦争です。その基本的な部分をここではあげておきます。
<民族問題> 
<カタルーニャの歴史>
 12世紀にアラゴン・カタルーニャ王国として、地中海で権勢を誇ったカタルーニャ人は、貿易を中心に地中海の西側を広く支配していました。その当時は、イタリア南部からコルシカ、シチリア、アテネ公国そして現在のカタルーニャ州を領土として繁栄する強国で、今でも往時の遺産が残されています。
 1640年、カタルーニャとポルトガルは、支配国だったスペインの王フェリペ4世に対し、独立を宣言。ポルトガルは独立に成功するものの、カタルーニャは独立に失敗し、フランス領となりました。1700年のスペイン継承戦争では、ハプスブルグ家が推すカール6世との戦争で勝利したフェリペ5世が自治権を獲得しますが、スペインはその領土を大幅に失い、現在の大きさになりました。そして、そこからカタルーニャの支配権はスペインが持つことになりました。
 当時からカタルーニャ人は貿易を中心として経済的に活躍する民族でした。元々異なる言語を有するカタルーニャ人は、民族的にスペインとは相いれない存在だったと言えます。同じことは、フランスとの国境に面したバスク地方に住むバスク人にも言えます。最近では、美食の土地として世界的に有名なこの地域もまたスペインとは異なる民族の住む土地で民族的な対立が存在していました。もちろん現在も独立運動は続いています。
 スペインが王制から共和制に移行すると、1931年4月21日、スペイン国内にカタルーニャ自治政府が誕生し、フランセスク・マシアが大統領に任命されますが、これによりカタルーニャでの本格的な独立運動が始まるきっかけともなりました。
 「スペイン内戦」の原因にはこの「民族問題」が大きく関わっています。 
<宗教問題>
<カトリック教会中心の旧体制>
 世界最強の「無敵艦隊」を有し、世界中に植民地を有することで、世界の頂点に君臨していたスペイン王国。その躍進を支えたのはカタルーニャの貿易商でした。しかし、その栄光の日々は終わりを迎えることになります。その原因は明らかでした。

 17,18世紀をつうじてスペインが商業活動で遅れをとったのは、主としてスペイン・カトリック教会が中世以来の高利を排撃する教義に縛られ、反資本主義路線を維持したからだった。スペイン小貴族の規範は、金銭自体を、そしてとくに金を稼ぐことを蔑視するものだった。・・・
 後進的な商業と硬直した支配秩序の反動として、スペインは他の欧州諸国に先立って中産階級の革命を経験することになる。


 そんなカトリック教会に対する批判は、大衆だけでなく軍や政治家にまで広がっていました。なぜならスペインの保守的な政治・社会体制は、カトリック教会と一体化していたからです。保守派(軍人、宗教関係者、右派政治家)と左派(労働者、芸術家、無神論者、共産主義者)の構図において、「カトリックかどうか」が重要な基準となりました。
 「スペイン内戦」の原因のもうひとつにこの「宗教問題」があります。
<宗教界との対立>
 共和国は、カトリック教会(プロテスタントではない)の古い体質の影響を受け続ける政治体制からの脱却を図るため、イエズス修道会を禁止させ、教会財産の国有化を実施します。当時のスペインではすで毎日曜日、ミサに出席するスペイン人は2割に満たなかったにも関わらず、政界に強い影響力を持っていたカトリック教会の力を弱めようというのが目的でした。しかし、セグラ枢機卿は「カトリック教徒にあらざるものは、人にあらず」と宣言しており、当然、カトリック教会にとって共和国政府は敵とみなされることになります。
 カトリックとプロテスタントの違い
<経済問題>
<共和国の誕生>
 1931年、様々な問題を抱えていたスペインの王制についにピリオドが打たれます。
 1931年4月14日朝6時、スペイン北部のエイバルで共和国が宣言され、そのニュースはほとんど即刻スペイン全土に伝わった。ロマノネスが共和派指導者アルカラ・サモラと会うと、王は家族と共に同日の午後にはスペインを離れるべきだといわれる。王は、軍の力で権力の座にとどまるべきだとする他の閣僚の提案をしりぞけ、カルタヘナ港で乗船するためにマドリードを離れた。王の退去でなんの騒ぎも起きなかった。ミゲル・マウラはこう書いた、「王制は、その崩壊のずっと前にスペイン人の意識から蒸発してしまっていた」。

 しかし、共和制への移行はできたものの、様々な問題を抱えていたスペインでの政治的混乱がここから始まることになります。

 この共和国の指導者たちは、スペイン社会に根を深く下した巨大な問題に直面した。農業改革、軍部の非妥協的態度、カタルーニャとバスクの自治問題、カトリック教会対国家の関係である。「国民の共和国」を建設する目的に沿って教育制度の欠陥に取り組む必要もあった。

 この危険な状況の中、アメリカから始まった「世界恐慌」がヨーロッパ全土を襲います。そうでなくとも、共和制前のプリモ・デ・リベラ政権時代にスペインは莫大な借金を抱えていただけに「経済問題」もまた「スペイン内乱」の原因として浮上することになりました。
 1931年に共和制に移行後、海外からの民間投資額は急激に落ち込み、1936年には1913年の水準にまで落ち込んでいたといいます。新政府の政策のせいで、資本がスペインからどんどん離れて行くことになりました。 
<軍部との対立問題>
<軍部との対立>
 多くの植民地を抱えていたスペインは、それらの土地を守るだけの多くの軍人を抱えていて膨大な軍事費を必要としていました。多くの植民地を失い国家財政がひっ迫する中、当然、軍事費、とりわけ兵士の給料をカットすることが有効であることは明らかでした。しかし、軍人が多いということは、それだけ彼らが権力を持っているということでもあり、軍人の数を減らすことは命がけの政策になるのは当然でした。
 新国防大臣マヌエル・アサニャは過剰人員をかかえた軍部の刷新に着手した。彼は将軍と将校に、給与全額支給の条件で予備役に編入する提案をした。16の軍管区を八つの「常設師団」に減らし、中将の階級を廃止し、義務兵役期間を一年に縮め、たまたまフランシスコ・フランコが校長だったサラゴサ士官学校の閉校を命じた。
 ところが、こうした改革は、軍の近代化や効率化に本質的な改善をもたらすものではなかった。ただ不平不満の将校に共和国に対する陰謀をたくらむ時間と機会をあたえたにすぎなかった。
・・・
<フランコの登場>
 「スペイン内乱」を終わらせ、その後、長く独裁政権を維持することになる国民戦線のフランコ将軍は、元々は共和国軍の将校でした。彼は軍を率いて、急進的な左派の反政府活動を鎮圧する役目を果たしています。

 戒厳令下のスペインで、国防大臣はフランコ将軍に反乱の鎮圧を命じた。10月7日、ロペス・オチョア将軍は特派部隊を率いてルーゴを出発した。・・・アウストゥリアスの革命は二週間以上つづかなかったが、およそ1000人の死者と参加したために首になり、それに数千人の労働者が、蜂起に参加したために首になり、それに数千人が投獄された。その多くは1935年1月に戦争状態が集結して釈放される。全部で20人が死刑を宣告されたが、執行されたのは二人だけだった。これはスターリンやヒトラーが革命的な蜂起にどんなふうに報復したかたを考えれば、その時代にしてはきわめて寛大だった。鎮圧部隊の残虐行為の責任を問うとすれば、マドリードの政治家よりはむしろ鎮圧部隊の指揮官、とくにヤガエとフランコだった。

 当時スペイン領だったモロッコには、植民地統治のために軍の主力部隊が常駐していました。そしてフランコもそこで主力部隊を率いており、後にそれらの精鋭部隊を率いて共和派に対する反対勢力となりますが、当初はそれほどの野心家とは思われてはいなかったようです。

 フランコ・バハモンテは、エル・フェロルの海軍主計官の息子として生まれたが、海軍に欠員がなかったので陸軍に入った。歩兵学校では勉強家だったが優等生ではなく、成績は312人中251番だった。けれども北アフリカで外人部隊に配属されると昇進が早かった。外人部隊はフランスの外人部隊をお手本にしていた。頑強な部下の兵士には似つかわしくなく、フランコは軍人らしくなかった。背が低く太鼓腹で声が甲高かったので、仲間の将校たちの冗談の種にされ。彼らはフランコを「隊長ちゃん」とか「フランコちゃん」と愛称で呼んだ。だが、この若い将軍は大胆でありながらも、計画を立てるにあたって、まことに緻密だった。1936年春をつうじて彼は沈黙していた。
<イデオロギー問題>
<左派の急進化>
 元々左派よりだった共和国政府内には左派の急進派(共産党系)も多かったのですが、彼らは共和国政府の改革の遅さに不満を感じていました。そこでより左派よりの急進的な改革を求めてゼネストを強行します。しかし、この活動により共和国政府から急進左派が浮くことになり、中道派との分裂が決定的となります。これもまた「スペイン内乱」の決定的な要因の一つとなりました。

 PSOE(社会党)は、戦闘的な言辞を振りまいて政府反対に立ち上がる準備を整え、革命的ゼネストを打つことを決めた。他の左翼と左翼中道派は、共和国の敵の手に渡るのを恐れて、その瞬間から合法性にとらわれないと宣言した。政府はゼネストを非合法化せざるをえなくなり、スペインが戦争状態に入ったと宣言した。
 ゼネストは10月5日に始まり、全国ほとんどで実行された。ラルゴ・カバリェロと追従者は無責任な行動に輪をかけた。彼らは、まったく無計画に蜂起したのだ。これこそ中産階級を恐怖に陥れ、右翼の懐に追いやる最善の方法だった。・・・
 スト参加者は、内務省といくつかの軍事中心部を時にはピストルを撃って占拠しようとしたが、治安部隊に即座に一網打尽にされた。10月8日には革命委員会のほとんど全員が逮捕された。


・・・この大暴動が中道派と同様に極右に警告をあたえたことは確かだ。それは彼らにふたたび、プロレタリアート独裁実現の試みをなんとしても防止しなければならないという覚悟を固めさせた。ましてラルゴ・カバリェロは「私は階級戦争なき共和国を望んでいるが、そのためには一つの階級が消滅しなければならない」と公言しているのだ。

<カタルーニャでの分裂>
 カタルーニャにおいては、左翼の活動とは別にカタルーニャ独立運動という異なる運動体が存在していたため、より事態は複雑になります。共和派の中でも中道と急進左派、それに独立派と無政府派、様々なグループに分かれてしまったカタルーニャ自治政府は混迷の度を深めることになります。(バスク地方にも同じように独立派が存在しました)

 他方、カタルーニャ左翼はマドリード政府のカタルーニャ自治権の扱い方に憤慨していたから、ゼネストをカタルーニャ独立を促進する機会とみた。10月6日夕方の8時に、コンパニスはカタ ルーニャ自治政府のバルコニーに姿を現し、「スペイン連邦共和国内のカタルーニャ国家」を宣言した。・・・
 レルー首相は、戦争状態を宣言してドミンゴ・バテト将軍に反乱鎮圧を命じた。慎重な人物だったバテトは、サント・ハウメ広場に野砲2台を据え付けて、空砲を撃たせた。10月7日朝6時にコンパニスは降伏した。
(彼はこの後30年の禁固刑を言い渡されます) 

 イデオロギーの問題は、そのまま当時の世界おける「ファシズム」対「民主主義」対「共産主義」対「民族主義」対「無政府主義」・・・さらには「カトリック思想」という複雑な思想グループの対立を映し出すことになり、スペインはそのイデオロギー戦争における代理戦争の戦場にもなってしまったのです。

<最後の総選挙>
 1936年2月16日、スペイン議会で選挙が実施されます。しかし、この選挙の後、40年間、スペインで自由な選挙が行われないことになります。
「ストも、脅しも、醜聞もなくおこなわれた。だれもがまったく自由に思うとおりに投票した」
王党派の新聞「ABC」より
 1936年2月20日、地方の選挙委員会は最終結果を明らかにした。人民戦線が15万票の差で勝利した。・・・全投票数の2%以下の僅差で勝ったとはいえ、人民戦線は議会で絶対多数議席を獲得したのだ。選挙の結果、スペイン全土1000万票近くのうち、たったの4万600票しかホセ・アントニオ・デ・リベラのファランヘ党に投じられなかったという事実はもっとも衝撃的だったろう。(この時点で、ファシストへの支持はほとんどなかったということです)
 左派は、僅差で勝ったことを忘れて、革命的変化のために圧倒的多数の選挙民の委任を受けたかのように振る舞いはじめた。

 僅差で勝利した政権が、国民全体の支持を得たかのように勘違いするのは、トランプ政権や安倍政権も同様です。思えば、ヒトラーのナチ党も当初はそれほど支持者がいたわけではありませんでした。そして、左派も右派もお互いに対する憎しみの感情は深く、もしも選挙で自分たちが敗北したら、正義のために軍事力をもって立ち上がると決めていました。
 そんな中、選挙に勝利した人民戦線は、その基本姿勢「人民戦線綱領」を発表。それは、「農地改革」、「カタルーニャ自治権の回復」、「10革命後に服役している囚人」の釈放に重点が置かれた内容でした。それでも、国民の支持が得られないとして、あまりに急激な共産化の政策導入はあえて避けられ、銀行の国有化、土地の再分配についての記述はまだありませんでした。
 しかし、右派の政治家たちは、このままだと資本家の財産は国に没収されることになるだろうと予告。そうなることを恐れる多くの地主や大会社、カトリック教会などは、右派の活動に対し資金を提供し始めます。
 そんな状況にあるにも関わらず、左派のコミンテルン幹部は中道に位置する中産階級の支持を得ることに無関心でした。特に人民戦線(共和国軍)の最大勢力だったスペイン社会党(PSOE)の指導者フランシスコ・ラルゴ・カバリェロは急進的な左翼活動家として人民戦線にも大きな影響を与えることになります。
「われわれが望む革命は暴力によってのみ達成される」
フランシスコ・ラルゴ・カバリェロ
 これでは、国民の多くがついてくるはずがありませんでした。

<内戦への危機>
 そうした状況が続く中、スペイン各地では内戦が勃発することを予見させる事件が多発していました。
<右派の暗躍>
 右翼の集団の中で、秩序を乱し、それによって軍事クーデターを挑発するのにいちばん役立ったのはファランヘ党でした。1933年10月29日に設立されたこの党の正式名称はスペイン・ファランヘ(スペイン軍団)で、その理想像は「半ば修道僧、半ば兵士」とされていました。彼らは、スペイン革新党やビスカヤ銀行、イタリアのムッソリーニなどから資金を提供され、しだいにその影響力を強めるようになります。このファランヘ党に加え、国王の復活を目指すカルロス派、スペイン軍人同盟、アルフォンソ王の支持派らが中心となって、共同で共和国政府に対しクーデターを起こすための準備がいよいよ始まることになります。
 ファランヘ党のメンバーは首都のマドリードなどで、裁判官や新聞記者など左翼の重要人物を暗殺し、スペイン中を震撼させます。さらに1936年4月14日の共和国5周年記念日の式典で大統領の近くで爆弾がさく裂。これがきっかけとなり、ファランヘ党員と突撃警備隊員の戦闘が起きます。4月16日には、ファレンヘ党員が労働者に短機関銃を発砲し、3人を殺害し40人の負傷者を出します。 その活動は、ドイツにおけるナチ党の活動開始時期と同じく暴力的でその支持者はごくわずかでした。
<左派の準備>
 そうした右派の動きに対し、共産党は、実戦対応の軍事組織、労働者・農民反ファシスト民兵(MAOC)を組織します。さらに中道左派ではモトリサダ(機動隊)を組織し、ファシストとの対決姿勢を強めます。右派、左派共に武器の携帯は当たり前となり、議会に登院した議員たちは議会の建造物に入る前に武器を預けるよう求められることになります。そんな中、マドリードでは5月1日にはメーデーのパレードが実施されます。
 そのにぎやかなパレードを見た保守派の人々は、赤い旗、赤い横断幕、巨大なレーニン、スターリン、カバリェロの肖像のプラカードを見て恐怖を覚え、プロレタリア政府の樹立と人民軍の創設を要求するシュプレヒコールを聞いて警戒心を強めることになりました。 多くの国民が、このままではスペインはソビエトになる、と確信するようになります。
<農民たちの反乱>
 3月の最初の二週間で、土地をもたないブラセロス(農業労働者)はマドリード、トレド、サマランカ地方で私有地を占拠しはじめました。それから3月25日の明け方、ダバホス地方の6万人の土地をもたない農民が、土地を奪い耕作しはじめます。それから数週間の間に、おなじような行動がカセレス、ハエン、セビリヤ、コルドバ地方で起こされました。・・・
 社会民主主義の斬新路線は、労働者の燃える熱望も満足さられなかったし、地主に私有財産は尊重されると安心させることもできなかったのです。労働者の多くは、もっと早く政府に動くことを求めていたのです。 

<内戦の始まり>
 様々な反乱の兆候がありながら、共和国政府はそれに対する準備を怠りました。そして、ついに「スペイン内戦」が始まってしまいます。
<内戦の始まり> 
1936年7月、ついに「スペイン内戦」が始まります。

 蜂起準備の証拠がたくさんあるのに、共和国派指導者は恐ろしい真実を信じようとしなかった。・・・自由主義的な共和国、つまり、その政府の究極の逆説は、みずからを選んでくれた労働者に武器を配ることによって、反乱する自分たちの軍隊にたいして、自分たちを守ろうとしなかったことである。
 その7月第三週は、雰囲気は非常に緊張していたけれども、生活はふだんのままだった。中産階級にとっては、休暇に出かける季節だった。だが、どこかに出かけるか、それとも家に残るかで、彼らの暮らしが左右されることになるとは誰も想像さえつかなかった。


 「スペイン内戦」は、各地に植民地のモロッコを含め点在する軍の基地で、共和国政府に反発する将軍たちとその部下たちによって始められました。しかし、それは決して統一された反乱ではなく、始まらなければわからないぶっつけ本番的なスタートでした。それだけに共和国軍はその時点で反乱を阻止できる可能性が十分にあったことが後に明らかになります。

 将軍たちは、スペイン領モロッコとスペイン全土の兵営の一斉蜂起でクーデターを開始する計画だった。この行動の成否は、蜂起参加者数よりも迅速な行動と無慈悲な暴力のもたらす心理的効果にかかっていた。反乱将軍たちが完全なクーデターを実現できなかったにもかかわらず、共和国は最初の48時間で蜂起の粉砕に失敗した。この短い時間は内戦をつうじてもっとも決定的な局面であり、このかんに全地方の掌握が決まった。急速に展開する危機のさなかで共和国政府が躊躇逡巡したことは命取りとなった。
 最初に示した不決断のせいで守勢に追い込まれたからだ。首相は労働総同盟(UGT)と全国労働者連合(CNT)を武装する決心がつかなかった。国家は、その「背骨」をなす軍隊に攻撃されて現実に存在を停止しているのに、国家の法律的枠組みにこだわりつづけたのだ。武器配布を遅らせたために、反乱軍にたいする予防攻撃や反撃ができなかった。

「共和国政府当局がわれわれに武器を配ろうとしなかった理由は、軍部よりも労働者階級を怖れたからだ。われわれ共産主義者が蜂起が24時間以内に制圧されるという政府の言葉を信用しなかった」

セビリヤの大工の回想

 カタルーニャでも同じような状況が生まれていました。
 7月18日の夕方、カタルーニャ州自治政府首相コンパニスは、モロッコとセビリヤのできごとのニュースが入っていたのに、さらにバルセロナ蜂起計画を文書で証拠として入手していたのに、CNTに武器を渡すことを拒否した。・・・
 軍隊が市を掌握すれば何が待ち受けているかを百も承知の無政府主義者は、運命を政治家に委ねないと決めた。その夜じゅう、CNT地方防衛委員会は戦争準備に忙殺された。離れた武器庫を襲い、港に停泊中の4隻の船からも武器を奪い、赤錆びた監獄船ウルグアイ号まで襲撃して看守の銃を取り上げた。


 その暑い夜の雰囲気は緊張の極みだった。ナチ・ドイツのオリンピック開催をボイコットして組織された人民オリンピアードの開会が翌朝に迫っていた。この催しは危機の脅威で忘れ去られて、外国人運動選手はホテルや宿泊施設で不安な気持ちで待機していた。(彼らの多くは、翌日労働者の側について戦い、その後約200人が義勇兵に加わった) 

<反乱から本格的内戦へ> 
 当初は、誰がどこでどの立場で戦闘に参加しているのか?その全体像を誰も把握していませんでした。
 共和国軍、反乱軍、それぞれの制圧地域が明らかになり、戦線が認識できるようになるのは、8月のはじめになってからでした。反乱軍は西部のレオンとかガリシアから北のナバラと東のアラゴンにいたる広い平面地域に展開。これは、蜂起失敗に終わったアストゥリアス、サンタンデル、バスクの沿岸地方に囲まれていました。南と西では、反乱軍はアンダルシアのほんの一部を制圧していました。
 この段階になってやっと人々は、スペインが、熾烈に争われるクーデターというよりは、内戦に直面しているのだと理解しはじめたのです。

 国民戦線軍の最大の軍事的強みは、実戦経験を積んだアフリカ駐屯軍4万の兵士でした。(その他、本土に5万の兵士、17人の将軍、1万の将軍、国境警備隊の2/3、突撃警備隊の40%でおよそ13万人)さらにスペイン国外、イタリア、ドイツなどファシズム国家などからの軍事援助と保守的な農村部の支配により食料を確保することになります。
 共和国軍は5万人の兵士に22人の将軍、7000人の将校、治安警備隊などが3万3000人のおよそ9万人の兵力を有していました。地域的には、産業の中心であり労働力が集中する大都市、鉱山地帯を支配し、さらに海軍と商船隊のほとんどを支配下、もしくは協力者としていたので経済的には共和国側の方が明らかに優位でした。地域的にも本土の2/3が当初共和国側の支配下にありました。

<海外での報道>
 スペイン内戦は外国特派員を惹きつけ、新聞担当官が発表する敵の残虐行為は煽情的な記事となって紙面を飾った。当初は、特派員がほとんどの事件の裏を取らなかったし、取ろうとしても取れなかった。避難者は恐怖を誇張し、話に恐ろしい想像の尾ひれをつける場合が多かった。・・・
 当時国民戦線側は、共和国政府軍領域で50万人が殺戮されたと言明したが、戦後になってからは5万5000人の数字を主張している。それでも誇張されていた。
・・・

 内戦中に国民派は20万人の聖職者が殺戮されたと言い張ったが、後になって殺されたのは7937人だと認めた。・・・だが後に、外国の自由主義的なカトリックは、右翼が神の名においておこなった左翼殺害にくらべて、聖職者の殺害の方が悪いとは言えまいと態度を明らかにした。

 左派の共和国側の情報よりも、国民戦線側の情報が信頼される傾向にあり、左派の共和国側が悪者にされることになりました。そのため、海外では国民戦線に同情的な世論が広がる傾向がありました。
 1937年4月のゲルニカ無差別爆撃があって、はじめて世界の世論の取り上げ方は共和国よりに変化しますが、その頃、すでに共和国側の敗色は濃厚になっていました。 

<スペイン国内の分断>
 「スペイン内戦」の始まりは、国内に様々な対立構造を生み出し、人々の間にも深い溝が生じることになります。そして、その溝は戦争の長期化とともに修復不可能なものとなり、そこから生まれた憎しみが「家族」「集落」「親族」「友人関係」「職場関係」など、様々な人間関係を破壊してしまうことになります。その亀裂は戦争が終わった後もなお、スペイン社会の中に深い傷跡として残ることになります。
<イデオロギー戦争> 
<共和国軍のソヴィエト化>
 元々左派よりだった共和国政府は、内戦の勃発とそれに対抗するための戦争準備のためにソビエトと接近せざるを得なくなります。西欧諸国に見捨てられ、彼らを助けてくれる存在がソビエトしかなかったため、それは仕方がない選択だったのかもしれません。しかし、その選択が最終的に悲劇をもたらすことになります。
 残念ながら、歴史というものは過去を振り返れば多くの選択は愚かに見えるものですが、その当時の状況を振り返れば、けっして誤りではなかったと思える場合も多いのです。そして、このスペイン戦争もまたそんな選択の誤りから始まった悲劇だったといえそうです。
 共和国軍は急激にソヴィエト化を進め、スターリンによる狂信的な独裁政治を導入し始めます。

 左翼政党と労働組合は、建物を接収して「調査委員会」を設置したが、これらは、ソヴィエト連邦最初の秘密警察「チェカ」の名称で呼ばれていた。蜂起の支持者は、その場で射殺されていなければ、この革命法廷の前に引きずり出された。蜂起参加組織に属していた人びとの名前と住所は、記録が運悪く破壊されていなければ、官庁やそれぞれの所属政党本部から入手されていた。もちろん、使用人や負債者や個人的な
敵から密告された犠牲者もいた。疑惑で緊張した雰囲気と、事態の早い展開のせいで、たくさんのまちがいがおかされたことは確かだ。


 急進化した共和国派は、国民戦線による残虐な攻撃に対し、それに匹敵する残虐な攻撃を行うようになります。その戦いぶりに、それまでの中道派の共和国政府関係者が離れて行くことになるのは当然の成り行きでした。
 マドリード最悪の大量殺人が起きたのは、8月22日から23日にかけての夜だった。それは空襲の直後で、バダホスの闘牛に追いこまれた1200人の共和国派が虐殺されたとの知らせが届いた後だった。暴動の噂が流れると、激昂した民兵と民間人はファランヘ党員の囚人が火をつけたモデロ刑務所に向かって行進した。2000人の囚人のなかにはたくさんの大物右翼が含まれていて、その数人は官僚経験者だったが、30人が刑務所から引きずり出されて銃殺された。震え上がったアサニャは、共和国大統領を辞任する寸前までいった。
<国民戦線の過激化>
 国民派は、残虐な弾圧を赤色テロにたいする報復として正当化したが、セビリヤ、コルドバ、バダホス、それから半年後のマラガの実例が示すように、彼らの右翼による殺害は、何十倍とはいわないまでも何倍も左翼による殺害を上まわった。

 最近の10年間に、スペインの地方ごとに犠牲者の数、身元、運命を精査する作業が実施された。今では25地方について正確な統計が作成され、その他に四地方の暫定統計ができた。これはスペインのおよそ半分の地域を網羅しているが、国民戦線軍による犠牲者数は総数8万になる。記録されることのなかった死者や、調査未了の地方の死者を計算に入れてもよいならば、われわれは、おそらく内戦中と内戦後の国民派による殺害と処刑にあわせて約20万人という数字を得るだろう。この数字はゴンサロ・ケイポ・デ・リャノ将軍が共和主義者にたいしておこなった脅しからそんなにかけ離れてはない、「紳士の名誉にかけて約束するが、諸君が一人を殺せば、われわれは少なくとも10人を殺す」。

 ファランヘ党の指導部の多くは、クーデターの際に命を落としたり、逮捕されてしまったりしたため、その後、かなり顔ぶれは変わりました。そこに右翼に憧れる若者たちが次々に入党。より若く、より暴力的な方向へと変化し始めることになります。
「ファランヘ党員は確たる目的、考えをもっていない印象を受ける。むしろ、彼らは武器をおもちゃにして、共産主義者や社会主義者を捕まえるスポーツを愉しむ若者のようだ」
ドイツ人訪問者の報告より

<サラマンカ大学で開催された「スペイン民族祭」にて>
 ファランヘ党員フランシスコ・マルドナド教授によるカタルーニャ、バスク民族主義批判とフランコ万歳の演説に対し、大学の総長であり、バスク人哲学者でもあったミゲル・ウナムノの演説より
「ここは知性の寺院であり、私はその最高の司祭だ。あなたたちこそ、この神聖な境内を穢しているのだ。あなたたちは勝つだろう、なぜならば野蛮な勢力を従えているからだ。だが、あなた方は説得できないだろう。説得するには、あなた方は、自分たちに欠けているものを必要とするからだ。それはあなた方の戦いにおける理性と正義だ。私は、あなた方にスペインのことを考えるよう説いてもむだだと考えている」
 彼はこの時、リンチこそまぬがれましたが、10週間後にこの世を去ることになりました。
<スペインの分断>
 こうしてスペインでは、共和国、国民戦線が共に左派、右派両極端の方向へと向かいはじめ、それによって、国全体が両極へと分断されて行くことになります。これが内戦をより長く悲惨なものへと向かう最大の原因となりました。

 将軍たちの蜂起ははじめから無数の局地化した内戦を起こし、スペインを分断した。しかし、これは共和国が崩壊するおもな原因ではなかった。共和国中央政府が危機の対応に大失敗したことが大きな原因だった。中道左派政権が一方では右翼の反乱に、他方で左翼の革命に直面して、麻痺状態を逃れられなかったからだろう。他の大きな原因は国家機構の解体だった。軍隊は言わずもがな、存外外交団から警察にいたるまで、政府職員の多くが国民派を支持したのである。
 全国労働者連合(CNT)と労働総同盟(UGT)は戦闘の真っ先に立って共和国政府軍領域に革命組織を創設し、空白を迅速に埋めた。唯一の本格的例外はバスク地方だった。「そこでは情勢は革命的ではなく」「私有財産は問題にされなかった」。両労組の加盟者数は膨れ上がった。一つには両労組が国の権力になったからという日和見主義からだった。やがて、それぞれが組合員約200万人を数えるにいたる。・・・共産党の勢力は8か月で党員数25万に急落し、共産党の規律ある取り組み方に惹かれた中産階級の他に、野心家たち、それにちょうど国民派領域で左翼が生き延びるためにファランヘ党に加盟したように、右翼が逮捕を恐れて偽装入党した。

<バルセロナと国際旅団>
 この戦争において、特徴的だったのは共和国軍によるファシズムとの闘いに海外から多くのボランティア兵士が参加したことです。そして、その「国際旅団」には、数多くの芸術家や記者たちも参加していたことで、様々な記事や文章、写真など歴史的な「記憶」生み出すことになりました。そして、そんな「国際旅団」が活躍する中心地となったのが、カタルーニャの中心都市バルセロナでした。共産主義者だけでなく独立を目指す民族主義者や無政府主義者、そして海外から来た芸術家たち、様々な人間たちが集まる混沌の街バルセロナは、この戦争の象徴ともいえる存在となりました。(実は戦略的にはそれほど重要ではなかったのかもしれませんが・・・)

<渾沌の街、バルセロナと国際旅団> 
 スペイン国内が分断されてゆく中、カタルーニャの中心都市バルセロナは、より複雑な状況になりつつありました。
「現代世界でもっとも不思議な都市、無政府労働組合主義が民主主義を支持し、無政府主義者が秩序を守り、反政府的な哲学者が権力を行使する都市」
ランブドン=デイヴィス(新聞記者)
 カタルーニャには、街を守るため、共和主義を守るために様々な国から様々な思想を持つグループが外人部隊を送り込んでいました。
 イタリアから来た「正義と自由」部隊、アメリカの無政府主義者による「サッコとヴァンゼッティ百人隊」、ドイツの無政府主義者による「エ-リッヒ・ミーザム百人隊」、さらにマルクス主義統一労働者党(POUM)には作家・記者のジョージ・オーウェルもいました。
<国際旅団>
 共和派の戦いとファシズムの暴挙が明らかになると、彼らの戦いに参戦するための軍隊「国際旅団」がソ連(コミンテルン)の指導のもとに組織されます。指導者はドイツ共産党の国会議員のハンス・バイムラーでした。彼はナチス・ドイツに逮捕されましが、ダッハウ強制収容所から脱走。1936年8月5日バルセロナに逃げ込んだのでした。
 「国際旅団」には、53カ国32000~35000人が参加していました。他にも、5000人の外国人が他の共和派支援軍の民兵として従軍。彼らはパリに集合し、そこで選別・採用されて入隊。そこからスペイン各地へと向かいました。(パリからスペインへは2つのルートがありました。マルセイユの港から密航してバルセロナかバレンシアに行く方法か、夜、ピレネー山脈を徒歩で越える方法でした)

 イギリスからの入隊者の8割は失業者で、その半分が共産党員でした。彼らは自分たちの力で歴史を変える役割を担ったのですが、世界恐慌による不景気が多くの兵士を生み出したのだともいえます。
「共産党のほんとうに非凡な才能は、心の支えのない孤独な人々が自分たちを重要だと感じることができる世界を提供したことにある」
ジェイソン・ガーニー(イギリス部隊)
 彼らのほとんどは私利私欲とは無縁で、ファシズムの世界侵略を止めるためのタテとなることに誇りを感じていました。
(国際旅団に参加した有名人)
写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソン、遺伝学研究者J・B・Sホールデン、ハリウッドのスター俳優エロール・フリン・・・

 しかし、国際旅団の兵士たちはその後、悲惨な運命に見舞われることになります。彼らは、ファシズムを倒すために参加したにも関わらず、スターリンによるもうひとつのファシズムの片棒を担がされることになったのです。そして、その望まぬ戦いから死ぬまで抜け出すことができなかったのです。

・・・多くの国際旅団兵士は騙されたと思っていた。なにより驚くべき事実は、国際旅団がルカーチ収容所と称する「強制収容所」をみずから設営していたことだ。8月1日から3か月のあいだに4000名を下らなぬ人々がこの収容所に送られたのである。
(国際旅団は13353人の兵力のうち4300人が死傷。彼らは危険な攻撃に駆り出されることで犠牲になっていたと考えていた)
 そのうえ、不干渉条約署名国は一般市民の志願を禁止する法律を制定、そしてドイツ、イタリアの兵士のスペインへの入国を見て見ぬふりをすることになります。そのため国際旅団は孤立することになります。アメリカも孤立主義を続け、国民軍側に有利になった。アメリカの兵器輸出の情報も国民軍に筒抜けでした。
 ついには、アメリカからの義勇兵、アイルランドからの義勇兵らが反乱を起こしたこともあったようです。しかし、彼ら国際旅団の兵士たちは、入隊の際にパスポートを預けさせられ、それを返してもらえず、帰国することもできませんでした。(そのパスポートは、ソ連のスパイ活動などに利用されることになったようです)

<芸術家とスペイン内戦>
 この紛争には人類の根源的な力を描く叙事詩劇の魅力があった。・・・それに彼らはただの熱狂的な見物人の役割には甘んじなかった。第一次世界大戦の殺戮は、芸術が政治から超越する倫理的基礎を掘り崩し、「芸術のための芸術」を特権者のための言い草だと思わせた。その極端なかたちが社会主義リアリズムであって、すべての表現をプロレタリアートの大義に従属させた。知識人が共和国にあたえた支持は実践的というよりももっぱら精神的だったが、アンドレ・マルロー、ジョージ・オーウェル、ジョーン・コーンフォードのような数少ない知識人は戦闘に参加した。ヘミングウェイ、ジョン・ドス・パソス、チリの詩人パブロ・ネルーダ、W・H・オーデン、スティーブン・スペンダー、ハーバート・リード、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアールたちは、日数の多い少ないの違いはあったが、皆スペインに滞在した。

 こうした芸術家たちによって残された記録、記憶がその後の「スペイン内戦」に関するイメージに大きな影響を残すことになります。
 スペイン内戦は、そこで起きたできごとについて広く認められた解釈が、勝者よりも敗者によって、より説得的に書かれた比較的稀な例の一つである。

 欧米の多くの知識人は、この内戦をファシズムと反ファシズム、反動と進歩、野蛮と理性、中世と近代の対立と理解して、共和国側の擁護にまわった。

「正しくても負ける、暴力が精神を打ち破る、勇気だけではダメな時がある。こうしたことを人びとはスペインから学んだ。世界じゅうの実にたくさんの人たちがスペインの悲劇を自分たち個人の悲劇とみなしている理由はそこにあるのだろう」
アルベール・カミュ

<共和国軍はなぜファシズムに破れたのか?>
 共和国軍はなぜ第二次世界大戦のようにファシズムの軍隊を打ち破ることができなかったのでしょうか?
 改めて振り返ると、この戦争は第二次世界大戦の前哨戦でした。そう考えると、ドイツを中心とするファシズムの圧倒的勝利で始まった第二次世界大戦同様、英仏にファシズムと闘う用意はまったくできていなかったことは明らかです。そして、その躊躇と混乱が共和国政府を戦えない集団にしてしまったのです。彼らは、内側に様々な問題を抱え込み過ぎていたのです。

<共和国軍はなぜ敗れたのか?>
<共和派の誤算>
 共和国軍のほとんどの将校は、共産党と協力するほうを選びました。その理由は、民兵組織に恐れをなしたからです。総じて政府に忠実な将校は年配者で本国軍に勤務していた官僚的な人びとでした。若い、積極的な将校は反乱側についたからでした。しかし、植民地駐屯軍の兵士だけが実戦経験を積んでいたのも事実でした。・・・だから共和国軍指揮官には、第一次大戦の時代遅れの理論しか持ち合わせがなかったのです。

 反乱軍がクーデターに失敗し、政府と労働組合はクーデター鎮圧に失敗し、おあいこになったために、スペインは長い凄惨な戦争に直面することになりました。この長期の戦争で、両者とも武器を必要として外国に援助を求めなければならなかったのです。これがスペイン内戦の国際化の第一歩となりました。

 共和国側は反乱軍が海外で自分たちと同格に扱われるはずがないと思っていました。
 ところがイギリスはスペインが共産化するくらいならファシズム国家と手を結ぶの方がましと考えました。
 フランスは表立って共和派を応援することはドイツ、イタリアの反発を買うと考え、ヴェルサイユ条約でドイツを危機におとしいれた反省もありました。共和国に英仏がそっぽを向いたことで、ヨーロッパ全体が「スペイン内戦」への不干渉を選択します。そして共和派を援助するのはソ連とメキシコだけになりました。そうなるといよいよ共和派=共産主義者というイメージが定着することになりました。

 1936年9月、スペイン国内が渾沌とする中、共和派は新たな内閣を組織します。トップに立った共産主義者のラルゴ・カバリェロが選んだのは、左翼社会主義者3名、右派の社会主義者プリエト・イ・トゥロほか2名、共和主義左翼が2名、カタルーニャ共和主義左翼党1名、バスク民族主義者1名、共和主義中道派2名で無政府主義者の入閣はありませんでした。
 「勝利の内閣」と称されたこの内閣には、社会主義者を中心に様々な思想グループが参加しました。それだけに、ソ連(コミンテルン)は、これらのメンバーに対し批判的で、追い落としを目論むことになって行きます。

<共和国軍の問題点>
(1)情報の不足
 外から来た兵士が多く、地の利どころか地図もなかったため、自力で戦闘地域の地図を作成するなど情報の不足に苦しまされました。
(2)コミュニケーションの混乱
 様々な言語の民族によって構成された軍隊のため、部隊間、部隊内のコミュニケーションがとれなかった。
(3)思想対立
 共産主義中心、ソ連軍中心の指導部と中道左派の兵士たち、無政府主義者アナーキストらからなる異なる思想の部隊が対立、時には内乱となりました。
 ソ連(スターリン)の指示を受けた共産党による独裁が始まると、その傾向はさらに悪い影響を及ぼすようになります。
 共産党員でなければ、昇進もできず、食料、兵器、給料など様々な面で差別を受けることになり、例え将校でも部下から無視される可能性がありました。中には入党を断ったために、スパイと見なされたり、脱走の疑いをかけられて処刑される兵士までいたようです。そうなると、もう兵士たちはお互いに疑心暗鬼となり、部隊は内部から崩壊することになるのは当然でした。
(4)兵士の技能不足、指導力不足
 スターリンによる粛清により、多くの優秀な軍人が失われ、指導者やパイロットの能力が低下。上官に指摘されないように、ミスをもみ消したり、責任回避して判断を怠る事例が多発。部隊は判断力を失い、後ろ向きの戦闘しかできない軍隊組織になってしまいました。
 そのうえ、戦争の終わり頃、共和国軍を指揮することになったネグリンは、自分の外交能力に自信を持っていたことから、和平を優位に進めようと軍事的な勝利を求め、負け戦をダラダラと続け、いたずらに犠牲者を増やすことになります。
(5)軍事力の差
 共和国軍は、西欧の不干渉国から、表立って兵器輸入ができなかったこともあり、使い古しの兵器ばかりを密かに輸入使用することになりました。特に空軍は、飛行機の性能だけでなくパイロットの技術力も不足しており、圧倒的な差が生じていました。
 共和国軍が兵器の輸入を依頼した企業の多くは、実際は右派よりだったためフランコの支持派で、多額の賄賂を要求した上に劣悪な武器を買わせる場合が多かったようです。かと思えば、敵国であるはずのドイツのヘルマン・ゲーリングがギリシャの会社を経由して武器を輸出していたことも明らかになっています。とどめとなったのは、友軍のはずのソ連は敗色が濃くなって以降、スターリンの指示により、武器の輸出を停止してしまったという裏切りでした。
(6)無駄な戦闘
 共和国軍は、最終的な勝利のための戦争ではなくマスコミやスターリンに勝利の報告をすることだけを目指していました。彼らにとっての戦争は、共産主義の優位性を示すための「プロパガンダ」であり、勝利することではなかったといえるのかもしれません。そのため、指導部の指示により無駄な戦闘を繰り返すことで、多くの兵士の命が失われることになりました。

 ほとんどすべての場合、攻撃は他の脅威にさらされた地区への圧力を弱めるための無益な試みだったし、宣伝効果を意識しておこなわれた。攻撃が奇襲効果をあげると、人民軍指揮官は村や小さな町の占領に手間取り、攻撃衝力を失った。そのおかげで、わずか数日で国民軍は部隊とコンドル兵団を再展開できたのだ。・・・
 事態をもっと悪くしたのは、ソ連顧問とスペイン共産党員のスターリン主義妄想が、すべての失敗をトロツキー派の裏切りと「第五列」のせいにしたことだ。

<ドイツ・イタリア・ソ連の参戦>
 ヒトラーのフランコ援助のほんとうの理由は戦略的なものでした。ファシスト・スペインは、フランスの後背とイギリスのスエズ運河へのルートを脅かすと考えられます。大西洋岸にUボート基地を設ける可能性にも魅力がありました。スペイン内戦は、同時にヒトラーが抱く中欧戦略の目くらましとしても役立ちました。さらにスペイン内戦は、兵員を訓練し、新たな装備と戦術を試す機会ともなりました。
 ソ連もまた独伊の参戦に対抗して軍を送り込みますが、他の西欧諸国同様、不干渉委員会のメンバーだったため、表立って戦闘に参加することはできませんでした。
「戦闘機は、マドリード地区の味方領域の上空だけで戦闘し、敵地には、エンジン故障の場合に滑空して味方領域に帰れる距離までしか入ってはならないと命じられていた」

 反乱後2週間以内に、国民軍がドイツとイタリアから軍事援助を受けていることが明らかになりながら、民主主義諸国は共和国政府への武器売却を拒否しました。いつしか決着が引き延ばされたこの戦争で、軍事援助と同様に決定的な資金援助が国民戦線にあたえられたので、均衡が崩れて、共和国派にたいして国民派がますます優勢になって行きました。それは必然的な流れでした。

 アメリカもスペインの共産化を恐れ、右派、親ドイツの企業が国民派の支援を行いました。テキサス石油会社、フォード、ステュードベイカー、ゼネラル・モーターズ、デュポン・・・
「アメリカの石油、トラック、アメリカの借款がなければ、われわれは内戦に勝利できなかっただろう」
ホセ・マリア・ドウシナゲ(スペイン外務次官)

<スペイン内戦の終わりと独裁政権の誕生> 
<フランコ独裁政権の始まり>
 共和派が内部分裂により混沌とした状況が続く中、国民派は「ファシズム」と「カトリック」という二本の柱に基づいてまとまりつつありました。

 1936年10月1日、フランコは、ブルゴス宮殿の玉座の間で、ポルトガル、ドイツ、イタリアの外交代表の前で全権を付与された。・・・
 国民派の物書きたちは、第一次国土回復運動(レコンキスタ)に比肩するとした。これは、人それぞれが信じる価値観に都合のよいように解釈された。ファランヘ党員にとっては国家の誕生だった。カルロス派とアルフォンソ王復位派にとっては、王制カトリック独裁制の樹立を意味した。教会にとっては聖職者支配権を、地主にとっては彼らの富と権力の確立を意味した。フランコはヒトラーとムッソリーニとは非常にちがっていた。フランコは狡猾な機会主義者であり、大向こうを狙った言い回しを使いながらも、過度に危険な運命観で悩んだりはしなかった。

 国民軍最強の兵力、アフリカ駐屯軍の司令官として、フランコは有利な立場から指導者の座に上りはじめました。取るに足る競争者はいなかったし、国民運動の性格そのものが単一の規律ある統率権をもとめました。その結果、フランスは適切二つの時期、1936年9月と翌37年4月に最高権力を掌握。最初の時期には法律上の指導者となり、つぎの時期にすべての潜在的反対者を弾圧した事実上の独裁者となります。・・・
(1936年末国民戦線軍は20万人で、その半分以上がカルロス派とファランヘ党員、アフリカ駐屯軍6万、ポルトガル人兵士1万2千で、そこにドイツとイタリアの兵士が加わりました)

 国民派の殺戮は、1936年9月に頂点に達し、戦争が終わっても長い間続きました。人々はフランコが、19世紀ナルバエス将軍が死の床で言った答えを再度繰り返したがっているのではないかと思ったのですが、それもむりからぬ話でした。ナルバエスは臨終にのぞみ、敵を赦すかと訊ねられてこう答えたといいます。
「私には敵は一人もいない。私は一人残らず殺した」 
<マドリードの攻防>
 防御委員会議長ホセ・ミアハは、もともと右派将軍でしたが、政治組織のどこにでも入るのが趣味となっていて、周囲からのヨイショでその気になっていたようです。しかし、ソ連大使ローゼンベルグは統一マルクス主義労働党(POUM)の参加を拒否。その後の分裂の火種をつくりました。(POUMは反スターリン主義のグループだったため・・・)
 疑心暗鬼になった治安警備隊は、刑務所内の国民派を次々に処刑し始めます。共産党はその暴力を支持。反対する者もいなくなって行きます。直接の指示を出したとされるサンティアゴ・カリリョはその後、スペイン共産党の指導者となり冷戦末期まで活躍することになります。
 たぶん共和国軍の半分以下が戦闘を経験しているだけで、たいていの人はライフルの遊底を操作して狙いを定めるのを習ったのは前の晩だっただろう。多くの人たちは、銃が詰まったときにどう直したらよいかまったく知らなかった。
 1936年11月19日、マドリードへの侵攻作戦を共和派が阻止。しかし、戦闘中に無政府主義兵士たちのリーダー、ホセ・リベラが事故死を遂げます。ゲリラ戦では市民を敵に回し、分が悪く多くの被害が出ると判断した国民派のフランコは作戦を変更。空爆と砲撃による街の破壊に方針を転換します。しかし、マドリード市民は国民派への反発心を強め、戦争はさらに長期化の様相を呈します。
 ところが、マドリードを守る共和国軍ではさらなる内部分裂が進行します。共産党が権力の独占を目指し、マドリード防衛委員会から敵対するグループPOUMを排除。さらには彼らへの給与や補給物資も差し止めます。そのため、ついにPOUMは解散に追い込まれ、別のグループUGTやCNTなどの参加。いよいよ共和派内部は渾沌としてきます。
 それでも1937年初めの時点で、共和国軍の登録数は、32万人で、中部・南部に13万、北部に10万、アラゴンに3万、残りが後衛の警備隊などに配属されていました。
<バスク・ゲルニカの悲劇>
 1936年10月、バスク地方の自治権が承認されました。ゲルニカの地方議会会館で選挙が行われ、アントニオ・アギレが議会のトップに選ばれ、閣僚を任命します。そこで任命されたのは、バスク民族党員が4人、社会党員が3日と、共和主義者2人、共産党員1人、社会民主主義系バスク民族行動党1人でした。彼らは社会主義思想よりもバスク地方の民族自決を優先した政府を目指していました。しかし、国民軍はそんなバスク地方に徹底的な攻撃を行います。
 1937年4月26日午後4時30分、ゲルニカの街は市の立つ日だったため、多くの人が集まっていました。そこにドイツ空軍のユンカー52型による絨毯爆撃が2時間半にわたって行われました。小型、中型の爆弾が250キロ、対人爆弾、焼夷弾が10キロも落とされ、街の人口の1/3が死傷する悲劇となりました。(死亡者数は1654人)
 国民軍は、この惨事に対する海外からの批判をかわすため、共産主義者による放火、爆破による悲劇だったと発表。スペインのカトリック教会もそれを支持しました。しかし、海外のメディアはそれが嘘であることをすぐにつき止めます。
 この頃から、国民軍による市民の虐殺は世界的に知られるようになり始めますが、残念ながら共和派の敗色はすでに濃厚になりつつありました。
 特にスペイン北部のバスク地方の共和国軍は、北を海、南を国民軍に囲まれてしまい、兵器も食料も不足し孤立。彼らは共和派の中央政府に見捨てられるのではないかという疑心暗鬼に陥りつつありました。6月には、バスク地方の中心都市ビルバオから共和国軍が撤退し、バスク語が国民派によって禁止されます。共和国軍から見捨てられたと判断したバスク地方政府は、イタリア軍指揮官と交渉し、報復行為や徴兵を行わないという条件で降伏します。ところが、国民軍のスペイン人将校はそれを無視し、将校と多くの兵士を処刑。バスク地方を占領した国民軍は、いよいよ勝利に近づくことになりました。

 宣伝戦において、スペイン戦争で勝利したのは共和国側でした。当初、右派のクーデターに対して行った左派による処刑のニュースが広められると、反ファシスト、反国民派の世論が逆転。さらに現地を訪れた記者、作家などが共和派支持にまわったことで、その流れは勢いを得ます。
 ただし、共和国内での権力闘争によって共産党(ソ連系)が無政府主義者らを排除。着々と共産化を進めていましたが、それは隠されていました。知識人の多くはその事実は気づきつつ、あえてそこには目をつぶり、見て見ないふりをし続けたようです。
 無政府主義者、民族主義者、共産主義者などの共和国は内部から崩壊し始めていたものの、そのことには誰もが見て見ぬふりだったのです。
<バルセロナでのさらなる内戦>
 1937年5月、中央政府(共産党)の圧力によって、権力を失いつつあったバルセロナ自治政府がカタルーニャ広場の中央電話局の建物を占拠。それに対し、共産党の公共治安担当ロドリゲス・サラスが突撃警備隊員をひきいて攻撃を開始。バルセロナ市内でついに内戦が始まります。それは、「スペイン内戦」の中で起きたさらなる内戦でした。この「バルセロナ内戦」での対立構造こそ、「スペイン内戦」の複雑さを象徴する渾沌そのものだったといえます。
 ここでいう「バルセロナ自治政府」の側で戦ったのは、無政府主義者たちのグループで、全国労働者連合CNT、イベリア無政府主義連盟FAI,無政府主義青年同盟、ドゥハティの友、マルクス主義統一労働者党POUM、イベリア青年共産主義者同盟などでした。
 それに対して、政府軍(ソ連コミンテルンよりの共産主義者グループ)の側について戦ったのは、カタルーニャ統一社会党(共産党系PSUC)、統一社会主義青年同盟JSUなどでした。
 数の上ではバルセロナ自治政府側が優位でしたが、政府軍(共産軍)は彼らをフランコ側のスパイであり、その協力者であるというデマを広めます。ここから自治政府側に対するスターリンお得意の残虐な粛清が始まることになります。

 多くの幻滅した共産主義者が後に認めたように、嘘が大きければ大きいほど効果は大きかったし、確信的な反共主義者だけがこの嘘を信じないでいられた。スペイン共和国はスターリン主義の荒唐無稽な妄想症に汚染されていたのです。

 5月17日、無政府主義者側に立ってバランスを取っていたラルゴ・カバリェロがついに辞任に追い込まれます。これにより社会党のネグリン・ロペスが首相に就任。スターリンからの指示に従って、表向き共産党員は2名しか入閣しなかったものの、実質的には共産党が主導権を握り、「統制民主主義」という名前での独裁制が始まることになります。
 ところが、この頃、スターリンは英仏政府が独伊枢軸国に対し恐れをなし、あえて戦争を仕掛ける気がないことを認識。ならばスペイン内戦での勝利に意味はないと判断。スペインから手を引いて、対日戦争を続ける中国支援に軸足を移し始めます。

 事件についての共産党の解釈は、真実を恐れる者だけが信じることができる。明々白々のでたらめだった。それなのに、大多数は騙されていると知りながらも、自分たちの知性を辱めたくなかった。彼らはスペインにいるあいだだけはSIMに目をつけられるのを避けるために、口をつつしんでいた。そして、帰国してからも、共和国の全体としての大義を損なうよりは沈黙を守る方を選ぶのが普通だった。ジョージ・オーウェルのように声を上げた者に左翼系出版社は門戸を閉ざした。

 こうした体験からジョージ・オーウエルは、ファシズムだけでなく共産主義にも失望し、後にそんな恐るべき全体主義国家を描いたディストピア小説「1984年」を発表することになります。
<国民戦線軍勝利へ>
 1937年の終わり、12月の「テルエルでの攻防戦」の頃には、いよいよ国民戦線の優位は決定的となります。テルエルでは、当初共和国軍が勝利をおさめ、ヘミングウェイやロバート・キャパらも訪れ、ポール・ロブソンが招待され歌声を披露するなど優位たちますが国民軍は空軍を投入した大規模な爆撃を行い、反転攻勢に出ます。その後戦場は混沌とし始め、国民軍は4万、共和国軍は6万の兵を失うことになりました。翌年2月、戦略的にはあまり意味のない街を守り続けて多くの兵士と市民を犠牲にした共和国軍は敗北します。

 1938年1月30日、フランコ政権最初の閣僚会議が行われ、新たな内閣が選ばれます。その内閣の指示により、学校教育はカトリックの聖職者に任され、集会と結社の自由が廃止されます。さらに少数民族の自治は完全に否定され、バスク語もカタルーニャ語も禁止となり、公用語はカスティーリャ語のみとなります。
 1938年7月18日、フランコは政府によって、陸海軍最高司令官、国家元首、全軍総帥、国家労働組合攻勢委員長、ファランヘ党全国党首に任命され、スペイン国王以上の権力を持つことになりました。
 1938年4月、イギリス=イタリア協定が締結されます。これにより、イギリスはイタリアのスペインでの活動を承認することになりました。
 1938年9月、ミュンヘン協定が締結されます。これにより、ドイツとイギリス、フランスが和平協定を結ぶことになり、スターリンはスペインでの戦争への関心を失ってしまいます。逆にイギリスとフランスは、ポーランドとチェコに続いてスペインをドイツとの戦争を避けるために犠牲にしたのでした。
 国際旅団の帰国も始まりますが、生き残った7000人の外国人兵士たちのうち半分はそのままスペインに帰化する道を選択します。なぜなら、彼らはドイツや南アメリカなどのファシズム国家の出身で帰国は不可能だったのです。
 母国に帰ることになった兵士たちのためのバルセロナでの帰国式でラ・パシオナリアは、彼らにうこ語りかけました。
「国際旅団同志の皆さん!政治理由、国家理由、そして皆さんが無際限の寛大さで皆さんの血をささげた大義そのものが、皆さんのうちで、ある人びとを故国へ帰し、またその他の人びとを亡命に追いやります。皆さんは胸を張って去ることができるのです。皆さんは歴史です。皆さんは伝説です。皆さんは民主主義の連帯性と普遍性の英雄的模範です。私たちは皆さんを忘れない。そして平和のオリーブの樹がスペイン共和国勝利の月桂樹と混じってふたたび新しい華をつけるときに、帰ってきてください!」
(国際旅団の死者9934人、行方不明7686人、負傷者3万7541人) 
<バルセロナ陥落>
 1938年12月23日、国民軍は34万の兵、500機の飛行機、大砲1400門を投入しバルセロナへの攻撃を開始します。年明けの1月末、ついにバルセロナから共和国軍が去り、多くのバルセロナ市民もフランスへと逃亡を開始します。フランスも彼らの亡命を認め、50万人が国境を越えたと言われます。その間、国民戦線とその支持者は、解放後、5日間で兵士だけでなく逃げ遅れた市民も含め1万人を殺害。さらにモロッコの傭兵たちは、ご褒美として認められていた略奪を繰り返しました。しかし、その間に共産党の幹部たちはスペインからいち早く脱出し、首相のネグリン・ロペスはパリへと逃げ延びました。
 1939年3月28日、国民軍がマドリードに入城し、スペイン戦争はついに終結。5月19日には国民軍による勝利のパレードが行われました。12万人の兵士とモロッコ兵、外人部隊、ファランヘ党員らが行進した後、最後にドイツのコンドル兵団がフォン・リヒトホーフェンと共に登場しました。フランコは、そこで「現代の十字軍」を指揮した英雄として讃えられることになりました。
 しかし、その後のスペインを牽引することになったのは、カトリック教会ではなく、政治家でもなく、銀行家でした。それも戦前から力を持っていた銀行家が経済を支配して、5大銀行による独占を実行することになります。(スペイン国内では1962年まで新しい銀行は生まれませんでした)
 皮肉なことに、この後のスペインは、権力を握ったはずの国民戦線のファシストたちが最も嫌っていたスターリン主義ソ連にどんどん似て行くことになります。
(1)外国の思想が流入することを恐れ、厳しい検閲を行うようになります。
(2)捕虜収容所が全国各地に設けられ、190の施設に最大で50万人が収容され、病死、処刑、自殺などにより20万人が死亡しています。
(3)秘密警察が暗躍し、常に国民を監視する体制が作られました。
 国民戦線によるスペインの政治体制は、後にジョージ・オーウェルが「1984年」で描いたビッグ・ブラザーによる恐怖の監視国家の先駆だったといえます。30万人のスペイン人がフランス、アメリカ、南米やヨーロッパ各地へと逃れ、ごくわずかの反体制派の残党が北部スペインの山岳地帯でレジスタンスを続けることになります。彼らは第二次世界大戦中もゲリラ戦を続け、1950年まで生き延びることになります。


<イデオロギー、宗教戦争の恐怖>
 最後に改めて振り返ると、この戦争はこの後20世紀、21世紀に世界各地で起こる様々な局地戦争の先駆的存在となりました。特にイデオロギーと宗教的違いがいかに人を残虐な殺人者にするのかを示したといえます。
 人々は自分の主体性と個人の責任を、神秘的あるいは超人的なオーラに輝く大義に埋没させるように励まされたのだ。カルロス派民兵は赤一人殺せば煉獄が一年短くなると教えられた。近代兵器と一般市民にたいするテロ戦術と合わせて、この戦争を恐るべきものにしたのは、まさしくこのような敵を人間としてみなさないことだったのである。

<第二次世界大戦の実験場>
  1937年春、「スペイン内戦」は海外の国々をも巻き込んで、本物の戦争になりつつありました。ドイツ・イタリア連合のファシスト軍団とソビエト中心のコミンテルン軍団の代理戦争となった戦争では、最新式の兵器も投入されるようになり、第二次世界大戦に向けた予行演習の場になっていました。
 ナチスはスペイン内戦を戦争のための実験場として有効活用しました。
 歩兵の突撃のタイミングと機銃掃射、砲撃の攻撃の方法の理想的組み合わせ、戦闘機の空中戦では2機一組で攻撃する戦法の有効性、爆撃機による攻撃はどのタイプの爆撃をどう落とすのが有効かの判断とその結果を比較するための写真撮影、88m高射砲が対戦車砲として有効であることの確認、それを戦車に積み込んだ新型タイガー戦車の開発など、様々な方法や検証が実施され、それが戦争のやり方をより高度に、より破壊的にして行くことになります。

 様々な人々を巻き込み泥沼化した「スペイン内戦」は、様々な誤った判断や様々な責任回避によって引き起こされた悲劇の戦争でした。それはどこかの時点で防げたのではないか?そうも思えてきます。しかし、すべてはもう過去の出来事であり、この戦争の犠牲となった人びとは、悲劇の詩人ガルシア・ロルカ同様もう帰らないのです。

「歴史は、敗者にむかって悲嘆の声をあげられるかもしれない。だが救うことも赦すこともできない」
W・H・オーデン「スペイン1937」より

<参考>
「スペイン内戦 1936-1939 The Spanish Civil War」
(上下巻) 1982年(2006年改訂)
(著)アントニー・ビーヴァー Antony Beevor
(訳)根岸隆夫
みすず書房

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