- ザ・スペシャルズ The Specials -

<芸術にとっての良き時代とは?>
 歴史上、優れた芸術を他の時代に比べ明らかに多く生み出した時代というのが存在します。
 例えば、1960年代後半。その時代にはロックが急激に分化、発展を遂げ、それ以外のジャンルでも、世界各地のアーティストたちがそれぞれの国において、それぞれの民族文化を再認識し、新しい文化を生み出しました。(サルサ、ブラジリアン・ポップ、日本のロックなどなど)
 また、1920年代アメリカの黄金時代には、ジャズが大きな発展を遂げ、その後のアメリカ音楽に大きな影響を与えることになります。そして、今回取り上げるスペシャルズが活躍した1970年代終わり頃のイギリスもまた未だ影響を与え続ける優れた音楽の宝庫でした。では、それらの時代には何か共通する点があるのでしょうか?
 僕が思うに、そんな芸術の黄金時代には二つのタイプがあるような気がします。ひとつは、内乱一歩手前の混沌とした時代、そしてもうひとつは崩壊一歩手前のバブルの時代。この二つの時代こそ、優れた芸術を生み出す最良の土壌ではないかと思います。(したがって、人々にとって幸福で安定している時代というのは、けっして芸術にとって恵まれた時代ではないことになるのですが、・・・)
 もちろん、こうした時代状況というのは、それぞれの国や地域、それぞれの民族の歴史によって異なります。だからこそ、それぞれの時代ごとに、世界各地から常に新しい音楽や文化が発信され続けているのでしょう。

<大英帝国の黄昏時>
 というわけで、時は1970年代の終わり頃。かつて世界で最も繁栄していた大英帝国は、すでにその繁栄の時を過ぎて久しく、今やどん底の状態に達しようとしていました。
 1976年に100万人を越えた失業者は、その後も増え続け、サッチャーによる保守党政権時代には300万人を突破します。1977年には政府がインフレ抑制のため、賃金上昇率の上限を10%に定めたため、労働者のほとんどの生活水準は実質マイナスとなりました。事態がこうして悪化するにつれて、不況の真の原因を理解しない、もしくは理解したくない人々は、その原因を移民の流入にあると考えるようになり、第三世界から移住してきた有色人種の国外退去を求めるようになります。そして、そんな流れに乗るようにして、極右政党の国民戦線が急激に勢力を伸ばしていました。それは、かつてドイツがファシズムへと走り出した頃の状況と似ていました。
 街にこうした絶望的な閉塞感が漂う中、パンクによって火をつけられた若者たちがそんな気分を吹き払おうと音楽にのめり込んでいました。そして、そんな若者たちの中からスペシャルズが現れ、あのツートーン・ブームを巻き起こすことになるのです。そして、その動きは音楽的なムーブメントという枠を越えた影響力を持ち、その後の歴史の流れに大きな影響を与えるほどの存在になって行きます。わずか数年の間に燃え上がり、そして消えていったポスト・パンク時代のヒーローに迫ってみたいと思います。

<ジェリー・ダマーズ>
 スペシャルズの中心人物、ジェリー・ダマーズこと、ジェラルド・ダンキーの父親は開放神学派の牧師でした。この宗派はプロテスタントの中でも特に積極的に社会問題に取り組むことで知られており、そのことは後の彼の曲作りに大きな影響を与えることになります。
 彼が生まれたのは1954年のこと、それは父親が布教活動のためにインドを訪れていた最中のことでした。その後彼は家族とともにイギリスへ戻り、イギリス西部の工業都市コヴェントリーで青春時代を過ごすことになります。

<西インド諸島の音楽との出会い>
 彼はコヴェントリーの街でモッズやヒッピーなど、時代とともに現れる若者の流行にはまりながら青春時代を過ごしましたが、音楽についてはレゲエとスカが大のお気に入りでした。というのも、かつて好景気だった頃、工場で働くためにこの街には多くのジャマイカ系など西インド諸島からの移民が住み着き、いつしか彼らの音楽が街にあふれるようになっていたからです。
 1975年頃、セックスピストルズの登場により、パンクの一大ブームが訪れます。しかし、この時すでに彼は23歳になっており、パンクの中心となっていた世代よりも上に属していました。
 10代前半から音楽活動を始めていたダマーズは、パンクとレゲエを融合させるバンドを作ろうと考えていました。そのために、いろいろなメンバーと活動しながらバンドの方向性を模索し、1977年に入りやっとメンバーを固めると「オートマティックス」というバンド名で活躍を開始、いっきにコヴェントリーではナンバー1のパンキー・レゲエ・バンドになりました。当時、彼らが目標としていたのは、彼らと同じようにレゲエの要素をいち早く取り入れていたクラッシュでした。ライブの会場にも、やはりパンクスやスキンヘッズが多く、彼らは当時の政府のやり方を批判する重いレゲエを、そんな観衆を前に展開して行きました。

<スペシャルズ誕生>
 ところがこの頃、ロンドンに「オートマティックス」というバンドがすでに存在していることがわかります。しかたなく彼らはバンド名を変更することにありますが、なかなか良い名前が見つからなかったため、苦し紛れに「ザ・スペシャル・AKA・ジ・オートマティックス」と名乗ることにしました。ところが、この名前では長すぎたためファンが、いつの間にかかってに名前を縮めてしまい、いつしかバンド名がスペシャルズになっていたのだそうです。
 その後、彼らは憧れだったクラッシュのジョー・ストラマーに気に入られ、彼の推薦でかつてセックスピストルズを担当したことがあるマネージャーのバーニー・ローズと組むことになります。彼はスペシャルズに武者修行させるため、フランスへコンサート・ツアーに行かせます。(シルバー・ビートルズも、そのおかげでザ・ビートルズへと進化を遂げたのですが・・・)しかし、厳しいツアー・スケジュールと過酷な条件のもとでボロボロになりながらもツアーを続けていた彼らに、ローズはバンド・メンバーの入れ替えを提言。それは実質的にはボーカルのテリー・ホールを引き抜こうとするものだったため、ついに彼らはローズと手を切ってしまいます。
 知名度のあるマネージャーを失い、後ろ盾がなくなってしまった彼らは、いよいよ解散もしかたないという厳しい状況に追い込まれます。

<心機一転スカ・バンドへの転身>
 ここで彼らは、行き詰まっていたバンドの方向性を大きく変える作戦に出ます。それまでのレゲエ・ナンバーをやめ、スカ一本にしぼることにしたのです。そして、もうひとつダマーズはスペシャルズのイメージづけのために重要なキャラクターを生み出しました。それは、後に彼らが設立する2トーン・レーベルのイメージ・キャラクターともなる白黒2色で描かれた若者のイラストです。彼の名は、ウォルト・ジャバスコ。ジャマイカ出身のルード・ボーイとロンドンのスキンヘッズを融合させたキャラクターで、そのモデルはザ・ウェイラーズのピーター・トッシュだったとも言われています。
 レゲエのルーツでもあるスカへの路線変更は、バンド自身の原点回帰であると同時に彼らならではの独自性を打ち出すことにもつながりました。さらにそれがウォルト・ジャバスコのイラストと結びつくことで、パンクとパンク・ファッション、モッズとモッズ・ファッションに匹敵するツートーン・ファッションをも生み出すことに成功。ダマーズはさらにバンドの方向性を強く打ち出すために、自らのレーベル「2トーン」を設立します。
 「2トーン」とは、もちろん白と黒、2つのカラーを表し、白人社会と黒人社会の融合を目標とするバンドの姿勢とピッタリマッチしていました。(スペシャルズ自身、二人の黒人と五人の白人からなる白黒混合バンドでした)いよいよ完成した彼らのスタイルはセックス・ピストルズの解散により、あっという間にその役目を終えようとしていたパンクに変わる新たなムーブメントとして一躍クローズ・アップされることになります。ダマーズは、パンクのナンバー1レーベル「ラフ・トレード」と契約を結び、1979年ついに彼らのデビュー・シングル「ギャングスターズ Gangstars」を発表します。

<スカ・バンドの同時発生>
 スペシャルズがスカをスタイルとして打ち出したのは、単なる偶然ではなかったようです。なぜなら、彼らの活躍とは別に、まるで申し合わせたかのように同じ時期にスカ・バンドが現れていたからです。
 南ロンドンの西インド諸島からの移民が多い地域から登場したアーサー・ケイトは、「スターウォーズ」の大ヒットにひっかけたスカ・ナンバー「スカ・ウォーズ Ska Wars」を大ヒットさせていました。 そして、北ロンドンからはノース・ロンドン・インヴェイダーズというバンドが登場。「マッドネス」と「ワン・ステップ・ビヨンド」という2曲を引っさげた彼らは、その後バンド名を「マッドネス」と改めます。彼らはスペシャルズと意気投合し、2トーン・レーベルに参加し、レーベルを代表する人気バンドとして活躍します。その親しみやすいキャラクターは世界中で大受けし、日本でもホンダ「シビック」のCMなどで大ブレイクしました。彼らは2トーン・ブームの後、一時期解散するもののスペシャルズに比べると遙かに長く活躍を続けイギリスを代表する国民的ロック・バンドとなって行きます。
 マッドネスとスペシャルズは、兄弟バンドであると同時に、同時代の裏と表を代表する存在でもありました。コミカルで愛すべきキャラクターのマッドネスとメッセージ性を重視する反体制的存在だったスペシャルズ、二つのバンドはしだいに別々の道を歩むことになります。しかし、元々は彼らのスタート地点はそう変わらなかったと言えるでしょう。

<2トーン・ブレイクの必然>
 2トーン・ブレイクは、歴史の必然だったのではないか、そうも考えられます。歴史は、どうも彼らの後押しをしていたように思えます。
 1979年4月23日、有色人種の移民排斥を訴える右派政党、国民戦線がロンドンのサウス・オールで大々的な選挙運動を行うことを発表します。彼らがその地域を開催場所に選んだのは、そこがアジア系移民最大の居住地だったからでした。そのことが明らかになると、反ナチ同盟など人権団体や左派勢力が選挙運動を阻止しようと大規模なデモを行うために集結。街は騒然とした状態になりました。
 しかし、国民戦線の集会はあくまでも合法的な集会であったため、デモ隊は集会を警備する警察隊と衝突、街中が大混乱となりました。そして、その日33歳の学校教師ブレア・ピーチが警察側の暴行によって死亡するという悲劇を生んでしまいました。直接的に彼を殴り殺したのは、SPG(Special Patrol Group)と呼ばれる特別組織のメンバーで、それは明らかに雇われ暴力集団による殺人だったと言われています。この悲惨な事件以後、イギリスでは急速に人種問題への関心が高まりをみせます。そして、人種間の融和を訴えるスペシャルズの主張は、まさにそんな社会状況の流れに乗る形で、急激に注目を集めることになりました。

<2トーン・レーベル黄金時代>
 スペシャルズのブレイクにより、スカは一時期のパンク並みの人気を獲得します。2トーンはまさにその台風の目となり次々と人気バンドを生み出して行きます。
 スペシャルズから派生した黒人中心のバンド、セレクターは、紅一点のヴォーカリスト、ポーリン・ブラックとともに人気を集めます。(「オン・マイ・レディオ On My Radio」がヒット)
 スペシャルズと同じように独自にスカの路線を歩みだしていたザ・ビートはいち早くバンドにDJを加えていました。
 女性7人組のバンド、ボディー・スナッチャーズ。このバンドのヴァーカリストのローダは、後にスペシャルズの発展系スペシャル・AKAに参加することになります。
 ソロとしても活躍し、バック・ミュージシャンとして2トーンを支え、今や大御所となったリコ・ロドリゲス
 巨漢ヴォーカリストを擁するスキンヘッズ・バンドのバッド・マナーズは、かなり危ない連中でしたが、彼らもまたスペシャルズ以上に息の長い活躍を続けることになります。
 ちなみに同時期に活躍していた2トーン以外のアーティストとしては、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ、トム・ロビンソン・バンド、ザ・ラッツ、ザ・ジャム(ポール・ウェラー在籍)、UB40(未だに活躍を続けるレゲエ・バンド)、リントン・クウェシ・ジョンソン、デニス・ボーヴェル(「ダブの父」)などの大物たちがいました。

<アメリカン・ツアーへの出発>
 1980年、人気絶頂のスペシャルズはいよいよアメリカン・ツアーに出発します。それは一ヶ月半に及ぶ、長くきついツアーでした。それでも、パンクでさえ受け入れられなかったアメリカで彼らは人気を獲得、アルバムも売れ始めます。しかし、もともと個性的なメンバーの集合体だったバンドは、ツアー中しだいに方向性の違いから衝突するようになり始めます。バスでの移動とライブの繰り返しにより、四六時中顔を合わせなければならなかったことが、メンバー同志の関係をさらに悪化させてしまいました。それだけではなく、バンド自身が自らトラブルを呼び込むことも多かったようです。
 このツアー中、ブッキング・エージェントが彼らのために予約してれたホテルが高級すぎるとクレームをつけたのはまだいい方でした。彼らのレコードを販売していたクリサリス・レコードのパーティーで、なんとダマーズは当のレコード会社の重役と喧嘩をして会場から追い出してしまったのです。当然、その後彼らのレコードをクリサリスはプッシュしなくなりました。もともと彼らがアメリカのミュージック・ビジネス界に適応できるはずはなかったのかもしれません。

<バンド崩壊の予兆>
 すべてが少しずつ悪い方向へと向かいつつありました。バンド活動と同時に2トーン・レーベル全体の運営にも関わっていたため、どちらも思うように動きがとれなくなった彼らは、バンドとしてのアルバム作りは進まず、経費をまかなうために自分たちの懐はいつも空っぽという状態に陥ります。
 さらに彼らのライブでは、スキンヘッズやパンクの若者たちによる乱闘騒ぎが後を絶たず、彼らがイベントに出場することを会場側や地域行政が拒否するといった事態も起きるようになります。(遙か遠く日本で行われたライブですら乱闘騒ぎが起き、バンドのマネージャーらが逮捕される騒ぎが起きています)皮肉なことに、ブームの加熱が自らの首を締める原因になってしまったのです。

<熱く煮えたぎった時代>
 1980年代の中頃になると、時代はさらに混沌さを増し、ロックの世界はスカだけでなくより多彩で濃密なロックの時代にありつつありました。
 パンクから派生したより前衛的でエスニックなファンク・サウンドを追求する高度なテクニックをもつアバンギャルドなバンドたち。パブリック・イメージ・リミテッド Pablic Image Limited、ギャング・オブ・フォー Gang of Fourそして極めつけのバンド、ポップ・グループ Pop Groupなどは、未だにその先鋭さに驚かされます。
 イアン・カーティス亡き後、テクノ・ムーブメントにおいてニューオーダーへと変身し、時代の先頭を進むことになるジョイ・ディヴィジョン。
 ポップでサイケなバンドとして、長く活躍を続けることになるエコー&ザ・バニーメンもまたロックに新しいスタイルを生み出しつつありました。
 それに「ダブ」というまったく新しい音楽のジャンルをロック界に広め、その後の音楽界に大きな影響を与えたデニス・ボーヴェル。当時のロック・シーンは、けっして明るくはなかったものの、ポップであることを平気で拒否する凄みをもつバンドたちが活躍する素晴らしい時代でもありました。
 それはパンクからニューウェーブへと移行する過渡期だったと言われるのかもしれませんが、パンク、ニューウェーブ、スカ、レゲエ、ダブ、DJ、テクノ、パブ・ロック、ソウル、エスニック・サウンド、ファンクなどが渾然一体となった熱く煮えたぎる味わい深いスープの時代だったと言うべきでしょう。

<セカンド発売と活動停止>
 1980年秋、スペシャルズはついにセカンド・アルバムとなる「モア・スペシャルズ More Specials」を発表します。しかし、この頃にはいよいよバンド内部の対立が悪化。2トーン全体の責任をもつ立場にもあったジェリー・ダマーズは、そのプレッシャーの重さとツアーの疲労が重なってついにダウンしてしまいます。翌1981年の春に予定されていたアメリカン・ツアーもキャンセルされ、スペシャルズはほとんどライブも行わず、解散に近い状態になってしまいます。ところが、彼らの活動はそれで終わりではありませんでした。彼らには最後にもうひとつ、時代を切り取る重要な仕事が残されていました。

<「ゴースト・タウン」の暑い季節>
 1981年4月10日、ブリクストンで黒人青年がからんだ刺傷事件が起き、その後ケガをしたその青年を放置した警察に対して抗議する群衆と警官隊200人が衝突。パトカー61台が破壊される大暴動に発展します。その後、イギリス各地で右派勢力によるアジア系移民への襲撃事件や左派勢力事務所への放火などが相次ぎ、事態はさらに悪化の一途をたどって行きます。そして、7月3日、サウスオールにあるライブハウス周辺で暴動が起き、同じ頃、リヴァプールでも爆破事件が起き暴動へと発展、一週間以上にわたり散発的な争乱状態が続くことになり、リヴァプール全市が戦場と化しました。その後、この状況はロンドンの他の地域だけでなくマンチェスターなど、イギリス中の街へと拡大して行きます。
 それは、やり場のないうっぷんを抱えた若者たちやと種差別によって怒りをためこんだ移民たちとが自分たちを見捨てたサッチャー政権に対して「NO !」を突きつける闘いでもありました。
 そして、ちょうどこの頃イギリスのヒットチャート・トップにあったのがスペシャルズのシングル「ゴースト・タウン Ghost Town」だったのです。
 6月5日に発売されたこの曲は、スペシャルズにとって最後のシングルとなりましたが、それはまるで7月に起きることになる暴動を予見していたかのような内容となっていました。発売当初、ラジオ局がこの曲を内容的にオンエア不向きとして放送をひかえていたせいもあり、ほとんど話題になることはありませんでした。しかし、社会状況の悪化に比例するかのようにして、この曲はヒットチャートを登り始め、ついには3週間にわたりチャートのトップに居座るまでになったのです。
 それはイギリス中を巻き込んだ暑くて長い夏のテーマ曲として、歴史に刻まれることになったのです。

<その後のスペシャルズ>
 結局スペシャルズはこの「ゴースト・タウン」を収めたアルバムを録音することなく分裂することになりました。ヴォーカルのテリー・ホールを中心にネヴィル・ステイプルズ、リンヴァル・ゴールディングの3人は、ファン・ボーイ・スリー Fan Boy Three」を結成。「ザ・ルナティクス・ハブ・テイクン・オーヴァー・ジ・アサイラム」でデビュー。2年間と短期間ながら大活躍します。
 残されたダマーズは、ジョン・ブラッドベリやボディー・スナッチャーズのメンバーなどを加えて、スペシャルAKAを結成。よりメッセージ性を重視した曲づくりを行い「フリー・ネルソン・マンデーラ Free Nelson Mandela」(1983年)などのヒットを放ちます。しかし、ダマーズ自身がしだいに音楽活動から離れて行き1985年、このバンドも解散します。
 1995年、スペシャルズは再結成されますが、そのメンバーの中にダマーズとテリーの名はありませんでした。
 彼らの音楽は未だに聴く者を熱くさせますが、彼ら自身はそれらの音楽を生み出した時、まさに「燃え尽きてしまった」のかもしれません。
 燃え上がるイギリスの街並みから生まれた2トーン・サウンドは、大衆の怒りの炎がおさまるのと時を同じくして、その勢いを失ってしまいました。しかし、残されたゴースト・タウンからは、新しい動きが始まり、1990年代に向けて再びイギリスは勢いを取り戻すことになります。
 時代とともに誕生し、時代とともに消えて行ったバンド、スペシャルズは、まさに「特別な」バンドでした。

<締めのお言葉>
「・・・基本的には、生命や精神を可能にしている不思議な『何か』は無秩序の力とのある種のバランスであるということだ。・・・<秩序>と<カオス>この両極端のあいだ、『カオスの縁』と呼ばれるある種の抽象的な相転移が起きる場所では、<複雑性>つまり構成要素が決してがんじがらめに固定されることがなく、それでいてばらばらの混乱状態におちいることも決してないようなシステムの振る舞いを目にすることもできるのである。・・・」
M・ミッチェル・ワールドロップ著 「複雑系ー科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち」より

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