GSナンバー1バンドが残した足跡

- ザ・スパイダース The Spiders -

- 井上堯之、大野克夫、堺正章、かまやつひろし、井上順 ・・・-

<日本語ロックの原点>
 「日本語ロックの原点ははっぴいえんどである」
 これは日本のロックにおける定説かもしれません。しかし、はっぴいえんどが1970年にデビューするよりも早く、ジャックスがアルバム「ジャックスの世界」を発表するよりも早く、1965年5月にオリジナルのロック・ナンバー「フリ・フリ」(作詞・作曲かまやつひろし)でデビューしたスパイダースこそ、J-ロックの原点と呼ぶべきかもしれません。
 スパイダースのヨーロッパ・ツアーやブルー・コメッツのアメリカ・ツアーなど、海外で活動したGS(グループ・サウンズ)が多かったせいか、海外でGSの知名度は高く、日本のロックはGSから始まったと考えられているといいます。しかし、日本ではそうは考えられていません。それはなぜか?
 それはGSの曲のほとんどがプロの作家によるもので、その詞の多くが4人の人気作曲家(なかにし礼、阿久悠、橋本淳、山上路夫)によるものだからかもしれません。そのうえ、GSメンバーのは当時テレビでも引っ張りだこの人気アイドルでした。1970年代初め、吉田拓郎や井上陽水らがテレビへの出演を拒否していた時代、ロックやフォークは反体制、反商業主義の音楽でした。そんな時代だからこそ、GSはロックと見なされなかったのかもしれません。(とはいえ、大人たちの多くはGSに眉をひそめ、不良扱いしていたのですが・・・)GSブームの終焉は、60年代学生運動の盛り上がりと重なっていて、多くのロックファンはGSを「ナンセンス!」と見なすようになりました。
 今改めてGSの音楽を聴けば、そこにはJ-ロックの先駆と呼べるような作品が少なからずあるはずです。そんな中でも、スパイダースの音楽は演奏のレベル、センスの良さ、アイデアの豊富さで群を抜く存在でした。そのことは、解散後のメンバーたちの活躍からも明らかでしょう。
 ということで、GSブームの中心的存在であり、解散後も日本の音楽業界に大きな影響を残すことになったスパイダースを結成から解散後まで追ってみようと思います。

<ザ・スパイダース誕生>
 1961年、ドラマーの田辺昭知がリーダーとなって、「田辺昭知とスパイダース」が東京で結成されました。当初、彼らはインストロメンタルのバンドとしてホリプロに所属。ジャズをレパートリーにその都度ゲスト・ヴォーカルを迎えてライブ活動を行っていました。
 1962年、バンドにギター、ヴォーカルとして井上堯之、ヴォーカル、タンバリン担当として堺正章が加入。さらに大野克夫がスティール・ギター、加藤充がベーシストとして参加。
 1963年、アメリカ帰りのミュージシャンかまやつひろしがギター、ヴォーカルで参加。
 1964年、イケメンのヴォーカリスト井上順が参加し、メンバーの入れ替えが終わり、7名編成のバンドが完成します。

<最強のビートルズ・コピーバンド>
 1964年、ビートルズの人気は日本にも波及しようとしていました。スパイダースのメンバーは、テレビで「エド・サリバン・ショー」に出演したビートルズの映像を見て衝撃を受けます。自分たちが目指すべきスタイルを見出した彼らは、すぐにビートルズのコピーをしようと彼らの音源や情報を集め始めました。ところが当時は、まだビートルズのアルバムも日本盤が出るには時間がかかり、その情報は限られていました。そのおかげで、彼らは日本盤がでるまでにビートルズのナンバーをいち早くマスターすることができ、ビートルズのコピー・バンドとして最強の存在と呼ばれるようになります。
 こうしてビートルズのブームと共に彼らの人気も急上昇。海外からミュージシャンが来日すると、その前座として彼らにお声がかかるようになります。(彼らはビーチボーイズとも共演しています)はっぴいえんどがバッファロー・スプリングフィールドを目標にスタートしたように、スパイダースはビートルズをコピーするところからスタートしたわけです。
 1965年、ビートルズのコピーだけでは人気が頭打ちになると考えた彼らは、オリジナル曲の制作に取り組みます。そして、この年、オリジナルのシングル「フリ・フリ」を発表。新たな段階へのスタートを切りました。日本語による最初のロック・ナンバー誕生です。
 1966年、ついに彼らのアイドル、ビートルズが来日します。実はこの時、スパイダースに日本武道館公演での前座オファーが来ていたといいます。ところが、このオファーを彼らは断っているのです。最強とはいえ、ビートルズのコピー・バンドである彼らが本物の前で演奏するのは、失礼だと考えたからだったようです。(結局彼らの代わりに前座で演奏したのが、あのドリフターズでした)
 この年、彼らは初のアルバム「ザ・スパイダース アルバムNo.1」を発表。さらに彼らはホリプロから独立すると、田辺が社長となって独自のプロダクションである「スパイダクション」を設立しています。これもまたミュージシャン主導によるプロダクション設立という先駆的な試みでした。
 さらにこの年、彼らは「日劇ウエスタン・カーニバル」に出演。GSのブームがいよいよ始まろうとしていました。

<GSブーム最強のバンド>
 1966年9月、彼らはシングル「夕陽が泣いている」を発表します。それまで発表したオリジナル曲が今一つヒットに結びつかなかったことから、彼らは外部の作曲家に曲を依頼。ヒットを狙っての選曲だったようです。作詞作曲は若手の人気作家、浜口庫之助でした。さらに彼らはこのシングル発表後にヨーロッパへと旅立ちます。そしてロックの本場イギリスで有名なテレビ番組「レディー・ステディー・ゴー」に出演するなど、各地でプロモーション活動を行います。わざわざ彼らは日本を留守にしたのでした。今と違い、当時は海外旅行ですら困難な時代だったこともあり、海外での音楽活動には大きなインパクトがありました。
 帰国すると、「夕陽が泣いている」は大ヒットになっており、ついにヒットチャートのトップに立ちます。最終的にこの曲は120万枚を越える大ヒットとなりました。翌1967年、いよいよ日本中にGSブームが巻き起こり、スパイダースに続き、タイガース、テンプターズなど数多くの後追いGSがデビューします。(ちなみにテンプターズは、スパイダクションが発掘し育てたバンドでした)
 そして、ここからスパイダースの快進撃が始まります。
 1966年発表のシングル「なんとなくなんとなく」の後、1967年には「太陽の翼」「バラ・バラ」「風が泣いている」「あの虹をつかもう」「いつまでもどこまでも」。1968年には「あの時君は若かった」「真珠の涙」「黒ゆりの詩/ロックンロール・ボーイ」「ガラスの聖女」。1969年には「涙の日曜日」「夜明けの二人」を発表。
 さらに1966年、彼らは映画「青春ア・ゴー・ゴー」に出演し、「ゴーゴー向こう見ず作戦」(1967年)と「ザ・スパイダースの大進撃」(1967年)二本の映画で主役を務めています。

<才能集団のアルバム>
 スパイダースの多彩な才能はアルバム制作にも生かされていました。1968年のアルバム「明治百年、すぱいだーす七年」では、A面にはメンバー7人それぞれがヴォーカルを担当する曲が並べられています。ちなみにメンバー全員にヴォーカルを担当させるのは、ジャーニーズのようなアイドル系グループとも共通する点です。
 逆にB面ではかまやつひろしの才能が生かされたトータル・アルバム的な作りの作品になっていて、彼のその後の活躍を予感させるものでした。

<GSブームの終焉と解散>
 1969年に入ると、マスコミによって作られた観もあったGSブームは急激に終わりを迎えようとしていました。若者たちの中では、GSからフォークのブームへと代わりつつあり、第一回全日本フォーク・ジャンボリーが開催され、第一回日本ロック・フェスティバルも開催されています。多くのGSは解散を余儀なくされ、タイガース、テンプターズらも解散。スパイダースもまた解散がささやかれるようになります。 1970年、それでも彼らは、メンバー個々の才能を生かすようにヴォーカルを変えて、シングルを連続して発表します。堺正章の「ふたりは今」、「明日を祈る」、井上順の「人生はそんなくり返し」、かまやつひろしの「どうにかなるさ」。どの曲も彼らのその後を感じさせるものでした。さらにバンド・リーダーだった田辺は、解散後に備えるようにバンドを脱退し、プロダクションの社長に就任。バンドのドラムとして前田富雄がメンバー入りします。
 5月に彼らはラスト・アルバムとなった「ロックンロール・ルネッサンス」を発表。12月についにバンドの解散を発表します。最後のライブは、1971年1月、彼らGSがブームを巻き起こす原点となった日劇ウェスタン・カーニバルへの出演でした。

<それぞれの活躍>
<堺正章>
 父親が当時の人気喜劇俳優、堺駿二だったマチャアキこと、堺正章はバンドのMC担当として活躍する看板スターでした。そのためソロ歌手としても、「さらば恋人」(1971年)「街の灯り」(1973年)などのヒットを飛ばしますが、得意の話術を生かして、俳優(「時間ですよ」「西遊記」「天皇の料理番」・・・)、バラエティー番組の司会(「NHK紅白歌合戦」「チューボーですよ」「世界一受けたい授業」・・・)として芸能界を代表する大物となって行きます。

<井上順>
 バンドでは、イケメンのアイドル的存在として活躍していた井上順は、解散後もソロ歌手として活動しますが、それ以上に二枚目から二枚目半の俳優、声優、バラエティー番組の常連として長く活躍を続けます。歌手としての代表曲としては、「昨日・今日・明日」(1971年)があります。司会としての代表的番組は、1970年代から80年代に人気があった番組「夜のヒットパレード」があります。そして、彼が流行させた言葉として「ジャーニー!」と「ピース」も忘れられません。

<田辺昭知>
 田辺昭知は、スパイダクションを解散後、芸能プロダクション「田辺エージェンシー」を設立。当初はスパイダースの元メンバーたちなどを扱い、現在ではタモリ、堺正人、由紀さおり、RIP SLYME、永作博美などを抱える大手プロダクションとしての地位を確立しています。

<加藤充>
 加藤は唯一、芸能界を離れてサラリーマンに転職。保険業界で活躍しました。

<かまやつひろし>
 かまやつひろしは、いち早くフォークソング路線に向かい、フォーク畑でも活躍。吉田拓郎とのデュエット曲「我が良き友よ」を大ヒットさせ、ソロシンガーとしても成功することになります。さらにガロやアルフィーらとのコラボ。笠井紀美子、荒井由美らのプロデュース。俳優、タレントとしての活動。様々なジャンルで活躍するだけでなく、J-ロックのミュージシャンとしても活躍を続け、いつの間にかJ-ロック界における伝説的存在の一人になったといえます。
<追悼>2017年3月1日に癌でこの世を去りました。ご冥福をお祈りします。

<大野克夫>
 1971年、スパイダースの音楽を支えていた大野克夫はバンド解散と同時に渡辺プロに移籍。井上堯之と共に幻のスーパーバンドPYGに参加します。メンバーは、ヴォーカルにタイガースから沢田研二とテンプターズから萩原健一、同じテンプターズからはドラマーとして大口広司、ベースはタイガースからサリーこと岸辺一徳が参加し、残りがギターの井上とオルガンの大野でした。この時、渡辺プロはPYGのために特別チームを編成し、大掛かりな宣伝でデビューに備えます。デビュー曲は「花・太陽・雨」。作曲は井上堯之、作詞は岸辺一徳による曲で、ロックバンドとしてのオリジナル曲へのこだわりもみせていました。しかし、彼らへの評価は意外なものでした。ひとつには、GS三つの寄せ集めはファンの分裂・対立を生みました。それ以上に、ロックバンドの体裁はとっても所詮は商業的に作られたバンドであるというレッテルをはがすことが困難なことでした。そのため、野外で行われたフォーク・フェスティバルなどに参加しても、空き缶やヤジの攻撃にあいました。思えば、1971年はあのはっぴいえんどですら理解されない時代だったので、正当な評価を期待すること自体無理なことだったのかもしれません。
 その後、大野は井上堯之バンドで活躍した後は、作曲家、編曲家として単独で活躍し、昭和歌謡を支える重要人物となります。代表曲としては、「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「カサブランカ・ダンディ」など沢田研二のヒット曲。ガロの大ヒット曲「学生街の喫茶店」。それにアニメ「名探偵コナン」のテーマ曲、テレビドラマ「太陽にほえろ!」、「傷だらけの天使」、「寺内貫太郎一家」などの音楽を作っています。

<井上堯之>
 PYG解散後、井上堯之は大野克夫と、バンドを結成し、不本意だったようですがテレビなどの音楽を担当するようになります。中でも「太陽にほえろ!」(大野克夫作詞・作曲)は大ヒットします。当時の井上堯之バンドのメンバーは、井上のギターに岸辺一徳のベース、大野克夫のキーボード、大口広司のドラムスでした。
 ちなみに岸辺のベースは当時日本の最高峰だったという評価があります。レッドツェッペリンのベーシスト、ジョン・ポール・ジョーンズがPYGの演奏を見て、「このベーシストは素晴らしい俺より上手いかもしれない」といったとか・・・。社交辞令半分だったかもしれませんが、ジョン・ポール・ジョーンズといえば、レコード・コレクターズが選んだ歴代ベーシスト・ランキングで8位に選ばれている人です。偶然ですが、ラジオを聴いていたら「あまちゃん」のテーマで一躍有名になった前衛ジャズ・ミュージシャンの大友良英氏が、「岸辺一徳さんのベースは凄かった!」と絶賛していました。今では大物俳優として、大活躍の岸辺さんですが、実は後藤次利にベースギターのテクニックを教えたのも彼だとか・・・。
 井上堯之バンド解散後、彼は作曲家として「傷だらけの天使」や「前略おふくろ様」や映画の「青春の蹉跌」、「アフリカの光」、「太陽を盗んだ男」などの音楽を担当。中島みゆきの代表曲の一つ「ファイト!」(1983年)も彼の曲です。

<GSの遺産>
 日本のロック史を語る時、GSはそこから抜け落ち、どちらかというと歌謡史の1ページとして語られる傾向にあります。確かにGSの残党たちの多くは、その後、ニューミュージックやJ-ロックの流れには向かわず、歌謡界やテレビ・映画界、音楽ビジネスの世界へと歩み出したといえます。その意味ではロックの歴史に直接影響を与えたとはいえないかもしれません。
 しかし、GSの曲に詞を提供したなかにし礼、阿久悠、橋本淳、山上路夫は、それまでレコード会社の専属が当たり前だった業界にフリーのライターを誕生させたことは大きな革新でした。
 スパイダース自身も、独自のプロダクションを設立したり、オリジナル曲を作ったり、映画を作ったり、新たな挑戦をしています。ただし、どれも中途半端だったのかもしれません。それらの挑戦はブレイク・スルーまであと一歩のところでした。

 ビートルズの解散は、1970年12月30日にポール・マッカートニーがロンドン高等裁判所にビートルズ&Coの解消を求めて提訴したことで決定的になったといわれます。そして、ビートルズのコピー・バンドとしてスタートしたスパイダースの解散もまた同じ1970年12月に発表されました。もちろんビートルズのマネをしたわけではないのでしょうが、それはこの時期が世界的に大きな節目の時期だったからかもしれません。
 優れた才能をもつ個性の集合体だったビートルズとスパイダースにとって、アイドルからの脱皮、それぞれの価値観の追及、時代の変化に合わせた選択からは、どちらにとっても「解散」しかなかったのです。そして、その選択は1970年代に入り、すべての若者たちが選ぶことになる選択とも一致していたと思います。

<後日談>
 スパイダースの元メンバー井上堯之さんは、21世紀に入り、癌の手術を受け、その後、すべての仕事を辞めて小樽に移住していた時期があります。お世話になった医師が働く小樽の病院でボランティアライブを行ったりして弾き語りをするようになっていた井上さんは、僕の店がある商店街でも路上ライブをやりたいとおっしゃり、ある金曜の夜にライブを行いました。僕はその時に少しだけお話をさせていただきました。
 彼のことを無神論の神様のようだと言っているミュージシャンがいましたが、ギターを持って静かに語りかける彼の雰囲気は、確かに「仙人」を思わせました。音楽の神、ミューズに使える使徒として、音楽家としての理想の境地に迫ろうとしていたのかもしれません。

<参考>
「スパイダースありがとう! 」
 2005年
(著)井上堯之
主婦と生活社

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