スポーツニュースはこれでいいの?


「最近のスポーツニュースを見て思うこと・・・」

<張さんに「喝!」>
 日曜朝の某ニュース番組。「喝!」で有名な張本勲氏の解説にうんざりしたことはありませんか?以前、彼の女性蔑視発言に反発して、江川詔子さんが番組を降板して話題になったこともありました。そりゃそうだと思います。
「女の子が格闘技なんかやったら子供産めなくなっちゃうから」
「日本人なのに、なぜ金髪にするの?」
「日本人は日本で野球やればいいんです」
 この感覚でいうと
「障害者なら障害者らしくして、スポーツなんて危険なことやめなさい」となりかねません。
 そんな発言が許されるのは、それがスポーツコーナーだから、悪気はないから・・・でもそれでいいのでしょうか?
 なぜ、彼は許されるのか?なぜあの常識人の関口宏さんが彼の発言を笑って許しているのか?
 それはたぶん、視聴者の多くが彼と同じ目線でスポーツを見ているからだと判断しているからなのでしょう。彼はある意味大衆の代弁者と考えられているのです。実に失礼な話です!
 もちろん、張本氏が人種差別主義者だといいたいわけではありません。逆に彼は朝鮮人二世として日本で生きる中で、様々な差別を受けてきたのでしょうから・・。悪気はないのかもしれません。でも、それだからこそ、多くに人はその発言を自然に受け入れてしまうことにもなります。
 たぶんこのサイトの読者は、張本氏の解説ではなくても、今のスポーツニュースにどこか違和感を感じることがあると思います。そして、それは日本人独特のスポーツに対する偏見からくるものかもしれません。先日「スポーツニュースは恐い」(森田浩之著)という本を読み、そんな偏見を生み出すシステムについて理解することができました。
 2014年ワールドカップ・サッカー・ブラジル大会を前に一度冷静に「日本人とスポーツ」について考えてみようと思います。

<サッカー日本代表と日本人>
 もし、自分がサッカーファンでなかったら・・・たぶん僕はサッカー・ワールドカップ中の日本中の盛り上がりにウンザリするだろうと思います。日本人が普段はあり得ないほど「日の丸」にこだわり、「君が代」を大声で歌うようになったのは、サッカー日本代表の活躍からだと思います。それはサッカーというスポーツの特殊性から必然的な流れだったのかもしれません。
 オリンピックに参加する国よりも多くの加盟国が参加して行われるワールドカップは、文句なしに世界一のスポーツイベントといえます。だからこそ、参加する国の「国民性」が強烈に表に出てしまうことになるのでしょう。我々日本人もまたその例外ではないわけです。
 ただし、こうしたスポーツ・イベントにおいても日本のマスコミはけっして日本人のナショナリズムを煽っているわけではありません。どちらかといえばいえば、控えめなものです。

・・・国民であることを「誇りに思わせる」ナショナリズムは、右派勢力や新興国家が熱く、懸命に国旗を振っているイメージだ。けれども「忘れさせない」ナショナリズムは、役所の入り口んみ日々ひっそり掲げられている国旗のイメージである。
(イギリスの心理学者マイケル・ ビリグによる)

 しかし、なぜか日本人は日本人のもつ独自性に強いこだわりをもっています。そのため、マスコミも常に「日本人論」にこだわることでニュースを作る傾向があります。そして、そんな「日本人論」が大好きな大衆に向けてマスコミは独自の物の見方(枠組み)を提示し続けてきました。その手法について、前述の「スポーツニュースは恐い」にはこう書かれています。

 日本の新聞がとっていた手法は大きく二つある。
 ひとつは、日本をわざわざ世界の「周縁」に位置づけていること。日本が世界の「中心」から離れた極東の島国であることを言葉の奥深くで伝えたり、日本人の想像上の概念でしかない「世界」を、みずからパフォーマンスを評価する基準として位置づけている。
 もうひとつはステレオタイプを効果的に使っていること。ここには、自己に対する「日本人論」的なステレオタイプも含まれる。ある国民性を共有する均質な「私たち」の存在が前提とされ、ときにはその前提が別の議論の基礎となる。


 「日本人論」なくして日本のスポーツ・ジャーナリズムは成立しないともえいるでしょう。だからこそ、そんな「日本人論」から逸脱したアスリートたちは必ずマスコミによる批判の対象になってきました。(野茂イチロー中田らはその代表的存在です)
 もちろん「日本人論」も常に変化し続けていますが、どちらかといえば、それはアスリートたちをその枠組みに閉じ込めようとするシステムであり保守的なものです。とうぜん、その枠組みは我々スポーツを見るファンの心をも枠組みの中に閉じ込めようとします。

「国民」とは、「イメージとして心のなかに描かれた想像の共同体」である。
ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」より

<システムが用いる枠組みと差別>
 そのシステムを有効に機能させるためにマスコミが用いる手法のひとつに「物語(ナラティブ)」によるヒーロー作りがあります。

 シンボルとなるヒーローを私たちに差し示すため、スポーツニュースは彼を主人公にした「物語」を語る。物語は起こったことを伝えるのではなく、起こったことをどう理解すべきかを私たちに教える。スポーツニュースが「スポーツマンニュース」になっているのは、「人」に焦点を当てたほうが物語を語りやすいからだろう。
(「ヒーロー」はいない、「ヒーローの物語」があるだけだ、ということです)

 日本人はとにかく「物語」が大好きです。もしかすると、日本人が野球やマラソン、相撲が好きな最大の理由は、それぞれの競技に解説者が「物語」を語るための時間が試合中にたっぷりあるからなのかもしれません。(ちなみにサッカーは、その逆で「物語」を語る暇がないスポーツといえそうです)

 「物語」が好きな日本人が用いる作戦としては、「ヒーロー・インタビュー」の存在も忘れられません。
 「ヒーロー・インタビュー」において、誰もが同じような受け答えしかせず、質問者も、およそプロとは思えないくだらない質問しかしないのは、なぜなんでしょうか?どうやらそれは、日本人が大好きな「卒業式」と同じく「儀式」としての役割を担っているからのようです。

 ヒーロー・インタビューは「儀式のようにみえる」のではなく、まさにヒーローを社会のシンボルに祭り上げるための儀式なのだろう。

 なるほど「儀式」であれば、つまらないのは当然なのかもしれません。
 ではなぜ「物語」や「日本人論」を用いたスポーツニュースのシステムが生まれたのでしょうか?それはたぶんその「システム」さえあれば、テレビ画面や新聞紙面を使って、より簡単に人々の心をつかめるからでしょう。
 その「システム」は「日本人」であるという枠組みの中で有効に機能しているわけですが、他にもいくつかの枠組みが存在しています。その中でも有力なのが「男性目線」の重視があります。サッカー女子日本代表の「なでしこジャパン」というニックネームは、その象徴的存在のひとつです。それが示しているのは・・・

「サッカーなどという男っぽいスポーツをやていますが、彼女たちは(日本)女性です。安心して応援して下さい」というメッセージなのである。

 「名古屋ウィメンズ・マラソン」という大会名もまた女子マラソンが男子マラソンよりも低い位置にあることを示しているネーミングです。さらに象徴的なのは、女子選手たちへの「ちゃん」づけでしょう。これはあまりにも一般的すぎて気が付かないほど、今や常識となっています。

 人を姓で呼ぶのはあらたまった言い方であり、社会の「優位者(強者)」に向けられ、相手を大人として扱っている。だがファーストネームや愛称で呼ぶのは、親しみをこめている場合もあるが、たいてい社会の「劣位者(弱者)」に向けられ、相手を子供扱いしていることが多い。
 意識するとしないとにかかわらず、スポーツニュースは女子選手を子供扱いしてしまっている。「無意識のセクハラ」の始まりである。


 田中投手を「マー君」と呼んだりするのも、そこには理由がありそうです。どうやらその「システム」の枠組みは、「マー君」よりも年上の目線を持っているようです。彼はそのため「息子」的な存在として認識されることになります。
 どうやらスポーツニュースが用いる「システム」は、「日本人」としての「地域」、「男性」という「性」、「中年」という「世代」など、様々なことを共有することで成立しているようです。でも、なぜそんな限定された「枠組み」が採用されることになったのか?それはたぶんそうした「オヤジ的」目線は、長年日本のスポーツファンが「オヤジたち」に支えられてきたからでしょう。たぶん「プロ野球」のファンこそがその中心的存在だったのでしょう。
 なるほど、そう考えると「張さん」がスポーツマスコミの中心に位置してきた理由がわかります。(実は、彼は在日韓国人二世であるがゆえに長年差別されてきた記憶を持っているはずです。にもかかわらず、彼が日本人であることにこだわるのは、非常に残念なことです)

「女性蔑視、男性重視の中年オヤジ」目線から見たスポーツ。そう考えると、スポーツニュースからは他にも様々なことが見えてきます。

 例えば、障害者スポーツのマスコミの取り上げ方などは、試合経過、結果よりもそこに至るまでの「物語」重視であり、競技をさっぱり見せてくれない傾向があります。
 女子柔道におけるセクハラ問題について、マスコミに登場した女性たちの優しすぎるコメントは、彼女を囲むオヤジたちの影響だったのかもしれません。
 浅田真央と高梨沙羅、二人のメダル候補を過剰な取材によって押しつぶしたマスコミの反省がまったくないのはなぜでしょうか?それは、オヤジ目線の取材を深い愛情の表現であると思い込み、ストーカー行為であることに気づいていないからかもしれません。

<スポーツニュースを見る姿勢>
 私たちの前には、おそらく二つの選択肢がある。このままスポーツニュースの放射する価値観や物語に身をまかせて、スポーツニュースが無意識のうちに望んでいる日本人らしい<日本人>であることを刷り込まれないために、まずメディアとの接し方を変えてみるのか。
 いくばくかの勇気を出して二つ目の選択肢をとるのなら、「メディア・リテラシー」を鍛えなくてはいけないということになる。

(「メディア・リテラシー」=メディアの情報を常に批判的にみてゆく姿勢のこと)

 そもそもこのサイトをご覧の方なら、後者に属しているのだと思いますが・・・。
 もうすぐワールドカップ・ブラジル大会が始まります。日本がまだ出場できなかった時代、マラドーナやジーコが現役時代からワールドカップを見てきた僕としては、最近のワールドカップは少々微妙な気分です。どうしても、日本が敗退するまでは大会を冷静に楽しめないのです。それは自分が「日本人」だから仕方ないのかもしれませんが、どこかで「心の自由」が失われれいるのではないかとも思えるのです。
 少なくとも、渋谷のスクランブル交差点で大騒ぎするサッカーファンを見ても違和感をどこかで感じるサッカーファンでありたいと思います。
 社会における「アウトサイダー」であることにこだわるのが「ロック世代」にとって絶対唯一のこだわりです。「オヤジ目線」ではなくそんな「アウトサイダー」目線で、これからもスポーツニュースを見たいと思います。

 僕自身は、スポーツニュースには、単純にそのスポーツのファン目線で報道することを求めたいと思います。無責任な「にわかファン」の解説はもってのほかです。
 国民が求めるからとして、マスコミが日本人の大衆目線にこだわるほどナショナリズム重視とも思えるうんざりした報道になるのは必然です。それはけっして右翼的思想によるものではないのかもしれませんが、かえって危険なことです。

 要するに、スポーツニュースは、そのスポーツのファンのために作られるべきで、すべての国民に見せようなんてことを考えなくていいのです。

<追記>(2014年3月)
 ちょうどこの文章を書いている頃、浦和レッズの人種差別垂れ幕への罰則として「無観客試合」が決まったと発表がありました。あきらかに人種差別の意図があるとわかっていながら、試合が終わるまでその垂れ幕を放置した浦和関係者もダメだ。共犯と考えられても仕方ないですね。
 人権感覚の麻痺が少しずつ広まっている・・・なんてことのないよう願いたいです。
「メジャーリーガーはへたくそだ」とか「メジャーのニュースなんかやらなくていい」というのは、張本氏の言葉ですが、こうした彼の論調と「JAPANESE ONLY」の垂れ幕にはそう違いがあるとは思えません。
 日本のテレビの感覚もまた浦和レッズのフロントのように甘くなってはいませんか?
 少なくとも、我々スポーツファンは、純粋にスポーツを愛し、アスリートたちを応援していきましょう。

<参考>
「スポーツニュースは恐い 刷り込まれる<日本人>」
 2007年
(著)森田浩之 Hiroyuki Morita
NHK出版 生活人新書

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