スタジアムの歴史から世界の歴史を見る


「世界スタジアム物語 競技場の誕生と紡がれる記憶」
The World's Stadia as a Social Memory

- 後藤健生 Takeo Goto -
<スタジアムの歴史>
 「ワールドカップの「歴史」や「世界のサッカー」にちて、素晴らしい本を出している後藤健生さんが「世界スタジアム物語」という本を出しました。「スタジアムの歴史」から世界の歴史を見ようという試みはさすがです。スポーツが好きな方、サッカーが好きな方、歴史が好きな方必読です!
 スポーツの歴史がオリンピックの歴史と結びついているように、スタジアムの歴史もまたスポーツの歴史と結びついています。そして、それはそのスタジアムがある「国の歴史」ともつながっています。なぜなら、ある国にスタジアムが作られる時代は、その国に「勢い」(スポーツだけでなく経済的、政治的に)がある時代でもあります。そして皮肉なことに、それは独裁政権による権力の象徴として作られる場合も多く、戦争や内乱とも結びついています。
 ではまず、スタジアムの原点から見てみましょう。

<スタジアムの起源>
 スタジアムの歴史は、紀元前のギリシャで開催されていた古代オリッピックと共に始まったといえそうです。そのために造られた徒競走用の1スタディオン(=全長約192m)のトラックこそがスタジアムの原点でした。そして、そのトラックを囲むように観客席が造られるようになり、競技の種目が徒競走だけでなくなるとスタジアムは広く大きくなってゆき、ギリシャ各地にそのためのスタジアムが誕生しました。中でもアテネの「パナシナイコ・スタディオン」は紀元前566年に建造された後、紀元後140年には5万人収容の巨大スタジアムになっていたといいます。しかし、その歴史は古代ギリシャの栄光が失われると共に忘れられます。
 古代ギリシャのスタジアムは、紀元後ローマ帝国の誕生により復活します。ヨーロッパを征服したローマ帝国もまたその栄華を象徴するスタジアムを各地に建設しました。その代表的存在がローマに残された「コロッセオ」です。ところが不思議なことに、スタジアムの歴史はここでぱったりと途絶えてしまいます。ローマ帝国の崩壊後、「スポーツ」は文化としての価値を失ったかのように消えてしまったのでした。
 「スタジアム」は、富を独占する強大な帝国がその豊かさをもとにして初めて建造可能なものだったのかもしれません。それともキリスト教を中心とする宗教が、「スポーツヒーロー」を神の如く崇めることを良しとしなかったからでしょうか。
 次に巨大なスタジアムを造ったのが、ナポレオン1世だったのは、そう考えると納得です。ヨーロッパを席巻した戦場の英雄こそ、スタジアムを建設するのにふさわしい人物だったのです。そして、彼ほどの独裁者、彼ほどの英雄はその後ヨーロッパに現れることがなく、次なる巨大スタジアムの誕生もまた、古代オリンピックを蘇らせた偉大な人物クーベルタン男爵の登場まで待たなければなりませんでした。

<スポーツ文化の登場とスタジアム>
 スポーツ文化の誕生は、富の蓄積が進み、時間とお金に余裕をもつ富裕層の登場がきっかけでした。そして、その先駆けとなったのが、19世紀から20世紀にかけて世界を支配した大英帝国(イギリス)でした。そして、この時期にスポーツ専用スタジアムとして、イギリス各地に造られたのは、意外なことにクリケット場でした。20世紀に入るまでは、クリケット場こそが最大のスポーツイベント会場だったようです。(当初ラグビーやサッカーは、クリケット場を使用して行われていたのです)
 20世紀に入ると、クリケットだけでなく様々なイギリス発のスポーツが、人気を獲得してゆきます。サッカー、ラグビー、テニス、ゴルフ・・・その中でも、スタジアムの建設に最も大きな影響を与えたのは、労働者階級にまで広がりをみせイギリス中で行われるようになったサッカーでした。ただし、まだまだサッカーだけでは巨大なスタジアムを建設し運営するだけの収益はあげられませんでした。そのため、サッカー場の周囲には陸上競技用のトラックがつくられ、そこでは陸上競技以外にも週末は「ドッグレース」や「自転車レース」などが行われていました。

<スタジアムの発展>
 20世紀に入り、近代オリンピックが始まると、そのためのメイン会場として、開催国がそれぞれシンボルとなる巨大なスタジアムを建設するようになります。そして、その多くは現在でも世界各地で国を代表するスタジアムとして使用され、スタジアムの文化を生み出しています。
 特に第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のつかの間の平和な時代となった1920年代には、世界各地で巨大スタジアムが建設され、「スタジアムの黄金時代」と呼べるほどでした。ただし、その建造者の多くはファシズムの指導者だったのも事実でした。

 ヨーロッパでは18世紀から19世紀にかけて「一つの国民(民族)が一つの国家を作る」という理念の下に「国民国家」というシステムが成立し、20世紀に入ると国家同士の競争のために「国民」という仮想的な集団が総動員されるようになった。指導者たちは「国語」を統一し、「国民の歴史」や「神話」を創造することによって一体感や忠誠心を持たせようとした。自国民の優越性を唱え、さらに他国民(民族)に対する侮蔑や憎悪を掻き立てるような政治的プロパガンダすら繰り返された。スポーツもこうした流れに巻き込まれ、国民意識の強化のために利用された。
 その極限に位置するのが全体主義国家だ。・・・そうした全体主義国家の指導者、つまり独裁者たちは一般的にスタジアムという「装置」を好んだ。彼らは、自らの権力を誇示するために大規模なスタジアムを建設し、そこで世界規模のスポーツ大会を開催してみたり、あるいはそこでパレードやマスゲームを開催したりする。
・・・
後藤健生

 戦後、スポーツのプロ化、ビジネス化が進む中、巨大スタジアムはビッグマネーを生み出す装置としてさらにその必要性が増します。サッカー、野球などの世界的な人気スポーツだけではなく、ビッグ・アーティストのライブ会場としての価値も高まってきます。
 1969年のウッドストックでのライブが成功して以後、巨大スタジアムは音楽などの巨大イベントを開催する場所としても利用されるようになり、天候や季節に左右されず、空調も完備した全天候型のドーム型スタジアムも登場することになりました。
 1980年代、スタジアムの歴史を左右する大きな事件が多発しました。それは、スタジアムの老朽化とフーリガンが生み出す混沌状態によるもので、次々と起きた事件により多くの命が失われることになりましたが、それを契機に新たなスタジアムが各地に誕生することになりました。(「ヒルズボロの悲劇」など参照のこと)

 こうして、イングランドのサッカー観戦文化において重要な役割を果たしてきた「テラス」と呼ばれる立見席は廃止され、スタジアムは全席座席化されていく。古いスタジアムの多くは全面改装され、また新スタジアムが建設されたケースも多い。
 テラス席が廃止されて全席座席化されれば、観客のコントロールは容易になるが、スタジアムの収容力は減ってしまう。そのため、入場料金が引き上げられた。これまで立ち見席を埋めてサッカーを支えてきた貧しい労働者階級にとっては入場料金の引き上げは大きな負担となってしまった。こうした貧しい人々に代わって、スタジアムには中産階級の家族連れがやって来るようになる。かつては、老朽化し、不潔で危険な場所だったサッカー・スタジアムは、近代的快適な娯楽施設に変化していくのだった。


 20世紀の終わりになると、それぞれの競技がファンをより多く集客できるスタジアムを追求するようになり、それぞれ成功を収め始めます。よりサッカーを見やすくするためにはピッチと観客席をより近づけた専用スタジアムが登場。野球もボールパークとして、広く楽しめる空間を追求した天然芝の空の見える球場へと回帰しつつあります。

<年代別世界のスタジアムの歴史と事件>
パナシナイコ・スタディオン(アテネ・ギリシャ)
紀元前566年
 古代ギリシャの黄金時代にアテネに誕生したスタジアムですが、1896年の第一回近代オリンピックでは改修されてメイン・スタジアムとして使用されて復活。
 1968年のバスケット・ボールのヨーロッパ・カップウィナーズ・カップの決勝戦、AEKアテネとスパルタ・プラハの試合が、この会場で開催された際には8万人が入場し、バスケット・ボール史上最多観客動員記録となりました。2004年開催のアテネ・オリンピックでも、男女マラソンのゴールとアーチェリー会場として、使用されています。文句なしに現役最古のスタジアムです。 
コロッセオ(ローマ・イタリア)
紀元80年
 完成当時の収容人数は4万5000から5万人で、剣闘士や猛獣が戦う場所として使用。一説には、会場内に運河がつくられ模擬海戦も行われていたとも言われます。
 ローマ帝国の崩壊後、こうしたスタジアムは作られず、それでもコロッセオは遺跡としてローマを代表する観光施設として、残されています。 
19世紀
アレーナ(ミラノ・イタリア)
1806年
 ナポレオン1世の命により、ルイジ・カノニカによって建てられた。古代ローマを意識してデザインされ、当初は劇場として使用されていた。その後、競馬、軍事教練、模擬海戦などで使用されました。
 19世紀末に1周500mのトラックがつくられ、陸上競技の会場となり、その後真ん中にサッカー場がつくられ、1908年創設のインテル・ミラノがここをホーム・グラウンドとすることになり1947年まで使用されることになりました。現在でも陸上競技用のスタジアムとして使用されています。
ローズ・クリケット・グラウンド(ロンドン・イングランド) 
1814年 
 1787年にクリケットの有名選手トーマス・ロードがつくったグラウンを基にしたスタジアムで、メリルボーン・クリケットクラブのホーム。現在も「クリケットの聖地」として利用されていて、2012年のロンドン・オリンピックでも、アーチェリー競技の会場として使用されています。19世紀までは、多くのサッカー・クラブが試合会場として利用してもいました。
 現在の収容人数は2万8000人で、2019年にはクリケット・ワールドカップが開催されます。
メルボルン・クリケットグラウンド(メルボルン・オーストラリア) 
1854年 
 世界最大のクリケットグラウンド。収容人数は10万人。南半球最大のスタジアムでもあります。
 夏はクリケット、冬はオーストリアン・フットボールの会場として使用されています。1956年開催のメルボルン・オリンピックのメイン会場。
スタンフォード・ブリッジ(ハマースミス・ロンドン・イングランド) 
1877年 
 アーチボルド・リーチの設計により、陸上競技のクラブのために建てられたスタジアム。ホーム・チームがなく経営困難になり、そこを買いとったミアーズ兄弟がそこにサッカー・チーム「チェルシーFC」を設立。弱小チームとして成功せずにいたが、少しづつ改修・増築が行われ2001年にやっとサッカー専用スタジアムになりました。(収容人数は4万2000人)しかし、経営は上手くゆかず、ロシアの石油王ロマン・アブラモヴィッチによって買収されてから、圧倒的な資金力を用いて、ヨーロッパを代表する強豪チームとなりました。 
パルク・デ・プランス(パリ・フランス) 
1897年
 自転車の競技場として建設され、1967年までは「ツール・ド・フランス」のゴールになっていました。1960年代後半に高速道路の建築に合わせて大改修が行われ、1972年ロジェ・テベールの設計によるサッカー専用スタジアムとなりました。収容人数は4万9700人。
 当初、ここをホームとしていたラシン・ド・パリが消滅したため、新チーム「パリ・サンジェルマン」が創設され、3部リーグからスタートし、現在ではヨーロッパを代表する強豪チームとなっています。 
アイブロックス・パーク(グラスゴー・スコットランド)
1899年 
 グラスゴーのサッカー・チーム、レンジャーズのホームとして、チームのファンだった建築家のアーチボルド・リーチが設計。
「アイブロックス・パークの悲劇」
 1902年4月5日、スコットランドVSイングランドで6万8114人が入場した試合で木製の床が落下し、約100人が12m下の地面に落下。25人が死亡し、517人が怪我。この事件が鉄骨と木材による立見席をコンクリート製に変えるきっかけとなりました。
1900年代
ハムデンパーク( グラスゴー・スコットランド)
1903年 
 スコットランド国立競技場であり、スコットランドのプロリーグに所属する唯一のアマチュアチーム「クイーンズ・パークFC」のホームとして建設。クイーンズ・パークFCは、1867年創設のスコットランド最古のクラブ。1866年にオフサイド・ルールが導入された際、いち早くそれに対応したパス・サッカーのスタイルを生み出し、その後のサッカー・スタイルの先駆となったチーム。
 1937年に行われたスコットランドVSイングランドの代表戦には立ち見も含め、14万9415人が入場。未だにイギリスにおける最多動員記録と言われています。
 1999年に大幅改修が行われ、現在の収容人数は5万2000人。半丸型のスタンドと長方形のスタンドを組み合わせた長円形型スタジアムの典型的なスコットランド・スタイルのスタジアムです。 
スタッド・オランピック・イヴ・ドゥ・マノワール(パリ・フランス) 
1907年 
 1882年創設のフランス最古の総合スポーツクラブ「ラシン」が使用するスタジアムとして建てられました。イヴ・ドゥ・マノワールはラグビーの名スクラムハーフの名前からとられました。(1923年に飛行機事故で死亡)元は自動車レースのクラブでしたが、その後ラグビー、サッカーなどのチームもできてゆきました。
 1924年パリ・オリンピックのために大規模な改修が行われ4万5000人収容の巨大スタジアムとなりました。このオリンピックの短距離走を描いた映画が「炎のランナー」です。
 1938年サッカー・ワールドカップ・フランス大会でも使用され、その時は6万人収容可能に増築されました。しかし、1990年には、ラシン・ド・パリ(サッカー・クラブ)は破産。現在は1万4000人収容のスタジアムに縮小され、ラグビーやアマチュアのサッカー用に使用されています。
ホワイトシティー・スタジアム(ロンドン・イングランド)
1908年 
 オリンピックのために造られた最初の巨大スタジアム。第4回オリンピック・ロンドン大会のメイン会場としたロンドン西部に建設された。
 収容人数は6万8000人で、トラックは1週536m。その外側には、一周660ヤード(約600m)の自転車用トラックがつくられ、そのトラックの内側にはプールもありました。
 老朽化が進み、1985年に解体されました。
1910年代
オールド・トラフォード(マンチェスター・イングランド)
1910年 
 1878年にランカシャーヨークシャー鉄道の労働者が結成したサッカー・クラブ「ニュートン・ヒュース」は、その後破産の危機に陥り、ビル会社オーナーのジョン・デービスの援助で立ち直り、チーム名を「マンチェスター・ユナイテッド」とします。チームの専用スタジアムとして6万人収容のオールド・トラフォードを建設しました。その後、スタジアムは戦争によって破壊されたり、改修、増築しながら7万6千人収容の現在のスタジアムになりました。現在も1910年当時の部分が一部残っているそうです。 
ストックホルム・スタディオン(ストックホルム・スウェーデン) 
1912年 
 第5回ストックホルム・オリンピックのために建てられた2万人収容のスタジアム。設計者はトゥルベン・グルート。このオリンピックには日本が初めて参加。そのため、嘉納治五郎などの関係者は、このスタジアムを参考にその後、明治神宮外苑競技場の設計を行うことになります。
1920年代
ウェンブリー・スタジアム(ロンドン・イングランド) 
1923年 
 1924年開催の大英帝国博覧会のためにロンドン北西部のウェンブリー公園に建設。正式名は「エンパイア・スタジアム」で、当時は収容人数は12万7000人でした。こけら落としは、4月に行われたFAカップ決勝のボルトン・ワンダラーズVSウェストハム・ユナイテッド。この試合には立見席も含めると、25万から30万人が入場したといいます。観客が多すぎたため、ついにはピッチ上に人があふれ出し混乱状態となりました。そこに騎馬警官が現れて、観客の整理を行い事なきを得ました。この時、ジョージ・スコーリー巡査が乗っていた白馬が人気となり、この試合は「ホワイト・ホース・ファイナル」と呼ばれる伝説の試合となり、入場口の橋は「ホワイト・ホース・ブリッジ」と呼ばれることになりました。
 1952年、ロンドン・オリンピックのメイン会場。1966年、ワールドカップ・イングランド大会ではイングランドの試合会場。サッカーなどのホーム・チームをもたないスタジアムであるために、赤字を補うため、ラグビーやドッグレースを週末に開催。
 2002年に取り壊され、2007年に新スタジアムが完成しました。 
ヤンキー・スタジアム(ニューヨーク・アメリカ) 
1923年 
 マンハッタン島内に1890年完成のポロ・グラウンドをジャイアンツと共同で使用していたヤンキースは、ブロンクスにホーム球場となる「ヤンキー・スタジアム」を建設。内野スタンドは3層式で収容人数5万8000人の巨大スタジアムは、当初は周囲から心配されましたが、しだいに観客を集め、メジャーリーグの集客力を大幅に増やしました。
 ライト側の外野スタンド裏に線路があったため、ライト側が狭い左右非対称のグラウンドでしたが、そのおかげで冬はサッカーやアメフトの試合などにも利用されていました。1926年には「ニューヨーク・ヤンキース」というアメフト・チームも誕生し、同名のサッカー・チームもありました。
 1967年にはサッカーのプロチーム「ニューヨーク・ジェネラルズ」が誕生し、北米サッカー・リーグ(NASL)のチームとしてヤンキー・スタジアムを使用していました。
 2009年に解体され、現在は隣に新スタジアムが完成。
ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム(ロサンゼルス・アメリカ) 
1923年 
 第一次世界大戦に出征した兵士たちを記念するために建てられたスタジアムで収容人数は7万5000人でしたが、オリンピックの開催に合わせて10万人収容のスタジアムに増築されました。1932年と1984年、二度のオリンピックのメイン・スタジアムとして使用された。
 野球以外のスポーツ、アメリカンフットボール、サッカーなどで使用されましたが、ドジャースが移転してきた際、新スタジアム完成までの4シーズン、ホーム球場として使用。形が非対称なため、レフトへのホームランが多い球場で、収容人数が多かったこともあり、メジャーの最多入場者数の記録の多くはここで記録されています。
NSKオリンピスキ(キエフ・ウクライナ) 
1923年 
 レフ・トロツキー赤色スタジアムとして建設されました。ソ連崩壊後、2011年に名称変更。FKアルセナル・キエフのホームで収容人数は7万人。 
エスタディオ・デ・メスタージャ(バレンシア・スペイン) 
1923年 
 バレンシアFCのホームスタジアムとして当時の会長だった建築家フランシスコ・アルメナールが設計して建設されました。スペイン戦争で破壊され、1940年代に大幅改修されました。収容人数は5万4000人。
甲子園球場(西宮市・兵庫県・日本) 
1924年
 当時、関西で鉄道沿線を開発中だった阪神電鉄が建てた収容人数5万人の球場。ただし、野球専用として建てられたわけではなく外野にはフィールドがあって、陸上競技やサッカーでも使用できるようになっていた。そのため、外野が広く、現在ではそこがラッキー・ゾーンになっています。
 阪神はこの球場の周辺に、57面のテニスコート、水泳用プール、遊園地、動物園、海水浴場、総合運動場(2万5000人収容)などもありましたが、現在は甲子園球場のみ。
旧国立競技場/明治神宮外苑競技場(東京・日本)
1924年
 1964年の東京オリンピックのメイン・スタジアムとなった日本を代表する競技場。当初の収容人数は3万5000人。当時としては、最新の400mトラックをもつ陸上競技場であり、その中にはサッカー、ラグビー、ホッケーなどで使用できる芝生のピッチがつくられていました。楕円形型のこのデザインは、この後、世界標準のスタジアムとなります。
サンシーロ・スタジアム(ミラノ・イタリア)
1925年 
 タイヤ・メーカーの大手ピレリの会長が出資してACミランのホームとして建設されたスタジアム。完成時の収容人数は3万5000人でしたが、1955年には2階席が増築され、8万2000人収容となりました。現在はインテル・ミラノと共同使用。
 1980年、両方のチームで活躍した名選手の名前をとり、「スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ」が正式名称となりました。
 スタジアムを囲むらせん状のスロープが美しいデザインの国イタリアらしい構造です。
オリンピス・スタディオン(アムステルダム・オランダ) 
1928年 
 1928年のアムステルダム・オリンピックのメイン会場として建てられたスタジアム。当時の収容人数は3万1600人で、現在も陸上競技のスタジアムとして利用されています。
 この会場には、オリンピックで初めてとなる聖火台が設置されました。(聖火リレーは、1936年のベルリン・オリンピックから行われるようになります)
エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスファン(セビージャ・スペイン) 
1928年 
 セビージャFCのホームで4万5500人収容。建設された当時の名前はスタジアム・エスタディオ・ネルビオンでしたが、スペイン戦争で右派の司令部として使用されていました。
 1954年から1958年にかけて大幅に改修されました。 
スタディオン・オリンピスキ(ヴロツラフ・ポーランド) 
1928年 
 ポーランドがドイツ領だった時代に建設され、「ヘルマン・ゲーリング・カンプバーン」と呼ばれていた時代もありました。当時の収容人数は4万8000人でしたが、現在は改修され3万5000人。第二次世界大戦後、ポーランドに復帰しています。 
横浜公園平和野球場/横浜スタジアム(横浜市・神奈川県・日本) 
1929年 
 元は外国人居留地だった場所に「横浜クリケット・クラブYCC」がつくった公園「彼我公園」につくられた野球場。
 1978年に全面改装され「横浜スタジアム」となった。現在はDeNAベイスターズのホーム球場として使用されています。収容人数は3万人。
1930年代
スタディオ・アルテミオ・フランキ(フィレンツェ・イタリア)
1931年 
 1934年開催のイタリア・ワールドカップのために建設されたピエール=ルイジ・ネルグイ設計によるスタジアム。収容人数は4万3000人で、サッカー・チーム、フィオレンティーナのホーム。 200mの直線トラックを確保するためにD字型の構造をもつ異色のスタジアム。
オリンピック・シュタディオン(ベルリン・ドイツ) 
1936年 
 この年開催のベルリン・オリンピックメイン会場として建設されたスタジアムで収容人数は7万5000人。現在は、ヘルタ・ベルリンSCのホーム。
 ヴェルナー・マルヒがヒトラーの命で金に糸目をつけずに設計。コンクリートではなくバイエルン特産のリーダースドルフ石で建造されています。
 2006年、ドイツ・ワールドカップの決勝にも使用されました。
エスタディオ・ナシオナル・デ・チリ(サンティアゴ・チリ) 
1938年 
 正式名称は、スタジアム建設の中心となったスポーツ記者の名前からとられた「エスタディオ・ナシオナル・フリオ・マルティネス・パラダイス」。ウニベルシダー・デ・チリのホーム・スタジアムで収容人数は4万9000人。
 1973年アジェンダ政権を倒した軍事クーデターでは、このスタジアムで左派の大量虐殺が行われました。1974年西ドイツ開催のワールドカップ、大陸間出場国決定戦「チリVSソ連」の試合が行われることが決まり、ソ連はこのスタジアムでの試合を拒否し棄権しています。
コスタ・ガブラス監督の名作「ミッシング」は、この時のスタジアムをモデルにしています。
1940年代
エスタジオ・ド・パカエンブー(サンパウロ・ブラジル) 
1940年 
 陸上競技用の200mの直線トラックを確保するためにスタンドを片側につくらないU字型スタンドを持つ数少ないスタジアム。4万収容のスタジアムだが、サッカーなどのホーム・チームをもたない。異色のデザインで陸上、サッカーなど多目的には使用できるが経営は厳しい。 
エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ(マドリード・スペイン) 
1947年 
 レアル・マドリードのホームとして建てられたスタジアム。収容人数は8万1000人。サンティアゴ・ベルナベウは、建設当時のチーム会長の名前。それ以前のスタジアムは、街の外にあったが街中に移転し、集客力をアップ。今や世界最強のチームとなりました。 
1950年代
マラカナン・スタジアム(リオデジャネイロ・ブラジル) 
1950年(完成は1965年) 
 1950年開催のブラジル・ワールドカップのために建設されたが完成が間に合わず部分開業となり、完成は1965年になった。 正式名称は「エスタジオ・ジョルナリスタ・マリオ・フィーリョ」。このマリオ・フィーリョは、スタジアムの建設を後押ししたジャーナリストの名前から来ています。
 独特のキャンティレバー式屋根の取り付けが難工事となり、工期が間に合わなかったが、ここでブラジルとウルグアイによる伝説的な決勝戦が行われました。この時の入場者数は、公式には17万3850人とされていますが、実際は20万から21万人が入場したと言われています。
 2016年のリオ・オリンピックにもメイン会場として使用されました。現在の収容人数は7万9000人です。
スタディオ・オリンピコ(ローマ・イタリア) 
1953年 
 1928年、ムッソリーニの指示により「フォロ・ムッソリーニ(ムッソリーニ広場)」に建設が始まったが、予算不足と戦争によって工事が中断。ムッソリーニはそこでオリンピックの開催を予定したいましたが、戦争後に処刑されます。「フォロ・ムッソリーニ」は「フォロ・イタリコ」に変更され、1960年のローマ・オリンピックのためにスタジアムの建設が再開されました。現在は、ラツィオ、ASローマのホームとして使用され、収容人数は7万2700人です。
ヴェシル・レフスキ国立競技場(ソフィア・ブルガリア) 
1953年 
 ホーム・チームを持たない競技場で収容人数は4万3230人。 
ワルシャワ・ナショナル・スタジアム(ワルシャワ・ポーランド) 
1955年(2012年) 
 独立10周年を記念して建設された「10周年スタジアム」を大幅に改修。当時は7万1000人収容の巨大スタジアムでしたが、現在は5万8500人に縮小。
スタディオン・ルジニキ(モスクワ・ソ連) 
1956年 
 レーニン中央スタジアムとして建設されたが現在は名前が変わっています。スパルタク・モスクワのホームで収容人数は8万5000人です。
 寒さにより芝が育たないため、2002年に人工芝を採用しています。
工人体育場(北京・中国)
1959年
 中華人民共和国建国10周年記念のために建設されたスタジアムで収容人数は6万6100人。当時は、街の外にあったが現在は街の真ん中になっています。サッカーの北京国安がホームとして使用。2008年に北京オリンピックのために建設された同じ北京の国家体育場(通称「鳥の巣」)よりも便利なため人気があります。
1960年代
「エスタディオ・ナシオナルの惨劇」
1964年
 「エスタディオ・ナシオナル」(リマ・ペルー)での南米予選ペルーVSアルゼンチンの判定を巡り観客がピッチに乱入。それに対して警察が催涙弾を使用。観客が出口付近で数多く圧死。328人がこの時に死亡したと言われています。 
長居陸上競技場(大阪・日本) 
1964年 
公営の競輪場後につくられた陸上競技場でサッカーにも使われて、東京オリンピックでは5位6位決定戦が開催されました。JSL日本サッカー・リーグのヤンマー・ディーゼルのホームとなりました。1987年キンチョウ・スタジアムとなり、収容人数も4万8000人となり、2010年からはセレッソ大阪のホームとなりました。 
金日成競技場(平壌・北朝鮮)
1964年
 1960年に建設開始。1984年に大規模な改修が行われました。収容人数は5万人。ピッチはFIFAが無償提供した人工芝。サッカー・ワールドカップのアジア予選なども開催されています。 
アストロドーム(ヒューストン・アメリカ) 
1965年 
 大規模なドーム・スタジアムの元祖でメジャー・リーグのヒューストン・アストロズのホーム球場。収容人数は5万4000人。夏は暑く、雨も多いため、屋根がつけられました。当初は透明な屋根をもつ天然芝の野球場でしたが、野手がまぶしくてフライがとれないため、光を通さない屋根となり、人工芝に変更されました。しかし、人工芝が選手への負担が大きいことが問題視され、天然芝グラウンドへの回帰もあって2008年に閉鎖されました。
等々力陸上競技場(川崎市・神奈川県・日本) 
1966年 
 陸上競技だけでなくアメリカンフットボール、ラグビー、サッカーなど多目的に使うために川崎市が建てたスタジアム。収容人数は26500人。
 2001年に全面改修され、現在は川崎フロンターレのホーム。
エスタディン・ビセンテ・カルデロン(マドリード・スペイン) 
1966年 
 アトレティコ・マドリードのホームで収容人数は5万5000人。スペインを旅した時、ここでアトレティコ・マドリードとビルバオの試合を見ました!
1970年代
「アイブロックス・パーク二度目の悲劇」
1971年1月2日
 グラスゴーのアイブロックス・パークで肩車されていた子供が階段の途中で落ちてしまい、それをきっかけに人雪崩が起き66人が死亡し、200人以上が負傷。 
エスタディヨム・アザーディー(テヘラン・イラン) 
1971年 
 アリヤメール・スタジアムからアザーディー(自由)を使った名前に変更。独裁者として君臨していたイラン皇帝ムハンマド・レザー・パフラビー(パーレビ)が建設したスタジアムで収容人数は8万4000人。 (完成時は12万人収容)
 イラン革命によって皇帝は追放され、名前も変更されました。
ミュンヘン・オリンピア・シュタディオン(ミュンヘン・ドイツ) 
1972年 
 この年に開催されたミュンヘン・オリンピックのメイン会場として建設。1974年には、ワールドカップ・ドイツ大会の会場としても使用されました。収容人数は6万9000人。
1980年代
チャムシル総合運動場(ソウル・韓国)
1984年 
 1986年アジア大会、1988年ソウル・オリンピックのメイン会場として建設されたスタジアムで10万人収容。フランスの「パルク・デ・プランス」を参考に設計された。
「ブラッドフォードの悲劇」 
1985年5月11日 
 イングランド北部ブラッドフォード・シティーのホーム。3部リーグでの優勝が決まり盛り上がる満員のスタンドで煙草の火から火災が発生。56人が死亡し、265人が負傷。
 シーズンオフには改築されることが決まっていた老朽化した木製スタンドが原因でした。 
「ヘイゼル・スタジアムの悲劇」
1985年5月29日 
 ベルギーの首都ブリュッセルの「ヘイゼル・スタジアム」で行われたヨーロッパ・チャンピオンズ・カップの決勝。ユベントスVSリバプールの試合でリバプールのフーリガンが暴れて、ユベントスのサポーターがパニックになり、ブロック壁が壊れて39人が死亡。
スタッド・ルイ・ドゥー(モナコ公国) 
1985年 
 人工的な土壌による芝生を使用した「サンドグリーン方式」最初のスタジアム。ASモナコのホームで18500人収容。土地が少ないため海を埋め立ててフランス領ギリギリの場所に建設。
キング・ファハド・インターナショナル・スタジアム(リヤド・サウジアラビア) 
1987年
 サウジの王の命で建設された収容人数6万8000人のスタジアム。ベドウィンのテントを模した美しい屋根を持つデザインで、大理石をふんだんに使った豪華なデザイン。1984年、1988年とサッカー・サウジアラビア代表はアジアカップで2連覇。経済的にも、環境的にも、サウジの黄金時代でした。
東京ドーム球場(東京・日本)
1988年 
 後楽園競輪場の跡地に建設された読売ジャイアンツ、日本ハム・ファイターズのホーム球場。空気膜構造をもつエアドーム方式のスタジアムで全天候型なため、スポーツだけでなくビッグ・アーティストのコンサートなどでも使用される。収容人数は4万6000人。 
「ヒルズボロの悲劇」 
1989年4月15日 
 FAカップ準決勝リバプールVSノッティンガム・フォレストの試合で観客が多すぎて入場に手間取ったため、出口用のゲートも開いたところ同時に多くの観客が入り、動けなくなった人が柵に押し付けられて圧死。96名が死亡する大惨事となった。フーリガンを入れないための柵が悲劇の原因となった。 
メーデー・スタジアム(平壌綾羅島・北朝鮮) 
1989年 
 世界最大規模の多目的スタジアムで平壌を流れる大同江の中州にあります。収容人数は15万人!1995年4月に開催されたアントニオ猪木のリック・フレアーの試合は、19万人を集客。今でもプロレスの試合における世界記録となっています。 
1990年代
アムステルダム・アレナ(アムステルダム・オランダ)
1996年 
 ヨーロッパ初の開閉式屋根をもつスタジアムで、5万3000人収容。ピッチが地上3階という特殊なデザインも有名です。もともとオランダがオリンピック誘致のために建設したが、誘致には失敗。アヤックスの新スタジアムとして再スタートした。
日産スタジアム(横浜市・神奈川県・日本)
1998年 
 2002年開催の日韓ワールドカップのために建設。収容人数は7万2300人。 オープン当時の名前は横浜国際総合競技場。 
スタッド・ド・フランス(サン=ドニ・フランス) 
1998年
 パリの北、サン=ドニにワールドカップ・フランス大会のメイン会場として建設されたスタジアム。収容人数は8万1000人ですが、サッカーなどのホームチームを持たないため、稼働率が低く、陸上、ラグビーなど多目的に使用されています。構造的には、珍しい吊り屋根のスタジアム。
ヘルレ・ドーム(アーネム・オランダ) 
1998年 
 世界初の可動式天然芝ピッチをもつスタジアムとして建設された。サッカーのフィテッセがホームとして使用する収容人数2万5000人のスタジアム。
スタジアム・オーストラリア(シドニー・オーストラリア) 
1999年 
 2000年開催のシドニー・オリンピックのメイン会場として建設された収容人数8万3500人のスタジアム。現在は、サッカー、ラグビー、クリケットの試合に使用されています。
2000年代以降
埼玉スタジアム(さいたま市・埼玉県・日本)
2001年 
 2002年開催の日韓ワールドカップのために建設。収容人数は6万3700人。 
豊田スタジアム(豊田市・愛知県・日本)
2001年
 2002年開催の日韓ワールドカップのために建設。収容人数は4万5000人。
札幌ドーム(札幌市・北海道・日本) 
2001年 
 2002年開催の日韓ワールドカップのために建設。収容人数は4万1500人。北海道日本ハム・ファイターズ、北海道コンサドーレ札幌のホーム。世界初の「ホヴァリング・サッカー・ステージ」をもつスタジアム。(可動式の天然芝ピッチ)
大分スポーツ公園総合競技場(大分・大分県・日本) 
2002年
 通称「ビッグ・アイ」黒川紀章デザインによる4万人収容のスタジアム。大分トリニータのホーム。 
ドンバス・アレーナ(ドネツク・ウクライナ) 
2009年
 シャフタール・ドネツクのホームで収容人数は5万1000人。しかし、ウクライナ内戦の勃発によって破壊され使用不能となった悲劇のスタジアム。
ナショナル・スタジアム(シンガポール)
2015年
 世界最大の開閉式大屋根をもつスタジアムで、収容人数は5万から5マン5000人。陸上、サッカー、ラグビー、クリケットなのに使用可能な多目的スタジアム。


「世界スタジアム物語 競技場の誕生と紡がれる記憶」 2017年
The World's Stadia as a Social Memory
(著)後藤健生 Takeo Goto
ミネルヴァ書房

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