- スタン・ゲッツ Stan Getz -

<白人テナー・サックスの巨人>
 白人テナー・サックス奏者のトップとして、1940年代から1980年代まで40年にわたって活躍を続けたジャズ史を代表するアーティストのひとりが、それがスタン・ゲッツです。しかし、彼の私生活はボロボロでした。ヘロインなど薬物の乱用から逮捕されたり、アルコール依存症に苦しんだ後、最後は癌との闘いの末この世を去った彼は、そんな荒れた生活のせいもあり、周りの人々とのケンカや対立が絶えませんでした。彼のエゴの強さを否定する人はいないようです。しかし、それでもなお、彼は生涯ジャズ界を代表するミュージシャンとして活躍を続け、多くの名演奏を残しました。小説の世界におけるスコット・フィッツジェラルドに匹敵する存在として、スタン・ゲッツを高く評価する村上春樹は、彼の著書「ポートレイト・イン・ジャズ」の中でこんなふうに書いています。

「・・・・・しかし、生身のスタン・ゲッツが、たとえどのように厳しい極北に生を送っていたにせよ、彼の音楽が、その天使の羽ばたきのごとき魔術的な優しさを失ったことは、一度としてなかった。・・・・・」

 スタン・ゲッツ Stan Getzは、1927年2月2日ペンシルヴァにア州の古都フィラデルフィアのハーレムでユダヤ系ドイツ移民の子として生まれました。当時、多くのユダヤ系移民の子がそうだったように、彼もまた早くからミュージシャンになろうと楽器を手にしていました。最初は、コントラバスでしたが、その後、13歳の頃父親に買ってもらったサックスが気に入り、生涯サックス・プレイヤーとして活躍することになります。15歳の頃にはジャズ・バンドに所属するようになり、ジャック・ティーガーデン楽団を皮切りに、スタン・ケントン、ジミー・ドーシー、ベニー・グッドマンらの楽団を渡り歩いた後、1940年代の後半ウディ・ハーマン楽団ではその中心として活躍、当時ブームとなっていたクール・ジャズを代表するテナー・サックス奏者となります。

「まわりはみんな、徴兵をはねられた年寄りのミュージシャンばかりだったな。僕が2年間もそこでテナーを吹いていられたのは、戦争が進行中で、若い人間がみんな兵隊にとられ、ミュージシャンの数が圧倒的に不足していたからだよ。ただそれだけ。だから僕は今でも自分のことをアーティストだと思うことができないんだ。・・・」
スタン・ゲッツ
 スタン・ゲッツは家が貧しかったこともあり、15歳でミュージシャンとなったため早くから音楽を学ぶことができました。しかし、幼かったがゆえに不安もあり、それが彼をアルコールと薬物の乱用に向かわせたわけです。死ぬまで彼が薬物依存から抜け出すことができなかったのは、あまりに若くから依存症になったためだったともいわれます。

<クール・ジャズ時代>
 1949年、マイルス・デイヴィスが歴史的アルバム「クールの誕生」を発表します。ここから「クール・ジャズ」という名前が生まれることになりますが、ビ・バップの反動とも言われる「クール・ジャズ」とは、アドリブ重視の黒人音楽的な音楽に対して、編曲やアンサンブルを重視するクラシック音楽的な音楽スタイルともいえました。そのため、クール・ジャズの中心的アーティストには白人ミュージシャンも多く、ウディ・ハーマンもその一人でした。スタン・ゲッツは彼が率いる楽団の顔ともいえる存在としてクール・ジャズを象徴するミュージシャンの一人になりました。そして、同じ1949年、彼はウディ・ハーマンの楽団から独立し、初のリーダー作となったアルバム「スタン・ゲッツ・カルテット」を発表します。このアルバムは、クール・ジャズを代表するアルバムの一つとなり、ここから彼の活躍が始まることになります。

<麻薬中毒時代>
 ジャズ界でも一躍その名を知られるようになった彼ですが、その間、多くのジャズ・ミュージシャンと同じように彼もまた麻薬に汚染されてゆきます。1950年代というジャズの黄金時代は残念ながらジャズ界における麻薬の黄金時代でもあったのです。麻薬中毒から脱することができなくなった彼は、1954年、モルヒネ欲しさに薬局を襲おうとして逮捕されてしまいます。薬物治療の専門施設に収容された後、彼はヘロイン中毒で半年間の服役生活を送り、ジャズ界から離れることになります。そのうえ、彼は出所後に訪れた北欧での生活が気に入り、スウェーデンに移住、その間もジャズから離れた生活を送っていました。

<ボサ・ノヴァ時代>
 1961年、アメリカに帰国した彼は、ジャズ界に復帰。アルバム「Focus」(1961年)を発表。スウェーデンでの音楽活動の影響を受け、現代音楽とジャズを融合させた新しい音楽は新たな時代のスタートとなりました。しかし、彼の次なる挑戦は、北欧の音楽ではなく真逆に位置する南半球の国、ブラジルの音楽ボサ・ノヴァとの共演でした。
 1962年、彼は当時ブームになりつつあったボサ・ノヴァに挑戦したアルバム「Jazz Samba」を発表し、話題となります。しかし、それはアメリカのミュージシャンたち(チャーリー・バードら)によるブラジル音楽の模倣と呼ばれたのも事実で、彼はブラジル人ミュージシャン、ルイス・ボンファとの共演作を制作します。そのアルバム「Jazz Samba Encore !」は、やっと高い評価を得ることになりました。
 この年の11月、ニューヨークのカーネギー・ホールで行なわれたブラジル人アーティストたちによるボサ・ノヴァ・コンサートは大きな話題となり、彼はさっそくその中の重要メンバーであるアントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルトとともにアルバムを制作します。こうして、誕生したのが20世紀のポップス史に残る名盤「ゲッツ/ジルベルト Getz/Gilberto」(1963年)です。

<「ゲッツ/ジルベルト」>
 この世紀の名盤の録音は完成した音楽からは想像もできない混沌と対立の中から生まれました。
 ボサ・ノヴァをまだ理解できていなかったスタン・ゲッツに対し、彼と同じようなエゴの塊として有名だったジョアン・ジルベルトは、彼を前にして平気でポルトガル語による悪口を言い始めました。通訳していたジョビンはそれをごまかそうとしますが、ゲッツはすぐにその悪口に気づき現場は険悪な空気になります。録音中も二人の対立は続きましたが、録音終了後のミキシングの際にも、ゲッツのサックスとジョアンのギターの音のレベルについて対立が起きます。
 そんな録音現場の混乱の中、その場にいたジョアンの妻アストラッド・ジルベルトが自分にも歌わせてほしいと言い出します。プロデューサーのクリード・テイラーは、彼女の歌を評価しており、このままではアルバム作りは失敗すると考えてあえて、「イパネマの娘」の録音に参加させます。そのうえ、このアルバム完成後に「イパネマの娘」をシングル・カットする際には、あえてジョアンのヴォーカル部分をカット。5分以上あった曲が4分弱の長さにおさまったともあり、この曲はラジオ番組でさかんにオンエアされ、世界的な大ヒットとなります。

<フュージョン時代>
 「ゲッツ/ジルベルト」により彼は経済的に大きな成功をおさめました。しかし、彼はすぐに新たな道へと進み始めます。新たなバンドをスタートさせた彼は1967年、クールでもボサ・ノヴァでもないアルバム「スィート・レイン Sweet Rain」を発表します。このアルバムにも参加していたピアニストのチック・コリアは、この後1972年にアルバム「リターン・トゥ・フォー・エヴァー」を発表し、一躍フュージョン時代のスターとなります。同じ年、ゲッツは再びチック・コリア、それに同じ「リターン・トゥ・フォー・エヴァー」に参加していたベーシスト、スタンリー・クラークと組み、アルバム「キャプテン・マーベル」を発表。彼もまたフュージョン時代の先駆となりました。

<チェット・ベイカーとの共演>
 彼同様クール・ジャズ時代の人気者だったチェット・ベイカーとは、1950年代に何度も共演していたようですが、ゲッツがチェットのヴォーカルを評価しなかったこともあり、しだいに犬猿の仲と言われるようになります。(最初の共演は1953年ごろのこと)しかし、1983年二人の共演がスウェーデンのストックホルムで実現し、その映像がDVDとして発売もされています。この共演ライブについて、プロモーターのヴィム・ワイト Wim Wigtは、こんなことを言っています。

「ツアーの初めから、ゲッツはチェットに対する軽蔑心をあらわにしていました。特に彼の歌に対して・・・。ゲッツは酒に溺れていて、チェットはヘロインを使用していました。もし、二人が同じものの中毒だったらここまで対立しなかったのかもしれません。ついに、ゲッツは私に対し、俺が降りるか奴を首にするか、どっちかにしてくれと言い出し、私は仕方なく苦渋の決断でチェットを首にしました。・・・・・」

 今では有名な話ですが、ボサ・ノヴァのヴォーカル・スタイルが誕生したのは、ブラジルのミュージシャン(それもジョアン・ジルベルト!)がチェット・ベイカーのヴォーカル・スタイルの影響を受けたせいとも言われています。チェットと犬猿の仲だった彼にとって、その説は許しがたいものだったかもしれません。
 考えてみると、こうしたバンド内での対立というものは、昔は日常茶飯事だったとも言われています。逆に、そうした混沌とした状況の中から傑作が生まれた場合も多々あります。スタン・ゲッツというアーティストは、生涯まわりのミュージシャンたちと対立しながら、それでもなお高い水準の音楽を生み出し続けました。ミュージシャン同士の闘争と調和から生まれる音楽ともいえるジャズ。白人ジャズマンとして調和を重視するクールなジャズからスタートした彼は、いつしかバンドのメンバーと対立することを怖れない、ジャズの王道を行くミュージシャンへと変身を遂げていたのかもしれません。
 このライブにおける二人はまだまだ現役バリバリという感じですが、実はこの後チェットは5年、ゲッツは8年後にはこの世を去ってしまいます。(チェットはホテルの2階から謎の転落死。ゲッツは癌との闘病の末の死でした)

 ちなみに、そのライブでの映像を見ると、二人の生き方、センスの違いがファッションに実に良く出ていることに気づかされます。チェットは青のセーターに青のインナーで実にお洒落。スタイルも細くてかっこいいです。それに対して、ゲッツはというとオジサン体形の上に着ているのは、高そうではあっても田舎くさいチェックの派手な赤いシャツに白のジャケット。なんとも対照的です。お互いが、認め合わないのはこの衣装の違いからも明らかなようです。

<お奨めのアルバム>
「スタン・ゲッツ・カルテット Stan Getz」1949年、50年録音(Pestige)
 初期のクール・ジャズを代表するアルバムであり、バンド・リーダーとして一本立ちした頃の代表作。アル・ヘイグ、トニー・アレス(ピアノ)トミー・ポッター、パーシー・ヒース、ジーン・ラメイ(ベース)ロイ・ヘインズ、ドン・ラモンド、スタン・レヴィ(ドラム)

「ジャズ・アット・ストーリービル Jazz at Storyville」1951年(Roots)
 1951年10月に録音されたライブ・アルバム。LP二枚組みのヴォリュームでクール期を脱却しホットな時代へと移行する時代のサウンド。ライブならではのパワフルかつメロディアスな演奏が楽しめる名盤です。

「ゲッツ/ジルベルト Getz/Gilberto」1963年(Verve)
 ボサ・ノヴァとジャズの融合を果たしたミクスチャー・ポップの傑作。ジャンルの枠を超えポップスの歴史を変えた歴史的名盤。このアルバムの前に発表されたルイス・ボンファとの共演作「ジャズ・サンバ・アンコール Jazz Samba Encore !」もお奨めです。

「スウィート・レイン Sweet Rain」1967年(Verve)
 ボサ・ノヴァ・ブームの後、すぐに始めた新たなメンバーによるバンドによる60年代を代表するアルバム。ピアノのチック・コリアは、この後1972年「リターン・トゥー・フォー・エバー」で一躍フュージョン・ブームの寵児となります。ベースはロン・カーター。フュージョン時代の作品としては、「キャプテン・マーベル」(1972年)もお奨め。 

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページへ