- サザン・ソウル黄金時代とその終焉 -

<アメリカの歴史でもあるスタックス>
 「スタックス・レコード」、サザン・ソウルの最高峰であり、オーティス・レディングというソウル界最高のヴォーカリストを生んだレコード会社。「ワッツタックス」という伝説の黒人音楽イベントを開催したブラック・パワーの象徴的企業。南部ののどかな雰囲気から次々とソウルの名曲を生み出したスタジオが黒人文化の象徴として政治的イベントを開催する先鋭的な企業に変貌してゆき、その後倒産に追い込まれてしまうまで、わずか10数年。1960年代から1976年まで、アメリカ社会の激動の時代と重なったスタックスの歴史は、単なるレコード会社の歴史以上の重みをもっているように思えます。

<スタックス誕生>
 スタックス・レコードの誕生は、1959年アメリカ南部の中心都市メンフィスの銀行で働く白人の姉と弟エステル・アクストンとジム・スチュアートの決断によるものでした。二人はメンフィスの黒人居住区にあった閉鎖された映画館を購入。そこをスタジオとレコード店に改造「ソウルスヴィルUSA」という大きな看板を立てました。スタッフは設立者の二人とギタリストとして活動していたチップス・モーマンの三人。その後、まだ14、5歳だったブッカーT・ジョーンズなどの若者たちがセッションのメンバーとして働くようになりました。スタックスは地元の人気アーティスト、ルーファス・トーマスとその娘カーラのデュエット曲「Cause I Love You」を発売。地元でまずまずのヒットとなります。そして、そのヒットに目をつけたのが、当時R&Bの分野で全国規模の販売網をもつアトランティックによって販売されることになったため、スタジオでは音楽制作に集中することが可能になりました。スタックスは黒人音楽を愛するアトランティックのジェリー・ウェクスラーとの出会いによって、幸福なスタートを切ることができたのです。
 事業が軌道に乗り出したスタックスには営業部門を担当する共同経営者として黒人のアル・ベルが加わります。アーカンソー州のリトルロックでDJをやっていたアル・ベルはメンフィスのラジオ局WLOKに入社し、そこでジム・スチュアートと出会いました。スタックスの音楽が気に入っていた彼は、ジムとジェリー・ウェクスラーからスタックスのレコードを全国に広める手伝いをして欲しいと頼まれ、スタックスに賭けることにしたのでした。
ジェリー・ウェクスラーが認め、アル・ベルが惚れこんだスタックスの音とは、どんな音だったのでしょうか?意外なことに、それはけっして南部の黒人たちが生み出したディープなブラック・ミュージックというわけではありませんでした。

<スタックスの音楽の秘密>
 その秘密はスタックス・サウンドの要となった4人のミュージシャンのバランスにありました。ギターのスティーブ・クロッパーとベースのドナルド”ダック”ダンの二人は白人。ドラムスのアル・ジャクソンとキーボードのブカー・T・ジョーンズが黒人。もちろん、二人の白人には差別意識というものは、まったくなく4人はあるセッションをきっかけとしてブッカー・TとMG’sというバンドを結成することになります。(ちなみに「MG’s」とはメンフィス・グループの略です)
 彼らの生み出す音は、ブルースとジャズにカントリーと少々のロックン・ロールを加えたアメリカ南部独特のミクスチャー・サウンドでした。泥臭すぎず、ポップすぎず、ブルースの重さとファンキーさ、それとカントリーののどかさを適度に兼ね備えた絶妙のブレンドがスタックスが生み出したサザン・ソウルだったといえます。その象徴のひとつが1962年に4人がMG’sとして発表した「グリーン・オニオン Grenn Onion」でした。この曲は4人がライブで演奏するのに良いだろうと軽い気持ちで録音したのですがインストロメンタル・ナンバーにも関わらず大ヒットとなり、一躍MG’sとスタックスの知名度は全国区となります。スタックスからは、このMG’sが生み出す優れた音楽をバックに、ルーファス&カーラ・トーマス、サム&デイブ、エディー・フロイド、そしてソウル界最高のヴォーカリスト、オーティス・レディングらが次々にヒットを放ち始めます。

<アトランティックとの共同作業>
 スタックスがこうして業界で注目を集めるようになると、その優れた音を取り入れようとする動きも当然出てきます。なかでも、当時R&Bの世界でモータウンと競い合っていたアトランティック・レコードはいち早くスタックスの音に注目。その経営者のひとりジェリー・ウェクスラーは、ニューヨークから自らアーティストを連れてスタックスを訪れ、そこで録音を行い始めます。
 「Sweet Soul Music」のヒットで有名なソロ・シンガーのドン・コヴェイは、当時伸び悩んでおり、スタックスでMG’sのバックを得ることで、一躍オーティス・レディングの後継者といわれるようになります。同じように、実力はありながらいまひとつ大ヒットが出ていなかったウィルソン・ピケットは、スティーブ・クロッパーとの共作曲「イン・ザ・ミッドナイト・アワー In The Midnight Hour」を録音。その大ヒットをきっかけとして一躍R&B界を代表するアーティストになり、黄金時代を築いてゆくことになります。
 ところが、こうしたアトランティックとの共同作業は、ニューヨーカーと南部人との違いや音楽に対する姿勢の違い、さらには親会社、子会社との関係からくる軋轢によって、しだいに上手くゆかなくなります。スタックスのスタジオ・ミュージシャンたちは、アトランティックの録音のために忙しく働かせることになり、それまでののんびりとした仕事にニューヨーク式のビジネスが取って代わることになりました。こうした変化は、スタックスのミュージシャンたちにとって、自分たちの音楽から「スタックスのノウ・ハウ」が奪われてゆく感覚をもたらしたのでしょう。ついには、スタックスのオーナー、ジム・スチュアートは「アトランティックのアーティストは今後、スタックスで録音させない」と宣言してしまいます。
 良好だったジェリー・ウェクスラーとの関係は、この後完全に切れてしまいますが、それでもスタックスとアトランティックの企業としての関係は、その後も続くことになります。しかし、1967年、その関係もアトランティックがワーナー・セブンアーツに身売りしてしまったため、さらに複雑なものになります。1968年には、そのワーナーがキニー・コーポレーションという音楽業界とはまったく関わりのない企業に買収され、さらにキニーがスタックスも買収するという交渉が始まります。アトランティックはスタックスとの関係を維持しようとキニーによる買収を受け入れるよう説得しますが、アトランティックに不信感を抱いていたスタックスの首脳陣はキニーによる買収を拒否。あえて別の企業、ガルフ&ウエスタンに身売りしてしまいます。(この時、ガルフ&ウエスタンは、すでにABC=パラマウント・レコードを買収し、レコード業界進出を果たしていました)この時、スタックスが身売りしなければならなかったのには、いくつかの理由がありました。
 ひとつには、アトランティック・レコードからの独立を果たすため、契約問題からスタックスの主力アーティストのひとつサム&デイブがアトランティックに移籍してしまいました。さらに1967年12月、スタックスの屋台骨的存在だったオーティス・レディングがツアーのバックを勤めていたバーケイズのメンバー4人とともに飛行機事故でこの世を去ってしまいました。こうして、スタックスは収益の柱となっていたアーティストたちを次々に失い、経営状態が一気に厳しくなって行きました。
 さらに大きかったのは、スタックス社内の内紛でした。

<公正委員会とスタックスの内紛>
 スタックスで起きた内紛は社内に混乱をもたらしただけでなく、スタックス・サウンドの要だったMG’sのスティーブ・クロッパーを失うという結果をももたらします。そして、その内紛の原因は、社内における人種対立でした。
 1970年代は、1960年代末に展開された公民権運動の成果として、人種間の平等が法律によって義務づけられた時代でもありました。しかし、こうした時代の流れは、多くの黒人にチャンスをもたらすと同時に、それを利用してヤクザまがいの行為を働く者たちを生み出すことにもなりました。そのひとつがスタックスの経営者たちを、一時は影で操ることになったと言われる存在、俗に「公正委員会」と呼ばれていた組織です。あやしげな黒人たちで構成された彼らの主張はこうでした。
「黒人音楽を利用することで多額の利益をあげている企業の経営陣は黒人中心あるべきだし、白人と黒人の給料も当然平等でなければならず、スタッフとして活躍できるチャンスもまた平等に与えられなければならない」
 その主張は論理的にはもっともな部分も多かったのですが、それぞれの能力や経験のあるなしなどを無視した彼らの主張が社内規定として適用されるとすぐにその悪影響が出始めました。特に白人スタッフにとっては、それまで仲良くやっていた黒人たちから逆に差別されることになり、急に居心地が悪くなりました。スティーブ・クロッパーは自分がまるで悪者のように扱われだしたことに耐え切れずスタックスを辞めていったのです。創設者のジム・スチュアートもまたこうした社内の変化に嫌気がさし、その経営を途中から経営陣に加わった黒人のアル・ベルに任せるようになります。次々に創設時の優秀なスタッフを失ったスタックスは当然、その経営状況が悪化し、ついには身売りを決断せざるをえなくなったのでした。

<最後の祭典「ワッツタックス」>
 怪しげな黒人組織「公正委員会」に操られたスタックスは、周りの白人社会、企業から疎ましい存在と思われるようになり、「スタックス」潰しの動きが起きる中、かろうじて身売りすることで危機を逃れました。その後も当然、環境は厳しかったのですが、ソウル・ブームのまっただ中にあったスタックスは、そう簡単にダメにならず、逆にその勢いを増してゆきました。
 ブッカー・T&MG’s,エディー・フロイド、カーラ・トーマス、ジョニー・テイラーなど、残ったメンバーの活躍により、スタックスは見事に息を吹き返します。さらに黒人プロデューサー、アイザック・ヘイズがアルバム「ホット・バタード・ソウル」を発表すると見事に大ヒット。さらに映画「黒いジャガー Shaft」ではアカデミー主題歌賞を受賞、一躍大スターの地位を獲得、社内での大きな権限を獲得します。おまけに公正委員会のメンバーとして、スタックスの経営にまで参加するようになっていたジョニー・ベイラーは後に大スターtなるルーサー・イングラムを発掘。彼の「If Loving You Long I Don't Want to be Wright」が大ヒットしたことで、さらにベイラーの立場は強まり、しだいにスタックス社内は過激な黒人たちによって牛耳られることになります。
 そんな状況下、1972年にスタックスは伝説的音楽イベント「ワッツタックス Wattstax」を企画・開催します。それは、スタックスのトップの座に着いたアル・ベルのアイデアによるものでした。彼はメンフィスのラジオ局で働きだす以前、マーティン・ルーサー・キング牧師が設立した南部キリスト教指導者会議の指導者養成講座え学んだ経験がありました。
 そして、この頃、同じようにキング牧師の下で学んでいた若者の中にキング牧師亡き後、黒人指導者たちのトップに立つことになるジェシー・ジャクソンもいました。(1984年、彼はアメリカの大統領選挙に出馬し、大いに善戦することになります)お互いに顔見知りだったこともあり、二人は早くから共闘関係を結んでおり、それが1965年にロサンゼルスのワッツ地区で起きたアメリカ史に残る大暴動を記念するという極めて政治的な音楽イベントを開催するきっかけになったのでした。もちろん、それは「公正委員会」がやりたかったイベントでもありました。
 「ロック・ムービー・クロニクル」(音楽出版社)の中で、「ワッツタックス」はわかりやすくいえば、黒人版「ウッドストック」であると書かれていました。確かにそうかもしれません。
 1972年8月20日、1965年に起きたワッツ暴動を記念することを目的にLAのロサンゼルス・コロシアムで行われた屋外ライブ。それが「ワッツタックス」でした。当時黒人音楽の世界で最大のパワーをもっていたスタックスと政治活動家のジェシー・ジャクソンが黒人貧困層を救済するためのチャリティーを目的に企画しました。入場料はわずか1ドルで当日は10万人の観客が6時間に及ぶコンサートに熱狂しました。当然、出演アーティストはスタックスのオールスターなので豪華な顔ぶれです。
 アイザック・ヘイズ、ステイプル・シンガース、ジョニー・テイラー、キム・ウェストン、バーケイズ、エディ・フロイド、カーラ&ルーファス・トーマス、アルバート・キング、ルーサー・イングラム、リトル・ミルトン・・・それにジェシー・ジャクソンも登場します。当時のスタックスの層の厚さに驚かされます。このイベントも大成功させたスタックスはモータウンをも追い越し、いよいよ向かう所敵なしのように思えました。ところが、この時すでにスタックスの経営状態は危険水域に達していました。確かにスタックスは巨額の収益をあげていたものの、それ以上の金額を音楽以外の事業に注ぎ込んでおり、それがけっして上手くいってはいなかったのです。特に出版業やスポーツ用具製造(バスケットボールなど)、それに映画部門などには多額の費用をかけており、まさにバブルがはじけかける状況にありました。
 そして、もう一つ重要なことは、スタックスが黒人企業として大成功していたことを許せない白人たちが全米に数多く存在していたことです。1975年、アル・ベルがユニオン・プランターズ・ナショナル銀行の幹部と共謀して不正な銀行融資を受け、その一部を着服したとして起訴されます。結局、彼は無罪とされますが、その間に社会的信用を失ったスタックスの経営状況は急激に悪化。1976年には倒産に追い込まれてしまいました。この時、スタックスは黒人企業であるがゆえに捜査当局や金融業界に狙い撃ちされたのではないか、ともいわれています。結局、スタックスは倒産後、白人経営の銀行によって乗っ取られることになりました。

<スタック時代の終焉>
 人種差別とは無縁ののどかな雰囲気の中で生み出されたスタックスのサザン・ソウルは人種の壁を越えて愛されました。しかし、スタックスは成功しすぎたがゆえに、そうした初期の雰囲気を失わざるをえませんでした。そして、成功者が陥るさらなる成功への渇望がついには、その内部崩壊をもまねくことになったのかもしれません。1960年代に繰り広げられた公民権運動は一定の成果をあげましたが、法的権利を得ても現状を変えられなかった黒人たちの怒りは、より先鋭化。黒人としてのプライドを取り戻した人々は、その意思を音楽やファッション、映画によって表わし、その集大成として「ワッツタックス」という記念碑的イベントが誕生したのでしょう。それはアフロ・アメリカンとしての誇りを示す「ソウル・ミュージック」という音楽にとって、最後で最大の集会となりました。
 1976年、スタックスの崩壊とともに「ソウル」の時代は終わりを迎え、熱く燃えた公民権運動の時代もまたついに終わりの時を迎えたのでした。

<締めのお言葉>
「・・・スタックスのやり方は、こうなんだ。どんなことでもいいから、感じたことを演奏する。ホーンもリズムも歌も、全部一緒に録音する。3回か4回やった後、聞きなおしてみて一番できのいいのを選ぶ。誰か気に入らないところがあったら、また全員でスタジオに戻って曲の最初から最後まで演奏しなおす」

オーティス・レディング

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