- スティーリー・ダン Steely Dan -

<ホワイト・ジャズ・ファンク・バンド>
 久しぶりに、スティーリー・ダンのアルバムを聴いてみて驚きました。彼らの音楽は、どう聴いても「ジャズ・ファンク」だったということに、今更ながら気がついたのです。考えてみると、彼らの音楽を聞き始めた頃の僕は、ちゃんとジャズを聴いたことがありませんでした。当然、ジャズ的なニュアンスなど分かるはずもなかったのです。そう思って聴いてみると、レゲエ・ナンバーの「バビロン・シスター」も、「ジャズ・レゲエ」に聞こえてきました。改めて調べてみると、彼らは、バンドの設立当初からジャズ指向のロック・バンドであり、レゲエやR&Bなどいろいろなリズムを取り入れつつも、基本的にはまったく変わらないスタイルで音楽を作り続けてきたと言えることがわかります。ただ、彼らは他のどのバンドよりも、作品の完成度を高めることに貪欲だったため、エイリアンのように状況に応じて変身できるスタイルをとり、バンドとしての形態を捨てて行きました。それは、今では珍しくないことですが、当時はまさに画期的なことでした。
<スティーリー・ダン誕生>
 スティーリー・ダンの中心となる二人組、ドナルド・フェイゲン(Key,Vo)とウォルター・ベッカー(Bass,Vo)は、元々大のジャズ・ファンでした。ニューヨークの大学に在学している時から、ソングライター・コンビとして活動していた二人は、バンドよりも、ソングライターとして生活することを望んでいたようです。彼らのバンド活動は、元々自分たちの曲のプロモーションのために始めたとも言えます。(だから、彼らは「バンド」としての活動にこだわらなかったのです!)そんな彼らの初仕事は映画音楽でした。1969年の作品”You Gotta Walk It”のサウンド・トラックの録音に、ギターのダニー・ディアスとともに参加。ここから、スティーリー・ダンの歴史が始まりました。

<スティーリー・ダン完成から分裂へ>
 初仕事の録音の時、彼らはその後ずっと彼らの面倒をみることになるプロデューサー、ゲーリー・カッツと出会いました。彼らのことを気に入ったG.カッツは、ロスに連れて行き、ダンヒル・レコードとソングライター契約をさせ、さらに、イースト・コーストからジェフ・バクスター(Gui)、ジム・ホッダー(Drs)、デヴィッド・パーマー(Vo)の3人を呼び寄せ、本格的にバンドとしての活動を開始しました。そして、1972年デビュー・アルバム"Can't Buy A Thrill" を発表、シングル"Do It Again" のヒットで一躍その名は全米に知られるようになりました。しかし、その時点で、ヴォーカルのデヴィッド・パーマーは脱退し、3枚目のアルバム「プリッツェル・ロジック」(大ヒット曲「リキの電話番号」収録)の発表後、バンドは分裂状態に陥ってしまいます。それは、スタジオ・ワークを重視するドナルド・フェイゲン、ウォルター・ベッカーの2人とライブ活動にあくまでこだわる他のメンバーとの衝突が原因でした。

<ドゥービー・ブラザースのスティーリー・ダン化現象>
 この分裂で、ジェフ・バクスター、マイケル・マクドナルドはドゥービー・ブラザースへと移籍しますが、彼らは移籍先のドゥービー・ブラザースを、まるでスティーリー・ダンの兄弟バンドのようにジャズ・ファンク系のバンドに変えてしまいます。そして"Takin' It To The Street""Minute By Minute"などの傑作アルバムを発表して行くことになります。(ただし、僕個人としては、"Captain And Me"「スタンピート」のころの泥臭い雰囲気の頃の方が好きなのですが)
 なおこのスティーリー・ダン化現象は、その後も世界各地に拡がりをみせ、1990年代には日本でもキリンジという兄弟ユニットが現れています。

<2人だけのスティーリー・ダン>
 こうして、最終的にスティーリー・ダンは2人だけのプロジェクト的な存在となってしまいました。そして、1975年「うそつきケティ」では、リック・デリンジャーウィルトン・フェルダー、1976年の「幻想の摩天楼」では、前作に続いてラリー・カールトンチャック・レイニーなど優れたスタジオ・ミュージシャンたちを起用してアルバム制作を行っていくようになります。そして、1979年の「彩 エイジャ」では、リー・リトナージェイ・グレイドンスティーブ・カーンジョー・サンプルスティーブ・ガッドジム・ケルトナートム・スコットウェイン・ショーターなど、曲ごとにスタジオ・ミュージシャンを使い分ける世界一贅沢なアルバム作りを行うバンドになっていました。

<フュージョン黄金時代>
 スティーリー・ダンの究極のジャズ・ファンクを支えた豪華なスタジオ・ミュージシャンたちの活躍は、同時にこの時代に一世を風靡したフュージョン・サウンドの活況でもありました。スタッフ、クルセイダース、ジョージ・ベンソン、アール・クルー、ウェザー・リポートなどフュージョン系のアーテイストたちが、次々にヒット・チャートにアルバムを送り込んだこの時代は、これら優れたミュージシャンたちにとって、まさに黄金時代だったと言えるでしょう。

<その後のステイーリー・ダン>
 その後、彼らは1980年に「ガウチョ」を発表し、その活動を休止しますが、ソロとなったドナルド・フェイゲンは1982年に「ナイト・フライ」1993年に「カマキリアッド」など、スティーリー・ダンの延長線上に立った名作を発表し続けます。その基本は、曲はジャズ・ファンク、歌詞はアメリカ文明の頽廃と不気味な未来の寓話がテーマと云っていいかもしれません。
 彼らの作品の完成度は、発表するごとに、参加ミュージシャンの数を増やすごとに上がっていったと言えるかもしれません。しかし、だからといって、初期の「プリッツェル・ロジック」と最高傑作と云われる「彩 エイジャ」、今聴いてどちらが魅力的か?となると、それはまた難しい問題です。完成度が高ければ魅力的かというと、けっしてそうではないのがポピュラー音楽の面白いところです。まして、ロックという音楽は、元々「ノイズへのあこがれ」もしくは「意外性の面白さの発見」でもあるはずですから。

<おまけ>
 1970年代にテレビで「ミッドナイト・スペシャル」という番組をやっていたのを覚えてますか?たしか「ソウル・トレイン」「トム・ジョーンズ・ショー」と何回かづつ交互に放映していたはず。司会はヘレン・レディーで、毎回ゲストのミュージシャンが来て、ミニ・ライブを行う番組でした。特に、ビリー・ジョエルが「ピアノ・マン」を熱唱していたのは、けっこう印象に残っているのですが、最初のヴォーカリスト、デヴィッド・パーマーがいた頃の初期のスティーリー・ダンが出演した時のことも、けっこう印象に残っています。この頃の彼らは、衣装といい音楽性といい、正統派ウェスト・コースト・ロック・バンドという感じでした。

<締めのお言葉>
「G.N.M.ティレルは、論理的にいくら詰めてみても解決できない問題とできる問題を区別して、前者を「拡散する問題」、後者を「収れんするする問題」と名付けた。人生を形づくっているのは「拡散する問題」で、収れんする問題はこれとは逆で、たいへん役に立つ人間の創作である。…
 物理学や数学が取り扱うのは収れんする問題だけである。だからこそ、これらの学問では進歩の積み上げが可能で、新しい世代が次々に先人たちの仕事を引き継いで進められるわけである。けれども、この進歩の代価は高い。収れんしている問題だけを相手にしていると、人生には近づけず、むしろ人生から遠ざかってしまうからである」

E.F.シューマッハー「スモール・イズ・ビューティフル」

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