少年のように繊細な伝説のアクション俳優


- スティーヴ・マックイーン Steve McQueen -
<70年代最高のアクションスター>
 「大脱走」、「ブリット」、「ゲッタウェイ」などの大ヒット作で活躍したスティーヴ・マックイーンな、70年代最高のアクションスターでした。
 いま改めて振り返ると、彼ほどクールな演技をするハリウッドのアクション・スターはいませんでした。
 あの有名な名門演劇学校アクターズ・スタジオの入試において、2000名の応募者から選ばれた5名の一人だったことは、そんな彼の演技力を証明しています。
 しかし、優れた俳優であると同時に彼は、誰よりも車やバイクが好きなスピード狂でもありました。
 どんな危険な役もスタントなしでやってしまう怖いもの知らずの生き方は、自らの役柄を新たな方向へと広げることにもなります。
 アクション映画以外への挑戦、そして成功と失敗はその結果でした。
 子供がそのまま大人になってしまったような繊細かつ冒険好きなアクションスター、スティーヴ・マックイーンに迫ります。

<不幸な生い立ち>
 スティーヴ・マックイーン Steve McQueenは、1930年3月24日ミズーリ州スレーターに生まれました。父親は、映画「華麗なるヒコーキ野郎」に出てくるような曲芸飛行機のパイロットでしたが、彼が6歳との時に家を出て帰ってきませんでした。彼の命知らずの血は、彼と母親を捨てた父親から受継いだものかもしれません。
 彼と共に夫に捨てられたマックイーンの母親は当時まだ19歳。その若さでは働きながら彼を育てることができなかったので、彼女は息子を親戚の家に預けて働きに出ます。こうして農家を営む叔父さんの家に預けられた彼は、その家で比較的幸せな少年時代を過ごしました。
 12歳の時、母親が再婚し、靴屋を営んでいた新しい父親と暮らすようになりますが、彼はその父親とは上手く行きませんでした。
 14歳の時、家出をした彼はロサンゼルスに向かい、そこで悪事を働いて何度も逮捕され、ついにはカリフォルニア州チノの少年院に入れられます。彼はそこから何度も脱走を試みましたが、そのたびに連れ戻され、結局そこで中学までを卒業しました。彼が後に出演する「大脱走」でのリアリティーはこの当時の経験から来ているかもしれません。
 16歳の時、施設を出た彼は、そのまま放浪の旅に出発。船乗りになったり、油田労働者として働きながらアメリカ各地を旅して回りました。この後、彼は海兵隊に入隊しますが、そこでも反抗的な兵士として問題を起こし、無許可外出で一か月以上監禁されるなどしています。組織になじめない彼の反体制的な体験もまた「大脱走」や「砲艦サンパブロ」を思い出させるエピソードです。
 1950年、20歳になった彼は、除隊後ニューヨークに出てアートの街グリニッジビレッジに住み始めます。そこで彼は、当時付き合っていた彼女に薦められ、俳優を目指すことになりました。そして、テレビの修理工などしながら、ネイバーフッド・プレイハウスなどで演技を学び始めます。狭き門をくぐりぬけて見事に入学した名門アクターズ・スタジオで本格的に演技を学んだ彼は、1956年ボクシング映画の名作「傷だらけの栄光」にちょい役で出演し、その時に主演だったポール・ニューマンを目標に俳優の道を歩み始めます。
 ちょうどこの頃、彼と同じように俳優を目指していた女優ニール・アダムスと出会った彼は彼女と恋に落ち結婚することになりました。繊細で気難しい彼を母親のように受け入れ、的確な助言を与えてくれ、子育てもしてくれた彼女は、俳優マックイーンにとってなくてならない存在となりました。

<スターへの道>
 1958年、彼は西部劇のテレビの連続ドラマ「拳銃無宿」で、ならず者の賞金稼ぎという異色の主人公を演じ人気を獲得します。
 テレビでの彼の演技を見た巨匠ジョン・スタージェスにより、彼は戦争映画「戦雲」に出演。主演のフランク・シナトラにも気に入られ、そこから映画界での活躍がスタートします。
 1960年、再びジョン・スタージェスに呼ばれた彼は、大ヒットした「荒野の七人」に出演。クールな参謀役として主役のユル・ブリンナーを食う名演を見せました。
 ただしこの間、彼のスピード狂ぶりはいよいよ本格的になり、撮影の合間にバイクやサンド・バギーを乗り回し、スタッフをはらはらさせていました。
 1963年、これもまたジョン・スタージェスの傑作となった戦争超大作「大脱走」に彼は出演。この映画で彼が見せたオープニングとラストでの独房でのキャッチボールとバイクでの逃走は、映画史に残る名場面となりました。そのバイクでの逃走シーンで、彼はスタントなしで自らバイクに乗っており、いよいよ怖いもの知らずの本領を発揮しています。こうしてアクション・スターとして、頂点を極めた彼は次なる挑戦を開始します。
 1963年、「マンハッタン物語」は、ニューヨークの街を舞台にした大人の恋愛映画。この作品で彼は「ウエスト・サイド・ストーリー」(1961年)で大スターとなったナタリー・ウッドと共演。
 1965年、「シンシナティ・キッド」では、新進気鋭の映画監督ノーマン・ジュイソンのもと、凄腕の若手ポーカー賭博師を演じました。トランプをしながらの繊細な演技を求められる役柄と大御所エドワード・G・ロビンソンとの共演ということで、彼にとってかなりストレスをためこむ撮影だったといいます。若手の監督ノーマン・ジュイソンにはわがままを連発して困らせながら、大御所俳優の前ではうつむいて言葉も出ない状態の彼でした。
 1966年、巨匠ロバート・ワイズが監督した「砲艦サンパブロ」で彼は監督にわがままを連発し、ついには温厚な監督を怒らせてしまいました。ショックを受けたマックイーンは、それから3日間監督に声をかけず、黙り込んだままでした。彼の要求は、確かにわがままが多かったようですが、それは彼の演技に対する情熱の現れでもありました。彼は自分の演技について、こう語っていたそうです。
「僕にとって演技とは、自分の胃から硝子の破片を吐き出すようなものなんだ」

 憎たらしい要求をしたり、撮影のスケジュールを無視したりと問題児だったマックイーンでしたが、それでも巨匠たちが彼を使ったのは、そんな彼が憎めないキャラクターの持ち主だったからのようでもあります。それでも自分に自信を持てるようになった彼は、自らの製作会社ソーラ・プロダクションを設立。自らの出演作により深く関わるようになります。

<さらなる進化を目指して>
 1967年、「華麗なる賭け」で再びノーマン・ジュイスン監督と組んだ彼ですが、当初主人公役は彼ではなくケーリー・グラントかショーン・コネリーの予定でした。なぜなら主人公は、上流階級出身の資産家で、いつものマックイーンの役柄とは真逆なタイプだったからです。しかし、彼はだからこそその役を演じたいと監督に直訴。映画の中のポロのシーンのため、本格的にポロを練習し、自分でその場面を演じるまでになりました。
 1968年、ピーター・イエーツ監督の「ブリット」は、カーチェイス映画の聖典的作品となりましたが、ここでのカーチェイスシーンはさすがにマックイーンの運転ではありません。しかし、彼のこだわりのせいもあり、この作品は大幅に予算をオーバー。ワーナー・ブラザースは、ソーラ・プロダクションとの6作品の契約を破棄してしまいます。
 1970年、「栄光のル・マン」は、ジョン・スタージェスを監督に迎え、ル・マン24時間耐久レースを舞台にした本格的なレース映画でした。しかし、レースを背景にしたエンターテイメント作品にしたい映画会社に対し、マックイーンはドキュメンタリー・タッチのリアルなレース映画にしたかったため、意見が対立。結果、中途半端な作品に仕上がってしまい興行的に大失敗となりました。この結果にショックを受けたマックイーンは、しばらくカーレースへの参加をやめてしまいました。
 時代は1970年代初め、映画界だけでなく世界は大きく変化しつつありました。ヒッピームーブメントは社会を大きく変えましたが、もう若者ではなかったマックイーンはそんな変化には乗れず、ニューシネマの傑作に出演することもありませんでした。そうしたストレスもあったのか、彼はこの時期に、それまで支えてくれた愛妻ニール・アダムスと離婚します。
 1971年、彼は再び走り出します。バイクレーサーを主人公にした映画「栄光のライダー」に出演し、自らバイクに乗って迫力満点の作品を生み出しました。興行的にもこちらは上手く行き、彼は再び勢いを取り戻します。
 1972年、彼は70年代を代表するアクション映画の巨匠サム・ペキンパーの代表作の一つ「ゲッタウェイ」に出演。クールでストイックなそれまでにないキャラクターを持つ銀行強盗を演じ、ファンを喜ばせました。作品的にも「ゲッタウェイ」は、それまでにない犯罪者が逃げ延びるという掟破りの結末も大きな話題となりました。さらには、この作品で共演した女優アリ・マックグローと彼は恋に落ち、その後、二度目の結婚をすることになります。
 1973年、フランクリン・J・シャフナー監督の「パピヨン」に出演。この作品はほとんどアクション・シーンはなく、名優ダスティン・ホフマンとの演技対決が見せ場となりました。

<映画界の頂点から>
 1974年、彼はオールスター・キャストがそろった当時最大の製作費をつぎ込んだパニック映画の超大作「タワーリング・インフェルノ」に出演します。この映画には多くのスターが出演しましたが、その中で彼はポール・ニューマンと共にキャストのトップとして名前が画面に登場しています。かつて「傷だらけの栄光」に出演した際、彼が目標と定めた俳優にここでついに追いついたのでした。
 ハリウッド俳優の頂点に立ったことで、彼は目標を見失ってしまったのかここからしばらく彼は俳優として迷走し始めます。巨匠フランシス・F・コッポラからの「地獄も黙示録」への出演オファーを断わるなど、彼はしばらく映画に出演せず、少年院への慰問活動などをしながら。自分を見つめ直します。
 1978年の「民衆の敵」は、彼が企画段階から関わった作品でした。監督はジョージ・シェーファーでイプセンの戯曲を基にした社会派の作品です。環境汚染の問題をいち早く扱った先駆的な作品をアーサー・ミラーが翻訳した作品で、彼はマックイーンと認識できないような髭面で太った中年の医師を演じています。この時期、彼はアリ・マックグローと離婚しており、新たなスタートとして記念すべき作品となるはずでした。ところが完成した作品への評価はさんざんで、一部の劇場限定で公開されたもののまったくヒットせず、ワーナーはすぐに公開を中止。幻の映画となってしまいました。
 その後、彼は原点に戻り、西部劇の「トム・ホーン」(1980年)、犯罪アクションの「ハンター」(1980年)に出演します。そして彼はバーバラ・ミンディと3度目の結婚をしましたが、その頃すでに肺に異常があり、中皮腫に冒されていることがわかります。病状は一気に悪化し、その年の11月7日にまだ50歳の若さでこの世を去ってしまいました。
 子供がそのまま大人になったような俳優スティーヴ・マックイーンは、我ままでスピード好きで危険を恐れない挑戦者でした。そんな彼に振り回された周囲や家族は大変でしたが、その葬儀には別れた妻3人も出席。死してなお彼は多くの人に愛されていたようです。そしてもちろん、僕も含めた映画ファンにも愛され続けています。

「・・・彼はいつも生身の人間に見えたけれども、それはいつも自分自身を演じていたからだと思うね。自分のセリフを一行削られようと、そんなことは気にしなかった。カメラが自分をとらえてさえいれば、幸せだったんだ。映画とはヴィジュアルなメディアだということを、よく理解していたんだな」
ノーマン・ジュイソン

 彼は映画はできるだけセリフを削り、映像だけで見せるべきという信念を持っていました。それがあのクールでストイックでありながら怖いもの知らずなマックイーンならではのキャラクターを生み出したと言えそうです。

<参考>
ドキュメンタリー「想い出のスティーヴ・マックイーン」 1986年
(監)(製)ジーン・フェルドマン
(製)ロン・デヴィリヤー、ブライアン・ドネガン
(編)レスリー・ムルキー
(撮)リチャード・ファンシス
(出)スティーヴ・マックイーン、カール・マルデン、ノーマン・ジュイソン、ロバート・ワイズ、チャック・ノリス、シェリー・ウィンタース

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