「欲望という名の電車  A Streetcar Named Desire」 1951年

- エリア・カザン Elia Kazan、テネシー・ウィリアムズ Tennessee Williams、マーロン・ブランド Marlon Brando -
- アレックス・ノース Alex North -

<3人の天才>
 傑作といわれる映画には、必ずその魅力を生み出した貢献者が存在するものです。それは時に主人公を演じる俳優の場合もあるし、映画の最高責任者である監督だったり、たまには永遠のメロディーを生み出した作曲の場合もあるでしょう。ただし、時代を越えて永遠に語り継がれる名作となるとその貢献者は一人だけではないはずです。
 「第三の男」ならば、監督のキャロル・リード、原作者のグレアム・グリーン、「第三の男」を演じたオーソン・ウェルズ、そして、忘れられないメロディーを生み出したアントン・カラス、それぞれが最高のパフォーマンスを発揮したからこそ映画史に残る傑作になったのです。
 そして、この作品についても、監督のエリア・カザン、原作者のテネシー・ウィリアムズ、主役のマーロン・ブランド、3人の天才がそれぞれエネルギーにあふれていた時期だったからこそ、歴史的な名作となりえたのです。(もうひとりヴィヴィアン・リーの魅力も忘れられません)
<テネシー・ウィリアムズ>
 セックスと暴力と精神的な病、当時ほとんど取り上げられることのなかった重いテーマを真正面から取り上げたテネシー・ウィリアムズ Tennessee Williamsこそ、先ずはこの作品の原点です。特にこの作品の場合、彼自身の少年時代の悲惨な体験がドラマのもとになっているだけにそのリアルさにはずっしりと重いものがあります。
 アメリカ南部ミシシッピー州生まれの彼の父親は、酒と博打そして女にお金を使いまくる最悪の人物でした。牧師の娘だった母親は、そんな夫の存在が重荷となり、彼の姉ローズに愛情を過剰に注ぎ込みます。ところが、こんどはその重さに耐え切れなくなったのか、ローズもまた重度の統合失調症となってしまいました。そんな最悪の父親から離れ、祖父の牧師館で育てられた彼もそうした家庭環境の影響か、それとも生得のものか、早くから自分が同性愛者であることを自覚していました。
 父親にそのことを知られ居場所を失った彼は早くに家を出て働くようになり、貧しい生活をしながら舞台の台本を書き続け、やっと「ガラスの動物園」によって演劇界で名の知られる存在になったところでした。そんな彼の苦しみから生まれたともいえる戯曲「欲望という名の電車」を書き上げた彼は舞台の演出家としてその名を知られつつあったエリア・カザンに演出を依頼するため、自ら彼あてに手紙を書いていたといいます。彼は自分の台本のもつ繊細な魅力とは別にこの作品を上演するには男っぽい荒々しい演出が必要であることを自覚しており、エリア・カザンなら、そうした力強い舞台作りが可能だと考えたのです。
 こうして、「欲望という名の電車」は、あまりに繊細な作家のもとから、もう一人の天才エリア・カザンのもとへと動き出したのでした。 

<エリア・カザン>
 この当時、エリア・カザンは37歳。トルコのイスタンブールで生まれた彼はギリシャ系トルコ人というトルコでは差別される立場の住民として育ちました。しかし、経済的には恵まれていた彼の家族はアメリカへと移住。そんな移民の子として育てられた彼もまた、テネシー・ウィリアムズが常に社会から孤立した立場にあったのと似た境遇にありました。経済的には余裕があった彼はマサチューセッツ州のウィリアムズ大学に入学。しかし、彼は上流階級の子供たちばかりの学内でまったく友人をつくることができませんでした。ギリシャ系トルコ人という見た目でも差別されていることを思い知らされた彼は、自由の国アメリカに存在する差別の構造に衝撃を受け、そこからはい上がるために演劇の道を選びました。彼は厳しい社会を生き延びるために、手段を選ばず生き抜くことを決意します。
 彼が「赤狩り」の際、共産主義者の摘発に協力することになるのも、こうした複雑な背景があったからのようです。しかし、そうした彼の苦渋の人生こそが多くの名作を生み出す最大の理由だったのかもしれません。

 「波止場」のマーロン・ブランド、「エデンの東」のジェームス・ディーン、「群集の中の一つの顔」のアンディ・グリフィス、「草原の輝き」のナタリー・ウッドとウェーレン・ビーティ、「アメリカ アメリカ」のギリシャ人青年たち・・・、カザンはひたすら、現実社会の入口で立ちどまり、口ごもる、表情の暗い青年たちを描き続けた。おそらくそうすることで彼は、つねに自分をあの時の苦悩のなかに追い込んでいった。
川本三郎「映画の戦後」より

「カザンは反動的な作家である。自由をうばわれた、袋の中のネズミである。とくにカザンをそう云い切ることができるのは、反動期を意識することが出来ない作家がハリウッドには山ほどいるからだ。だが少なくとも、彼は自分が自由ではないこと、袋の中に投げ込まれていることを知っている。自分をとりまく歴史の反動性を知っている」
岡田晋「エリア・カザン論」(キネマ旬報1957年11月号)

 イエール大学のドラマ・スクールに入った彼は、そこで小道具作り、照明などの雑用を熱心にこなし、舞台前に必要なことすべてを身につけてゆきました。
 その後、左翼系で前衛的な演劇集団「グループ・シアター」に参加した後は、そこで後に共同でアクターズ・スタジオを開設するリー・ストラスバーグのもと、彼の提唱するスタニフラフスキーの演技手法を身につけ舞台の演出家として活躍をし始めます。
 そして、1941年ソーントン・ワイルダー原作の「危機を逃れて」では、フレドリック・マーチやまだ無名のモンゴメリー・クリフトを演出し大成功を収めました。一躍有名になった彼のもとには次々と舞台演出の依頼がきただけでなくハリウッドからは映画の企画ももちこまれます。

「ブルックリン横丁 A Tree Grows In Brooklin」 1945年
(監)エリア・カザン(製)ルイス・D・ライトン(原)ベティ・スミス(脚)テス・スレシンジャー、フランク・デイヴィス(撮)レオン・シャムロイ(助監)ニコラス・レイ(音)アルフレッド・ニューマン
(出)ペギー・アン・ガーナー、ジェームズ・ダン(アカデミー助演男優賞)、ドロシー・マクガイア、ジョーン・ブロンデル、ロイド・ノーラン、ジェームズ・グリーソン
 エリア・カザンのハリウッド・デビュー作。貧しいアイルランド移民家族の苦労と歓びの日々を描いたホームドラマの名作。
 単なるお涙頂戴でもなく、あくまでリアリズムに乗っ取った芝居が素晴らしい作品。自然に泣かされました!デビュー作からしてこのレベルはさすがです。

「影なき殺人 Boomerang」 1947年
(監)エリア・カザン(製)ルイ・ド・ロシュモント(原)アンソニー・アボット(脚)リチャード・マーフィー(撮)ノーバート・ブロダイン
(出)ダナ・アンドリュース、リー・J・コッブ、ジェーン・ワイアット、アーサー・ケネディ、カール・マルデン、ロバート・キーズ、エド・ベグリー
 限りなくリアルな殺人事件の法廷映画。街の人気者だった牧師を殺した犯人を見つけるため、地域全体がヒステリー状態に。
 そんな中で犯人と疑われた男は町中から憎まれることになり、検事は選挙を前に逮捕し起訴することを求められますが・・・

 そんな売れっ子の彼でしたが、テネシー・ウィリアムズの依頼がきただけでなくハリウッドからは映画の企画書も持ち込まれます。そして、彼がその芝居における最も重要な役スタンレー・コワルスキー役に推薦したのが、まだまったく無名だった舞台俳優マーロン・ブランドでした。
 「定期便トラック」という芝居のちょい役でマーロン・ブランドという俳優を使ったエリア・カザンは、彼の俳優とは思えない男臭さに驚かされました。そこでスタン役にぴったりだと考えた彼は、マーロン・ブランドに連絡をとると台本を読ませました。いよいよ3人目の男へと台本は渡ることになりました。 

<マーロン・ブランド>
 前述の二人以上にマーロン・ブランド Marlon Brandoはアウトサイダーといえる人物かもしれませんが、彼の場合はどちらかというと典型的な中産階級の子供として育てられました。ただし、セールスマンとしてアメリカ各地を旅していた彼の父親は旅先で女と酒にお金をつぎ込む駄目親父で、彼はその父親への怒りを内に秘めながら育ちました。(この父親もまたスタンそっくりです)一歩間違うと彼は、その後自らが主演することになる映画「乱暴者」(1953年)のように暴走族の仲間入りをし、犯罪者への道を歩んでいたかもしれません。しかし、幸いにして、彼には地方劇団のリーダーをしていた演劇好きの母親がいたため、その怒りの矛先を芝居の中に向かわせることができました。
 1943年19歳で役者になろうと決意した彼は中西部ネブラスカ州のオマハを出て、ニューヨークで暮らし始めました。アメリカにおける反体制文化の拠点となっていたニューヨークのグリニッチビレッジに住み着いた彼は、そこですぐにその名を知られるようになります。その街は彼のような人間にとって、どこよりも居心地がよく才能を発揮できる場所でした。だからこそ、彼の場合、その活躍のきっかけはけっして「運」によるものではなく、まして彼自身による「努力」によるものでもありませんでした。彼には、有名になるべくしてなる「オーラ」がすでにあったのです。ニューヨーク入りして1年後、彼には一流のエージェントと一流の演技指導者がついていました。ただし、彼の「反逆精神」は当時から常識はずれでした。彼は俳優として成功することを目指しながらも、けっして有名になることを望んではいなかったのです。そのため彼はオーディションにまともにのぞんだことがなかったといいます。わざとヘタクソに台詞をしゃべったり、審査員に反抗的な態度をとるなどして、わざと落とすようにしむけていました。この時代、60年代のようにはっきりとした反体制運動の目標がなかったこともあり、彼のような人間はあらゆる権威に対し反発することでその意思を示していたのかもしれません。
 台本を受け取ったマーロン・ブランドは当初その役を引き受ける気はなかったようです。ただ単に粗野なだけに思えるスタンの人物像に魅力を感じなかったせいでした。しかし、その役を演じられるのは彼しかいないと考えたエリア・カザンは彼に交通費として20ドル渡し、とにかくテネシー・ウィリアムズの家を訪ねてこいと説得しました。ところがどっこい、さすがはマーロン・ブランドです。彼はすぐにその20ドルを飲み代に使ってしまい、ヒッチハイクしながら数日かけて作者の家にたどり着きました。するとその家は配水管詰まりから大洪水と停電のトラブルに見舞われていました。いつもどおりTシャツとジーパン姿の彼は、すぐにその故障箇所を修理してしまいました。テネシー・ウィリアムズは彼の男っぽさ、その手際の良さを見た後、さらにその力強い台詞回しを聞いて、スタン役はマーロン・ブランドしかいないと確信しました。
 こうして、3人目の男、マーロン・ブランドへと台本は渡り、舞台劇「欲望という名の電車」は、無事に発車します。するとその内容のスキャンダラスさが話題となったこともあり、予想外の大ヒットを記録。さっそくハリウッドから映画化のオファーが届きました。 

 この映画の裏方としてデビューし、この後の映画界に大きな影響を与えることになる人物がもう一人います。
<アレックス・ノース>
 この作品で映画音楽にジャズを本格的に導入し、それまでオーケストラによる音楽ばかりだったジャンルに大きな革新をもたらしたのは、この作品がデビュー作あったアレックス・ノースです。初めての作品だからこそ、先入観なしでジャズを映画の背景に持ち込むことができたのかもしれません。そして、そんな作曲家をこの作品に抜擢したのも、監督のエリア・カザンの功績でした。
 アレックス・ノース Alex North は、1910年12月4日、バージニア州チェスターに生まれました。父親はユダヤ系のロシア人移民で、鍛冶屋を営んでいました。経済的に恵まれていなかった彼は、音楽的な才能を独学でみがき、働きながらジュリアード音楽院に入学した苦労人です。しかし、食べて行くためには働かなければならず、電報技師としてソ連に渡り、そこで働きながらピアノの演奏と作曲をモスクワ音楽院で学びます。2年間学んだ後、帰国した彼は、アーロン・コープランドのもとでさらに5年間勉強を続けますが、第二次世界大戦が始まったため、陸軍に入隊。そこで映画部に配属された彼は、ドキュメンタリー映画のための作曲などを経験します。そして、除隊後はその時の経験を生かして、演劇の世界で作曲家として働き始めます。そしてその舞台での仕事で同じように舞台劇の場で活躍していたエリア・カザンと出会うことになりました。
 映画音楽にオーケストラ音楽外の音楽を導入した先駆となった彼が最初に選んだのは、ジャズでした。この作品がジャズ発祥の地、ニューオーリンズを舞台にしていることを考えればそれは自然な選択だったとも言えます。その後、彼はジャズを基本に何本かの作品の音楽を作っています。「セールスマンの死」(1951年)、「長く熱い夜」(1967年)、「悶え」(1959年)
 舞台の仕事をしていた際に訪れたメキシコで、地元の作曲家シルべストレ・レブエルタスからメキシコ音楽について学んでいた彼は、その知識を映画にも生かしています。「革命児サパタ」(1952年)、「火山のもとで」(1984年)
 シシリア民謡をもとにした音楽を使用したのは、「バラの刺青」(1955年)。ローマ時代劇風音楽は、「スパルタカス」(1968年)、「クレオパトラ」(1963年)。様々なジャンルの音楽を自由自在に映画に持ち込んだ彼は、それだけでなく時代を越えたポップ・ヒットも生み出しています。
 1955年の日本未公開の映画「アンチェインド」のために書いた主題歌「アンチェインド・メロディ」は、1965年にライチャス・ブラザースによってカバーされ全米4位の大ヒットとなります。さらにこのライチャス・ブラザースのカバー版は、1990年に映画「ゴースト/ニューヨークの幻」の主題歌としてリバイバル・ヒットとなり、イギリスではチャートの1位にまでなりました。
 彼の仕事の中で、彼自身が心残りに思っていたのは、スタンリー・キューブリックの傑作「2001年宇宙の旅」の音楽でしょう。疲労で倒れてしまうほど苦労して書いた曲でありながら、監督のキューブリックによってボツにされてしまい、クラシックの既存曲を採用されてしまったことを彼は忘れられなかったようです。後にこの曲はCD化もされることになっています。(とはいっても、彼の曲を採用して、あの映画におけるクラシックの名曲たちを越えることはさすがに困難だった気はしますが・・・)
 様々な音楽ジャンルを映画の世界に導入した彼の仕事は、多くの映画音楽の作曲家たちに影響を与えることになりました。ジェリー・ゴールドスミス、エルマー・バーンスタイン、レナード・ローゼンマン、ジェリー・フィールディング、ジョニー・マンデルなどはまさにその直系と言われています。 
<代表的な作品>
「欲望という名の電車」「セールスマンの死」(1951年)、「革命児サパタ」(1952年)、「デジレ」(1954年)、「バラの刺青」「足ながおじさん」(1955年)、「悪い種子」「雨を降らす男」(1956年)、「長く熱い夜」「女優志願」(1957年)、「サンセット77」(1958年)、「悶え」(1959年t)、「スパルタカス」(1960年)、「荒馬と女」(1961年)、「クレオパトラ」(1963年)、「暴行」(1964年)、「シャイアン」(1964年)、「華麗なる激情」(1965年)、「バージニアウルフなんかこわくない」(1966年)、「コマンド戦略」(1967年)、「2001年宇宙の旅」(1968年未使用!)、「オリンポスの詩」(1969年)、「弾丸を噛め」(1975年)、「リッチマン・プアマン」TV(1976年)、「シャレード’79」(1978年)、「ドラゴン・スレイヤー」(1981年)、「火山のもとで」(1984年)、「男と女の名誉」(1987年)、「ザ・デッド/ダブリン市民より」「グッド・モーニング・ベトナム」(1987年)

<映画化に向けて>
 映画化にあたり、当然監督は映画における実績もあるエリア・カザンと決まりましたが、主役となるはずのマーロン・ブランドは再び出演をちゅうちょします。彼にとって、映画俳優と言う仕事は舞台俳優より格下であり、人気スターになろうという気がない彼にとってそう魅力的な職業に思えなかったのです。それでも彼が出演を承諾したのは、監督に決まっていたエリア・カザンの実力を認めていたからだったのでしょう。
 マーロン・ブランドが映画版への出演を当初しぶった原因は他にもありました。彼はブランチ役に選ばれていたイギリスの女優ヴィヴィアン・リーの上品さが大嫌いだったのです。実際、撮影が始まってからも、彼は彼女の妙に上品ぶった振る舞いにイライラをつのらせ、何度となく喧嘩をしていたのでした。ローレンス・オリヴィエが演出していたイギリス版の「欲望という名の電車」にブランチ役として出演していた彼女は、上流階級から転落した女性と言う役どころにピタリとはまる雰囲気があり、年齢的にもブランチそのものでした。しかし、それだけにスタンリー役のブランドとソリが合わないのは当然でした。そして、そんな彼のヴィヴィアン・リーへの嫌悪感は、そのまま映画での演技に生かされたのでした。「風と共に去りぬ」で女優としてのピークを迎えた彼女でしたがこの映画で再び彼女は女優としてのピークを迎えることになりました。(彼女はこの作品でアカデミー主演女優賞を受賞しています)けっして舞台裏が見えない映画とは不思議なものです。どんなに裏側でドロドロとした人間関係が渦巻いていようと画面上で展開するドラマが素晴らしければ、それは永遠に語り継がれる名作になるのですから。
 この映画の撮影中、彼女と夫ローレンス・オリヴィエの関係は冷え切っていました。彼女の精神状態は最悪でした。そこにきて、この映画におけるブランチ役にのめりこんだことで、ついに彼女の精神的なバランスは崩れてしまいます。

<映画版のぶつかった壁>
 しかし、映画版の「欲望という名の電車」には、最後にもうひとつ乗り越えなければならない大きな壁が残されていました。実は、一歩間違えていたら、この映画は日の目をみないまま「幻の映画」になっていたかもしれないのです。それは限定された観客を相手にするブロードウェイの芝居と不特定多数の観客を相手にする映画との違いからくるものでした。それは、映画において行われていた自主規制の問題です。1921年9月3日、ハリウッドの人気喜劇俳優ロスコー・アーバックルは、あるパーティーの会場で一人の若手女優を強姦しようとして、その際相手の女性を死なせてしまいました。すぐに明らかになったこの事件は、ハリウッドの裏側の破廉恥さが次々に暴かれるきっかけとなります。事態はアーバックル自身を映画界から消し去っただけでは収まらず、映画界全体の倫理問題へと発展して行きました。事態の収拾を図るため、ハリウッドの大手映画会社幹部たちは急遽、映画界全体の倫理を監視する組織を立ち上げます。それが全米映画製作配給協会、通称ヘイズ・オフィスです。(「ヘイズ」とは初代会長ウィル・ヘイズの名からとられました)しかし、いつの間にかこの団体は世論の風向きや宗教界の反応を見ながら映画の内容にまで口出しをするようになり、映画の自主規制を行う組織として長く活動することになりました。こうして、プロダクション・コードと呼ばれるハリウッド独自の自主規制基準が生まれることになったのです。

 1950年代に入ってもまだこの組織の力は強く、当時の代表者ジョゼフ・ブリーンは「欲望という名の電車」の映画化にあたって脚本の段階から細かくチェックを行いました。(舞台版の内容から考えて、映画化にはかなりの問題が生じるだろうと考えていたのでしょう)その結果、戯曲には書かれていながら映画化にあたってカットする部分が数多く出てきました。舞台版では、ブランチの夫が同性愛でそのために彼女が精神的におかしくなったという部分も描かれていたのですが、当時はまだタブーだった同性愛に関する記述はすべて削除されてしまいました。他にも、ブランチが学校で生徒に手を出した過去のシーンもカットされ、ラスト近くのスタンリーがブランチをレイプするシーンも危うくカットされるところでしたが、ここだけはなんとか死守しました。その代わり、スタンリーに与えられる罰として彼が妻に捨てられるシーンを加えることになりました。「悪は罰せられる」というメッセージを明確にせよ、というわけです。
 この他にも、完成段階でワーナー側が監督に無断でカットしたシーンもいくつかあったため、エリア・カザンは新聞などにより強く抗議、今後ワーナーで映画は撮らないという宣言文まで発表しました。こうして、この映画に関する自主規制の問題は映画界全体を巻き込む事件へと発展。
 幸い、この映画はズタズタにされてもなお傑作としての輝きを失うことはありませんでした。そうなると、自主規制という行為自体が今度は批判の対象となり始めます。ヘイズ・オフィスの存在は、こうしてこの作品以降、急速にその存在価値が疑われることになり、ついには映画界におけるその役目を終えることになります。この映画は「表現の自由」について議論を巻き起こすという点でも映画界に大きな影響を与えた偉大な作品といえるのです。

<あらすじ>
 ニューオーリンズに住むスタンリー(マーロン・ブランド)とステラ(キム・ハンター)夫妻の家に、ステラの姉ブランチ(ヴィヴィアン・リー)が居候をしにやって来ます。彼女は南部の名家出身でしたがその家はもう落ちぶれてしまい、すべての財産を失った彼女は田舎で教師として働いていました。しかし、ステラの夫スタンリーは上品ぶったブランチが気に入らず、何かと彼女に辛く当たります。そのうち、彼女はスタンリーの友人ミッチと仲良くなり、付き合うようになりますが、ある日スタンリーはブランチについての悪い噂を耳にします。それは彼女が自分が勤める学校の生徒と関係を持って追い出されたことや、街で娼婦まがいの行為をしていたことなどでした。(原作では彼女の夫が同性愛者であったことも明らかになりますが、映画ではプロダクション・コードによる自主規制によってそのシーンはカットされてしまいました)そして、ある晩、彼は自分が知っていることをブランチに暴露し、彼女を罵倒しただけでなく、無理やり犯してしまいます。そして、そのショックにより、彼女はそれまで辛うじて保っていた精神のバランスをついに失ってしまい、精神病院に入院させられることになります。

「欲望という名の電車 A Streetcar Named Desire」 (1951年公開)
(監)エリア・カザン
(製)チャールズ・K・フェルドマン
(原)(脚)テネシー・ウィリアムズ
(脚)オスカー・ソウル
(撮)ハリー・ストラドリング
(音)アレックス・ノース
(出)マーロン・ブランド、ヴィヴィアン・リー、キム・ハンター、カール・マルデン



「地球の静止する日」「遊星よりの物体X]SF映画ブーム
第一回ベルリン映画祭開催

「アフリカの女王 The African Queen」(監)ジョン・ヒューストン(ハンフリー・ボガートがアカデミー主演男優賞キャサリン・ヘップバーンの復活作)
「イブの総て」(監)ジョセフ・L・マンキウィッツ(カンヌ映画祭審査員特別賞、ベティ・デイヴィスが主演女優賞
「ウンベルトD」(監)ヴィットリオ・デ・シーカ(脚)チェザーレ・ザヴァッティーニ(出)カルロ・ヴァティスティ、マリア・ピア・カジリオ
「歌劇王カルーソ」(監)リチャード・ソープ(出)マリオ・ランツァ(エンリコ・カルーソーの伝記映画)
「河」(監)(脚)ジャン・ルノアール(原)(脚)ルーマー・ゴッデン(出)パトリシア・ウォルターズ、エイドリアン・コリ(ヴェネチア国際映画祭国際賞
インドを舞台にした英国女性の成長物語。インドの音楽、風景、宗教、文化が美しいカラー映像で記録されています。
助監督を務めたサタジット・レイはこの後、世界的な巨匠となります。

「禁じられた遊び」〈監)ルネ・クレマン〈原)フランソワ・ボワイエ〈出)ブリジッド・フォッセー、ジョルジュ・ポージュリー(ヴェネチア映画祭金獅子賞
「クォ・ヴァディス Quo Vadis」(監)マーヴィン・ルロイ(脚)ジョン・リー・メイヒン他(出)ピーター・ユスティノフ、ロバート・テイラー
「ショウ・ボート Show Boat」(監)ジョージ・シドニー(音)オスカー・ハマースタイン2世、ジェローム・カーン(出)キャスリン・グレイソン、ハワード・キール
「セールスマンの死 Death of a Salesman」(監)ラズロ・ベネデク(原)アーサー・ミラー(フレデリック・マーチがヴェネチア映画祭主演男優賞
「探偵物語 Detective Story」(監)(製)ウイリアム・ワイラー(原)シドニー・キングスレー(出)カーク・ダグラス、エリノア・パーカー(リー・グラントがカンヌ映画祭主演女優賞
「地球の静止する日」(監)ロバート・ワイズ(原)ハリー・ベイツ(脚)エドマンド・ノース(出)マイケル・レニー、パトリシア・ニール
「巴里のアメリカ人 An American in Paris」(監)ヴィンセント・ミネリ(脚)アラン・J・ラーナー(出)ジーン・ケリー、レスリー・キャロン
ガーシュインが残した曲を使用して生み出されたミュージカルの映画化作品。ジーン・ケリーのダンスも凄いが、セット・衣装も圧倒的!
アカデミー作品賞・脚本賞・撮影賞・ミュージカル音楽賞・美術賞・衣装デザイン賞
「巴里の空の下セーヌは流れる」(監)(原)(脚)ジュリアン・デュヴィヴィエ(出)ブリジット・オーベール、ジャック・クランシー
「陽のあたる場所 A Place In The Sun」(監)(製)ジョージ・スティーヴンス(原)セオドア・ドライサー(出)モンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラー(アカデミー監督賞
「文化果つることろ」〈監)キャロル・リード(脚)ウィリアム・E・C・フェアチャイルド(原)ジョゼフ・コンラッド(出)レルフ・リチャードソン、トレバ・ハワード
見知らぬ乗客(監)アルフレッド・ヒチコック(原)パトリシア・ハイスミス(脚)レイモンド・チャンドラー、チェンツィ・オルモンド(出)ファーリー・グレンジャー
「ミラノの奇蹟」(監)ヴィットリオ・デシーカ(原((脚)チェザーレ・ザバッティーニ(出)フランチェスコ・ゴリザーノ、パオロ・ストッパ(カンヌ映画祭グランプリ
「遊星よりの物体X」(監)クリスチャン・ネイビー(原)ジョン・W・キャンベルJr(製)ハワード・ホークス(出)ケネス・トビー、マーゲレット・シェリダン
「陽気なドン・カミロ」(監)ジュリアン・デュヴィヴィエ(脚)ルネ・バルジャヴェル(出)フェルナンデル、ジーノ・チルビィ
「夜は我がもの」(監)ジョルジュ・ラコンブ(出)ジャン・ギャバン(ヴェネチア映画祭主演男優賞
「欲望という名の電車 A Streetcar Named Desire」(監)エリア・カザン
(ヴィヴィアン・リー、カール・マルデン、キム・ハンターがアカデミー主演女優、助演男優、助演女優賞をそれぞれ受賞、ヴェネチア審査員特別賞
「令嬢ジュリー」(監)(脚)アルフ・シェーベルイ(原)アウグスト・ストリンドベリ(出)アニタ・ビヨルク、ウルフ・パルメ(カンヌ映画祭グランプリ

日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」公開
東映誕生(東積映画、太泉映画、東京映画配給が合併してできました)

「愛妻物語」(監)(脚)新藤兼人(出)宇野重吉、乙羽信子、香川良介、滝沢修
「偽れる盛装」(監)吉村公三郎(脚)新藤兼人(音)伊福部昭(出)京マチ子、藤田泰子、進藤英太郎
「カルメン故郷に帰る」(監)(脚)木下恵介(音)木下忠司(出)高峰秀子、小林トシ子、佐野周二
「源氏物語」(監)吉村公三郎(脚)新藤兼人(出)長谷川一夫、京マチ子、大河内伝次郎
「どっこい生きてる」(監)(脚)今井正(脚)岩佐氏寿、平田兼三(出)河原崎長十郎、河原崎しづ江
「風雪二十年」(監)佐分利信(脚)猪股勝人(出)岡田英次、佐分利信、佐々木孝丸
「麦秋」(監)(脚)小津安二郎(脚)野田高梧(撮)厚田雄春(出)原節子、笠智衆、三宅邦子、杉村春子
「めし」(監)成瀬巳喜男(原)林芙美子(出)上原謙、原節子、島崎雪子



パキスタン首相アリ・カーン暗殺される
サンフランシスコ対日講和会議
<日本>
日米安全保障条約調印
マッカーサー解任される
ユネスコに加入

<芸術、文化、商品関連>
ジャック・ケルアックが「路上」を書き上げる(発表は1957年)
トルーマン・カポーティーが自伝的作品「草の竪琴」を発表
<音楽関連(海外)>
第一回サンレモ音楽祭開催
アラン・フリードがDJとしてデビューし、R&Bをかけて人気を獲得
<音楽関連(国内)>
日本のジャズ・バンドの草分け的存在、シックス・ジョーズ結成(ピアノは中村八大、ベースは渡辺晋、バイブは安藤八郎、ギターは宮川協三、ドラムスは南広、サックスは松本英彦)渡辺晋は後に日本を代表する芸能プロダクション「渡辺プロ」を設立する。
民放のラジオ放送が始まる

<1951年という年> 橋本治著「二十世紀」より
 日本はサンフランシスコ講和条約を結ぶことで、国家として主権を回復。そんな日本について占領軍のトップを首になったマッカーサーはこういった。
「我々は45歳だが、日本人は12歳の少年だ」
この言葉に日本人の多くが反発したが、それがけっして誤りではなかったことは、その後の歴史から明らかでしょう。
「・・・日本人にとって、占領は”屈辱”であったはずだが、しかしその”屈辱”は、どこか安全なものだった。それはほとんど、『重大犯罪を犯しながら、まだ幼くて自分のしたことにピンと来ていない未成年が、少年法の適用を受けた』というのに似ている。『罪を認め、占領を受けた。だからもう自分には責任がない』ーその後の日本人達の戦争責任に対する認識の薄さは、おそらくこのことに由来するのだろう。・・・」

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