サブカルチャー爆発時代の60年代フランス |
「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」
特別編 「フランス 興亡の60s」
<第1章 波 Vague>
第二次世界大戦後、急速な復興を遂げたフランス。
レジスタンスの英雄ド・ゴールが大統領に就任し、米ソ対立の中、独自の路線を歩み始め、1960年には自力で核実験に成功。核保有国の仲間入りを果たします。ヨーロッパの強国となったフランスは、ハリウッドに奪われていた「映画の母国」としての栄光を取り戻します。
そのきっかけとなった作品が映画「勝手にしやがれ」(1960年)です。監督は、映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」で評論家として活躍していたジャン=リュック・ゴダール。それまで、フランスでは映画監督になるためには、映画会社に入社し、そこで助監督として長年撮影に関わらなければなりませんでした。しかし、彼は映画評論家としての活動を生かし、いきなり監督としてデビュー。同じように監督としてデビューした先駆者としては、「いとこ同志」(1958年)のクロード・シャブロル、「大人は判ってくれない」(1959年)のフランソワ・トリュフォーがいて、彼らもまた「カイエ・デュ・シネマ」の執筆者でした。
彼らの世代を評して生まれた言葉「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」は当初は映画以外の若者文化全般をさしていましたが、その後、映画のイメージが圧倒的になりました。彼らの映画は、それまでの映画のイメージを作り方からして大きく変え、見るものにまったく新しい印象をもたらすことになりました。
ヌーヴェル・ヴァーグの映画には登場人物がただ道を歩いているような何も起こらないシーンが出てきます。実はそうして撮影していること自体が喜びであり、エネルギーに満ちたショットを生み出しているのです。・・・
大事なのはそのショットが外の光を取り込み周りの風景を映し出していることにあります。何も起こらないからこそ見ていられる。
フィクションであると同時にドキュメンタリーでもある。
「勝手にしやがれ」を見れば1960年代初頭のパリの雰囲気を味わうことが出来るのです。
ジャン=ミシェル・フロドン(映画評論家)
ヌーヴェル・ヴァーグ作品の特徴は、撮影方法だけでなく、編集方法にもありました。同じ場面をあえて、編集してブツブツと時間を進める手法「ジャンプ・カット」は有名です。
すべてのカットを細かく検討し映画のリズムはくづすまいとしながら、切れるものはすべて切っていったのです。
リズムというのは自分が柔軟性をもって活動出来る場所から生まれるのです。
ジャン=リュック・ゴダール
ゴダールの盟友、フランソワ・トリュフォーもまた「勝手にしやがれ」と同様の不思議な犯罪映画を発表します。その作品「ピアニストを撃て」(1960年)は、犯罪サスペンス映画であり、悲劇のラブ・ストーリーでもあり、コメディ映画でもあるという不思議な映画でした。アルフレッド・ヒッチコックを師と仰ぐ彼にとって、それは様々なヒッチコック作品へのごった煮的オマージュでした。(ちなみにエルトン・ジョンが後にこの映画へのオマージュとも言えるアルバム「ピアニストを撃つな」を発表しています)
ウソでも何でもおもしろければいい、というのがアメリカ映画。
人を殺す、射殺するといった強烈なシチュエーションをすぐもってくる。
「ピアニストを撃て」も、そのようにしてつくられたものなのです。
フランソワ・トリュフォー
もう一人、映画「恐るべき子供たち」で手持ちカメラを使用、ヌーヴェル・ヴァーグの原点とも言える「大人は判ってくれない」、「いとこ同志」2作品の撮影を担当したカメラマン、アンリ・ドカエの存在も忘れられません。彼はその後「太陽がいっぱい」などの傑作を撮ることになり、フランス映画を支える縁の下の力持ちとなります。
「恐るべき子供たち」を完全に手持ちカメラだけで撮影したのは、じつは、お金がなかったからだったんですよ。カメラの移動が必要なのに、クレーンもなければ、移動車もない。そこでエレベーターを利用したりしたわけです。人物の顔をクロース・アップするときも、カメラをかついで近寄っていくしかなかったんですよ。
わたしたちがやった方法は、資金不足でやむを絵図考え出したものでしたが、それをヌーヴェル・ヴァーグが受け継いで、ひとつの方法論として体系化したわけです。
アンリ・ドカエ
「ヌーヴェル・ヴァーグがもたらしたのは映画を愛する心だ」
ジャン=リュック・ゴダール
<第2章 活気 Anime>
1960年代は、戦後の復興も進みフランスは活気に満ちていました。そして、その象徴的存在が女性たちでした。
ヌーヴェル・ヴァーグの先駆的作品「死刑台のエレベーター」(1957年)でデビューしていた監督ルイ・マルは、1960年に元気いっぱいの少女が主役のドタバタ・コメディ「地下鉄のザジ」をヒットさせています。原作者のレイモン・クノーもこの時代を代表する作家です。
ジャン=リュック・ゴダールは「女は女である」(1961年)を公開。当時のゴダールの彼女アンナ・カリーナ演じる主人公は、子供が欲しいからと平気で彼氏以外の男に声をかける新時代の女性。自己主張し男性を振り回す女性たちの時代が、フランスではいち早く始まっていました。現実にゴダール自身も愛していたアンナ・カリーナに「あんたはしつこ過ぎる!」と捨てられることになります。
フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」(1962年)の主人公もまた自由奔放な女性。ジャンヌ・モロー演じるヒロインは、二人の男と同時に付き合い、その気ままな行動で彼らを振り回し続けます。
女性監督の活躍もこの頃始り、アニエス・ヴァルダの「5時から7時までのクレオ」(1962年)が公開されています。
それまでの社会や映画の常識を覆す新時代の恋愛映画は、フランスだけでなくアメリカなど他の国でもヒットし、世界中の女性たちのライフ・スタイルに影響を与えるようになりました。
この時代、フランスは映画だけでなくファッション界でもその輝きを増していました。それまでオートクチュールが中心だったパリ・コレクションにプレタポルテ(既製服)が登場したのが60年代。それまで上流階級のためのものだったファッションは、大衆へと広がって行きます。アンドレ・クレージュのミニ・スカートはその象徴的存在となります。その後、ファッション界の帝王と呼ばれることになるイヴ・サンローランの活躍もこの時期に始まっています。
こうしたフランス文化の世界進出は、実は偶然ではありません。そこには文化大国フランスの先駆的国家戦略がありました。フランスの初代文化大臣アンドレ・マルローが、その重要な仕掛け人でした。
芸術性、革新性のある映画を支援するために映画のチケット料金に11%の税金を付加。そこから得られた資金を利用して映画振興のための政策を積極的に導入しています。この政策は、映画だけではなく音楽産業でも実施され、1980年代のフランス発のワールド・ミュージック・ブームもまた国家的プロジェクトによるものでした。
<第3章 解体 Demantelement>
1950年代のフランスは戦前から植民地として国の一部になっていたアルジェリアの独立問題で大きく揺れていました。1954年にアルジェリアの独立戦争が始ると、米国によるベトナム介入を批判していたドゴールは、自国の植民地支配を終わらせると独立を支持します。フランス国内でも国民投票はアルジェリアの独立が支持されました。
ところが、そうした独立の動きに対し、フランスの右派、軍部、アルジェリアの支配者層は猛反発。OAS秘密軍事組織を結成し、アルジェリアでのゲリラ活動を始めます。当初は、現地アルジェリア人と支配者フランス人との間の問題だったものが、いつしかフランス内部の右派、左派の対立へと変化していました。
1961年4月には独立反対派は現地のフランス軍と共に首都アルジェを占拠。さらにその軍隊はフランス本土への攻撃を準備し始めます。フランスはほとんど内戦に近い状況に陥りました。ゴダールの「小さな兵隊」(1960年)は、そうした時代を反映。主人公はOASのメンバーで、彼が付き合う恋人が実はアルジェ解放戦線のスパイだったという作品でした。
ミュージカル映画の名作「シェルブールの雨傘」(1964年ジャック・ドゥミ監督)もまたアルジェリア戦争によって引き裂かれた男女の悲劇を描いた作品でした。
1962年7月、アルジェリアは独立を果たしています。
<第4章 偶然 Idole>
アルジェリア戦争が終わり、フランスにおける本当の意味の戦後が始まります。そして、そこからフランスは戦争を境にした二つの世代に大きく別れて行きます。
ルイ・マルの名作「鬼火」(1963年)は、アルジェリア戦争の元将校が帰国後に自殺するまでを描いた作品です。1970年代にハリウッド映画がベトナム帰還兵たちの悲劇を映画化する先駆的作品だったとも言えます。
1960年代前半のこうした世代間の断絶は、アイドル・スターの登場により決定的になります。
フランス版エルヴィス・プレスリーとも言われたジョニー・アリディ。「Ye-Yeの女王」として日本でも大人気となった「あなたのとりこ」で有名なシルヴィ・バルタン。二人が出演した映画「アイドルを探せ」(1964年ミシェル・ボワロン監督)は、アイドル映画の先駆作として大ヒットしました。
1963年6月パリのナシオン広場で開催された屋外ライブには、ジョニー・アリディやシルヴィ・バルタンらフランスの人気アイドルたちが出演し、20万人もの観客を集めました。
当時、一気に普及し始めたテレビも、アイドルの活躍を後押しし、1962年に衛星中継が可能になると、登場したばかりのビートルズなど海外のアイドルたちの映像もフランスで見られるようになりました。
映画界にもアイドルが登場していました。ジャン=リュック・ゴダールの「軽蔑」(1963年)の主演女優ブリジッド・バルドーは、50年代にすでにフランス映画界を代表する世界的なアイドルの仲間入りをしていました。
<第5章 矛盾 Contradiction>
アルジェリアの独立をフランスが認めたのに対し、ベトナムではアメリカが本格的な戦闘を始めていました。フランスはアメリカの侵攻を認めず、NATOの軍事部門からの脱退を表明します。そうしたベトナム反戦の意志は、市民レベルでも同様で、映画にも表現されています。
ゴダールの代表作「気狂いピエロ」(1965年)では、主役のジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが米兵の前で、米兵とベトナムの少女をパロディ寸劇として演じる場面があります。ただし、この時代のフランスの若者はアメリカ文化にすっかり親しんでいて、コーラやロックンロール抜きの生活など考えられなくなっていました。(そこは日本人とも共通しています)
映画界でも、そうした新たな流れの中でお洒落な作品が次々と生まれています。
クロード・ルルーシュの傑作「男と女」(1966年)、ロベール・アンリコによる青春映画の傑作「冒険者たち」(1967年)、ジャック・ドゥミのミュージカル作品「ロシュフォールの恋人たち」(1966年)は、その代表的ヒット作で、今でも見ごたえのある傑作です。
<第6章 岐路 Carrefour>
1960年代半ば、大学に戦後のベビー・ブーマー世代が入学し始めたことで教室はあふれ、設備の老朽化や古いままの授業スタイルも問題視されるようになります。それに対し、大学を中心に学生運動が激化し、世界的ベストセラー「毛語録」を手にした毛沢東主義者が現れます。
ジャン=リュック・ゴダールの「中国女」(1967年)は、そんな毛沢東主義者の若者たちを描いた政治的な映画です。ただし、政治的とは言っても小難しい政治論を展開するだけではないコメディ・タッチの青春映画でもありました。
毛沢東主義者がフランスに広まったのはかなり短い期間で、1968年前夜の2,3年です。前衛的で小さなグループでしたが、優秀で多くはブルジョワ出身の豊かな学生でした。
彼らのほとんどが数年後には自由を愛する芸術家や知識人になっていきます。その多くが反共主義、反全体主義の立場をとるようになりました。
パスカル・オリー
1968年5月「五月革命」が始まります。当初は大学の改革を求める学生運動としてスタートしましたが、運動は労働者による賃上げ闘争と連動し、全国へと拡大。テレビ局、鉄道、タクシー、ごみ収集など、あらゆる公共サービスが止まる事態になります。
この時期のゴダールを描いた映画「グッバイ・ゴダール!」(2017年ミシェル・アザナヴィシウス監督)では、この当時のフランスの状況がゴダールの彼女だったアンヌ・ヴィアゼムスキーの視点で描かれています。
全国的なゼネストにまで発表した運動は2か月後にドゴール大統領を辞任に追い込みました。運動は一応の成功に終わり、議会は解散し、総選挙が行われることになりました。ところが、総選挙の結果は、ドゴール率いる保守派の勝利となりました。国民の多くは、戦後やっと手に入れた経済的な安定を大きな改革によって失う気にはなれなかったのです。
こうした社会の分裂は、映画界でも起きることになりました。
1968年「五月革命」真っただ中の5月に開催される予定だったカンヌ国際映画祭。そこでゴダールとトリュフォーを中心にしたフランスの若手映画人が、映画祭の中止を申し入れたのです。二人は、社会と同様、映画界もまた改革する必要があると主張しました。
この後、二人はそれぞれ別々の方向へと向かいます。
ジャン=リュック・ゴダールは、娯楽としての商業映画を撮る事をやめ、実験的なドキュメンタリー映画を製作し始めます。ローリング・ストーンズが名曲「悪魔を憐れむ歌」の録音風景を撮ったドキュメンタリー映画「ワン・プラス・ワン」(1968年)は、単なる音楽映画ではない難解な作品になりました。
そんなゴダールとはまったく異なり、トリュフォーは自分の作品から政治的主張を排除し、男と女の愛にターゲットを絞った作品を撮り始めます。そうしたスタイルをゴダールは否定し、二人の関係は破綻することになりました。
トリュフォーが自らの分身ジャン=ピエール・レオを主演に撮った「夜霧の恋人たち」は、自らの青春時代を題材とした青春恋愛コメディ映画。その後も、彼は自分の体験を題材にした恋愛ドラマを撮り続けます。その集大成が名作「アメリカの夜」でした。
<第7章 旅立 Oepart>
1969年6月フランスではドゴールに代わる新大統領ジョルジュ・ポンピドーが新政権を誕生させました。時代は大きく変わり新しい時代が始まろうとしていました。
5月にメーデーは、昨年とは異なり学生たちが排除された状況で開催されました。
1968年五月革命の影響は良くも悪くも今のフランス社会に残っています。それはこの国に生き続ける亡霊のようなものです。
現在の問題に対処しようとすると、時に障害となって立ちはだかる - それが偽らざる現実なのです。
ジャン=ミシェル・フロドン
五月革命は政治的には失敗でしたが文化的には成功だったのです。
それを実感したのは1970年代に繰り広げられた人工中絶をめぐる議論でした。
その時、中絶の自由化を求める勢力は(五月革命のような)左翼的な戦い方をしました。司法を巻き込み、裁判所に見解を求める戦略です。
右派政権がこれを受け入れる形で中絶自由化の法律が成立しました。
(五月革命を経て)改革派も保守派も社会の変化を受け入れる体制ができた - それが文化的成功に結び付きました。
エコロジーへの関心、フェミニズムの発展、男女関係ジェンダー問題の見直しなど。五月革命後、革命をあきらめた勢力がこれらの運動をリードしていきました。専門知識をもった新しい左翼が法制度の改革など成果を上げていったのです。
パスカル・オリー
かつて「ロシア革命」が起きた際、それは労働者のための改革から権力者たちの闘争へと変質しました。大衆レベルにまで革命の意義が広がる前に、革命が成功してしまったために、ロシア革命は民主主義とはほど遠いものになってしまったのです。
かつてオバマ大統領は、大統領の任期を終える際、民主党の敗北に対し、「黒人大統領の誕生は早すぎたのかもしれない」ともらしたといいます。
変化は早ければそれで良いとぴうわけではないのかもしれません。それでもなお、失敗から得られることもある。五月革命はそうとらえることもできるのでしょう。
今振り返ると、日本の60年代学生運動は何を残したのか?
その総括はなされているのでしょうか?