1950年代アメリカ、サブカルチャーの誕生

「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」

第1回「アメリカ理想の50s」
<サブカルチャー生誕の地>
 サブカルチャーの歴史をその生誕の地であるアメリカの50年代からひも解く「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」は、このサイト「ポップの世紀」の映像版のようにも思えます。「ポップの世紀」のスタートした2000年頃のタイトルは「ロック世代のポピュラー音楽史」と言いました。その内容は1955年のロックンロールの誕生から20世紀のポピュラー音楽全般の歴史を網羅する内容でした。(その部分が書籍化されたのが「音魂大全」でした)
 非常に親近感を覚える内容で、見たかった映像もふんだんに使った番組に敬意を表しつつ、「ポップの世紀」と連動させながら解説してみようと思います。
「アメリカの独立宣言、憲法そして素晴らしい工業製品や技術は世界の諸国民に分かち与えられることになる。20世紀は偉大なるアメリカの世紀になるだろう」
タイム誌ヘンリー・ルース

 1954年の映画「麗しのサブリナ」の中で大企業の社長役だったハンフリー・ボガートは「プラスチック工場を第三世界に作れば、文明なき国もアメリカのようになれるだろう」と豪語していました。戦後、アメリカは自国の「民主主義」だけでなく「工業製品」「食料」「娯楽」などを丸ごと「アメリカ文化」というパッケージで世界に輸出し始めます。

<第1章「神話 Mythology」>
 第二次世界大戦で唯一国土の荒廃を免れたアメリカは、軍需産業の成長と海外への輸出の増加により、経済的に一人勝ち状態になりました。国民の収入は急増し、アメリカは歴史上、最も国民の間の経済格差が少ない時代となりました。
 そんな時代にアメリカの大衆に向けて企画・販売されたこの時代を象徴する大ヒット商品が、プレハブ工法の格安建売住宅でした。郊外の更地に作られた理想の街に建つ家は、土地付きで1万ドルという価格で販売されました。中でもウィリアム・レヴィットが開発分譲したニューヨーク近郊の巨大な分譲住宅地は「レヴィット・タウン」と呼ばれ、多くのベビーブーマー世代がその街で育つことになります。
 その平均化された街並みは、その後の多くのハリウッド映画に登場する典型的な郊外住宅のモデルとなります。(デヴィッド・リンチの「ブルー・ベルベット」、トッド・ヘインズの「エデンより彼方へ」、ロバート・ゼメキスの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」など)
 レヴィット・タウンで生まれ、その街について歌っているビリー・ジョエルは、街の無味乾燥さを嫌い、ニューヨークの街へと旅立ちます。
 平和と経済的な幸福を得たアメリカの大衆は、そうした安定と交換にかつてのアメリカ人が持っていた冒険心を失ってしまいました。その夢を補うように人々の心を捉えたのが、1950年代数多く製作された「西部劇」でした。歴史が短く「神話」をもたないアメリカ国民にとって、西部劇とその大スター、ジョン・ウェインは時代を象徴する英雄でした。

<第2章「疑心 Suspicion」>
 1950年代は「赤狩り」の時代でもありました。ソ連が共産主義国家として、アメリカの敵国に浮上したことで、そのシンパとされる共産主義者は「アメリカの敵」として扱われることになりました。そのブームの火つけ役となったジョセフ・マッカーシーは、なんの根拠もなく敵対者を共産主義者として暴露。次々に彼らを社会から抹殺する恐るべき「フェイク・ニュース」発信者でした。(トランプ元大統領はその後継者です)そんな彼を中心とする非米活動委員会がその絶好のターゲットと見なしたのが、大衆の理想でもあったハリウッドでした。
 「ハリウッド・テン」と呼ばれることになる最初の犠牲者の一人ダルトン・トランボは仲間たちを売ることなくハリウッドを去ります。幸い変名でも作品を発表が可能な仕事だったことから、彼は協力者を得て、その後も密かに仕事を続けることができました。その中で生まれた傑作「ローマの休日」で、彼はアカデミー脚本賞を変名で受賞してしまいます。
 「赤狩り」の流れに巻き込まれ、仲間を売り、疑われた者を見捨てて知らんぷりをした映画人を批判した映画も製作されました。もちろんそれを直接的に映画にすることは不可能だったので、その映画はそれを、街に来る悪役と孤立無援で闘うことになった保安官として描きました。フレッド・ジンネマン監督の名作「真昼の決闘」(1952年)です。脚本を書いたカール・フォアマンは、この後、アメリカを脱出しイギリスに渡ります。そして、デヴィッド・リーン監督の傑作「アラビアのロレンス」の脚本を書き、見事にアカデミー脚本賞を受賞しています。
 1952年7月19日、27日、ワシントンの上空に複数のUFOが現れ、ホワイトハウス周辺は大混乱になりました。宇宙開発でソ連に後れをとっていたアメリカでは、UFOもソ連の仕業かもしれないと疑心暗鬼になっていました。そうしたソ連への恐怖心を投影するような人類侵略SFの名作が撮られたのもこの時代です。
 火星人によって地球が滅亡の危機に追い込まれるH・G・ウェルズ原作の「宇宙戦争」(1953年)。ドン・シーゲルの「ボディ・スナッチャー 恐怖の町」(1956年)では、郊外の街に暮らす人々が「豆のサヤ」のような物体に取り込まれ、人間そっくりの異星人に変えられて行きます。「豆のサヤ」は、個性を吸い尽くし増殖する郊外住宅のことだとも言われます。
 その他にも、1951年から1955年にかけては、様々な地球侵略SF映画が製作されています。「地球が静止する日」(1951年)、「遊星からの物体X」(1951年)、「地球最後の日」(1951年)、「宇宙戦争」(1953年)、「それは宇宙からやってきた」(1953年)、「惑星アドベンチャー スペース・モンスター襲来」(1953年)、「「放射能X」(1954年)、「宇宙水爆戦」(1954年)、「原子人間」(1955年)、「ボディスナッチャー 恐怖の町」(1955年)、それとアメリカで大ヒットすることになる怪獣映画の傑作「ゴジラ」も1955年に製作された作品です。

<第3章「夢 Dreams」>
 1950年代はテレビが急速に普及し、アメリカの大衆が民族や人種、宗教に関わりなくテレビによって共通の夢を見る時代に入った時代でもありました。そこに登場する主人公とその家族は、アメリカン・ドリームを象徴する存在になりました。「アイ・ラブ・ルーシー」(1951年~)、「パパは何でも知っている」(1954年~)、「うちのママは世界一」(1958年~)に登場する家族はまさにその象徴的家族です。ただし、そこで描かれている理想の家族像は、白人男性が優位だった過去の古い社会規範に基づくものでした。
 第二次世界大戦中、男性たちが戦地に行っている間、多くの女性たちがそれまで男たちがしていた仕事につくことになりました。ところが、終戦と共に彼女たちの多く、その仕事を男たちに奪われることになりました。当時の家庭では、女性は子供を産み、育てる専業主婦こそ理想とされていたからです。さらに戦後の好景気により、夫の収入が増えたことで妻は経済面でも働く必要がなくなりました。
 1955年、全家庭の71%が自動車を所有。そして同じ年には、ディズニーランドがロサンゼルスにオープンし、マクドナルド1号店も開店。アメリカの大衆にとって、アメリカン・ドリームは手の届く存在になっていました。
 アルフレッド・ヒッチコックの「裏窓」(1954年)は、そうした理想の郊外住宅地に住むことを拒否し、都会の狭いアパートで暮らす男の物語でした。足を骨折して動けない彼は、窓から向かいのアパートを双眼鏡で覗き見るうちに、殺人鬼の存在に気づきます。ところが、彼の周囲の人々は、孤独な彼が精神的に病んでしまい妄想を抱いていると思い信用しませんでした。平均的な生活を拒否し、孤立して生きるオタク的人物だからこそ真実を知ることができる。この作品は、個性を失い他人への感心を失いつつある現代社会に存在する落とし穴をいち早く示していたのです。

<第4章「抑圧 Suppression>
 1955年は、公民権運動にとって重要な「エメット・ティル殺害事件」が起きた年です。白人女性に口笛を吹いただけで彼女の夫やその仲間たちによって殴り殺された少年の変わり果てた顔を母親はあえて公開しましたが、犯人たちは無罪となりました。この衝撃的な事件は、アメリカ中を巻き込む公民権運動の盛り上がりを生み出すことになりました。
 その後、モンゴメリーの街では、ローザ・パークスによって始められたバス・ボイコットが町中の黒人たちを巻き込む運動へと発展。この運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師は、公民権運動を象徴する存在となります。
 そんな1955年公開の映画「暴力教室」は、直接的に人種差別問題を描いた作品ではなく、人種融合された都会の高校を舞台にした学園映画でした。しかし、その背景となったクラスのリーダー的存在の生徒を演じたのは黒人俳優シドニー・ポワチエでした。それまで黒人俳優が演じる役柄は、男性なら黒人芸人か運転手、女性なら乳母やメイドとステレオ・タイプなものばかりでした。それに対し、ポアチエが演じた知的な役柄は画期的なもので、この後も彼は人種混合の先駆的な役柄を演じて行くことになります。「夜の大捜査線」の刑事役は、そんな彼の代表作となりました。
 危険を冒して前へ進もうとしない者
 未知の道を旅しようとしない者には
 人生はほんのわずかな景色しか見せてくれないんだ

 シドニー・ポワチエ
 映画「暴力教室」は、もう一つ大きな変化を世界にもたらした作品です。それは映画のテーマ曲として使用された「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒットとなり、ロックン・ロールの世界的なブームの火付け役になったことです。そして、エルヴィス・プレスリーの登場によって、ロックン・ロールのブームは白人社会にまで広げることになりました。
 1956年、エド・サリヴァン・ショーへのエルヴィスの出演以降、チャック・ベリーリトル・リチャードなど黒人ロックン・ローラーのライブ会場では白人と黒人の若者たちの人種融合が始まることになります。

<第5章「反抗 Reabellion」>
 人種の壁が壊れ始めたこの時代、それとは異なる新たな壁が生まれつつありました。それは世代間の壁です。多くの映画で使われたセリフ「ダーティー・サーティー Dirty Thirty」(30代以上を信じるな!)はその象徴。
 1950年代は、戦後生まれの若者たち(ベビー・ブーマー世代)が青春期を迎える時期に当たりました。彼らは経済的不自由なく育ち、高等教育を受け、多くが成人すると自動車を与えられた最初の世代となりました。しかし、戦争で苦労した親たちと彼らの心のギャップは大きく、そのすれ違いを描いた名作映画「理由なき反抗」(1955年)が生まれることになりました。
 映画界がテレビの登場以降、観客を奪われ続ける中、ハリウッドは新たな観客層として若者たちに目を向けるようになります。そして、彼らのリアルを描いた映画の製作に挑みます。それはアメリカ中が愛するテレビのホームドラマとは真逆の内容でした。
 若者たちによる大人たちへの反抗をテーマにした映画は、この後、ニューシネマへと進化することになりますが、この時代にそのアイドルとなったのがジェームス・ディーンやマーロン・ブランドでした。彼らが映画で着用したT-シャツとジーンズは、若者たちの間で大ブームとなり、永遠不滅の若者ファッションとなります。

<第6章「異議 Objection」>
 1959年、映画「クイズショー」で描かれた人気解答者チャールズ・ヴァン・ドーレンが番組制作側から答えを教えられていたという不正事件は、アメリカン・ドリームへの疑いの生じさせるものでした。
 同じように1950年代のアメリカを象徴する存在だったマリリン・モンローは、「セックス・シンボル」であり続けることに嫌気がさし始めます。夫となったメジャー・リーガーのジョー・ディマジオから専業主婦になることを求められますが、それを拒否して離婚。女優として上を目指すため、ニューヨークに出てアクターズ・スタジオに通い、出演作品を自ら選ぶようになります。
 ビリー・ワイルダー監督の「お熱いのがお好き」(1959年)は、コメディ映画ではあっても、そこには性差別への批判が込められた新たなまったく新しい発想に基づく映画でした。女装したジャック・レモンに、自分は男であると告白されても、彼にほれ込んだ男性はこう返します。
「完璧な人間なんていないさ Nobody's Perfect」
 このセリフは、現在にまで続くことになるLGBT問題も含めたあらゆる性差別への先駆的な回答だったのかもしれません。

<第7章「逸脱 Deviation」>
 1957年、ジャック・ケルアックの小説「路上 On The Road」が発表され、ビート世代の時代が始まりました。彼とアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、ジャクソン・ポロックらを中心に始まった「旅」「ジャズ」「薬物」「文学」「美術」など、アート全般にわたる文化革命は、若者たちによって起された歴史上最初の文化革命となりました。
 それまで主流とされてきた大人たちの文化に反抗することで生まれたその文化は、「サブカルチャー Subculture」と呼ばれることになります。そして、ロックン・ロールやモダン・ジャズなどの音楽や映画などと共に世界中の戦後世代へと拡散されることになります。
 フランスのヌーヴェル・バーグ、日本の太陽族ブームなど、世界各地でその影響から新たな文化が生まれることになります。(それはまた別のお話)

「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」
(制作)NHK
(制作協力)テレビマン・ユニオン
(制作統括)藤田英世、丸山俊一
(プロデユーサー)高橋才也
(ディレクター)牧田潤也
(リサーチャー)黒川優珠
(語り)玉木宏
(撮)森岡知之
(出)ブルース・シュルマン(1959年生まれ)「The Seventies」の著者
カート・アンダーセン(1954年生まれ)「ニューヨーク・マガジン」元編集長で「ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史」の著者

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