1960年代アメリカ、逃走と闘争の時代

「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」

第2回 「アメリカ闘争の60s」
<ニュー・フロンティアの時代>
 経済的、政治的に世界をリードし続けたアメリカの1950年代が終わり、アメリカ国民の間には様々な不安が生じつつありました。このまま経済の成長が続き、平和が続き、国民が幸福でいられるのか?そんな漠然とした不安感が生じつつある中、次なるフロンティアへの挑戦により、新たな時代を切り拓こう!と国民を鼓舞したのが、1960年民主党の大統領候補に指名されたジョン・F・ケネディでした。ヨーロッパから新天地を求めて移民したアメリカの国民にとって、「フロンティア」という言葉は今でも魅力的な響きをもつのでしょう。

 1960年7月15日に開催された民主党全国大会での大統領指名受諾演説で彼は、国民にこう語りかけました。

 今、我々は「ニュー・フロンティア」に直面しています。
 1960年代のフロンティア
 平和と戦争の未解決の問題
 無知と差別の未解決の問題
 貧困と富裕の未解決の問題
 私はアメリカ国民の全員が新しいアメリカの開拓者になってほしい。


 この年、アメリカ人が抱える不安感を映像化したような映画「サイコ」(1960年)が公開されています。監督はアルフレッド・ヒッチコック。この作品の大ヒット以降、「サイコ・サスペンス」もしくは「サイコ・ホラー」という新たなジャンルの映画が数多く作られるようになります。そこで描かれる恐怖の対象は、時代の流れを写し出す鏡となります。

<第1章「開拓 New Frontier」>
 ジョン・F・ケネディが提唱した「ニュー・フロンティア」という目標は、すぐに国民の支持を得ることになりました。もちろん誰もが新たなフロンティアを求めていたわけではありません。その逆向きの保守的な流れも、それに対抗して強まることになります。

 映画「アラモ」(1960年)は、そうした保守的な流れを象徴する作品として大ヒットしました。アメリカ南部テキサス州の独立戦争を描いた西部劇は、古き良きアメリカへの憧れを描いた作品で、監督・主演はジョン・ウェインでした。しかし、ハリウッドの保守派を代表する彼の存在は、西部劇の時代の終わりと共に過去の存在へとなります。
 政治の世界でそうした保守派の受け皿となったのが、共和党の大統領候補ニクソンでした。彼は共和党政権下のアメリカで7年間副大統領を務めた実績を売りに大統領選挙を戦いました。1960年時点ではアメリカの繁栄は明らかだっただけに、共和党政権に対し、駄目だしをする理由はなかったかもしれません。世論調査でも、ニクソンの勝利を予測するものが多かったようです。しかし、アメリカの大統領選挙で初めて行われたテレビ討論で流れが変わります。
 1960年9月26日に行われたテレビ討論会は、ほとんどの家庭にテレビが普及した時代に行われたことで、予想以上の影響を大統領選挙に与えることになりました。しかし、そうなることを予測した人は少なく、候補者さえも重要視していませんでした。そこで明らかにされたのは、イケメンでお洒落で健康的なケネディに比べ、ニクソンがいかに貧相で嘘つきに見えるかということでした。11月8日に行われた投票の結果は、予想を裏切り、僅差でのケネディの勝利となりました。1960年代に入り、アメリカ国民は新しい時代に向けて、新しいリーダーを選択したのでした。
 映画「アラバマ物語」(1962年ロバート・マリガン監督作)は、アメリカ国民が待望する新たなリーダー像を提示した映画でした。
 人種差別が合法だった1930年代のアラバマで、無実の罪を着せられた黒人青年を救うために闘った白人弁護士アティカス。彼は、当時公民権運動のために闘っていた人々を象徴する存在でしたが、今もなおアメリカ民主主義の象徴として高い人気を保っています。(2003年にアメリカ映画協会が選んだ映画の中のヒーローベスト100で、アティカスは多くの人気キャラクターを抑えて見事第一位に輝いています!)

<第2章「逃走 Escape」>
 1960年代の初め、戦後生まれのベビー・ブーマー世代が大人になり始めた時代。多くの若者たちが都会に夢を追ってやって来るようになります。
 映画「ティファニーで朝食を」(1961年ブレイク・エドワーズ監督作)は、脚本家になるためにニューヨークに出てきた青年が都会に追い行く美しい娼婦ホリー(オードリー・ヘプバーン)に恋をする物語でした。しかし、ホリーもまた貧しいがゆえに14歳の若さで結婚させられた女性で、そこからニューヨークへと逃亡してきたことが後にわかります。都会のお洒落なファッションや街並みを描いていながら、その裏側の現実を描いた原作者はトルーマン・カポーティ。彼は1965年にノンフィクション・ノベルの傑作「冷血」を発表することになります。
 ホリーのように貧しさと闘う女性だけでなく、この時代はどんなに素晴らしい学歴や家柄を持っていても、女性が自由に生きることは困難な時代でした。まだ「フェミニズム」という言葉すらない時代、女性に対する差別の存在を明らかにし、フェミニズム運動の先駆となったのが、ベティ・フリーダンのノンフィクション「女らしさの神話」です。
 映画「ウエストサイド物語」(1961年ロバート・ワイズ監督作)は、性による差別以上にアメリカを揺るがすことになる人種差別問題を正面から描いた悲劇のミュージカルです。ニューヨークの下町で対立するプア・ホワイトとプエルトリコ系移民の間で生まれた「ロミオとジュリエット」の物語。ブロードウェイの舞台で演じられたミュージカル版と違い、街に飛び出して撮影された映画版は、そのスケールと音楽とリアリズム描写により、それまでの映画の枠を超えた大ヒットとなりました。ハッピーエンドとはならなかったその物語は、21世紀に入り、スティーブン・スピルバーグにより再び映画化されます。それは半世紀たってもなお、その人種対立が解決されていなかったとの証明でもあります。

<第3章「恐怖 Fear」>
 1961年4月、アメリカは革命によって成立したキューバの社会主義政権を倒すため、親米派のキューバ人亡命者たちによる部隊を編成、上陸作戦を実行します。しかし、その「ピッグス湾事件」は、失敗に終わり、アメリカとキューバの対立は決定的になります。キューバのカストロ政権は、防衛力を確保するためソ連に接近。自国の領土にミサイル基地を建設し始めます。そして、そこで使用するための核ミサイルが、ソ連から輸送船によって運搬されることになります。上空からの偵察によりそのことを察知したアメリカは、キューバに向かう船の行く手を阻みます。人類の歴史上、もっとも核戦争がまじかに迫った瞬間と言われます。この危機は、ケネディとフルシチョフによる理性的な対話のおかげでギリギリで止まりましたが、両方の軍隊は完全に核戦争モードに入っていたようです。この時、国防長官のロバート・マクナマラは、人類最後の日であることを意識していたと後に語っています。ドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー」は、ロバート・マクナマラへのインタビューで当時の状況を再現した傑作です。
 この時のギリギリまで迫った核戦争の恐怖を映画にしようとしたのが、巨匠スタンリー・キューブリックでした。
 映画「博士の異常な愛情」(1964年)の脚本に取り掛かった彼は、リアルな核戦争を描こうとしていた考えを転換します。
「悪夢のコメディが私の中に降りてきたのは、脚本に取り組み始めてから数週間後だった。この方法は(冷戦の)問題の核心に近いように感じた」
スタンリー・キューブリック
 映画史に残るブラック・ユーモア作品が、核戦争の本質をつくものだったことは、今もなお続く愚かな独裁者たちによる核による脅しを見れば明らかでしょう。

 その後、核競争は紙一重の技術である宇宙開発戦争へと変化します。1961年4月12日にソ連が初の有人宇宙飛行に成功。スプートニクに乗って宇宙へ出たガガーリンの言葉「地球は青かった」は、アメリカンの宇宙開発チームに衝撃を与えました。この年、5月5日にアメリカはアラン・シェパードを宇宙に送り出すことに成功しますが、飛行時間の長さなどでソ連から大きく遅れていることは明らかでした。ジョン・F・ケネディはそうした状況を見過ごせず、1960年代の終わりまでに人類を月面に立たせると宣言します。こうして新たな宇宙への挑戦となるアポロ計画がスタートしました。映画「ライト・スタッフ」(1983年フィリップ・カウフマン監督作)は、その時期に宇宙開発競争の主役となった宇宙飛行士たちを描いた傑作です。

 1963年は、歴史に名高い「ワシントン大行進」が行われた年でもあります。そして、そこであの有名なキング牧師の有名な演説が行われました。公民運動における最大の盛り上がりはこの時期だったのかもしれません。
 しかし、公民権運動への支持を発し続けた大統領ジョン・F・ケネディが11月22日にダラスで暗殺されてしまいます。幸いこの悲劇の後、急遽、大統領となったジョンソン大統領は、ケネディの意思を継ぎ、翌年7月2日に無事に公民権法を成立させました。映画「LBJ ケネディの意志を継いだ男」では、彼の予想外の活躍が描かれます。
 ただし、新大統領ジョンソンは、その直後、ベトナム戦争への対応で大きなミスをすることになります。

<第4章「分断 Division」>
 1964年8月2日、トンキン湾で自国の駆逐艦が攻撃されたことを理由にアメリカ軍がベトナム戦争に参戦します。(後にこれはアメリカの謀略だったことが明らかになります)ここからアメリカはベトナム戦争の泥沼にはまることになります。同じころ、ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルが映画化され世界的な大ヒットとなりました。
 映画「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年ロバート・ワイズ監督作)は、連合軍とナチス・ドイツの戦いを背景にした作品です。主人公トラップ大佐の家族はその戦争に巻き込まれますが、自分たちにできる「歌」を使った戦いによって。映画の中で主人公の所属する修道院のシスターが、が彼女にこう言います。
「隠れていても問題は解決しません。立ち向かいなさい。あなたは自分の人生を生きるために生まれてきたの」
 この言葉はベトナムをナチス・ドイツと同一視すなら「戦場に向かって、戦え!」という意味になります。しかし、アメリカ軍を解放軍として歓迎してくれた第二次世界大戦と異なり、ベトナム戦争でアメリカ軍は歓迎されざる存在でした。そのことを知った若者たちは、戦場で闘うのではなく、戦場に行かないために闘うという選択肢があることに気づき始めます。兵役を避けたいという思いから、より積極的にその意志を「反戦運動」や「兵役拒否」という行動で示す動きが本格化することになります。

<第5章「英雄 Hero」>
 ベトナム戦争での勝利が見えなくなってきたアメリカ軍は、1965年3月から北ベトナムへの空爆作戦(北爆)を開始します。
 ちょうど同じころ、世界的アイドルになろうとしていたザ・ビートルズがアメリカでのツアーをスタートさせます。そのツアーの途中、彼らは自分たちの英雄エルヴィス・プレスリーを表敬訪問。ところが、北爆の開始を指示したジョンソン大統領をエルヴィスが支持していることを知ったジョン・レノンは、エルヴィスに反戦を支持するよう訴えたといいます。
 ベトナム戦争について反戦の意思表示をしたのは、英国の英雄たちだけではありませんでした。当時アメリカで最大の英雄だった人物からも反戦のメッセージが発せられます。彼に送られてきた召集令状について、彼は記者会見を開きこう発言しました。
「私はハッキリと今、テレビの前で言います。
行きません。1万マイルも離れた遠いところに行って、貧しい人たちを殺したくはありません」

モハメド・アリ(1967年)

 前述のザ・ビートルズがテレビの大人気番組「エド・サリバン・ショー」に出演した2週間後に世界チャンピオンのベルトを獲得したモハメド・アリ。彼は兵役を拒否したため、世界チャンピオンのベルトを奪われ、ボクシング界から追放されてしまいました。
 この時期はまだベトナム戦争を支持する国民が半数を上回っていました。初の黒人メジャーリーガーのジャッキー・ロビンソンや元世界チャンピオンのジョー・ルイスでさえも、アリの兵役拒否を批判しています。第二次世界大戦の戦場で命を懸けて戦ったことで得た黒人たちの地位を彼の行動で帳消しにされるかもしれない、彼らはそう考えたのです。
 しかし、アリの考え方が正しかったことは歴史が証明することになりました。彼は「人種差別の問題」と「反戦問題」を結びつけることで、ベトナム戦争への向き合い方に大きな変化をもたらしたと言えます。もちろんそれは、彼がアメリカの象徴とも言える英雄だったからこそ可能になったのかもしれません。
 モハメド・アリを誕生させたとも言える公民権活動家のマルコムXは、生前アリについてこう語っていました。
「彼は英雄になる。
 英雄のイメージは本人よりも力をもつ。
 もし人々が彼のイメージに共感し始めたら、とんでもないことが起こる。
 黒人たちも『俺は偉大だ』と街中で叫び出すだろうね」

 カシアス・クレイという黒人ボクサーを偉大なるチャンピオン「モハメド・アリ」へと変身させたマルコムとの交流は映画「あの夜、マイアミで」で描かれています。

 映画「俺たちに明日はない」(1967年アーサー・ペン監督作)が大ヒットし、この後始まる「アメリカン・ニューシネマ時代」の先駆的作品となります。この作品の新しさは、1965年以前には映画化不可能な題材だった「犯罪者を美化し英雄として扱う」映画だったことでした。そこで描かれたのは「法律によって治められた社会から逸脱する行為」が必ずしも「悪」ではないのかもしれない、ということでした。社会秩序を乱す者を「悪い英雄(ヒール)」と呼んできた社会の常識が変わろうとしていたのです。

 1968年1月30日、ベトナムで解放軍が「テト攻勢」と呼れる大規模な急襲作戦を展開し、一気に米軍を追い詰めてしまいます。その映像は、一般のアメリカ国民に大きな影響を与え、アメリカの敗北を意識し始めることになります。さらにサイゴン市内での戦闘中、南ベトナムの兵士が解放軍兵士の頭を撃ちぬいた決定的瞬間をとらえた写真「サイゴンでの処刑」ピュリツァー賞を受賞。(撮影者はAP通信のエドワード・アダムズ) マスコミによるこうした情報の影響で、一気にアメリカ国内における反戦運動が盛り上がり、政府も停戦に向けて動かざるを得なくなります。
 この年、ジョンソン大統領を北爆の停止を発表し、戦争終結に向けた交渉を開始し始めます。

<第6章「卒業 Graduate」>
 映画「卒業」(1967年マイク・ニコルズ監督作)は、アメリカン・ニューシネマ最初の大ヒット作です。そこで描かれたのは、世代間の決定的なギャップを描くことにありました。
 この映画の中、主人公の卒業祝いのパーティーで彼にある大人が語りかけてきます。
「お前に一言だけ言っておく」
「プラスティック」
 1950年代の映画「麗しのサブリナ」で大企業の社長(ハンフリー・ボガート)が「未来はプラスチックだ」と予言していたことが、ここでまた繰り返されています。もちろん、その言葉はもう時代遅れであり、若者たちにはジョークにしか聞こえなくなっています。
 彼らにとっての夢は、「プラスチック」でもなく「大企業の社長になること」でもなく、そんな現実から逃れることにあったのです。旧体制からの卒業。それが1960年代末のテーマでした。
 このシリーズの解説者カート・アンダーセンはこう語っています。
「私は初めて私は私だと
 人生は大人に理解できない経験をすることだと思うようになりました。
 そういった自己愛的で思春期的で未熟な態度をみんな持ち始めたのです」


<第7章「哀愁 Pathos」>
 60年代末に若者たちが願った旧体制からの逃亡と自己愛は、ヒッピー・ムーブメントの原動力となりました。
 1969年8月のウッドストック・フェスティバルは、「愛と平和の祭典」としてその頂点を示すイベントとなりました。しかし振り返ると、その祭典はすでに終わりの始りだったのかもしれません。同じ時期に起きた映画ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドで描かれた(描かれなかった)「シャロン・テート事件」は、その邪悪な一面を見せた事件として世界に衝撃を与えました。

 映画「猿の惑星」(1968年フランクリン・J・シャフナー監督作)もまた大きな衝撃を与えた作品でした。猿と人間の立場が逆転した世界を描いたSF映画は、白人と黒人の逆転を意識させる内容だったからです。(実は、原作者のピーエル・ブールは第二次世界大戦で日本軍に捕虜となった経験をもとに書いています)
 この年4月には、公民権運動最大の英雄キング牧師が暗殺される事件が起きています。人種差別の問題は「公民権法」の発動だけでは変わらないかもしれない。そんな空気はすでに、この時代にありました。

 映画「真夜中のカウボーイ」(1969年ジョン・シュレシンジャー監督作)は、南部の田舎から出てきた若者と大都会ニューヨークの最下層を生きるケチな詐欺師の友情を描いた名作です。アカデミー賞の歴史上唯一成人指定の映画で作品賞を受賞しています。(思えば、僕がこの映画を初めて見たのは深夜に放送されていたテレビの映画劇場でした)都会のダークサイドを描いたこの作品はニューヨークで広がるゲイ・ムーブメントの先駆的作品でもありました。
 1969年6月28日、ニューヨークの街で警官によるゲイへの差別と嫌がらせが続く中、彼らが集まるバー「ストーン・ウォール」で警官たちに対するゲイの人々の暴動が起きました。
 この「ストーン・ウォールの反乱」以降1970年代には、同性愛者による差別撤廃に向けた解放運動が勢いを増すことになります。
 1960年代は、人種、性、同性愛への差別に対する解放運動がいっきに爆発した時代でした。しかし、あまりに急激な変化は様々な軋轢や反動を生み、どれも解決には至りませんでした。逆に大きな夢を抱いた若者たちの失望は大きく、1970年代はその大いなる失望と共に始まることになります。

「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」
(制作)NHK
(制作協力)テレビマン・ユニオン
(制作統括)藤田英世、丸山俊一
(プロデユーサー)高橋才也
(ディレクター)牧田潤也
(リサーチャー)黒川優珠
(語り)玉木宏
(撮)森岡知之
(出)ブルース・シュルマン(1959年生まれ)「The Seventies」の著者
カート・アンダーセン(1954年生まれ)「ニューヨーク・マガジン」元編集長で「ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史」の著者

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