「世界サブカルチャー史 欲望の系譜 シーズン2」
「逆説の60-90s」
第2回「欧州編 70年代」
<第1章「閉塞 Blockage」>
「ひまわり」(1970年)(監)ヴィットリオ・デ・シーカ(出)マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン
戦後15年がたち、経済的な復興が進む欧州でしたが、戦争が残した傷跡はまだまだ人々の心に突き刺さったままでした。
映画「ひまわり」は、そんな戦争が残した負の遺産を国境を越えた悲劇の恋愛ドラマとして描いた大ヒット作です。
ヘンリー・マンシーニによる哀愁のメロディーは、忘れかけていた戦争の傷跡を多くの人々に思い出させました。
「惑星ソラリス」(1972年)(監)アンドレイ・タルコフスキー(出)ナターリア・ボンダルチュク、ドナ―タス・バイオニス
人間の心の奥底に潜む意識を実体化させる能力を持つ謎の海が広がる惑星ソラリス。
そのことを知らずに観測を行っていた研究者が次々と自殺する事件が発生。
その事件の調査に来た主人公の目の前に、突然、亡くしたはずの妻が現れます。
主人公はそれが本物の妻ではないと理解しながらも、彼女に心惹かれて行きます。
「君が現れた理由は知らないが、科学的真実などより、僕には君が一番大切なんだ」
主人公の妻への言葉
「タルコフスキーが言わんとしたことは現実の不確定性です。超現実的なことがむしろ本当らしいということなのです」
「この頃、転換が起きていました。社会全体を変えることはできなくても自分の内面は変えられる。
革命は起こせないが薬物を使ったり、インドの寺院へ行ったりして瞑想をすることはできる。
人々はスピリチュアル・ライフに傾倒していったのです」
モリス・バーマン
音楽の世界でも精神世界の追求が重要なテーマとなっていたのが70年代でした。
すでに解散していたビートルズのメンバーはその先駆者だったと言えます。
「Living In The Material World」(1973年)ジョージ・ハリソン
はじめ僕らは貧しかったけど ツアーで豊かになった
物質世界にとらわれていたんだ
スピリチュアルな高みから振り返るとなんて美しい思い出だったんだろう
ビートルズのメンバーでも特にインドでの修行に積極的だったのはジョージでした。
インドで瞑想に触れる機会があった。
人生で一番大切なことは自分の内面についての知恵を持つことだ
それ以外は取るに足らないことだと気づかされたんだ
ジョージ・ハリソン
「ホーリーマウンテン」(1973年)(監)(出)アレハンドロ・ホドロフスキー(出)ホラシオ・サリナス
精神世界への傾倒を象徴する前衛的な映画。
元祖カルト映画の一本「エル・トポ」(1970年)で一躍その名を世界に知られたホドロフスキーがより宗教色を強めた作品です。
この作品にはジョージ・ハリスンと同じように精神世界への探求に熱心だったジョン・レノンが出資しています。
<第2章「憂鬱 Melancholy」>
「暗殺の森」(1970年)(監)ベルナルド・ベルトルッチ(出)ジャン=ルイ・トランティニャン、ドミニク・サンダ
第二次大戦中、ファシズムにのめり込み、自分の恩師を売り渡した青年の苦悩の人生と混沌のイタリアを描いた歴史大作。
ベルトルッチがこの映画で目指したのは、過去のファシズムの克服です。
1940~1945年の間に生まれたイタリア、フランス、ドイツの映画監督たちは親世代との葛藤に苦しんだ世代でした。
父親が兵士として戦争に参加していても当たり前の世代でした。
そんな世代を代表する監督ベルトルッチはその後さらなる同時代の歴史大作を生み出します。
「1900年」(1976年)(監)ベルナルド・ベルトルッチ(出)ロバート・デニーロ、ドミニク・サンダ
イタリアにおけるファシズムとコミュニズムの対立の歴史を3時間を越える長尺で描いた歴史大作です。
1970年12月、西ドイツのブラント首相がポーランドの首都ワルシャワにあるユダヤ人慰霊碑の前で跪き謝罪の祈りを捧げました。
この行為は、ドイツ右派が左派に接近するきっかけとなります。
ここから東西ドイツの間で国交が回復し、東西冷戦全体にも雪解けの動きが見え始めます。
1972年、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問し、米中の国交も回復しました。(この年、日本も中国との国交を回復しています)
<オイルショック>
1973年、第4次中東戦争が始り、その影響で石油価格が高騰。「オイルショック」が始まります。
それまで西欧が命運を握っていた世界の未来において、中東の産油国がもう一つ重要な鍵を握っていることが明らかになった事件でした。
1972年、世界の未来について研究する頭脳集団ローマクラブが「成長の限界」を発表。
そこで明らかにされたのは、世界の成長は限られた資源により避けられないという事実でした。
そうなると、その限られた資源を握る国々の存在を無視できなくなるのは当然でした。
そうした世界の未来への不安は、多くの人々を過去へのノスタルジーへと向かわせました。
その流れに乗った映画が、アメリカで予想外のヒットとなり、一大ブームとなりました。
「アメリカン・グラフィティ」(1973年)(監)ジョージ・ルーカス(出)リチャード・ドレイファス、チャーリー・マーチン・スミス
「Where were you in '62 ?」
1962年ビートルズが登場する直前、アメリカの青春時代最後の年を舞台にしたノスタルジー青春映画です。
それは監督であるジョージ・ルーカスの青春時代を描いた作品でしたが、それがまさかの大ヒットになりました。
(この映画の大ヒットがなければ、次回作「スター・ウォーズ」の企画は実現しなかったかもしれません!)
この他にも「華麗なるギャツビー」「スティング」「ペーパームーン」「ラスト・ショー」などが次々ヒット。
それらはどれも1930年代を舞台にしたノスタルジックな映画でした。
それらの映画に使用されたラルフ・ローレンなどのファッションもまた一大ブームとなりました。
「エマニュエル夫人」(1974年)(監)ジュスト・ジャカン(出)シルビア・クリステル
夫の仕事でタイに住むことになった主婦エマニュエルが現地で性に目覚め、自由を求めて変身して行く姿を描いた作品。
ソフト・ポルノというジャンルを生み出し、女性の観客も呼び込むことに成功したことで大ヒットとなりました。
それは多くの女性たちに、自由なセックスを求める権利があることを知らせる役割を果たしたとも言えます。
多くの女性たちは相変わらず抑圧されていました。
70年代はまだ女性の居場所は家庭だとされていたのです。
フランスの女性は70年代初頭まで男性の保証人なしでは銀行口座が開けませんでした。
スイスでは1970年代に入るまで、女性の参政権すらありませんでした。
オリバー・スペック
<第3章「分裂 Segmentation」>
1975年全欧州安全保障会議が開催されました。そこでEC(欧州共同体)が拡大し、その後、誕生するEU(欧州連合)の基礎ができました。
異なる国々がなんとか相互理解をしながら、統一を目指す。そんなヨーロッパの姿を象徴するかのような映画が公開されました。
「家族の肖像」(1974年)(監)ルキノ・ヴィスコンティ(出)バート・ランカスター、ヘルムート・バーガー
引退した大学教授の家で間借り人として暮らす人々が起こすトラブルの数々。
世代も、考え方も、何もかも異なる人々に生活を滅茶苦茶にされた教授は苦悩します。
教授が彼らと対立、激論、交流、対話、理解をするまでを描いた異色のホーム・ドラマです。
見知らぬ人々に囲まれて邪魔をされる。
すべては私の想像を超えていた。始末の悪い間借り人だ。運が悪かった。
だが私は考えた。リエッタの言う通り”家族”と思えばいい。
どんな結果になっても受け入れられる。この”家族”のためにね。
バート・ランカスターが演じた教授
この時代に世界中で起きていた戦後世代と戦前世代の断絶を象徴的に描いた作品であり、戦前生まれの巨匠ヴィスコンティにとっては遺作となりました。
この時期、イタリアは左派の過激派によるテロ事件が激しさを増していました。
1978年5月、元首相のアルド・モーロが左派の過激派「赤い旅団」によって誘拐され殺害される事件が起き、世界に衝撃を与えました。
当時の状況を「内戦」と呼ぶ人もいるほどです。
実際300人以上の死者が出ました。主に過激派組織に参加した若者たちです。
多くの若者が武装闘争に命を燃やし罪のない犠牲者もたくさんでました。
ディディ・ニョッキ
世代間の対立は不気味なホラー映画として象徴的に描かれてもいます。
「ザ・チャイルド」(1976年)(監)ナルシソ・イバニエス・セラドール
子供たちによって大人たちが虐殺されてしまった謎の島を舞台にしたホラー映画。
(無邪気な子供を殺せずに殺されてゆく大人たちを描きましたが、残念ながら今なら子供を殺す大人はそう珍しくありません)
「エクソシスト」(1973年)(監)ウィリアム・フリードキン(出)リンダ・ブレア、マックス・フォン・シドー
リアリズム映画の巨匠フリードキンが「悪魔祓い」をリアルに映画化し、世界中が恐怖した大ヒット作。
今見ても、そのリアルな描写は怖い。ホラー映画の歴史的傑作です。
「サスペリア」(1977年)(監)ダリオ・アルジェント
イタリア映画界が生んだホラー映画の傑作。
スタイリッシュな映像と音楽、そして美女が襲われる惨劇というホラー映画の新しいスタイルを築いた作品。
なぜホラー映画が流行したのか?
おそらく当時の社会の緊張と恐怖を反映したものだったと思います。ホラー映画は暮らしに潜む「恐れ」を「おとぎ話」に変えてくれるのです。
ディディ・ニョッキ
ちゅうど同じ時期に「大地震」「タワーリング・インフェルノ」「ジャガー・ノート」「サブウェイ・パニック」「日本沈没」など、「パニック映画」の世界的ブームもありました。
これも社会不安の影響から生まれたブームだったと言えそうです。
ホラー映画の中心は決まって女性がいます。70年代の女性解放運動への「反発」が見てとれるのです。
オリバー・スペック
<ウーマン・オブ・ザ・イヤー>
1976年1月発行の「TIMEタイム」の表紙は、1975年を象徴する存在として複数の女性たちの写真が掲載されました。
「マン・オブ・ザ・イヤー」ではなく「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」となりました。
彼女たちは男性の国アメリカにまるで移民の波のように押し寄せてきた。
彼女たちは警察官、裁判官、軍司令官、電話交換手、タクシー運転手、配管工、編集者、企業のエグゼクティブ、あるいは母親、専業主婦かもしれない。
だが以前のような疎外された存在でないことは確かである。
「TIME」1976年1月5日号より
<第5章「諧謔 Humor」>
1975年はベトナム戦争が終結した年です。
アメリカにとっての屈辱的な敗戦とウォーターゲート事件によるニクソンの退場は、世界中を驚かせ失望させる出来事でした。
人々は現実の愚かさにウンザリしますが、怒りを向ける矛先はあらかじめ失われていました。
それが70年代のリアルだったのだと思います。
「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」(1975年)テリー・ギリアム、テリー・ジョーンズ(出)モンティ・パイソン
アーサー王と円卓の騎士の物語をパロディ化した傑作コメディ映画。
「オックス・ブリッジ」つまりオックスフォードとケンブリッジのユーモアです。
モンティ・パイソンのほとんどがオックスフォードかケンブリッジで教育を受けていました。
エスタブリッシュメントが産んだカルチャーなのです。このコメディーはある意味でエリート主義者的なのです。
万人に通じる笑いではなく非常に知的なコメディーです。面白がるためのハードルが高く多くの人々が排除されてしまいます。
D・J・テイラー
モンティ・パイソンは70年代で解散しますが、その後も映画やテレビの世界で彼らのブラックなユーモアは生き続けます。
「未来世紀ブラジル」などのテリー・ギリアムはその直系ですが、日本におけるYMOも同じようにエスタブリッシュなユーモアを売りにしていました。
<B級カルト映画黄金時代>
「酔拳」(1978年)(監)ユエン・ウーピン(出)ジャッキー・チェン
ブルース・リーの死後、消えかかっていたカンフー映画のブームを復活させたジャッキー・チェンの大ヒット作。
ここから1980年以降、ジャッキーの黄金時代が始まります。
「夕陽のギャングたち」(1971年)(監)セルジオ・レオーネ(出)ジェームス・コバーン
クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」から始まったマカロニ・ウエスタン・ブームはセルジオ・レオーネの活躍で世界へ広がりました。
その残虐な描写とコミカルな演出は、その後、クエンティン・タランティーノらの作品に大きな影響を与えることになります。
「イレイザーヘッド」(1977年)(監)デヴィッド・リンチ
カルト映画の代表作でデヴィッド・リンチ監督の出世作となった不気味な大人向けファンタジー映画。
「ロッキー・ホラー・ショー」(1975年)(監)ジム・シャーマン(原)リチャード・オブライエン
カルト・ムービーと呼ばれるジャンルの原点となったロック・ミュージカルの大ヒット作品。
何度も映画館を訪れる熱狂的なファンが、コスプレしたり、合いの手や合唱をしながら映画を見るという観客参加型映画の原点。
映画の中で狂気の学者フランクフルター博士は、館に迷い込んできた主人公にこう言って誘惑します。
「願うだけではダメ。夢になりなさい」
<第5章「真実 Prawda」>
東欧諸国では、東西の雪解けが影響したのか西欧からの文化が流入し続けていました。
しかし、1973年のオイルショック以降、ソ連とその周辺諸国の経済状況は急激に悪化します。
そんな中、共産主義社会の問題点に迫る画期的な映画が生まれました。
「大理石の男」(1977年)(監)アンジェイ・ワイダ
ポーランドを舞台に新しい世代の女性ジャーナリストが、かつて英雄として活躍した伝説の労働者の真実を描こうとした作品。
共産主義政権がプロパガンダのために作り上げた「大理石の男」の真実を暴くことは、危険ですが意義の大きな挑戦でした。
監督のアンジェイ・ワイダは、映画の企画を断られ続け、10年かけて映画化にこぎつけました。
私たちは強い信念を持って、この映画を作っていました。
誰かが声をあげなくてはいけない。
私も脚本家もあの若い俳優たちも
私たちは真実を語ろうとしただけです。
アンジェイ・ワイダ
1980年ポーランドでは自主管理労組「連帯」が誕生。
共産党政権に対抗できる新たな政治組織となり、「ベルリンの壁」の消滅に向けた大きな一歩となりました。
<第6章「空虚 Emptiness」>
変えられない社会を生きる若者たち。彼らはそれぞれに生きる意味を見つけようと苦悩していました。
その中で「ダンス」に生きる意味を見出そうとする若者を主人公とした映画が世界的大ヒットとなりました。
「サタデーナイト・フィーバー」(1977年)(監)ジョン・バダム(出)ジョン・トラボルタ
今じゃずいぶんましな暮らし ダンスにかけては誰にも
負けない 明日を見つめて生きているんだ
ニューヨークは俺たちに希望をくれる
みんな生きている へこたれずに
「ステイン・アライブ」byザ・ビージーズ
社会に表れる2つの側面です。一方に活気あふれる若者文化があり、他方にスローダウンする反動がある。
この2つは多くの摩擦を生むと同時に多くの創造性を生み出していたのです。
ディディ・ニョッキ
<イギリス病>
1970年代のイギリス経済は最悪の状態になり、「イギリス病」という言葉まで生まれるほど危機的な状況にありました。
先が見えず混乱していました。暴力的な時代だったことを覚えています。
D・J・テイラー
政治不信、労使闘争、週3回の計画停電はまるで戦時中のような状態だったようです。
「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」byセックス・ピストルズ
女王バンザイ 女王は人間じゃない
お先真っ暗なのにイギリスは夢心地さ
欲しいものも必要なのも 誰にも指図されるんじゃない
ここにも お前にも未来なんかないのさ
セックス・ピストルズの成功は、そもそも仕掛けられたものでした。
パンク・ファッションのブティック「セックス」のオーナーでバンドの生みの親マルコム・マクラーレンとデザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッド。
二人のプロモーションと才能なくして、彼らのブレイクはなかったでしょう。
「パンク」は初めからファッションとコラボした商業ベースのブームだったこともあり、ブームはあっという間に終わりを迎えます。
ただし、そのブームを利用するように登場した優れた才能たちは、それぞれが次なる方向へと歩み出し、次なるムーブメントを起こすことになります。
ニューウェーブのブームは、音楽的に実にバラエティーに富んでいて、80年代のワールド・ミュージックの先駆けでもありました。
スタイル・カウンシル、クラッシュ、エルヴィス・コステロ、ポリス、XTC、ジョイ・ディビジョン、ジョー・ジャクソン、プリテンダーズ・・・
<第7章「決別 Farewell」>
1979年6月、核兵器削減に向けた条約SALTⅡに米ソが調印。
経済的不況を脱するため米ソ冷戦に歯止めをかけるような流れが生まれていました。
ところがこの年、アフガニスタンで起きた紛争にソ連軍が介入し、アフガン戦争が勃発します。
これは21世紀におけるソ連のウクライナ侵攻同様、世界中からの批判を浴びることになります。
1980年のモスクワ・オリンピックにはアメリカや日本などの国々が参加をボイコットする事態にまで発展。新たな冷戦が始まることになりました。
同じ頃、アフガン紛争の影響もあり、世界全体の経済不況がさらに悪化。
各国政府は、それまで続けてきた教育福祉重視の政治を見直すことになります。
そんな中、登場したのがイギリスの政治を大きく変えた「鉄の女」マーガレット・サッチャーでした。
選挙戦でサッチャーに敗北した労働党のキャラハンは、退陣の夜、こう言い残しました。
「潮目が変わった。人々は戦後のイギリス社会を否定した」
ここからイギリスでは社会福祉と教育予算の大幅な削減が始まります。この流れが1980年代の世界潮流となります。
「ブリキの太鼓」(1979年)(監)フォルカー・シュレンドルフ(原)ギュンター・グラス
ファシストに支配されたドイツで大人になることを拒否して、子供のまま生きることを選択した少年が主人公のブラック・コメディ歴史大作。
原作者のギュンター・グラスは、その後、自身がナチスの少年兵だったことをカミングアウトします。
戦争によって、青春を奪われ、家族を奪われ、未来を奪われた少年の怒りと、ヒトラーを信じてしまったことへの悔恨が生んだ作品でした。
大人になることを拒否したかのような1970年代はこうして終わりを迎え、痛みを伴う大人への成長を選択した1980年代が始まることになります。
<参考>
「世界サブカルチャー史 欲望の系譜 逆説60-90s 欧州70年代」
(製統)小野さくら、丸山俊一
(D)佐藤恵正(P)高橋才也(撮)高岡洋雄(編)高田好子(語り)玉木宏(声)古賀慶太
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