激突の混沌の時代が生み出したサブカルの原点

「世界サブカルチャー史 欲望の系譜3」
「逆説の60-90s」
「日本編 60年代」

<第1章 衝突 Confliot>
 1960年、1951年に署名締結された日米安全保障条約の改訂批准に向けた議論が国会で行われます。
 議会が混乱する中、5月20日、強行採決によって条約は成立。これにより、日本とアメリカの関係はより深いものになりました。

「青春残酷物語」(1960年)(監)(脚)大島渚(出)桑野ゆき、川津祐介
 大島のこの作品は、多くの人にとって安保闘争の失敗を象徴するものとなりました。映画のラストシーンは安保闘争の葛藤を象徴しています。
 主人公の清そして彼と恋仲にある真琴の二人は「自分たちにもう世界は手に負えない」と決心を固めます。
 一緒にはいられないのです。二人には勝算はありません。

イゾルデ・スタンディッシュ(1956年生まれの映画評論家)

「俺たちは自分を道具や売り物にして生きてゆくより他にないんだ。世の中がそうなっているんだ。俺はひとりいくらがんばったって・・・」
 彼の作品は「予感の映画」と呼ばれ、松竹の若手監督の活躍は松竹ヌーヴェルヴァーグとも呼ばれました。
 それは同時期にフランスの映画界に革命を起こしていたヌーヴェルヴァーグに見事に呼応する運動でした。
 彼らの作品の主題の多くは、「アメリカの傘下に入った日本という国は何なのか?」「本質を見失いつつある日本人の『偽自己』とは?」でした。

<第2章 平均 Average>
 1960年代初めは、日本が東京オリンピックに向けて急速に変化している時代でした。
 高度経済成長は、日本人を世界一の働き者に変え「モーレツ社員」という言葉が生まれるほどでした。
 しかし、誰もがその波に乗ったわけではなく、そのアンチとも言える「無責任男」も現れます。
「ニッポン無責任時代」(1962年)(監)古沢憲吾(出)植木等、ハナ肇
 この映画の主人公を演じた植木等(クレイジー・キャッツ)は、その映画のテーマ曲「スーダラ節」をヒットさせ、時代の象徴となりました。
 ただし、そうした猛烈サラリーマンよりももっと過酷な環境で働かされる若者たちもいました。
 「金の卵」と呼ばれた中卒で都会に出た集団就職の若者たちです。
 そんな彼らの心を癒した歌は、「ス―ダラ節」とは真逆の歌「上を向いて歩こう」でした。
 坂本九のこの歌は「SUKIYAKI」として海外でもヒットし、1963年にはアメリカで日本人初のチャートナンバー1となります。

<雑誌の時代>
 1960年代初めは、メディアが時代を写し出す鏡として大きな役目を果たすべく急速に発展した時代でした。
 その中心として黄金時代を迎えたのが週刊誌でした。
 中でも「週刊新潮」には斉藤十一という優れた編集者がいて、「サラリーマンの心の国ある欲望や俗物主義」を描き、あばき、満足させるための記事に特化します。
 現在に至る週刊誌の過激な中吊り広告の見出しを考え出したのも彼でした。こうして変わった出版業界の流れは、女性誌にも及びます。
 その結果として生まれたのが、金髪の美しい女性が表紙を飾る働く女性向きの女性雑誌でした。

<第3章 浄化 Catharisis>
 忙しく働く日本人にとっての当時の憧れは「巨人、大鵬、卵焼き」。
 野球中継、相撲中継を見るためのテレビは、この時期急速に普及し、大衆にカタルシスをもたらす映画を上回る存在になろうとしていました。
 1961年4月、その後のテレビ界、歌謡界に大きな影響を与えることになる音楽バラエティー番組「夢であいましょう」の放送が始まります。
 その番組からは、多くの歌手、俳優、台本作家が登場し、その後長く活躍することになりました。
 特に台本作家、作詞家として活躍したのが、永六輔、前田武彦、青島幸男。
 彼らが生み出した多彩な名セリフや流行語の数々は、日本語そのものをも変えるほどの影響をもたらすことになります。
 中でも青島幸男は、テレビの台本作家からタレント、俳優、作家と活躍の場を広げ、最後には政界に進出。東京都知事に当選します。
 彼はテレビの力が政治にも大きな影響力を発揮することを証明し、その後も多くのタレント議員が誕生することになります。
<漫画の時代>
 大衆に人気の新たなメディアとして「漫画」の時代が訪れたのもこの時期でした。
 1959年3月には、週刊少年サンデー、週刊少年マガジンが創刊されています。
 その中で活躍し、あえてタブーに挑戦することでサブカルチャーとしての漫画の力を示したのが「おそ松くん」「天才バカボン」の作者、赤塚不二夫です。

 チビ太の場合なんか、どことなく孤児じゃないかと思わせるだろう。町の空き地に放置されているドカンの中に住んでるんじゃないかといったね。
 決して”家庭の子”じゃない。
 ・・・・・
 高度経済成長で岩戸景気なんてことがいわれ、レジャー・ブームだと新聞雑誌が書いた。
 でもね、一般の子供が、決して豊かだったとはいえないと思う。チビ太が持ってるオデンを、皆で奪い合いすることにリアリティがあったのさ。

赤塚不二夫

 日本の芸能が持っていたタブーをうまく使ってみせる。伝統芸能が別のメディアに変換してギャグ漫画のようなものに変換したと感じます。
松岡正剛

 こうした芸能界の流れを生み出した源流といえる存在だったのが、演劇評論家で落語、文楽などの研究家としても有名な安藤鶴夫でした。
 彼を中心にその影響のもとで立川談志、永六輔、前田武彦、赤塚不二夫らの活躍し始めたと言えます。

「にっぽん昆虫記」(1963年)(監)今村昌平(出)左幸子
 この作品は戦争の直前、非常に貧しい家庭に生まれたトメの人生をなぞるものです。そして日本の歴史を通して彼女の人生の軌跡を追っていくのです。
 歴史上の大きな出来事もこの映画には散りばめられています。彼女はタクシーに乗ってどこに向かっていてデモで道路が通れなくなるんです。
 ですが彼女はそのことにまったく興味がないのです。不愉快なだけです。タクシーが迂回しなければならないので料金が高くついてしまうからです。
 つまり学術的に記録された歴史ではないもうひとつの日本の歴史を見せるという感覚があるのです。

イゾルデ・スタンディッシュ

<第4章 沸騰 Ebullition>
 1962年、東京は1000万都市となり、オリンピックに向けた準備が本格化していました。

「乾いた花」(1964年)(監)篠田正浩(原)石原慎太郎(出)池辺良、加賀まり子
 ヤクザとプチブル娘の出会いと破滅を東京を舞台に描いた作品は1年半お蔵入りとなりました。
 華やかな東京の裏側を描いたダークな作品はヒットしない時代だったのです。
 そんな時代と社会に違和感を感じていた加賀まり子は、日本を離れパリへと向かいます。
<東京オリンピック>
 1964年10月11日、東京オリンピックが開幕します。
 このオリンピックは「筆のオリンピック」と呼ばれるほど、多くのライターや作家、評論家たちがそれぞれの視点で記述を残した大会でもありました。

 現代にいたって、人間にとっては「行為」すらが枯渇してしまい、我々は真の行為を行うことも、目にすることも、ほとんど無くなってしまった。
 ただ一枚のメダルの償いのために競われる灼熱の競技の内にこそ人間の真の行為があり、真の感動がある。人間の真の尊厳が保たれるはずである。

石原慎太郎「人間自身の祝典」より

 もちろん大会を単純に喜べない意見もありました。

 二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。
 オリンピックの開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった。
 もう戦争のことなど忘れたい、過ぎ去った悪夢にいつまでもしがみつくのは愚かしいという気持ちはだれにもある。
 そのくせ誰もが実は不安なのだ。

杉本苑子「あすへの記念」より

 戦争の問題はまだ過去の問題ではなく、まだ人によっては現在進行形でした。そのことをブラックなコメディ映画として問い直した名作が誕生しました。
「肉弾」(1968年)(監)岡本喜八(出)寺田農、大谷直子

 率直に言って世界の映画史の中で最もすばらしい作品のひとつだと思います。
 この作品は日本の50年代に流行した神風映画の慣習に反しているんです。これら50年代の日本映画はある意味ジレンマに陥っていました。
 イギリスやアメリカにとってはどうでもいいことだったのです。私たちは戦争に勝ったからです。英雄を目にすることもできました。
 残虐な行為もすべて絨毯の下に押し込められました。
 軍事裁判を受けることもありませんでした。犯罪者扱いもされませんでした。
 しかし日本人は、日本の映画人は、この問題にどう対処したのでしょうか?
 若者たちが神風特攻隊として出撃するために恐ろしい犠牲を強いられたのですから、彼らを犯罪者とは言えません。誹謗中傷することはできないのです。
 そこで日本映画界は発想を逆転させました。
 彼らは「悲劇のヒーロー」という考え方に結びつけていったのです。しかし、この考え方は政治的にも利用されました。
 神風特攻隊を作ることを思いついた大西瀧次郎は遺書にこう書きました。
「日本は戦争に負けるがこの特攻精神で将来日本を再建するのだ」
 つまり「失するも気高く」という考えです。
 「肉弾」はそのような通念を取り上げて愚かだと言ったのです。岡本はブラックコメディに絶対的な茶番劇に仕立てるのです。

イゾルデ・スタンディッシュ

 東京には中心がない。この都は多足多頭である。
 人々は熱と埃と響きと人塵芥のなかに浮いたり沈んだりして毎日を送っているが自分のことを考えるのにせいいっぱいで、誰も隣人には関心を持たない。
 東京は日本ではないと外人にいわれるたびに私は、いや東京こそはまぎれもなく日本なのである。と答えることにしている。

開高健「サヨナラトウキョウ」より

<第5章 任侠 Ninkyo>
「三大怪獣 地球最大の決戦」(1964年)(監)本多猪四郎(特)円谷英二(怪)キングギドラ、ラドン、ゴジラ
 映画から始まった怪獣ブームは、連続テレビ番組としてスタートした「ウルトラQ」によって、決定的なものとなりました。
 日本のサブカルチャーを代表するキャラクター「怪獣」はここから世界へと広がることになります。
<少年漫画の黄金時代>
 怪獣映画のブームと並行して子供たちの間でブームになったのは少年漫画でした。
 手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄、赤塚不二夫ら、トキワ荘のメンバーを中心にヒット作品を連発していた少年サンデー。
 それに対し、少年マガジンが「あしたのジョー」「墓場鬼太郎」は大人の読者を意識した作家で勝負します。
 さらには、それ以上に大人向けのスタイル「劇画」も誕生し、辰巳ヨシヒロ、さいとうたかお、白戸三平などが活躍を開始。
 こうして漫画は子供向けだけではなく、大人も女性もターゲットにした幅の広い文化へと進化し始め、日本のサブカル文化の中心となります。

 敗戦後の占領時代ヒーローが失われたわけです。
そこに劇画家が「無用ノ介」「忍者武芸帳」「サスケ」のような想像上の無名の侍や忍者をヒーローとして描くことで新たなヒーロー像が誕生。
こうしたヒーローたちが戦後日本のサブカルの世界を動かす大きなエンジンになりました。

松岡正剛

 そんなヒーロー不在の日本では、海外からのヒーローの活躍が目立ちました。
 1966年に来日したビートルズ。1967年に来日したミニスカートの女王、ツイッギー。
 そして、日本人が見出した新たなヒーローが任侠映画の主人公ヤクザでした。
「昭和残侠伝」(1965年)(監)佐伯清(脚)松尾武、山本英明、松本功(出)高倉健、池部良
「博奕打ち 総長賭博」(1968年)(監)山下耕作(出)鶴田浩二、金子信雄
 当時、ヤクザ映画人気が特徴的だったのは、右翼の人気は当然として左翼の学生たちにも大人気だったことです。
 親分や他の組の権力者からの理不尽な行為に耐えかねて、最後に戦いを挑む主人公は反権力の若者たちにとってもヒーローだったのです。
 それは右派のアイドル的作家三島由紀夫にとっても同様でした。

 思えば私も、我慢を学び、辛抱を学んだ。
 そう云うと人は笑うだろうが、本当に学んだのである。
 自分ではまさか自分の我慢の美しさを見て安心するのである。・・・
 スクリーン上の鶴田の行動は、すべて幾重にも相矛盾してのしかかる「しがらみ」の快刀乱麻の解決としてではなく、つねに、各種のしがらみから彼が共通の基本原理たる「しがらみ」に則って起こされるのである。

三島由紀夫「『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの鶴田浩二」より

 自分の親分を刺して殺すわけです。絶対にやってはいけないことです。理想的なヒーローではないことに完全に目覚めている。それでも「やることはやる」と言うスタイルが非常に面白い。当時の雰囲気と共振していると思うんです。
 例えば「解放区」という言い方があります。あるいは「帝大解体」とか。あらかじめ与えられていた役割や場所に対してその意味合いとか利用の仕方を変える、絶対に手を出してはいけないものに手を出す。
 変えてはいけないものを変えるところで根本的なところで共通点がある。

ファビアン・カルパントラ

<第6章 反発 Resistance>
 1968年10月21日、過激派の学生たちを中心にした新宿騒乱事件が起きました。
 その新宿は、学生運動の活動家だけでなく、泉谷しげるのように路上ライブを行うフォークシンガーたちや舞踏家、画家、劇団員、作家も集まる場所でした。
 それは、日本に生まれつつあったサブカルチャーの中心地だったと言えます。
 その中には、そうした人々の姿をカメラに収めようとするカメラマン森山大道の姿もありました。

「にっぽん劇場 写真帖」(1968年)森山大道
 新宿の街とそこに集まる人々の姿を収めた写真集は、新しい時代の新しい写真スタイルの先駆となりました。

「土方巽と日本人 - 肉体の叛乱」1968年10月9,10日開催
 肉体によってすべてを表現する究極の舞踏家、土方巽の舞踏公演。
 芸能の起源というか、それを見せる力を持っているのが土方であり、暗黒舞踏でした。
 日本のサブカルの根本はプリミティズムなんですよ。
 もうちょっと正確に言うとラディカルというものを、どうやったら日本を見せられるか?
 それが67年、68年にバーッと頂点に向かっていく。

松岡正剛

<第7章 知性 Intelligence>
 映画、舞踏、写真、文学、音楽が新宿を中心に盛り上がる中、同じように新宿を中心に活動する演劇グループは新たな時代を迎えつつありました。
 寺山修司(実験劇場天井桟敷)、鈴木忠志(早稲田小劇場)、唐十郎(状況劇場)らは、この時期に活動を開始。この後、20世紀後半の演劇界の中心となります。
 その中でも新宿花園神社を中心に活動していた唐十郎と状況劇場が登場する時代を象徴する映画が公開されます。
「新宿泥棒日記」(1969年)(監)(脚)大島渚(出)田村孟、佐々木守(出)横尾忠則、唐十郎

 一つの時代の精神のようなものは表現できたかもしれないけれど、さらにそれがどう変わっていくか、というところまでは行けなかった。
 これは、僕の力量不足であると同時に、僕の賭けた時代の制約だったろうという気がする。

大島渚

 踏ん張り直すとしたら何をなすべきだったのか?ひと言で言うと「日本を問う」ということだった。
 本当に日本を問うチャンスは60年代ラスト全共闘で大学が崩壊して燃えて、ヘリコプターで水がまかれる間につかむべきことがつかめなくて、
 三島由紀夫は勘違いをしたし、かつ日本全体が政府の力のせいか、何の力かよくわかりませんが間違えていくんです。

松岡正剛

 1969年1月、東大安田講堂占拠事件が起きます。この事件により、大混乱となった東京大学はこの年、入試を中止します。
 事件後、初の芥川賞に選ばれた庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の主人公「ぼく」は、この中止された東大を受験する予定でした。

・・・ぼくがしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく、他の人たちも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。
 つまりこの入試中止をむしろ一つのチャンスのように考えて、ぼくはぼく自身を(そしてちょっと大袈裟だが敢えて言うならばぼくの知性を)自分の中でどこまで育てることができるかやってみようと、と。

庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」

 過激な暴力と言論と芸術の時代は終わり、しらけた空気の中、知性が重視される平和で新しい時代が始まろうとしていました。

<参考>
「世界サブカルチャー史 欲望の系譜3 逆説の60-90s 日本編60年代」

(製統)小野さくら、丸山俊一
(D)寺田昴平(P)高橋才也(撮)井上裕太(編)朱志文(語り)玉木宏(声)古賀慶太 、品田美穂

トップページヘ