MTV時代が生んだ虚飾と欺瞞の文化

「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」

第4回 「アメリカ葛藤の80s」

<映画・音楽がサブカルではなくなった時代>
 1980年代、東京・神奈川在住だった僕は、リアルタイムでこの時代のヒット映画を見たり、音楽を聴いていました。
 しかし、当時のヒット映画をもう一度見たいかというと、そうでもない気がします。それはそれらの作品が、あまりに時代の流れに乗った作品だったせいのような気がします。1970年代の作品が、当時は難解だったものの今になって新鮮に感じられ、より深く理解できるのとは正反対です。
 当時、MTVでよく流されていた曲も、今もう一度聴いても、それほど魅力的には感じられない気がします。もちろん聞き飽きただけかもしれませんが・・・。
 「トップガン」のようなヒット曲満載の映画もまた過去の作品のイメージになってしまうのは、同じ理由かもしれません。なんだか皮肉ですが。
 でもそれこそが、1980年代のサブカルチャーの特徴だったのだとも思います。
 実は、この時代の本当の意味でのサブカルチャーはここにあげられた作品ではないようにも思えます。
 「風の谷のナウシカ」や「アキラ」(音楽は、インドネシアのガムラン)など日本初のアニメーションや任天堂のファミコン・ゲームこそが、実はこの時代のサブカルチャーだったように思います。この時代から、アニメやゲームのカルチャーは、すでに世界中のカルチャーに影響を与え、次世代の文化や人々の生き方をも変え始めていたのです。この後、1991年にはインターネットが登場しますが、それはまた別のお話。
 さらに言うと、音楽なら「ラップ」(ラップがブロンクスを出て世界に広がったのが80年代)や「ワールド・ミュージック」(ワールド・ミュージックの祭典WOMAD初開催は1982年)と呼ばれた世界各地のポップ・ミュージックがサブ・カルチャーの象徴的存在だった気がします。
 1980年代の半ば、すでにサブカルチャーの中心はアメリカだけではなく、世界各地へと拡散していました。

<第1章「虚飾 Vanity」>
 1980年代は、70年代に進んだ自由と平等の改革に対し、60年代にまで戻そうとする反動、保守回帰の時代だったと言えます。
 1979年7月12日シカゴの野球場で開催された「ディスコ くたばれ!」は、ロック音楽の専門ラジオ番組を担当する人気DJスティーブ・ダールが仕掛けた大がかりなイベントでした。70年代後半に「サタデイナイト・フィーバー」の大ヒットなどで一大ブームとなったディスコのレコードを観衆が持ち寄り、それを爆破するという参加型イベントでした。
 当時、音楽ファンの間では単純なリズムと軽薄な歌詞のディスコ・ミュージックは、多くの音楽ファンから批判の対象になっていました。ロック・ファンだった僕もその一人でしたが、アメリカではその批判は純粋に音楽的なものではなく様々な偏見に基づく保守的な運動の一つでもあったようです。そこには、ディスコに集まる黒人、ラテン系移民、LGBTなどへのヘイト感情が隠されていたというのです。
 そんな状況だった1980年、同じ黒人音楽でもディスコによって忘れられつつあったR&Bへのオマージュに満ちた映画「ブルース・ブラザース」が大ヒットしました。黒人のレジェンド・ミュージシャンたちへのオマージュに満ちたこの映画もまたアンチ・ディスコの意思表示の一つでした。しかしこうした批判を受けながらも、ディスコには多くの若者たちが集まり、虚飾に満ちた80年代を象徴する存在であり続けました。
 この時代は、自分自身を重視する「ミーイズム」の時代とも言われ、家族の中ですら心を開かない寂しい時代が始まりつつありました。家族もまた虚飾に満ちた存在になりつつあったのです。
 日本では、山田太一が「岸辺のアルバム」(1977年)、「ふぞろいの林檎たち」(1981年)などで、そんな家族の姿をいち早く描きましたが、アメリカでも同じ状況が始まっていました。  1980年のアカデミー作品賞受賞作「普通の人々」はまさにそんな「家族の崩壊」を描いた名作でした。この映画が初監督だったロバート・レッドフォードはこの作品でいきなりアカデミー監督賞も受賞しています。

 アメリカでは家族という社会単位は腐食しつつあり、誰しもがその潜在意識のなかで家族に不安をいだいていると思います。
 家族生活の型や儀式的な部分は失われてしまいました。

ロバート・レッドフォード

<第2章「焦燥 Impatience」>
 80年代初めアメリカの経済は悪化し続けていて、1982年の失業率は10.8%に達していました。それに対して、ロナルド・レーガン新大統領がとったのは、社会福祉などの事業を地方にまかせることで政府を小さくする「新自由主義」政策でした。もちろん地方行政には、それを補う国家レベルの予算があるわけはなく、社会福祉、教育の分野での予算の大幅削減が行われることになりました。それは、実質的には「弱者切り捨て」の政策でもありました。

 テイラー・ハックフォード監督作「愛と青春の旅立ち」(1982年)の原題は「A Officer and Gentleman」。アメリカの貧しい労働者が、労働者階級から自力で脱出するために、そのための唯一の選択肢として軍隊での出世を目指す物語でした。それはアメリカの多くの若者たちが体験したもう一つのアメリカン・ドリーム物語でした。それは映画「ロッキー」よりは現実的で可能性のあるリアルな成功への物語として大ヒットしました。
 70年代にフェミニズム運動が盛り上がり、男性と平等の権利を得るようになった女性たちは、80年代に訪れた保守反動の流れによって、再び「ガラスの天井」によって道を阻まれることになりました。そうした自立を目指す女性に対して厳しい時代に、自分が好きなダンスの世界での成功を目指す女性の挑戦を描いたのが、エイドリアン・ライン監督の映画「フラッシュダンス」(1983年)でした。音楽の良さ、振付の良さもあ、映画は大ヒット。そのおかげで女性たちの間でダンスブームが巻き起こりました。

<第3章「愛国 Patriotism」>
 1983年9月1日、大韓航空の旅客機がソ連上空を侵犯したして撃墜される事件が起きました。
 1981年に民主党のジミー・カーターに代わり大統領となった共和党のロナルド・レーガンは、当初からソ連を敵視していました。1980年のソ連によるアフガニスタン侵攻の際には、「悪の帝国」と呼び、50年代の冷戦時代に匹敵する敵対状況を自ら生み出しました。
 1980年のモスクワ・オリンピックへの出場もボイコットしていたアメリカでは、1984年にソ連抜きでロサンゼルス・オリンピックが開催され国威発揚に利用されることになりました。
 そんな冷戦状態の中で公開されたトニー・スコット監督の「トップガン」(1986年)は、仮想敵国にソ連を意識して製作された映画として大ヒット。それは時代のムードに見事に乗った映画でした。その続編が公開された2022年に奇しくもロシアがウクライナへと侵攻、またも映画への追い風となりました。
 この映画によって、アメリカはベトナム戦争の後遺症から前向きになろうとしていましたが、それにまったをかける作品もまた現れます。
 自分自身もベトナムの戦場を体験した監督オリバー・ストーンによるアカデミー作品賞受賞作「プラトーン」(1986年)は、戦場のリアルを始めて画面に映し出した名作とも言われます。(ただし、僕には敵対するベトナム人の描き方はまだまだ一方的に見えてしまい不満でしたが・・・)その後、アメリカ近代史の研究者としても大きな仕事をすることになるオリバー・ストーンは、当時のレーガンによるアメリカの政策に対しこう述べています。

 アメリカ政府はベトナムの教訓を忘れて再び過ちを犯している。
 私たちは忘れるということを過小評価してはならないと思う。

オリバー・ストーン

 こうした愛国心の変化を示すのは、「ロッキー」でアメリカン・ドリームの再生を描いたシルベスター・スタローン主演の映画「ランボー」シリーズでした。
 テッド・コッチェフ監督による第一作「ランボー」(1982年)は、ベトナムからの帰還兵が、田舎の街で保安官からの偏見によって危機に追い込まれ、ついにはたった一人で戦争を始めてしまうという、戦争アクション映画でした。それはベトナムの悪夢から向けだせない兵士たちの悲劇を描いた作品だったと言えます。
 それに対し、、ジョージ・P・コスマトス監督による第二作「ランボー2 怒りの脱出」(1985年)では、主人公の心境は大きく変化しています。
「今度は勝てますか?」と上官に問うランボーは、アフガニスタンでの戦闘に愛国者として命を捧げる英雄として描かれます。まるで彼はベトナムでの悪夢を忘れ去ったかのようであり、何かに洗脳されたかのように戦争への迷いがありません。ランボーは時代の空気をそのまま反映したかのように迷いなき戦士に変身していました。
 2022年「ロッキー4」が再編集されて公開されました。ソ連のボクサー、ドラコとの対戦が話題になってヒットした作品です。時代に合わせたというよりも便乗商法のようですが・・・。やれやれだぜ。

 「ランボー」が公開された1982年に大ヒットしたブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・USA」もまた、同じように時代の空気が生み出したヒット曲です。ベトナム戦争に青春を奪われたアメリカの田舎街に住む若者たちの悲哀を歌った曲にも関わらず、サビの部分の「俺たちはアメリカに生まれたのさ! Born In The USA」とい力強いフレーズが愛国精神の発露と誤解されての大ヒットでした。
 そもそもプロテストソングの元祖とも言えるウディ・ガスリーやその後継者として現れたロック詩人ボブ・ディランに憧れたブルース・スプリングスティーンは、ロナルド・レーガンとは対極に位置しているはずでした。ところが、レーガンは彼の曲を選挙キャンペーンなどで勝手に使用し、話題となり、それがヒットにもつながったのです。
 こうした予想外の展開は、ポップ・ミュージックの歴史では十分に起こりうることです。自分が意図しなくても、世に出た時点で、その作品がどう扱われることになるか、それは作者にもわからないものです。発表された後100年たって、その評価はまったく変わることもあるかもしれません。

「ボーン・イン・ザ・USA」の成功は本当に嬉しかったけど。マッチョなイメージなんて実際の俺とはかけ離れているんだ。ある種の偶像を作り出して結局それに圧倒されたんだ。

ブルース・スプリングスティーン

 1984年は、前述のとおりロサンゼルス・オリンピックの年でもありました。その前回のモスクワ・オリンピックは、アフガニスタンへのソ連軍の侵攻への批判からアメリカなど西側諸国の多くが参加をボイコットしていました。それに対し、ロサンゼルス・オリンピックではソ連など東欧諸国が参加をボイコット。そのため、大会は、参加国の減少による経営面の問題が心配されました。ところが、レーガン政権肝いりの運営側は、この大会で新自由主義の教科書のように民営化を推し進め、見事に成功を収めます。
 オリンピックの歴史上初めて、大会運営が黒字を出すことになりました。スポンサー企業との独占契約や高額な放送権料の売買により、国際オリンピック委員会の資金を潤沢なものにしたのです。ところが、こうした利益を生み出す巨大収益事業と化したオリンピックは、この後不正の温床となり、ドーピングや誘致のための賄賂の横行など様々なトラブルを抱え込むことになります。その弊害は21世紀に入った今も続き、オリンピックそのものの存在意義を危ういものにしつつあります。
 この年のロサンゼルス・オリンピックの成功は、オリンピックの危機の始りでした。

<第4章「郷愁 Nostalgia」>
 80年代に入ってもアメリカ経済の不調、ソ連との冷戦やイスラム諸国との対立は続きました。そんな状況の中、アメリカが強く正しかった時代に戻りたいという願いが映画史に残るタイム・トリップものの大ヒットを生み出します。
 その作品ロバート・ゼメキス監督の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年)が目指した過去は、アメリカがまだ世界最強だった時代1950年代でした。その後、製作された続編では、さらに時間をさかのぼり18世紀「西部劇」の時代が描かれます。アメリカにとっては、西部開拓の時代もまた自由の象徴となる幸福なる時代だったと言えます。
 ロブ・ライナー監督の「スタンド・バイ・ミー」(1986年)もまた同じ1950年代の青春を描いたノスタルジックな作品でした。主演のリバー・フェニックスはこの映画のヒットで大スターとなりましたが、1993年に23歳という若さでこの世を去ることになります。彼とニルヴァーナのカート・コバーンの死は、80年代の虚飾が生んだ象徴的な死となります。
 同じSF映画でもこの時代の作品は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が3部作となったように当初から超大作として製作されました。70年代とは異なり映画産業は、大きな利益を生み出すメジャー産業の一つになっていました。

<第5章「自虐 Self-deprecation」>
 1981年、アメリカでは24時間ミュージック・ビデオを放送する専門チャンネルMTVが開局。ポップ・ミュージックは、耳で聞かせるだけでなく、目にも訴える映像作品として製作される時代に突入することになります。この流れは実はポップ・ミュージックに影響を与えただけでなく、その後映画にも影響を与えることになります。それは映画がMTV化する時代の始りでもあったのです。
 デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、シンディ・ローパー、A-HAなどのミュージシャンが映像作品と共にブレイクし、彼らの作品を製作した監督たちの中からは、その後の映画界をしょって立つ大物監督が現れることになります。
 デヴィッド・フィンチャー、ガイ・リッチー、スパイク・ジョーンズ、ミシェル・ゴンドリーなどはその代表的存在です。
 そんなMTV黄金時代を代表する大ヒットと言えば、何といってもマイケル・ジャクソン「スリラー」でしょう。映画「ブルース・ブラザース」の大ヒットを生んだブラック・ミュージックを愛する監督ジョン・ランディスが50万ドルもの予算をつぎ込んだ映画並みの作品により、MTV時代は頂点を迎えました。

彼は我々をしかるべき場所へと引き上げてくれた。
長い間、ブラック・ミュージックは脇役を強いられてきたが、そのスピードはポップ・ミュージックのエンジンだった。
マイケルは世界のあらゆる人々と心を通わせた。

クインシー・ジョーンズ(アルバム「スリラー」などのプロデューサー)

 この時期のMTVは、単にヒット曲を生み出すのではなく、そこからファッションや映画など様々なジャンルに関する最新情報を発信する存在でもありました。それはインターネットやYOU TUBEの先駆的存在だったと言えます。

 マイケル・ジャクソンと並ぶMTVでブレイクしたスター、マドンナは女性の側からそのライフ・スタイルを発信するトレンド・リーダーでもあります。自らマリリン・モンローの衣装を着て演じながら歌った「マテリアル・ガール」(1984年)は、当時の物欲第一主義の社会を見事にパロディー化した自虐ネタ作品だったとも言えます。

あたしは女性運動を30年後退させたんですって。
でも当時の女性は自分の女らしさを十分に楽しんで心から信じてたのよ。
女は男とは違うわ。
女には男にできないことができるの。

マドンナ

 彼女の歌や行動、発言等のライフスタイルは、その後も多くの女性たちに大きな影響を与え続けることになります。

<第6章「強欲 Greed」>
 1983年2月、ニューヨーク・ダウの平均株価は初めて1100ドルに達しました。80年代は、親自由主義の名のもとに、富める者はより豊かに、貧しきものはより貧しくなった時代でした。そんな中、多くの若者たちが夢見たのが、ビジネスの街ニューヨークで実業家として成功することでした。
 ハーバート・ロス監督の「摩天楼(ニューヨーク)はバラ色に」(1987年)は、マイケル・J・フォックス演じる主人公が夢に見たニューヨークで企業家して成功して行く青春映画です。彼のような若いビジネスマンの成功者は、Young Urban Professionals 略してYuppie ヤッピーと呼ばれ、大人になった彼らを中心に80年代以降のアメリカ経済は動かされることになります。(21世紀に入り、若者たちの批判の対象になるのは、彼らマンハッタンに住むヤッピーたちでした)
 オリバー・ストーン監督の「ウォール街」(1981年)は、そんな時代の経済界の大物を描いた映画です。主人公ゴードン・ゲッコーのモデルは、実在の大物企業買収家アイバン・ボウスキーでした。実際のアイバンと同じようにインサイダー取引の罪で起訴されたゲッコーによる裁判での証言は、当時のアメリカの「強欲さ」を見事に示しています。

最近のアメリカ企業の法則は「適者生存」ではなく「不適格者生存」です。
私が思うに不適格者は排除すべきです。
私は最近7つの企業の経営にかかわりました。250万人の株主に計120億ドルを還元しました。
私は企業の破壊者ではない。解放者です!
忘れないで下さい。言葉は悪いかもしれませんが。
「欲」は善です。「欲」は正しい。
「欲」は導く。「欲」は物事を明確にし道を開き、発展の精神を磨き上げます。
「欲」にはいろいろあります。
「生命欲」、「金銭欲」、「愛欲」、「知識欲」・・・人類進歩の推進力です。
「欲」こそ…見てて下さい。
テルダー製紙だけでなく「株式会社UAS」を立て直す力です。
「ウォール街」より

 こうして1980年代のヤッピーたちは「強欲は善なり」というキャッチ・コピーを基礎にそれぞれの企業を成長させ、そこからTwitterの創業者ジャック・ドーンやFacebookの創業者マーク・ザッカーバーグらが生まれることになりました。
 私はデジタル技術によって世界をより良く変えているのだから、その行為が強欲に見えても、間違ってはいない。
 こうした「自己中心的ユートピア主義」とも言える思想は、確かに大きな成功を収めましたが、それは多くの庶民の犠牲によって成り立つバブルだったことがこの後明らかになります。

<第7章「欺瞞 Deception」>
 1987年10月19日、株価の大暴落が起きます。この「ブラック・マンデー」の後、アメリカ経済を乗っ取るかのように進出したのが、日本企業でした。
 1989年9月ソニーがコロンビア映画を買収。同年10月には、NYのロックフェラー・センターなどを所有するロックフェラー・グループを買収。アメリカの象徴とも言える企業を買収した日本の進出は、かつての戦勝国アメリカに大きな衝撃を与えました。なかでも自動車産業におけるアメリカ企業の敗北は、大きな経済的・精神的に大きな影響をもたらしました。世界の自動車産業を創業以来、長年にわたりリードし続けてきたアメリカは、なぜアジアの小さな国に負けてしまったのか?
 その本質的な問題点を描こうとしたのが、フランシス・フォード・コッポラ「タッカー」(1988年)でした。

もし大企業が一個人の発想を押しつぶせば、進歩を閉ざすばかりか、今までの汗と涙はムダになります!この国の存在も危うい!
いつか我々の知らぬ間にこの国はどん底に落ちてラジオや車を敗戦国から買う事になる!

タッカーの言葉

自由競争の建前を守ってタッカーに活躍させていたら、現在のようなアメリカ車の衰退は無かったろう。

フランシス・フォード・コッポラ

 この時期、当然ながら反日感情が急速に悪化。自動車産業の中心地デトロイトでは、中国系アメリカ人のビンセント・チンが日本人と間違われて撲殺される事件も起きました。
 人種による偏見や差別は、経済的に恵まれない人々の間で暴力事件へと発展する悲劇の原因となり、そうした事件が増加し始めます。
 そうした時代の険悪な空気を映像化することで、時代の寵児となったのがスパイク・リーでした。彼の代表作「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989年)は、そうした人種的偏見がちょっとしたきっかけによって大事件へと発展する過程を描いたスパイク・リーの代表作です。
 イタリア系の家族が経営するピザ店で働く黒人青年(スパイク・リー)は、同じ店で働く白人青年(ジョン・タトゥーロ)に問いかけます。

「話がある。好きなバスケの選手は?」
「マジック・ジョンソン」
(黒人バスケのスーパースター)
「映画スターは?」
「エディ・マーフィ」
(「ビバリー・ヒルズ・コップ」で人種を越えた大スターになりました)
「ロックでは?プリンスだろ?」(ロックとファンクの融合「パープル・レイン」で世界的にブレイク)
「いやブルース・スプリングスティーンだ」
「黒人の悪口を言ってるが、奴らは黒人だぜ」
「それとこれとは違うんだよ。奴らは黒人じゃない。つまり本当の黒人じゃない。黒人を超えた黒人なんだよ。奴らは違うのさ」


 この時代は、ここで名前が挙げられた黒人以外にも、マイケル・ジャクソン、TV界の大物ビル・コスビー、女優のウーピー・ゴールドバーグ、1987年ニューヨーク市長となった初のに当選したデイヴィッド・ディンキンズなど、人種の枠を超えた黒人スターが生まれつつありました。
 1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊したのをきっかけにソ連の崩壊が始まります。そしてついにはソ連までもが分裂し、米ソ冷戦はソ連の自滅によりアメリカの勝利となりました。ロナルド・レーガン率いるアメリカは、再び世界の頂点に立ったのです。
 しかし、その輝きの裏側には、多くの闇が抱え込まれていたことが、90年代になって明らかになります。

「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」
(制作)NHK
(制作協力)テレビマン・ユニオン
(制作統括)藤田英世、丸山俊一
(プロデユーサー)高橋才也
(ディレクター)牧田潤也
(リサーチャー)黒川優珠
(語り)玉木宏
(撮)森岡知之
(出)ブルース・シュルマン(1959年生まれ)「The Seventies」の著者
カート・アンダーセン(1954年生まれ)「ニューヨーク・マガジン」元編集長で「ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史」の著者

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