都会のオアシス「水族館」の過去と未来


「水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界」

- 溝井裕一 Mizoi Yuichi -

<水族館大好き!>
  僕は子供の頃から水族館が大好きで、大人になってからも日本各地の水族館を見て回りました。美ら海水族館、鳥羽水族館、大阪海遊館、しながわ水族館、葛西臨海水族館、海の中道水族館、サンシャイン水族館・・・。しかし、僕の中では我が町小樽の水族館は水族館愛の原点です。
 僕が子供の頃、おたる水族館は現在と違う場所にあり、水族館と海は文字通りつながっていました。どういうことかというと、オットセイやトドなどがいる場所は、水槽ではなく岩場の入江に柵を作った自然の巨大水槽だったのです。そのうえ、水族館の敷地の中には海水浴場があり、砂場ではないきれいな岩場で自由に泳いだり、潜ったりすることができました。
 僕が最初に水中の美しい景色に魅了されたのは、この水族館の中の岩場で潜った時のことでした。青い空から差し込む水中の光が見せてくれた水中世界の体験があったからこそ、その後、僕はスキューバダイビングにはまることになったのだと思います。
 その意味で、僕は水族館とは魚を見るだけの場所ではなく、人と水中体験を結びつける場所であるべきと思っています。今でもおたる水族館は当時の雰囲気を残す素敵な場所ですが、かつてほど海とのつながりは感じられません。生物保護の問題もあり、時代と共に水族館が進化するのは必然的なことですが、その進化は海から離れ、より人工的な施設へと向かいつつあるようにも思います。これから水族館は、どうなってゆくのでしょうか?
 「水族館の文化史」という本格的な研究本を見つけたので、さっそく読んでみました。ここではその一部、近代の水族館の歴史の部分を紹介させていただきながら、水族館の未来について考えてみようと思います。

<古代の水族館>
 水族館の歴史は思ったよりも昔から始まっています。古代エジプトの遺跡からは、ティラピアなどの魚を飼育していた跡や当時の絵が見つかっています。古代ローマ時代には、裕福さの象徴として自宅に水槽を造るのがステイタスになっており、火山の噴火によって街ごと火山灰の下に消えたポンペイの遺跡からも多くの水槽が見つかっています。しかし、それはあくまでも食用のための養殖場か家庭用の鑑賞用であって、現在の水族館とは異なる存在でした。
 現在のような公共的な鑑賞施設としての水族館の誕生は、19世紀のことのようです。ここではそれ以降の部分を扱います。もちろん、水族館好きの方は是非、この本を読んでください。そこには、単なる水族館のカタログとは違う「文化」としての水族館の歴史が詳細まで書かれています。

<19世紀 近代水族館の誕生>
 近代水族館の原点は、18世紀から19世紀にかけて、世界を支配していた海洋王国イギリスにあります。
 1852年、イギリスのロンドン動物館内に公開型水族館「フィッシュハウス」がオープン。これが世界初の近代水族館と言われています
 1853年末時点で、そこでは魚類58種、軟体動物76種、甲殻類41種、腔腸動物(イソギンチャクなど)27種、棘皮動物(ウニなど)15種、環形動物(ゴカイなど)14種などが展示・飼育されていました。その施設の設立と運営を支えたのは、理事のデイヴィッド・ミッチェルと生物学者のフィリップ・ゴス(1810~1888)、化学技師のロバート・ウォリントン(1807~1867)でした。当時、それまでの飼育施設にはなかった新しいスタイルの展示は大きな注目を集めたようです。そのポイントは、360度どの方向からでも魚たちを見ることができるガラス製の水槽の登場でした。
「板ガラスの壁のおかげで、彼らを、タイドプールで可能だったよりもはるかに近く、より快適な光のもとで、しかも上からではなくあらゆる角度から、見ることができるのだ」
「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」(1853年5月28日)

 ウィリアム・ロイド(1826~1880)は、水族館技術者として、貯水槽、ポンプ、水管などを用いた循環システムを開発。「フィッシュハウス」の成功に影響を受けて、ロンドン市内に世界初の水族館グッズの専門店「アクアリウム・ウェアハウス」を開店します。そしてそこで、海産、淡水産の動植物、天然水、人工海水、砂や小石、水槽、採集道具、書籍などを販売し始めます。 生物のストックだけでも14000~15000で、鉄道や郵送での配送も行っていました。とはいえ、エビ一匹でも当時は労働者1日分の給料ぐらいの値段だったようなので、店の客層はそうとうの資産家ばかりだったはずです。

 1857年、アメリカで初めての水族館「オーシャン・アンド・リバー・ガーデンス」がオープンしました。映画「グレイテスト・ショーマン」の主人公フィニアス・テイラー・バーナム(1810~1891)がロンドンのフィッシュハウスからスタッフを引き抜いて、アメリカ博物館内につくりました。しかし、この水族館は1865年に火事で焼失してしまいました。(映画でも火事のシーンがありました)

 1858年、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表。そこに書かれている生物学の新理論「進化論」は、世界中の科学者に影響を与えました。水族館関係者にもその影響は及び、そのことについてジョン・テイラーが著書「アクアリウム」(1876年)の中でこう記しています。

「『種の起源』が出てから、自然科学は大きく進歩し、下等生物の発生や幼生の状態にかんする新研究をもっと容易におこなうことができる、大きなアクアリウムを必要とした。そのころから動物学は、一般の読者にとっても、より魅力的なものとなったのだ。進化論者も、動物学的な問題にかんしてどちらかに組した結果、理論づくりほどに、もっと観察することが不可避となった。」

 ダーウィンの進化論以後、水族館はそれまで観察と採集が中心だった「博物学」の場から、理論に基ずく研究を行う「生物学」の場へと変わることになったのです。

<没入型水族館の登場>
 1860年、フランスのパリにジャルダン・ズーロジック・ダクリマシオン付属水族館がオープン。それは今までの水族館とは異なる新しいスタイルの水族館として、その後の水族館に大きな影響を与えることになります。それは観客に魚を見せるだけの施設ではなく、海中世界を体感させる施設としての水族館の誕生でした。

・・・もともと水族館は、人間になじみのない世界、すなわち「異界」の住人と認識されてきた。だから水族館にやってくる人びとは、珍しい生きものを見るだけでは満足できない。彼らが住んでいる異界に「没入」し、非日常的な体験をすることを期待するのだ。ジャルダン・ダクリマタシオンの水族館は、そうした需要にこたえて「没入型展示」を行った、おそらく最初の水族館だったのである。
 何がよかったのかといえば、それは照明の工夫であった。水槽の展示そのものはシンプルで、長さ40メートル幅10メートルあるギャラリーの壁沿いに、四角い水槽を配列しただけだが、水槽のうえから入ってくる光が、暗い建物内を照らすようになっていたのだ。これに、水のたてる静かな音が加わって、「幻想を高め、われわれを別世界へ誘うのである」
「この長いギャラリーに初めて入ったら、海そのものの、緑の薄明かりがおりなす幻想的な神秘性が、想像力に強く訴えることだろう」

「レビュー・ブリタニック」より

 ガラスの壁は本来水に備わっているはずの湿気、匂い、温度、音などを取り除き風景を平面化し、「二次元化」してしまう。
 水族館の設計者は、いかにして3次元に似せるかを工夫し続け、フレームを消したり、建物の形などから立体感を生み出すようになって行きます。

 1865年、ドイツのハノーファーに建築家ヴィルヘルム・リューア(1834~1870)が設計したエーゲストルク水族館がオープン。それは水槽を岩で囲んだ「グロッタ風」水族館の先駆となりました。これもまた観客を海中世界に誘うための工夫の一つでした。
 1867年、フランス・パリ万国博覧会に合わせて、会場内に淡水水族館、海水水族館がオープン。それもまたグロッタ風のデザインでした。そして、この水族館を訪れた人々の中には、SF作家のジュール・ヴェルヌ(1828~1905)もいました。彼はこの時に見た水中の景色をモチーフに、あのSF史に残る名作「海底2万海里」(1869年)を書いたと言われています。
 ただし、こうしたグロッタ風の水族館が表象したのは、けっして本物の海中世界ではなく人間がイメージし見たいと思うような水界だったことは重要です。この後も、水族館は観客たちに海中体験をさせるための努力を続けることになります。

 1869年、ドイツにも初の本格的な水族館としてベルリン水族館がオープンします。資金を提供したのはプロイセン王ヴィルヘルム1世で、初代館長は建築家、アフリカ探検家のアルフレート・ブレーム(1829~1884)。2代目の館長オットー・ヘルメス(1838~1910)は人口海水を作ることに成功し、その後の水族館に大きな影響を残すことになります。
 1871年、イギリス、ロンドンにクリスタルパレス水族館がオープン。この水族館は「フィッシュハウス」的な水槽陳列型と「ジャルダン・ダクリマタシオン」的なグロッタ風の両方を取り入れた水族館でした。
 1872年、ブライトン水族館がイギリスのブライトンにオープン。設計者ユージニアス・バーチ(1818~1884)は、ゴシック様式を応用してデザインしていて、当時英国では最大の水族館となりました。この建物は現在も、水族館チェーンの「シーライフ」によって運営されています。
 19世紀末のイギリスは、世界一の海軍を有する最強国で、その覇権をより強固にしようと海中世界でもその優位さを広げようと考えていたようです。当時の海洋探査は、1960年代の米ソによる宇宙開発競争と似ていました。当時のヨーロッパ列強にとって、地上にはもう未開発の土地はなく、最後に残されたのが海の底と考えられていたのです。
 そこで英国海軍の軍艦「チャレンジャー」が1872年から1876年にかけて世界各地の深海探査を行いました。その後も、20世紀に入り、ジャック・イヴ・クストーの登場によって、再び海底の開発は一大ブームとなります。
 1873年、イタリアでナポリ臨界実験所付属水族館がオープン。
 この水族館・研究所は、1階が水族館、2階が大型ラボと図書館、3階が12の小型ラボという公開する施設と研究施設両方を一つにした建物でした。
 館長のアントン・ドールン(1840~1909)は水族館で利益を出して、それで研究所を運営するというビジネス・モデルを生み出し、その後の水族館に大きな影響を残すことになります。さらに彼はそのノウハウを惜しみなく海外の研究者たちにも与え、日本からも箕作佳吉(1858~1909)が1881年にここを訪れ、帰国後の1886年に三崎臨海実験所を創設することになります。
 1875年、ウッズホール科学水族館がアメリカ東海岸のマサチューセッツ州ウッズホール市にオープン。1885年には臨海実験所ができます。
 1876年、民営の水族館、グレート・ニューヨーク水族館がオープン。
 シロイルカやサメを飼育して、展示の目玉としたが飼育に失敗し、人気も失って1881年に閉館。
 1896年、ニューヨーク水族館がオープン。
 7つのプール、94の大型水槽、30の小型水槽をもつ世界最大級の水族館であると同時に研究室や図書室も併設する研究施設でもありました。(1957年、コニーアイランドに移設)
 1898年、ヴァスコ・ダ・ガマ水族館がポルトガルの首都リスボンにオープン。
 科学好きの国王カルロス1世の支援によって完成。設計者は博物学者でもあるアルベール・ジラールで、現在も営業を続ける世紀を越えた歴史的水族館。

<20世紀の水族館>
 1910年、モナコ海洋博物館がモナコ公国にオープン。
 科学好きのモナコ大公アルベール1世(1848~1922)が王立の施設として、海抜85mの崖の上に建築された施設。設計はポール・ドゥルフォルトリで、今の尚残る歴史的な水族館です。
 1923年、スタインハート水族館がアメリカ西海岸サンフランシスコにオープン。
 金融業界の大物スタインハート一族によって建てられました。1989年にはレンゾ・ピアノ(建築家)のデザインによるリニューアルが実施されます。
 1930年、シェッド水族館が中東部シカゴにオープン。
 百貨店マーシャル・フィールド&カンパニー社長ジョン・セッドが300万ドルを寄付してシカゴに建てられました。専用列車「ノーチラス」によって、内陸にある水族館まで魚たちを運ぶことで、内陸部でも水族館を運営できることを証明しました。(アメリカは美術館や博物館もそうですが、世界的な資産家の寄付によってできた施設が多いようです)
<オセアナリウムとイルカ・ショー>
 1938年、アメリカ南部フロリダのマリン・スタジオが世界に先駆けてオセアナリウムを導入します。それは、実際の海中と同じように、様々な種類の魚や生物を同じ水槽の中で飼育する施設で、その後、世界中の水族館に広がることになります。
 この水槽は映画の画面を見るように枠取りされていて、観客は映画を見ているようにドラマチックな印象を受けるよう設計されていました。ハリウッド映画的な演出が加えられた水槽といえますが、さらにそこにエンターテイメントの要素が加えられることになります。
 1952年、同水族館でウィリアム・ダグラス・バーデンがドイツから調教師を呼び寄せ、イルカの「フリッピー」に芸をおぼえさせ世界初のイルカ・ショーを始めます。この人気アトラクションはその後世界各地の水族館に広がることになりました。

 1958年、オーストリア、ウィーンにハウス・デス・メーレス水族館がオープン。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが建てた巨大要塞を改造した水族館。一時、経営困難におちいるが、エメリッヒ・シュロッサーによる経営改革により人気が復活し、現在では戦争遺産としても高く評価され人気スポットになっています。
 1960年、マリンランド・オブ・フロリダ(マリンスタジオ)で初めてアクリルパネルの水槽が導入されました。
 アクリル水槽の製造に関しては、現在では日プラが水槽製造のシェアで世界の70%をしめています。自由に形や厚さをつくれるため、水槽の素材はガラスからアクリルへと一気に進化することになりました。
<日プラ株式会社>
 香川県にあるアクリル樹脂専門の工場。早くからアクリル樹脂で水槽(当初は寿司屋などの小さな水槽)を造っていたが、1970年代のオイルショックでアクリル樹脂の値段が高騰。日本市場だけではやって行けなくなり、市場を求め海外に進出。アメリカの水族館に進出し、1993年のモントレーベイ水族館の巨大水槽で一躍世界のトップ企業となりました。
 2005年には第一回日本ものづくり大賞を受賞しています。

<水族館の進化>
 1960年代、フランスの海洋冒険家ジャック=イヴ・クストーが登場。水中映像作品を映画やテレビ番組として発表し、世界中で海洋冒険の一大ブームを巻き起こします。世界中の人々が彼の映像作品によって本物の海中世界を目にすることで、水族館の水槽内の世界が偽物であることが明らかになってしまいます。観客の見方が変わる中、水族館は新たな進化を求められることになります。
 海中世界を再現したはずのオセアナリウムも、クストーの映像を観た人々にとっては、嘘の世界に見えてしまう時代。次に水族館が目指したのは、海中世界のエンターテイメント化と観客参加型の展示というリアリズムとは逆の方向性でした。

 1964年、アメリカ西海岸のサンディエゴにシーワールドがオープン。
 ディズニーランドに代表されるテーマパークの海洋版として話題となります。「ペンギン・エンカウンター」、「シャーク・エンカウンター」など、それぞれの生物が住む世界を再現し、観客をそこへと侵入させる演出。今では当たり前となった「タッチ・プール」もそうした効果を狙った体験型、参加型の展示として始まりました。

 1969年、アメリカ東部ボストンにニュー・イングランド水族館がオープン。
 この水族館はピーター・シャマイエフが仲間たちと設立した水族館専門の設計会社「ケンブリッジ・セブン・アソシエーツ」の最初期の仕事として設計されました。
 複数の階層をもち、一方通行の通路を観客は移動しながら水族館が用意した「物語」に従って、上層から下層へと移動するという新しいスタイルは、その後世界中の水族館に広がることになります。さらにそこには巨大水槽が中央に設置され、観客はそこから水中散歩体験を楽しむことができるようになりました。
「われわれは展示の多くをより大きく、ドラマチックにして、自然の生息地をシュミレートすることで、来館者が生きものに囲まれた別世界に入っていくと感じられるようにした」
ピーター・シャマイエフ
 彼は「水の魔法使い」と呼ばれ、この水族館のスタイルは世界中に広がることになります。
 「大阪海遊館」(1990年)、「テネシー水族館」(1992年)、「ジェノバ水族館」(1992年)(外装はレンゾ・ピアノ)、「リスボン・オセアナリウム」(1998年)などは、その代表的な水族館です。

「水族館は没入体験をもたらすためのもので、そこでは来館者は生きものたちにとり囲まれ、彼らがいたるところにいると感じる。われわれは、内装建築がまるで消えたかに思えるほど副次的なものにしようともくろんだんだ」
ピーター・シャマイエフ

 1984年、カリフォルニア州モントレーにモントレーベイ水族館がオープン。
 「優しく揺れる黄金色のケルプの森のあいだをスキューバ・ダイバーが身軽に自由に飛ぶときに体験する、うきうきする感覚」を作り出す。そんなテーマをもって、チャールズ・デイヴィスの設計で作られた水族館。その施設最大の売りとなったのは、巨大なケルプの森を再現した「ケルプ・フォレスト水槽」(深さ8.5m)でした。(この水族館の巨大アクリル水槽を製造したことで、日プラはアクリル水槽製造の世界ナンバー1企業となります)

「われわれは、水族館を、それに必要な壁や窓もろとも、消してしまいたいのだ。グラスや水槽の壁に生えた海藻の小さな斑点みたいなマイナーなものでさえ、おそらく目にとまって、これはじつのところ生きものは入った人工の水槽にすぎないことを来館者に思いだせる。じっさいの容器が目立たないほど、来館者は心理的に水中世界に入っていきやすくなるし、そのなかの動植物に集中することができるのだ。・・」
デヴィッド・パウエル(モントレーベイ水族館設立の中心人物)

 1986年、フロリダのディズニー・ワールド内に「ザ・リヴィング・シーズ」がオープン。
 テーマは「ひとと海のかかわりの過去と未来」
 ノーチラス号から始まり、2030年の未来の海底基地へと進んで行くようになっていました。2006年には映画「ファインディング・ニモ」の大ヒットから大幅リニューアルを行い、「ザ・シーズ・ウィズ・ニモ・アンド・フレンズ」として再オープンしています。

<日本の水族館>
 1882年、日本初の水族館「観魚室」(うおのぞき)がオープン。
 それは同じく日本初の動物園である上野動物園の中に作られましたが、水槽は10個でオオサンショウウオなどを飼育したものの人気はいま一つでした。動物園の添え物的存在を脱することはできなかったようです。
 1885年、本格的な民営の水族館として、当時日本最大の歓楽街だった東京浅草に浅草水族館がオープン。
 世界的な流行を受けて、ヨーロッパ的なグロッタ風展示と日本的(竜宮城風)なデザインを組み合わせた展示を行いました。しかし、タイ、アナゴ、カレイなどを飼育して人気スポットとなるものの、夏の暑さにより魚たちが次々に死んでしまい採算がとれず、わずか1年で閉館に追いこまれました。当時はまだ魚を飼育するためのノウハウが日本にはなかったのでした。
 1897年、神戸市で開かれた第二回水産博覧会が開催され、それに合わせて和田岬水族館がオープン。
 ドイツに視察して帰国した飯島魁を中心に本格的な水族館として成功を収めます。20個の海水水槽、9個の淡水水槽からなる施設として博覧会中に大人気となり、その後も8年間営業を続けることになりました。
 1899年、民営の浅草公園水族館がオープン。
 1903年、大阪の堺市に堺水族館がオープン。第五回内国勧業博覧会に合わせての開業でした。
 1934年、阪神パーク水族館がオープン。
 動物学者の川村多実二の設計により、「陸の竜宮」というキャッチ・フレーズで人気施設となります。しかし、開業の時期が悪く、太平洋戦争の混乱に巻き込まれ、1943年飛行場建設のために取り壊されてしまいました。
 1957年4月、大阪にみさき公園自然動物園水族館に日本初のオセアナリウムがオープン。3つのオセアナリウムがあり、(1)サメ、エイ、ウミガメ、ハマチ、シマアジなど(2)岩礁を再現しブダイ、フグ、カワハギ、コウイカなど(3)イルカ
 1957年5月、江ノ島水族館2号館としてできた江ノ島マリンランドにオセアナリウムがオープン。
 1957年5月、神戸市須磨水族館にも「アクアランド」という名前のオセアナリウムがオープン。
 1970年、京急油壷水族館に6つの「実演水槽」を設置。
 「サーカス水族館」をテーマとして、魚たちのパフォーマンスを見せる水槽として、テーマ型アクアリウムの日本における先駆となりました。
 算数をするイシダイや電気を発するデンキウナギなどのパフォーマンスが大きな話題となりました。
 1975年、沖縄で開催された沖縄国際海洋博覧会のための水族館がオープン。(のちの美ら海水族館
 「人と海の生物の出会いの場」というテーマをもつテーマ型アクアリウムとして、リアルな水中体験を体感できる水族館として設計されました。
 総合プロデューサーは、槇文彦

 1987年、須磨海浜水族館がリニューアル・オープン。
 館長の吉田啓正が設計にも関わり、本物に近い波を人工で起こした「波の大水槽」を作り話題となりました。魚たちの暮らす環境の再現にこだわった「さかなライブ館」、「世界のさかな館」、「森の水槽」、「ラッコ館」、「イルカ館」などが大人たちを惹きつけ新たな観客を呼び込むことに成功します。
 これ以後、こうしたテーマを持った水族館が主流になって行くことになります。
 「名古屋港発南極への旅」(名古屋港水族館南館1992年)
 「黒潮浪漫街道」(いおワールドかごしま水族館1997年)
 「潮目の海 - 黒潮と親潮のであい」(アクアマリンふくしま2000年)
 「癒し系水族館『ふれあい』」(大分マリーンパレス水族館「海たまご」2004年)

<未来の水族館とは?>
 水族館が生きものたちの「病気」や「死」を見せたがらないのは、これらの要素が、彼らを閉じ込めているという現実に人びとをたちかえらせ、幻滅を誘うからだ。彼らが苦しみを感じる「生きもの」であるということを、思い出させてしまうからだ。ちまり「実物」の展示を売りにするはずの水族館がもっとも恐れるのは、「現実」の介入なのである - 少なくとも、非日常体験を強調するところほど、この傾向が強い。
「水族館の文化史」より
 本物よりも本物らしい偽物が備える「ハイパーリアリティー」が求められるのが水族館ということになるのでしょう。

 2015年4月、「イルカ捕獲禁止」が世界の水族館にとっても基本ルールとなったため、世界動物園水族館協会(WAZA)がそれをやめさせない日本動物園水族館協会(JAZA)に資格の停止が言い渡される事件が起きました。(日本の水族館が捕獲されたイルカを漁業者から入手していたため)

<「動物の権利」運動を理論的に支える哲学者ピーター・シンガーが提案する基準>
平等の原理は、その苦しみが他の生きものの同様な苦しみと同等に - 大ざっぱな苦しみの比較が成り立ちうる限りにおいて - 考慮を与えることを要求するのである。もしその当事者が苦しむことができなかったり、よろこびや幸福を享受することができないならば、何も考慮しなくてよい。だから、感覚をもつということ・・・は、その生きものの権利を考慮するかどうかについての、唯一の妥当な判断基準である。

 シンガーは1975年の「動物の解放」を出版。動物園や水族館の生き物を解放する流れが始まります。水族館は海の生物を捕獲して飼育展示する場所から、希少生物の保護と繁殖と観客の教育を目的とする施設へと変化してゆきます。
 動物保護の運動が高まる中、水族館はもう大型生物を飼育することはできなくなり、基本的な展示はもしかするとヴァーチャル展示へと移行するかもしれません。3Dメガネで入館するとか・・・
 それとは別に地球環境を守るために必要な教育施設としての役割りのため、環境保護や繁殖のための研究と一般市民への環境保護意識を育てるための教育機関として役割りを果たすことことそが、水族館の主要目的になるのかもしれません。

 僕の思いとしては、水族館は海の香りがして、水の感触を感じることができることが基本だと思っています。それがないなら、3Dメガネをかけて図書館の視聴室で魚図鑑を見ればよいとも思います。水族館は、動く魚図鑑なのか、海を体感する施設なのか?そこをどう考えるかで水族館の未来は大きく変わって来るでしょう。
 そもそも水族館は都市住民が気楽に魚たちを見るために作った都合のよい施設です。そして、そうした人類の意識は、自分たちの暮らしの利便性を高めるために海を汚し続けていることと結びついています。
 長い目で見ると、人類が自分たちの都合で自然を操ることを続けることと、水族館の存在目的は不可分ではありません。
 水族館の変化は必然としても、それが存在し続けるかどうかは明らかではありません。そもそも水族館の存続以前に今のような海が未来にも存在しているかどうか、それすらも怪しいものです。
 もしかすると、水族館が魚たちの保護の場所を通り越して、かつて地球上に存在した母なる海を保存する唯一の場所になっている可能性すらあるのですから。
 人類が地上から消してしまった「美しい海」を展示する施設が22世紀の水族館とならないことを祈ります。

<参考>
「水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界」
 2018年
(著)溝井裕一 Mizoi Yuichi
勉誠出版

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