
- シュルレアリスム Surrealisme -
映画「アンダルシアの犬」
<影響を与え続けるシュルレアリスム>
「シュール・レアリスティック・ピロー」と言えば、ジェファーソン・エアプレインの代表作。ロックの世界におけるシュルレアリスムは、1960年代のフラワームーブメント期に最大のピークを迎えていたのかもしれません。しかし、「サンプリング」による音作りが一般的になった現在、シュルレアリストたちが考え出した「コラージュ」の手法はいよいよ音楽業界において重要な位置を占めようとしています。
「シュルレアリスムがなによりも志向しているのは、知的かつ道徳的な観点から見て、もっとも全般的でもっとも深刻な一種の意識の危機をまきおこすことであり、しかもその成果が得られるか否かによってはじめて、歴史的にシュルレアリスムが成功したか失敗したかを決定できるのである」
「シュルレアリスム第二宣言」(1929年)アンドレ・ブルトン著
1920年代に誕生したシュルレアリスムの思想は、あらゆる美術に影響を与え、この宣言のとうり、未だに人々に意識の危機を与え続けています。
しかし、このシュルレアリスムという思想は、どうやって生み出されたものなのでしょうか。僕も含め多くの人は、あまりよく知らないのではないのでしょうか。そんなわけで、ロックだけでなくあらゆるジャンルの芸術に影響を与えたシュルレアリスムについて調べてみました。
<シュルレアリスムとは?>
先ずは、シュルレアリスムとは何なのか?いくつかの定義を並べてみます。
「シュルレアリスム芸術というものはないといわれてきたが、それは本当である。元来が詩人たちによって生み出されたシュルレアリスムは、美学上の一問題としてではなく認識の一方法、また一種の倫理として定義されうるものであるからだ。・・・
それが流派とか形式上の運動の問題ではなく、精神の方向の問題だということを心にとどめておかなけらばならない。・・・」
「シュルレアリスム」パトリック・クルドベルグ著
「・・・心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り。・・・」
「シュルレアリスム宣言」アンドレ・ブルトン著
また新ラルース小辞典によると、シュルレアリスムとは以下のようになります。
「ランボー、ロートレアモン、G.アポリネールを援用し、1924年にシュルレアリスムの名を採用した文学運動。主唱者としてA.ブルトン、L.アラゴン、P.エリュアールがあった。その目的は、理性および道徳的・社会的偏見の課するすべての制約から解放された純粋な思考を表現することにある」
シュルレアリスムの中心人物の一人、ルイ・アラゴンは雑誌「シュルレアリスム革命」の中にこう書いています。
「・・・人間は自由である、だが人間たちは自由ではない。
一個人には限りない自由がある、だが万人の自由というものはない。
万人などというのは空疎な概念であり、不用意な抽象である。
人は失われた自立性をついにふたたび見出してほしい。・・・」
シュルレアリスムとは、人間が自由を見出すための試みでもあるのです。
<シュルレアリスムの歴史>
シュルレアリスムの歴史とその成り立ち概略を年代順に並べてみます。
[1919年]
アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー、ルイ・アラゴンの3人が編集する雑誌「文学」創刊。この雑誌は、その名に反して既成の文学へのアンチの姿勢をもち、先ずは詩やエッセイなど文学の立場から新しい世界観を切り開こうとしていました。
その後、地元フランスのフランシス・ピカビア
Francis Pacabia(詩人、画家)、アントナン・アルトー
Antonin Artaud(詩人、演出家、俳優)レーモン・クノー
Raymond Queneau(小説家、映画にもなった「地下鉄のザジ」が有名)、ドイツからマックス・エルンスト
Max Ernst(画家、彫刻家、詩人)、アメリカからやって来たマン・レイ
Man Ray(写真家、画家、作家)、マルセル・デュシャン
Marcel Duchamp(造形作家)、スペインからホアン・ミロ
Joan Miro(画家、彫刻家)、ギリシャ人のジョルジオ・デ・キリコ
Giorgio de Chirico(画家)などが参加。
[1924年]
アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言
- 溶ける魚」を発表。続いて機関誌「シュルレアリスム革命」創刊。さらにパリにシュルレアリスム研究所を開設。(所長にはアントナン・アルトーが就任)
[1925年]
パリで最初の「シュルレアリスム展」開催。同年シュルレアリスム・グループと左派のグループ「クラルテ」が接近。その後、彼らは左派のグループとして政治的発言をするようになります。
[1926年]
ベルギー人のルネ・マグリット Rene Magritte(画家)がグループに参加。
[1927年]
アンドレ・ブルトンらのメンバーが共産党に入党。しかし、ブルトンはすぐに共産党に失望し脱退。その後、グループと共産党は微妙な関係となってゆく。
[1929年]
スペインの画家サルバドール・ダリが参加。彼の絵画は後に最もシュルレアリスムをイメージさせる作品となり、世界中にその思想を広める重要な役割を果たすことになります。しかしその後、あまりにスキャンダラスな生き方やブルジョア的保守的なものの考え方、そしてファシストへの接近はメンバーから批判の対象となり、グループを除名されることになりました。
映画「アンダルシアの犬」(監)ルイス・ブニュエル Luis Bunuel(撮)アルベール・デュバル
ルイス・ブニュエルは1900年2月22日にスペインの資産家の息子として生まれました。17歳の時、マドリードに出て「学生館」と呼ばれる寄宿舎に入り、そこで学生生活を送り始めます。ここで彼はスペインを代表する詩人ガルシア・ロルカ、画家サルバドール・ダリと運命的な出会いを果たします。その後、パリに出た彼は、そこでシュルレアリスムの思想を出会います。さらにドイツ表現主義の神秘的な傑作「死滅の谷」(フリッツ・ラング監督作品)を見た彼は映画の道に進む決心をします。
ジャン・エプスタインの俳優学校に入学後、エプスタイン監督の「モープラ」(1920年)で助監督を担当。スクリーン上の事物にはアニマ(魂)がやどると考えるエプスタインの影響を受けた彼はさらにそれを推し進めます。しかし、彼はエプスタインが尊敬するアベル・ガンスの作品を手伝うようにという指示を拒否し、師匠から追い出されてしまいました。彼にとって巨匠アベル・ガンスの作品はすでに過去のものにしか見えなかったのです。
1929年、彼はクリスマス休暇を利用して、スペインに住んでいたダリの家に招かれます。そして、ある夜ダリはブニュエルに、自分が見た夢の話をしました。それは自分の手に蟻がうようよとはいあがってくるというものでした。それに対し、ブニュエルもまた自分が誰かの目玉を切る夢を見ており、そのあまりに不可思議な夢を映像化してみたいと思います。そこから、合理性というものを一切排除したかつてない映画が誕生することになりました。
脚本をわずか6日で書き上げた彼はさっそく撮影を開始。完成まではわずか2週間で、世界初のシュルレアリスム映画、アバンギャルド映画である「アンダルシアの犬」が完成しました。
タイトルはあえて内容とはまったく関係のない言葉が選ばれました。もちろん映画が撮影されたのは、アンダルシア地方ではありませんし、「犬」も登場しません。登場するのは、子牛の本物の目玉で、それを実際にカミソリで切って見せています。さらに腐ったロバの死体のシーンでは本物のロバの死体が使われ、撮影現場はとんでもない匂いだったようです。現実を無視した映画は、限りなくリアリズムを追求したからこそ、衝撃的なインパクトをもつことができたのです。
この映画の初公開には、シュルレアリスムのそうそうたる顔ぶれが集まりました。ピカソ、アンドレ・ブルトン、ジャン・コクトー、マックス・エルンスト、ルイ・アラゴン、マン・レイ、トリスタン・ツァラ・・・・・。この映画は、これらのそうそうたるメンバーから大きな拍手を受け、シュルレアリスム映画、アバンギャルド映画の金字塔となりました。それまで、文字や絵画によって表現されてきたシュルレアリスム的世界観が初めて動画映像によって撮影され、世界に映画の新たな可能性を示すことになりました。
「ブニュエルとダリが意図したのは、観客にショックを与えることであった。二人は毎日起きるとその前の晩に見た夢をお互いに話し合い、夢の情景を再現することをもってシナリオの制作を行った。・・・」(このやり方で生まれたもうひとつの名作がメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」です)
「『アンダルシアの犬』は観客に対する心理的な衝撃、というより、より正確にいえば攻撃的な効果というものをフィルムの内側に構造として携えた、最初のフィルムであるといえる。」
四方田犬彦「映画史への招待」
観客の不安感を煽るという手法は、当時商業映画の世界ではタブーとされていました。人が驚かされるために、不快感を得るためにお金を払うとは誰も思っていなかったのです。それが間違っていることを証明したのが商業映画ではなく抽象的な芸術映画だったというのは皮肉なことです。
[1930年]
アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム第二宣言」を発表、さらに雑誌「革命のためのシュルレアリスム」を創刊。左翼的活動が活発になり、右翼との対立が深まりました。
[1931年]
スイス人の彫刻家、アルベルト・ジャコメッティ
Alberto Giacomettiがグループに参加。彼もまたシュルレアリスムを代表する作家として世界中にその名を知られるようになります。グループのメンバーは共産主義のアーティストたちが結成した「革命的作家芸術家連盟」(AEAR)に参加。
[1933年]
シュルレアリスムのグループ展にヴァシリー・カンディンスキーが招待参加。
[1935年]
パブロ・ピカソとの交流深まる。もともとシュルレアリスム的な作風をもっていたピカソは、グループのメンバーにとってヒーローだった。
[1936年]
東京でもシュルレアリストのグループが結成される。(瀧口修造など)ヨーロッパだけでなく、アメリカ、中東、中米などでもグループが結成され世界的な拡がりをみせていた。
[1938年]
ソ連をスターリンに追われメキシコに亡命中だったレオン・トロッキーとアンドレ・ブルトンが出会い、宣言文「独立革命芸術のために」を発表。ソ連式共産主義の過ちを追求する傾向が強まる。
[1940年]
第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍がパリを占領。グループのメンバーはパリを逃れ、マルセイユに集まり、その後アメリカなどへと一時亡命することになる。
メキシコで行われたシュルレアリスト国際展にフリーダ・カーロ
Frida Kahlo(画家)が参加。
[1942年]
ニューヨークでシュルレアリスム国際展開催。グループの活動拠点はアメリカに移った。
[1946年]
終戦を迎えてブルトンはパリに戻り運動の再開準備を始める。
[戦後の活動]
この後、米ソ冷戦が始まるのと平行して、グループと共産党は各地で対立するようになり、さらにはメンバーの高齢化と運動の行き詰まりが明らかになります。そして、そのことを証明するように、アシール・ブーキー、オスカル・ドミンゲスなど何人ものメンバーが自殺の道を選びました。
さらには、ダリやマックス・エルンストらがグループを除名され、フランシス・ピカビア(1954年)、イヴ・タンギー(1955年)、トリスタン・ツァラ(1963年)らがこの世を去った後、1966年ついにアンドレ・ブルトンが死去。彼を中心として始まったシュルレアリスム運動は、ここでひとつの終わりを迎えることになりました。
<シュルレアリスムの手法>
より具体的にシュルレアリスムを知るために、この運動が生んだ具体的な手法、アイデアを並べてみます。
[オートマティスム]
思考から解放された状態での創作方法。催眠術などを用いて無意識状態を作り、文章やデザインなどの創作活動を行い、まったく自由な発想の作品が生み出された。この手法が後にドラッグを用いた創作へとつなっがたとも考えられる。安易な無意識の導入は危険な落とし穴となることを忘れてはいけない。
[コラージュ]
「コラージュ」とは、もともと「貼る」ことを意味している。マックス・エルンストは、既成の図版を切り取って、別の作品を貼り付けることでまったく新しい作品を生み出してみせた。そして、この手法はその後、絵画だけでなく、小説(ウイリアム・バロウズが有名)や音楽など数多くのジャンルで用いられることになります。コンピューターの発達は、この手法をさらに大きく発展させることになり、今やアートの世界にコラージュはなくてはならない存在になったと言えるでしょう。もちろん、サンプリングを用いた現代のヒップ・ホップなどの音楽もその現代版ということにあります。
[レディ・メイド]
「コラージュ」とは異なり、「レディ・メイド」は既成の品物をそのまま用い、それを本来の目的とは異なる一つのオブジェに仕立て上げる手法。マルセル・デュシャンが男性用便器に「泉」と名付けて展示したことが有名。
[フロッタージュ]
「フロッタージュ」とは「こすること」を意味します。マックス・エルンストは、葉っぱや織物、コインなど凹凸のあるものの表面に紙を置き、上からこすって困難を写し取ろうというもの。この方法は版画の技法の一つとして今やすっかり定着しています。
[シュルレアリスティック(超現実的)]
「超現実的(シュルレアリスト)」という言葉は、フランスの詩人であり、シュルレアリストたちにとってのヒーローでもあったギョーム・アポリネールの言葉。自分が作った「ティレシアスの乳房」という芝居のことを、自ら「超現実的ドラマ」と呼んだことがきっかけで、この言葉が話題となった。1924年、A.ブルトンがこの言葉を宣言文に用いたことで「シュルレアリズム」は歴史的に語り継がれることになりました。
[夢]
フロイトの歴史的名著「夢判断」やC.G.ユングの「変容の象徴」などの著書により、「夢」は「現実」と相対する存在であると同時に、無限の可能性をもつもうひとつの世界として注目を集めるようになりました。
シュルレアリズムでは、「夢」の世界を人間にとって最も制約のない自由な世界であると考え、夢と現実の出会う「超現実」こそ、自由な創造を可能にすると考えました。
[革命]
自由な発想を認めるはずのない共産主義との共闘。これもシュルレアリズムの特徴のひとつです。実はシュルレアリスト・グループのメンバーは、ほとんどがブルジョア階級の出身であり、プロレタリアート(労働者階級)との共闘は、理想化された空論にすぎませんでした。このことは、ソ連が巨大な権力をもつにつれて、いっきに明らかになりました。しかし、彼らの運動が革命であったことは、その後の芸術の世界の変革をみると明らかでしょう。それは確かに「革命」と呼ぶに値する運動だったと思います。
「強調しなくてはならないのは、- 批評家がシュルレアリスム的な作品を扱うさいにあまりにもしばしば黙過され、また大衆にはふつう知られていないことなのだが
-、シュルレアリスムがその起源からして一個の革命運動であり、その後も革命運動にとどまっていたという事実である。シュルレアリストたちはみずからの責任において、『人生を変える』(ランボー)および『世界を変革する』(マルクス)という二つの言葉を採用した。・・・」
パトリック・ワルドベルグ著「シュルレアリスム」より
「革命・・・、革命・・・。レアリスム、それは樹木を刈り込むことだ。シュルレアリスム、それは生を刈り込むことだ」
「シュルレアリスム革命」(創刊号)より
[ダライ・ラマ]
「夢」の重要視と同じようにシュルレアリスムの世界では、キリスト教以外の宗教、特に東洋の宗教に対する関心が高く、ダライ・ラマについても、こんな文章があります。
「われらは御身のいとも忠実なしもべである。おお偉大なるラマよ。ヨーロッパ人の戯れた精神にも解しうる言葉をもって、われらに光をあたえたまえ、さしむけたまえ。その要あれば、われらの精神を変化させたまえ。・・・」
アラントン・アルトー「シュルレアリスム革命」より
<シュルレアリスム運動とは?>
シュルレアリスムは、もともとブルジョア階級出身の若者たちが、理想を求め、自由を求めて生み出した新しい生き方でした。政治的には左翼だったり、宗教的には東洋の神秘思想だったり、夢を最大の拠り所と考えたりと、いろいろな独自スタイルを生み出しました。それは自由な発想を重視し、あらゆる束縛を取り除こうとする運動という点で、その後1950年代に登場するビート族や1960年代に燃え上がったヒッピー・ムーブメント、それに1970年代のパンク・ムーブメントなど、時代を変えた運動の先駆けであったとも言えます。
それでは最後にシュルレアリスムについて、最も美しい一言を。
「私の意図は、一部のひとびとのあいだにはびこっている不思議への嫌悪と、彼らが不思議の上にあびせようとしている嘲笑とを糾弾することだったのである。きっぱりいいきろう、不思議は常に美しい、どのような不思議も美しい、それどころか不思議のほかに美しいものはない」
アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」より
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