
- T・E・ロレンス T・E・Lawrence -
<パレスチナ問題の原点>
21世紀になっても未だ解決どころか悪化の一途をたどっているとしか思えないパレスチナ問題。今やその因縁、怨念は3世代に渡るものとなり、いよいよその深さは底なしになろうとしています。この問題が今世紀中に解決されることはないのかもしれません。
それにしても、この問題がここまでねじれてしまった原因はどこにあるのでしょう?それはしだいに歴史の彼方にかすみつつあります。もしかすると、当事者たちにとってはすでにどうでもよいことになっているのかもしれません。(これが一番恐いかもしれません)
多くの日本人は「キリスト教徒でもなく、イスラム教徒でもない我々にパレスチナ問題など理解できるわけがない」そう思っているようです。確かに血で血を洗う争いを繰り広げてきた中東の人々の心は、我々には理解困難かもしれません。しかし、パレスチナ問題が混沌とする原因を理解することは、けっして不可能ではないと思います。そして、T.E.ロレンスという異色の人物を理解することは、そのための重要な入り口のひとつになりそうです。
<映画「アラビアのロレンス」>
T.E.ロレンスと言えば、なんといっても映画「アラビアのロレンス」を忘れるわけにはゆきません。数ある実在偉人ものの映画の中でも、傑作中の傑作と言えるこの作品に匹敵するのはオーソン・ウェルズの歴史的傑作「市民ケーン」ぐらいでしょうか。(これは正確には架空の新聞王の物語として作られていますが・・・実際は新聞王ハーストの半生をモデルにしています)僕はこの映画を最初に観たのはテレビだったのですが、その後リバイバル時に映画館(新宿武蔵野館だった?)で見たときの感動は未だに忘れられません。やはりこの映画は大画面で観たい作品です。特にオープニング・シーンのゆらめく砂漠の向こうから現れるオマー・シャリフの映像の美しさ。あれ以来僕は「砂漠」「イスラムの世界」にちょっとした憧れをもつようになった気がします。(その後、トルコ映画の
「路」と出会いついにトルコへの一人旅を敢行、さらにモロッコにも行って来ました)
この映画が色褪せないのは、そこに描かれた歴史が現在の世界状況に未だ濃い影を落とし続けているからでもあり、ロレンスという人物を影の部分も含めて奥深くまで描き込んでいるからでもあります。「砂漠」という地球上で最もシンプルで美しく厳しい環境に自らの生きる世界を見出した男。その心の奥にはいったいどんな思いが隠されていたのか?彼の心の複雑さは混沌とした現在の中東情勢にも似ているようです。
<ロレンスの複雑さ>
そんなロレンスの人間像の複雑さは、その根っこに生い立ちの複雑さがあると言われています。宗教にのめり込んだ妻に嫌気がさしたアイルランド出身の貴族トマス・ロバート・チャップマンという人物がロレンスの父親です。しかし、母親は彼の妻ではなくトマスの娘たちの家庭教師を務めていたセアラ・ロレンスという女性です。セアラを心から愛したトマスは妻に離婚を求めますが認めてもらえず、セアラと子供たちを連れ、貴族の地位を捨てて駆け落ちをしてしまいます。
T.E.ロレンスことトマス・エドワード・ロレンスは、こうしたねじれた状況のもとで1888年8月16日に生まれました。彼の両親は実質的には夫婦でしたが、戸籍上彼は私生児であり、周りの目も彼に対して複雑な視線を向けていました。彼の母親は不倫関係に負い目を感じていた分、子供たちへの躾について異常に厳しい態度をとっていたようです。
こうして、頭は良くても孤独な少年として育ったロレンスは、しだいに学問の世界にのめり込むようになります。そのうえ彼はいつしか自分の出世の秘密を知り、そのことで苦しむと同時に、小さくてひ弱だった自分の体型にもコンプレックスを感じるようになっていました。(喧嘩によるケガが原因で成長が止まったという説もあります)
こうして、数々のコンプレックスを抱えながら、彼はそれをうち消すべく誰よりも熱心に勉強に打ち込み、歴史の研究にのめり込んで行きました。
<中東への旅立ち>
1907年オックスフォード大学に入学したロレンスは、歴史学を専門とするようになり「十字軍」についての研究に没頭します。そして、その調査研究のため、実際に十字軍が遠征を行った土地を旅することを思い立ちます。こうして、1906年6月ロレンスは4ヶ月近い中東の旅へと出発しました。常に40度以上の高温にさらされ、現代のような交通手段もない中での厳しい旅でしたが、アラブの人々の優しさに触れると同時にその土地が自分にぴったりであることに気づきます。彼はこうして自信を取り戻し、大学を卒業すると古代ヒッタイトの都市カルケミシュの遺跡を発掘する調査団に加わります。
この時出会ったアラブ人、サーリム・アフメドは助手としてその後も彼を助けることになり、人種を越えた友人関係を築くことになります。(実際はそれ以上で同性愛の関係にあったとも言われています)
<第一次世界大戦>
1914年7月第一次世界大戦が始まります。イギリスはフランス、ロシア、セルビアなどとともに連合国側として、オーストリア、ドイツ、トルコなどの同盟国軍と戦いました。この時、オックスフォードに戻っていたロレンスは、彼にとって唯一の理解者だったデヴィッド・ジョージ・ホガース博士の推薦で陸軍参謀本部の地図課に配属されることになります。
彼は考古学者という立場で調査を行いながら、スエズ運河という当時世界でも最も重要だった場所の周辺についての情報を得るためシナイ半島の地図を作成します。それはまさにスパイ活動そのものでした。この頃、彼の兄弟が次々に戦争で死んでしまったこともあり、彼はあえて自ら危険な任務へと向かうようになったとも言われています。
<アラブ独立のための作戦>
1916年、彼はアラブ地域の諜報活動を行うためにできたばかりのアラブ局に配属されることとなり、カイロに向かいます。当時トルコの支配下にあったアラブ地域では、第一世界大戦の混乱の中、トルコに対する反乱計画が進んでいました。その動きを調査したロレンスは、軍事顧問数人と海軍からの物資援助さえあれば、我が軍の投入は不要と報告。自らその作戦に加わることを志願します。こうして、「アラビアのロレンス」が誕生することになったのです。
アラブの反乱軍とトルコ軍の軍事力の差が予想以上であることを知ったロレンスは、その差を補うためのゲリラ戦を展開するようになります。さらに、彼はトルコの支配下にあった重要な軍事拠点アカバの港を攻撃する計画を立てます。それは海に向けられた砲台を後から攻略するために砂漠を横断しようという前代未聞の奇襲作戦でした。砂漠の民だからこそ可能なこの作戦は見事に成功をおさめ、弱冠28歳の軍事顧問ロレンスは一躍軍内部での評価をあげることになりました。(映画「アラビアのロレンス」ではこのシーンがクライマックスのひとつになっています)
<イギリスの思惑>
今のように産油国として重要な地域になる前のアラブは、イギリスにとってそれほど魅力的な土地ではありませんでした。そのため、軍隊を送ってまでトルコから奪い取ろうという発想はなかったのです。それだけに、ロレンスが提案した安上がりな戦法は本国イギリスにとって好都合だったわけです。しかし、ロレンスもしだいに自分がイギリスの中東政策のために利用されていることに気づき始めます。
イギリスから派遣されていたエジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンは、アラブ反乱軍のリーダーだったシャリーフ・フサインとフサイン=マクマホン書簡と言われる密約を交わしていました。それはトルコに対しアラブ反乱軍が勝利を収めた時点でイギリスは彼らの独立を認めるという内容のものでした。ところが、イギリス、フランス、ロシア3国の間では、すでにアラブ地域の分割統治が話し合われており、そこにアラブ国家が誕生する余地はなかったのです。そのことを知ったロレンスは自分が国家による詐欺行為の片棒をかつがされていることに気づき、大きなショックを受けました。
<トルコでの悲劇と心の闇>
さらに大きな事件が彼を襲います。
ダマスカスの南に位置するデラアという町に秘かに侵入し偵察を行っていた彼は、ある時トルコ軍の兵士に見つかり身柄を拘束されてしまいます。
身元が明らかにならなかったため、彼は処刑されることを免れ、その間に脱走に成功します。しかし、彼は捕虜になっている間、ひどいむち打ちによる虐待を受け、さらにはトルコ人の地方長官に犯されたとも言われています。(映画「ミッドナイト・エクスプレス」を思い出させますが、映画「アラビアのロレンス」でもこの部分はさっとですが描かれています)
もともと精神的に病んでいる部分があった彼はこの事件でさらに症状を悪化させ、1923年以降、彼はマゾヒスティックな行為にのめり込むようになります。(そのパートナーだった人物の存在も、後に確認されています)
複雑な生い立ちやアラブとイギリスの板挟みになったことによるストレス、愛するアラブの人々を裏切ることに対する心の痛み、そしてその根本には、愛する母親にむち打ちによってお仕置きされたという悲惨な体験がありました。
これらが彼を女性から遠ざけ、マゾヒスティックな快楽へと向かわせたと言われていますが、真実は闇の中です。
<アラブ独立のチャンス>
1917年いよいよパレスチナは、トルコから解放されようとしていました。しかし、イギリス軍が勝利をおさめることは、アラブ国家設立のチャンスを失うことにつながるのは明らかでした。そのため、ロレンスはアラブ反乱軍の侵攻を早め、イギリス軍より先にパレスチナを制圧させようとします。
1918年10月、ロレンスの計画どおりアラブの反乱軍はエルサレムに次いでダマスカスをも制圧し、アラブ人による政府を樹立しました。
ところが、ロレンスの計画は裏目に出てしまいます。新たなアラブのリーダーとなったファイサルはフランス人の顧問を雇いしだいにフランスに接近します。そして結局は1920年のサン・レモン会議において、フランスの統治下におかれることが決まってしまったのです。
<イギリスにて>
イギリスに戻ったロレンスは自叙伝「知恵の七柱」を発表し、文学者としての才能も発揮します。さらにアメリカ人の従軍記者ローウェル・トーマスによって行われたスライド・ショー「パレスチナでアレンビーとともに」によって、アラブでのロレンスの活躍が紹介されたことがきっかけで一気に「アラビアのロレンス」という名が世界中に知れわたりました。
そんな彼に、当時植民省の大臣に就任したばかりだったチャーチルが声をかけ、ロレンスは植民省の顧問として再びアラブで働くことになりました。その後、1922年にはこの仕事からも引退しますが、彼は現場への復帰を望み空軍に偽名で入隊します。偽名がバレたため、彼は隊を追い出されますが、再び陸軍に入隊。結局彼は空軍基地での仕事を与えられ、ホバー・クラフトの開発やバイクの開発などに携わります。1935年ついに軍を去りますが、それからわずか三ヶ月後の5月13日、彼は愛車のバイク、ブラフ・シューペリアで事故を起こして入院。同月19日にこの世を去りました。まだ46歳という若さでした。
ロレンスは「反乱は、戦争よりももっと、平和に似ている」と言ったそうです。トルコやイギリスという大国の侵略に対し、部族の対立を越えて一致団結したアラブの人々とその仲介役としての仕事を成し遂げたロレンス。彼にとっては、そんな闘いの日々こそが最高の安らぎの時だったのかもしれません。
<パレスチナ問題の原点>
第二次世界大戦後、レバノンとシリア、フランス領パレスチナはイギリスの委任統治領となりました。イギリスはアラブに対して独立国設立を約束していましたが、その裏でユダヤ人に対しても新国家設立を約束していました。これぞ究極の二枚舌です。そして、現在の悲劇的なパレスチナの現状は、この二枚舌から始まったとも言えます。
20世紀以前からヨーロッパで迫害を受け、いやしい仕事と蔑まれた金融業につかざるをえなかったユダヤ人は、逆にその才能を活かしていつしか巨万の富を蓄えるようになります。そして、その財産によってパレスチナの土地を買い集め、自分たちのための独立国家建設を進めました。(この運動をシオニズムと言います)第二次世界大戦におけるナチスによる迫害と虐殺はこの運動を加速させ、イギリスもこうしたシオニストたちの運動を抑えきれなくなり、ついにその判断を国連にまる投げしてしまいます。こうして行われた国連での協議結果はユダヤ人(6)に対しアラブ人(4)という割合でパレスチナを分離させるというものでした。こうして、イスラエルというユダヤ人の国家がアラブ人国家の真ん中に誕生することになったわけです。(この時エルサレムだけは国際管理地区となりました)当然、アラブ人国家樹立を目標としていた人々はこの決定に猛反発。エジプト、シリア、ヨルダン、レバノンからなるアラブ連合軍がイスラエルを攻撃。第一次中東戦争が始まりました。
<中東戦争とその泥沼化>
第一次中東戦争では、イスラエルが孤立していたこともあり、当初はアラブ側が圧倒しました。しかし、イスラエルはチェコやソ連から武器を輸入して体制を整えます。しだいにアラブ連合は分裂し始め、それを期に和平協定が成立し戦闘は終わりました。
1952年エジプトではクーデターが起き、ナセル大統領が誕生します。彼はイギリスから独立するためにスエズ運河の国有化を宣言します。これに激怒したイギリスはフランス、そしてイスラエルを引き入れてエジプトを攻撃します。こうして、第二次中東戦争が始まりました。しかし、国連だけでなく国際世論もまた、こうしたイギリスのやり方を強く非難。こうして、この戦闘は終わり、イギリスは中東での影響力を完全に失うことになりました。
1967年6月5日、第三次中東戦争が勃発します。イスラエルはこの戦闘でシリア、エジプト、ヨルダン、イラクを敵に回します。しかし、戦闘機やミサイルなど最新兵器を有するイスラエル軍はアラブ連合軍を圧倒。わずか6日間でシナイ半島全域を制圧。聖地エルサレムも手中におさめます。
<パレスチナ解放機構の誕生>
この時、パレスチナの土地を奪われた人々が中心となって設立されたのがPLO(パレスチナ解放機構)という反イスラエル武装組織です。アラファト議長を中心とするこの組織の誕生により、中東紛争はパレスチナという地域の範囲を越えて「ユダヤ対アラブ」という対立を世界各地へと広げてゆくことになります。
それはイスラム原理主義の台頭をうながし、ついには「アラブ対西欧諸国」「イスラム教対キリスト教」「第三世界対先進諸国」という対立の構図を生み出してゆくことになるわけです。
こうして、歴史をさかのぼってみると、もとはと言えばユダヤ人を差別し、ヨーロッパから追い出したのはヨーロッパ人です。その後、彼らは自らの支配するアラブ人の土地を奪い、それを迫害に対する罪滅ぼし?としてユダヤ人に分け与えたわけですが、今度はそれによってアラブ人を迫害することになり、ついには彼らからの恨みをかうことになってしまったわけです。まさに因果応報です。こうして作られた「憎しみの連鎖」は、その後アメリカを支配する巨大企業によって進められたグローバリズムという名の新植民地政策によって世界中に広められ、21世紀に入り「先進国対テロリズム」という構図をも生み出すことになったのです。
<締めのお言葉>
「二十世紀とは、終わってしまった十九世紀の痕跡を、九十年もかけて消そうとしている世紀だったりもする・・・」
橋本治著「二十世紀」(上)より
現実には、21世紀にまで持ち込まれ、その終わりは未だ見えないようです。
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