- 立花隆 Takashi Tatibana -

<憧れの存在>
 立花隆の代表作「宇宙からの帰還」を読んだ時、感動したのと同時に悔しかったおぼえがあります。なぜなら、僕は大学の物理科4年の頃、最新の科学について書かれた科学雑誌の編集社に就職することを考えていたからです。そのため、数少ない科学雑誌「科学朝日」について調べたり、科学史の専門家の先生のところに話をききに行ったりしました。しかし、当時は科学雑誌のライター需要がほとんどなく、「原発擁護派」の御用作家だったり企業のヒモ付きだったりしなければ食べられないようにも思え、一気に熱が冷めてしまいました。たとえ就職できたとしても、科学も社会も知らない当時の僕がライターになっていたとしても何も書けなかった気がするのですが・・・。結局、僕は自動車関係の企業に就職し、研究開発の仕事をしながら、独学で「科学史」や「科学論」、「進化論」の勉強をするのが趣味のひとつになります。そんなわけで、「宇宙論」「生命論」の書でもあった「宇宙からの帰還」は僕にとって実に興味深く、いつか自分が書いてみたいと思える題材でした。
 立花隆といえば、多くの人は「田中角栄研究の第一人者」というイメージを持っているかもしれません。しかし、彼の興味の範囲はそんなちっぽけなものではなく、宇宙から地球を見下ろして「人類とは何か?」に迫ろうという試みでした。
 今にして思えば、このサイトで僕がやろうとしていることの先駆けが立花隆でした。日本が生んだ「総合人間学」の最高峰、立花隆の研究と人物像に迫ってみたいと思います。

<橘隆志>
 立花隆は本名を橘隆志と書き、1940年5月28日長崎県の長崎市に生まれました。父親は教師でしたが、彼が2歳の時、文部省の職員として北京で働くことになり、家族で中国へと移住しました。1945年に日本が戦争に負けると家族は命からがら日本へと引き上げ、茨城県の水戸に落ち着きます。この時の喰うや喰わずのギリギリの逃避行は、その後彼が世界各地で放浪の旅をする原点になったようです。どうやら彼の一族は家系的に天才の血筋だったようで、彼もまた子供の頃から頭の良さは抜きん出ていたようです。小学生から中学生にかけて、彼は図書館にびっちり通いつめ、世界中の有名文学を読み漁りました。例えば、中二から中三にかけて、彼が呼んだ本の中には、「カンタベリー物語」(チョーサー)、「ボヴァリー夫人」(フローベル)、「若きウェルテルのなやみ」「ファウスト」(ゲーテ)、「嵐が丘」(ブロンテ)、「罪と罰」(ドストエフスキー)などがあったといいます。まさに、「恐るべき子供」です。
 しかし、文学大好き少年だった彼ですが「科学」への興味はそれ以上だったようで、高校一年生までは科学者になることを目指していたそうです。ところが、高校の先生が「色盲」では科学者になれないと言われ、仕方なく文系の道へ、小説家になる道へと進むことにしました。分野によっては、色盲では困難な分野はあるかもしれませんが、・・・日本の科学界は大きな逸材をこの時逃したかもしれません。
 ただし、後に彼は自分は科学者には向いていなかったと語っています。
「・・・僕は浮気性だから、大体わかったというところまでいくと、次は違うことがやりたくなる。もともと研究者は合わなかったんだなっと。・・・」

<混乱する大学で>
 その後、彼は東大の文学部に合格。大学の先輩、大江健三郎のような文学者になることを目指して小説を書き始めました。しかし、彼が東大に入学した1959年という年は、60年安保闘争真っただ中、「文学」よりも「政治」の時代でした。そんな中、彼は学生運動に参加するのではなく、彼らしくまったく異なる道を選びます。原爆関連のドキュメンタリー映画や資料をもって世界各地を旅する「反原子爆弾世界キャンペーン・ツアー」を自ら企画、実行に向けて動き出したのです。
 当時、海外ではバートランド・ラッセルアインシュタインらの呼びかけにより、反核運動が市民運動として盛り上がりつつありました。そのおかげもあり、彼らの計画に対し、海外の受け入れ先は見つかりましたが、問題は高額な渡航費用でした。そうでなくても、日本人が自由に海外旅行をする時代は、まだ先のことで、友人との二人旅に必要な費用は当時のお金で100万円にのぼりました。(現在のお金なら1000万円にはなるでしょう)募金活動だけでは、到底足りず、各新聞に記事を載せてもらい寄付を集めることと、直接新聞社から資金を提供してもらうことでなんとか旅に出ることが可能になりました。
 翌1960年の4月、ついに彼らはヨーロッパへ飛行機で出発。ロンドンをスタートしてフランス、イタリア、オランダなどで映画の上映会を開催し、各地の市民運動グループとの交流を行い、彼らは船で日本へと帰国します。この時、政治運動ではない市民運動としての活動を体験した彼は、日本で繰り広げられていた中核派や革マル派による勢力争いの展望の無さ、ナンセンスさに気づかされました。こうして、彼は学生運動から離れ、ジャーナリズムの道へと進むことになります。

<ジャーナリストとして>
 大学を卒業した彼は文藝春秋社に就職。そこで「週刊文春」に配属され、その編集部で「この人と一週間」などの企画を担当します。話題の人物に一週間密着して、その人物の人間像を浮かび上がらせるというそのルポルタージュで彼が書いた人々は、ハナ肇、山本富士子、ザ・ピーナッツ、倍賞千恵子、今村昌平、三国連太郎など様々な分野の人々でした。改めて当時の文章を読んでみると、彼がごく自然に主人公の内面までも引き出してみせていることに感心させられます。著者の存在を消すことで、読者は著者とともに一週間の取材に参加している気になります。こうした、彼の客観性にこだわる文章スタイルは、この頃からすでにできつつありました。
 それともうひとつ、彼がどんな人物を描く時も、けっして単一の視点で描くことはなく、常に対象に対する敬意や優しさをもって望んでいることにも感心させられます。そうした彼の姿勢が伝わるからこそ、彼の取材対象は裏表なく心の内を明かしてくれたのでしょう。

<フリーライターへ>
 作家を目指していた彼は、金銭的にも時間的にも不満を感じ、二年で文藝春秋社を退社。1967年に東大の哲学科に再入学します。そこで学びながら彼はアルバイトで講談社に通い、女性週刊誌「ヤングレディ」のアンカーマンを勤めました。アンカーマンとは、記者が取材して集めてきた情報ををもとに紙面に載せる最終的な記事に仕上げる仕事。他誌との争いもあるので、時間との闘いの場合も多いようです。この仕事により、彼は様々な取材結果を文章にまとめる技術を身につけることになりました。こうした経験を生かして、彼はフリーのライターとして、古巣の「文藝春秋」や「諸君!」、「潮」などの雑誌に次々とルポを発表してゆきます。この頃、彼が書いたルポをいくつかあげると・・・。
「60年安保栄光と悲惨」、「実像・山本義隆と秋田明大」、「この果てしなき断絶 - 三派全学連・父と子の記録」など、当時の政治闘争についての作品群。
 これらのルポには、60年安保と70年安保、二つの時代の運動の違いや英雄たちの生い立ちと挫折が描かれ、その後訪れることになる悲惨な運動の行く末とその延長線上に登場することになるオウム真理教の影を感じることができます。

「最近の学生のデモにはプラカードもビラもない。シュプレヒコールは呼びかけのためではなく、もっぱら自分たちの決意の確認のためである。60年のデモ隊の顔には見物人と機動隊に半々に向けられていたが、今は機動隊にだけ向けられている。周囲の人間から、マスコミからいかなる非難をあびせかけられようと、彼らは少しも動じない。」
 僕が高校生の時、教室にアジりにきた学生も今思うと教室でアジるだけアジって、生徒たちに協力を呼びかけることをしないまま、あっさりと教室を出ていったような気がします。「安保問題」自体が過去の出来事として忘れられつつあるだけに、こうした記憶はもっと語れるべきだと思います。

「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か」
 1969年「諸君!」に発表された「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か?」では、大人まで読むようになったマンガ雑誌が今後社会を変えていくだろうという予測が書かれています。彼はマンガという絵と文書による総合メディアは、情報量が急激に増えつつある世界において、より早くより直感的に情報吸収を行うために不可欠なツールになるだろうと指摘。しかし、そうしたメディアの変革は、その予測をはるかに越えることになりました。
 マンガからアニメへ、そしてインターネットの登場によって、「ユーチューブ」のような映像メディアも生まれ、世界中の情報が瞬時に見られる状況が生まれつつあります。そして、その傾向はますます加速しています。そう思って読むと当時のマンガ黄金時代はなんとものどかだった気がします。

「十七世紀にはじまる西欧文明=科学は、幾何学の精神に導かれてきた。しかし、ここにきて、幾何学の精神がもたらした過剰情報に幾何学の精神は首をしめられつつある。論理を追って受容できる限度以上の情報量に対して反応していくことが要求されている。頼るべきは直観しかない。」
「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か?」

 さらに情報化が進む日本社会について、こんな記述もあります。
「・・・歴史的に近代をとびこして発展してしまったので、否定すべき個もなく、はじめから情報社会的なejectの段階にあるんですよ。良くも悪くも日本ははじめから連帯してしまっているようなところがある。この意味じゃ、今の日本は世界で一番情報社会的になっているんじゅないですか。これからも個が失われる方向に進んでいくでしょう。」
川添登(建築評論家)

「毛沢東の徹底的解明 - 革命家・毛沢東とは」
 21世紀にまでつながる中国独自の共産主義政治体制の原点となった毛沢東の生い立ちから、中国統一までの歴史が客観的な視点から描かれています。未だに民主的な政治とは程遠い中国の管理された政治体制や「大衆重視・人命軽視」の考え方がたった一人の男の思想からもたらされたことに驚かされます。21世紀の世界にとっては、もしかするとキリスト教よりもイスラム教よりも、「毛沢東」教こそが最大の影響力をもっているといえるでしょう。

 これらのルポを次々と発表するかたわら彼は新宿ゴールデン街でバー「ガルガンチュア」をオープンさせ、半年間その店のマスターを勤め業界人の間で有名に店にしてしまいます。この頃から彼のグルメとワイン通は有名で、後に彼はフランスにワイン製造施設付の別荘を購入することになります。しかし、彼の性格上、そうした店をいつまでも続けることは無理な話で、1972年、店の経営権を売却。彼はイスラエル、ヨーロッパ、中東への旅に出発しました。その途中、彼はあの有名なテルアビブ空港の乱射事件に遭遇。唯一生き残った犯人、岡本公三との対話を「週刊文春」に発表。大きな話題となりました。その後、1974年にも彼は中近東の旅をしながらパレスチナ問題に関するルポを次々に発表してゆきます。そして、この年、彼が取りかかった仕事として特筆すべきなのが「文藝春秋」に発表された「田中角栄研究 - その金脈と人脈」です。

「田中角栄研究 - その金脈と人脈」
 戦後日本の政治を象徴する存在ともいえる総理大臣田中角栄についての取材はその後も、様々な形で続けられ、その集大成ともなる分厚い作品「田中角栄研究全記録(上・下)」(講談社)が1976年10月に発表されます。彼の名前を海外にまで広めることになるこれらのルポ作品は当初マスコミの間では、それほど重要視されてはいなかったといいます。大方の見解は二つに分かれていました。ひとつは「そんなことはどの記者でも知っていることだ」というもので、もうひとつは「確かに事実化もしれないが、もしそうならすぐに握りつぶされるはずだ」というものでした。ところが、彼のその記事について、意外なところから大きな反響が起きることになります。
 海外の記者たちによって行われる外国人記者クラブ主宰の記者会見に現職の総理大臣田中角栄が登場した日、彼らの中の一人が立花氏の記事についての真偽を問いただしました。すると田中角栄は相手が日本人記者ではないことに油断したことと通訳の行き違いから、記事の内容を認めてしまいます。ところが、それがあっという間に「総理大臣による犯罪」として世界に向けて発信されてしまうことになったのでした。こうして、あの有名な「ロッキード事件」が始まることになるわけです。
 現職の総理大臣が罪に問われ、なおかつ裁判によって有罪判決を受けるという歴史上類をみない大事件は、決して大掛かりな調査チームによる壮大なプロジェクトではなく、立花隆という一人のライターとその助手数人によって実現されました。しかし、その調査の根本にあったのは、時の総理大臣を引きずり下ろそうという野望などではなく、素朴な疑問「なぜ田中角栄はあんなに金を集められるんだろう?」を解決したいという好奇心だったようです。あとは、その疑問を解決するために総理大臣へのお金の出入りを丹念に調べることで結果は自ずと明らかになってきました。
 当時、検事として田中角栄の追及を行い一躍有名になった判事、堀田力氏は、「田中角栄研究全記録」について、こう書いています。
「・・・立花さんの田中研究は、単なる日本型政治のすぐれた分析書にとどまるものではない。この研究は、ほかの研究や分析とは、決定的に異なる特徴を持っている。
 それは、この研究自体が政治腐敗との闘争の武器であったという点である。・・・
 市民は、この研究により事実を知り、腐敗の実像に怒り、変革を求めた。そのエネルギーの源となったのであり、その根源には、立花さんの憤りがあった。・・・」


<立花隆の取材、分析手法>
 優秀なスタッフやブレインを多数抱えているわけでもない彼は、どうやって取材相手を追い込み、事実を語らせるのか?その秘密は
について、かつて立花氏と仕事をした人物はこう語っています。
「情報源や取材チームの力が関係ないといわないが、重要なのは、立花隆の仮説の組み立て方だ。優れた仮説を組み立てるためには、精緻な情報の分析が必要である。この点で立花隆は天才だ。膨大な資料を読みこなし、情報を見事に整理する。強くて広い好奇心が、分析の馬力になっている。・・・」

「・・・凡人は違うのは、膨大な情報がまるでコンピューターで呼び出すように立花隆の頭の中では整理されているという点だ」
蜷川真夫

 小説家、池澤夏樹は、立花隆のルポの特徴についてこう書いています。
(1) 日本人全体あるいは人間全体に関係する大きなテーマを取り上げ、
(2) それについて正確なデータを幅広く集め、
(3) それをダイナミックに分析して、
(4) 結果を簡単明瞭な文章につづる。
 こう書くとジャーナリストや評論家なら誰もが考えそうなことばかりです。しかし、(1)のように広いテーマを扱うためには、科学も文学も政治も、すべてのジャンルの知識をおさえる必要があります。それぞれのスペシャリストではなく、すべてを知り、総合できる能力をもつ人材は日本という国の教育制度からは、非常に貴重な存在です。
 (2)(3)は、応用数学的、統計学的、科学的な分析力を必要とされる分野。(4)は、文学的才能を必要とされる分野といえます。統合的な能力をもつ彼だからこそ、四つの特徴をすべて合わせもつことができるのです。
 さらに池澤は、もうひとつ重要な点についても言及しています。
「立花についてもう一つ大事なことがある。それは彼が決してアジテーターではないということだ。データを集め、それを分析して、一つの結論を出す。彼がやるのはそこまでで、その結果をもって大衆を脅かし、生活の変革を迫り、それを運動化することで自分の力を強めるという回路に彼は決して近づかない。権力の欠如といってもいい。・・・」

 彼にとってのルポは、元々彼が大好きな放浪の旅と共通しているともいえます。旅の中で新しい何かを発見する喜びが、机に向かって頭の中で新しい物語を作る喜びを上回ったということなのでしょう。
「・・・だからある意味では、ずっと探検ばかりやってきた。暗黒大陸というか、未知の領域、世界を見つけたとき、それがいちばん面白いんじゃないかって気がするね。・・・」
湯川豊(文藝春秋社)との対話より

<広がるジャンル、変わらないテーマ>
「農協 巨大な挑戦」(1980年)
 立花隆が追求してきたテーマはどれも幅が広いものばかりですが、それぞれのテーマについてのとらえ方も常により広い視点が用いられています。この本では、巨大な総合企業としての農協についての実態に迫っていますが、そこで彼が重要視したのは、「農協を知るには農業を知らねばならない」という実に当たり前のことです。農業の実情とあまりにかけ離れてしまった農協という総合商社のもとで農家の未来はどうなって行くのか?そこでは農業の本質についても語られます。

「日本共産党の研究」
 彼の研究は決して批判のための研究ではありません。すべては素朴な疑問から始まり、ついつい奥深くまで追求し続けてしまったものばかりです。そのため、彼の著書が書かれた対象から批判されることもたびたびでした。(命の危険を感じたこともあったはずですが、そうしたことは触れられていません)
 戦前の日本共産党の成立と崩壊について研究した「日本共産党の研究」は、共産党に対する政府の弾圧と同時に共産党内部で起きていた転向、密告、暴力についての内幕を明らかにしたものでした。当然、共産党からの批判キャンペーンが巻き起こり大きな話題となりました。

「アメリカ・ジャーナリスト報告」(1978年)
 ウォーターゲート事件で一躍注目の人となったワシントン・ポストの記者ボブ・ウッドワードやデイヴィッド・ハルバースタムらへのインタビューを行い、日本とアメリカのジャーナリズムの違いを追求した書。

「アメリカ性革命報告」(1979年)
 1970年代に大きな盛り上がりをみせたポルノ、ウーマンリブ、同性愛などにスポットをあて、現地調査を行った研究書。一歩間違うと興味本位の週刊誌ネタになるところですが、そこは立花隆です。

「宇宙からの帰還」(1983年)
 実際に宇宙体験をしたアメリカ人宇宙飛行士の多くが、宇宙空間で特殊な体験をし、その後、それまでとは異なる人生を歩みだしているという事実を知った立花隆が、その意味を探ろうと企画した研究書。これぞ、立花隆の真骨頂ともいえる作品です。彼は実際にそれらの宇宙飛行士にインタビューを行いますが、彼らの多くがよくぞその話を聞きに来てくれた!と喜んだそうです。逆に言えば、そうした頂上体験はアメリカの宇宙開発担当者や科学者たちにとっては、取り上げたくない問題だったともいえます。
 この本の衝撃は、大きくそれをもとにしたテレビ版もできました。「宇宙と人間の意識」という巨大なテーマを人類に初めて提示したノンフィクション作品となりました。(それに匹敵する人物として、イギリスのコリン・ウィルソンがいますが・・・)

「青春漂流」(1985年)
 若者向けの雑誌「スコラ」に連載されたもので、11人の若者たちについてのルポ。インタビューによって引き出された彼らの夢や不安は、時代を越えて今に通じ、未だに売れ続けるロングセラーとなりました。

「脳死」(1986年)
 もともと「脳死」とは、臓器移植を実現するために生み出された言葉(概念)です。単に死とは何かを示すために生み出された言葉ではありません。この点だけでも、「脳死問題」は「人の死」について語るうえで重要な存在となりました。「人間」とは何かを追求し続ける立花隆にとって、「死」はこの後も重要なテーマとなります。

「精神と物質」(1990年)
 ノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進教授へのインタビュー。最先端の生命科学を知るところから、「生命とは何か」「精神とな何か」そして「人間とは何か」に迫る生命科学の入門書

「電脳進化論」(1993年)
 インターネットではなくスーパー・コンピューターの開発状況とその未来予測について書かれた書。コンピューターの進化は人類の未来にどんな影響を与えるのか?もうひとつの「脳」となった「コンピューター」ぬきに「人類」の未来は語れないことは、この後インターネットの登場によtって証明されることになります。

「巨悪VS言論」(1993年)
 ロッキード事件以降の、17年間に渡って彼が発表してきた政治腐敗に関する報告を集めた大作。ほとんどの政治家は、政治家として生きてゆくために金を集めるのではなく、金を集めるために政治家になった、という今では当たり前の事実を示した書。
 ジャーナリズムとは、「正義がきちんと行われているか」を監視するために存在する、ということを再認識させる大手メディアへの批判の書でもあります。

「臨死体験」(1994年)
 実際に臨死体験をした人々への取材をもとに、「死」とは何かに迫ることで、逆に「生」の本質について問いかけた問題作。テレビ化もされ大きな話題となった作品で、死についての考察を深めることで、「生きる」ことに希望を与える書となりました。

「ぼくはこんな本を読んできた」(1995年)
 立花隆の読書遍歴とともに、その人生にも迫った「立花隆史」の書。彼が読んできた様々なジャンルの本からその頭の中に迫ることは、広がる「人類の全体像」へと迫ることにもつながることになります。

「脳を究める」(1995年)
 脳科学研究における最先端の現場を訪ねたルポ。「人間」を追い、「死」を追ってきた著者が当然のごとくたどり着いた「脳」についての研究書。「神」をもたない多くの日本人にとって、「人間」を追及して、たどり着く先は「脳」なのかもしれません。

「サル学の現在」(1991年)
 「人間」を追及し続ける著者が、「脳」の研究とは別の道筋で人間に迫るために選んだ「サル学(霊長類)」の書。サルの生態学を研究することは、動物行動学の視点から人類に迫る最短経路ともいえます。彼の著者すべてにある程度共通するが、学術書に近いにも関わらず、この作品も大きな話題となり、10万部以上売れたといいます。彼がむずかしい話をいかにかに分りやすくする才能を身に着けていたのかがわかる研究書。

 彼の場合、どんなに範囲が広がっても、そこに「人間とは何か?」という大きなテーマが存在しているので、目標が失われたり、ぼやけたりすることはありません。これは、常に新たな地平を築こうと悪戦苦闘する小説家という仕事に比べてずっと幸福なことかもしれません。
 といっても、立花氏本人はそんなテーマなど関係なく、自分が興味をもっていた分野について単に調べたかっただけ、と言うかもしれません。実は、僕もそんな単純な選び方でこのサイトを作り続けている気がします。
 僕のこのサイトでは、「20世紀とは何だったのか?」をテーマに「音楽」「映画」「小説」「スポーツ」「哲学」「政治」「美術」「科学」など様々なジャンルについて調べ続けていますが、それは「20世紀を生きた様々な人間たちの物語」でもあります。いくら調べても、魅力的な人物が尽きることはありません。立花隆師匠同様、僕も幸福であることをありがたく感じながら今後もこのサイトを拡張させ続けようと思います。

<参考資料>
「立花隆のすべて」
 1998年
内橋克人、池澤夏樹、筑紫哲也、養老孟司、堀田力ほか著
文藝春秋社

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