邦画界最高の女優は映画がお嫌い

- 高峰秀子 Hideko Takamine -
<日本映画を代表する女優>
 1950年代日本の映画界が興行的にピークを迎え、海外の映画祭でも高い評価を受けるようになった時期。最も輝いていた女優の一人が高峰秀子でした。しかし、彼女はその才能の高さから名女優と言われながら、嫌いやながら女優を続けていたことは当時は知られていませんでした。55歳という若さで、あっさりと女優をやめてしまったのは、そのせいだったことが後に明らかになります。
 なぜ、彼女は女優業が嫌だったのか?
 なぜ、彼女はエッセイストとして優れた才能をみせたのか?
 天才女優と呼ばれた女優、高峰秀子について知るには、彼女が出演した多くの作品を見てもらうのが一番ですが、隠された部分について調べてみました。

<高峰秀子誕生>
 高峰秀子は、1924年(大正13年)3月27日、北海道函館市に生まれています。平山欽司とイソの長女として生まれ育てられますが、彼女が4歳の時、母親が結核でこの世を去ったため、父の妹、平山志げの養女になるため東京へと向かいます。
 1929年9月、義理の父親となった市治におんぶされた彼女は、松竹蒲田撮影所で偶然行われていた映画「母」(監督は野村芳亭)の子役オーディションに飛び入り参加して、見事合格します。そして活弁士だった義理の母親が使っていた芸名「高峰秀子」をもらって俳優デビューすることになりました。
 正式に松竹に就職した彼女は、映画「母」でヒロイン川田芳子の5歳の娘、春子を演じ、演技力を高く評価されます。そのうえ、映画自体も大ヒットしたことから、彼女はいきなり人気子役となり、数少ない松竹蒲田の専属子役として大活躍をすることになりました。
 その演技力を買われ、男の子を演じることもあったことから、彼女のニックネームは「秀坊」だったそうです。
 彼女は6歳の時、一度だけ小学校の運動会に出場しています。ところが、彼女は徒競走に出場したものの、走らずに歩いてゴールイン。周りからは、当然ヤジが飛んだようですが、走って転んでしまえば、撮影中の映画のスタッフさんに迷惑がかかる、そう彼女は思ったのだそうです。6歳の少女が、なんという気遣い!ちょっと怖いぐらいです。その真面目さは、たぶん義母による厳しい躾のおかげではなく、逆に義母を反面教師として「ああはなりたくない」との思いがそうさせたのかもしれません。そしてこの気真面目過ぎるほどの生き方を、生涯彼女は貫き通すことになります。

<東宝への移籍>
 一躍人気者となった彼女は、京都下賀茂で撮影されていた時代劇にも出演するため、京都へも頻繁に向かうことになりました。そして人気俳優の林長二郎(後の長谷川一夫)主演のヒット作「鼠小僧次郎吉」などに出演後、新興の映画会社PCL(後の東宝)にスカウトされて移籍します。そして、そこで彼女にとっての出世作となった「綴方教室」に出演することになります。
「綴方教室」(1938年)
(監)山本嘉次郎(原)豊田正子(脚)木村千依男(撮)三村明(音)太田忠
(出)高峰秀子、小高まさる、水谷史郎、徳川無声、清川虹子、滝田修
 長屋暮らしの貧しい少女が素晴らしい作文を書いて認められ、有名になった実話に基づく作品で、彼女は主人公の正子を演じました。実は、彼女は俳優業が忙しく、5歳の頃からまったく学校に行く暇がなかったため、本当に字も読めないまま仕事をしていました。(ステージママの義母も字が読めませんでした)幸いなことに、彼女の小学校の先生が彼女のために絵本を用意してくれ、それを旅先、ロケ先に向かう彼女に渡してくれたおかげで、彼女は自学自習により文字を憶えることができました。こうして、苦学した経験は彼女に大きな影響を与え、その後、大人になってからも彼女は読書家となり、数多くの手紙を出し、ついには日本エッセイスト・クラブ賞を受賞するほどの文筆家となります。

 1940年豊田四郎監督の「小島の春」を見た彼女は、主演の杉村春子の演技に衝撃を受けました。それまでいやいやながら女優業を受け入れていた彼女は本気で俳優の仕事に臨もうと決意。こうして、子役から少女俳優として主演を任される存在へと成長した彼女は、1941年山本嘉次郎監督の「馬」に出演しました。
「馬」(1941年)
(監)(脚)山本嘉次郎(撮)唐沢弘光、三村明、鈴木博、伊藤武夫(音)北村滋章
(出)高峰秀子、藤原鶏太、竹久千恵子、二葉かほる、平田武、細井俊夫
 岩手県の馬産地を舞台にした作品で、彼女は貧しい農家の娘を演じました。娘は、ある日、一頭の仔馬をもらい大切に育てますが、家の借金のために売られてしまいます。それでも彼女は、厳しい労働環境の紡績工場で女工として働きお金を稼ぎ、愛する馬を買い戻すことに成功します。ところが、戦争が始まるとその馬も軍馬として徴用されることになり、再び別れることになるという悲劇的な作品でした。この映画の撮影中、彼女は盲腸から腹膜炎を発症し入院し、撮影が中断しました。しかし、これ以後、彼女は引退するまで一度も撮影をキャンセルすることはありませんでした。

<映画界の混乱と再生>
 1946年日本各地で組合の運動が盛り上がる中、その象徴的存在となった「東宝争議」が始まり、映画界は大混乱に陥ります。そんな中、彼女は大河内傅次郎、長谷川一夫、山田五十鈴、原節子らと共に東宝から離れ、「新東宝」を設立。新会社で彼女は、太宰治原作「グッドバイ」、谷崎潤一郎原作「細雪」などの文芸作品や大ヒットしたエンタメ作品「銀座カンカン娘」などに出演。1950年には、巨匠、小津安二郎の名作「宗方姉妹」に出演しています。
 25歳となった彼女はここで女優としては珍らしかったフリーの道を選択。これにより、彼女は自ら選択して1950年代に黄金期を迎える日本映画界の巨匠たちの映画に次々と出演することができるようになります。
 1951年日本初のカラー映画として大ヒットとなった「カルメン故郷に帰る」に出演し、木下恵介監督との黄金コンビが始まります。
「カルメン故郷に帰る」(1951年)
(監)(脚)木下恵介(製)月森仙之介(撮)楠田浩之(色)小松崎正枝、赤沢定雄(助監)松山善三(音)木下忠司
(出)高峰秀子、小林トシ子、坂本武、磯野秋雄、佐野周二、井川邦子、佐田啓二、笠智衆

<日本脱出>
 女優として順風満帆に見えた彼女でしたが、彼女のステージママでもあった義母・志げとの関係は彼女がお金を稼げば稼ぐほど険悪になりました。そのうえ、彼女の稼ぎにたかる親族が増えることにもなり、いよいよ彼女は身内によって苦しめられるようになりました。彼女にとって、女優として稼ぐことは何のためなのか?その目標を見失いつつあったのです。
 ハリウッドならここから彼女はアルコールに溺れ、自殺へと追い込まれていたかもしれません。しかし、真面目な彼女は旅に出たまま帰らない道を選びます。ちょうど彼女にカンヌ国際映画祭に出席する話が来たのです。彼女はフランスへと旅立ちカンヌ国際映画祭の後、そのまま帰国せず、憧れだったパリで下宿を借りて暮らし始めました。初めて自由を満喫した彼女は、そのまま日本に帰らないつもりだったのかもしれません。しかし、半年後、志づから「金送れ」の連絡が来て、彼女は現実に引き戻されることになりました。義母は多額の借金を抱え、彼女の帰国を待っていたのでした。こうして、彼女の幸福な自由時間は終わり、多額の借金を返済するために女優業への復帰を余儀なくされたのでした。一時は、彼女のギャラに頼る親族が十数にいたと言われています。それでは逃げ出したくもなるでしょう。

<絶頂期から引退まで>
 幸い復帰後も、彼女へのオファーは途切れませんでした。特に木下恵介監督との作品は次々にヒットし、いよいよ女優としての彼女の絶頂期が訪れることになります。
 「女の園」(1954年)、「二十四の瞳」(1954年)、「喜びも悲しみも幾年月」(1957年)など、木下恵介作品には全部で12作、彼女は出演しています。
 この時期、日本の映画界で女性映画の巨匠として活躍していた成瀬己喜男監督の作品にも彼女は出演しています。映画史に残る傑作「浮雲」は、その中の代表作と言えます。その他にも、「女が階段を上がる時」「娘・妻・母」「ひき逃げ」など。木下恵介作品での清純派、良妻とは違う、男に人生を狂わされ、悲劇的な女性像を演じています。
「浮雲」(1955年)
(監)成瀬巳喜男(原)林芙美子(脚)水木洋子(撮)玉井正夫(音)斉藤一郎
(出)高峰秀子、森雅之、山形勲、加藤大介

 野村芳太郎監督が松本清張の原作を映画化した「張り込み」にも彼女は出演。そこで彼女が演じたのは、昔の恋人だった逃亡犯と再会し、恋の炎を燃やしてしまう恋に狂う人妻の役でした。
 ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した稲垣浩監督の傑作「無法松の一生」では、主人公の松五郎に長年にわたり慕われる軍人の妻を演じ、高い評価を得ました。
「無法松の一生」(1943年)
(監)稲垣浩(原)岩下俊作(脚色)伊丹万作(撮)宮川一夫(音)西梧郎
(出)阪東妻三郎、月形龍之介、永田靖、園井恵子、澤村アキオ

 その後、映画界が下り坂に差し掛かり、彼女の出演作品も減少して行きますが、それでも多くの名作に彼女は出演しています。「笛吹川」、「名もなく貧しく美しく」、「永遠の人」、「放浪記」、「乱れる」、「華岡青洲の妻」、「恍惚の人」など。
 1979年の「衝動殺人 息子よ」では、無差別殺人の犠牲となった息子の死を無駄にしないため、被害者遺族の保護法制定のために奔走する母親役を演じています。そして、この作品を最後に55歳となった彼女は、あっさりと女優業から引退しました。55歳という年齢は、長谷川一夫が引退した年齢と一緒で、まだ若いと思われますが、5歳でデビューした彼女にとっては半世紀の間働き続けたわけです。ちょうどそのタイミングで義母がこの世を去り、彼女は足かせがなくなり、脚本家の松山善三との結婚で妻としての仕事に専念する新たな目標も生まれていました。

<妻としてエッセイストとして>
 1955年に結婚した脚本家・監督の松山善三との夫婦生活は、彼の死まで良好でしたが、妻としての仕事とは別に彼女は文筆業にも生きがいを見出すことになりました。全部で26作ものエッセイ集を出版しただけでなく、「私の渡世日記」では日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。映画関係者の中でも彼女の文筆家としての才能はずば抜けていたと言われています。字も読めなかった彼女は、それだけに文章、手紙へのこだわりは強く、それが文章家としての彼女を育てたのでしょう。
 引退についてインタビューで尋ねられた彼女は、引退のタイミングは予定通りだったと語っていたそうです。憎むべき親族に人生を奪われたはずの彼女ですが、そんな半生を彼女はどうやら悔やんではいなかったようです。彼女にとって、苦行だったかもしれない女優人生も55歳以後に訪れた幸福なる日々の準備期間だったと思っていたのかもしれません。
 彼女は、幸福な女優人生を演じた二重の意味の偉大な女優だったのかもしれません。
 彼女にとっては、人生すべてが演じるべき現場だったのです。
 映画界からの引退後、31年たった2010年12月28日、彼女は肺がんにより、この世を去りました。

<参考>
「高峰秀子の引き出し」
 2015年
(著)斉藤明美(高峰秀子の元編集者で彼女の養女となった人物)
マガジンハウス
「昭和の映画ベスト10 男優・女優・作品」 2019年
(著)西川昭幸
ごま書房

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