「蟹工船」

- 小林多喜二 Takiji Kobayashi -

<21世紀の復活>
 まさか21世紀に入って小林多喜二のブームが起こるなんて思いもしませんでした。しかし、世の中の労働組合のほとんどが御用組合(この言葉は死語?)と化し、そうした組合にすら入れない非正規労働者が増え、さらにはそんな非正規の労働者にすらなれない失業者が大量に生まれた2008年。確かにプロレタリア運動の英雄、小林多喜二が今一度立ち上がる時が来ていたのかもしれません。かつて彼の遺体を前に、彼の母親セキが「立ち上がれ!」と叫んだように、再び時代が彼に「立ち上がれ!」と叫んだのでしょう。
 かくいう僕にとって、かつて小林多喜二が強烈な印象をもたらしたことがあります。その時の記憶も今ではほとんど消えかかりそうになっています。1960年生まれの僕はもちろん彼に会ったこともないし、プロレタリア運動に関ったわけでもありません。しかし、子供時代に僕は小林多喜二の顔と対面したことがあるのです。

<多喜二との対面>
 小学生の頃ですから1960年代後半のこと、僕は祖母と母親といっしょに小林多喜二のお姉さんチマさんのお宅を訪ねたことがあります。チマさんは祖母と昔からの知り合いで、小樽市の朝里駅の近くに住んでいました。かつて、その家には多喜二の母親セキさんも住んでいましたが、その時はもう亡くなっていました。その日、チマさんは母親と僕のために、家の奥から有名な小林多喜二のデスマスクを持ってきてくれ、それを見せてくれました。たぶんそれはレプリカではなく本物だったのだと思います。当時、小学生だった僕ですが、小樽に育っていた学校で遠足に行く三角山(朝日展望台)の頂上にある小林多喜二の記念碑はよく知っており、彼がどんな人だったかも聞かされていました。それがどうやって作られたのか、デスマスクとは何かを聞かされた僕に強烈な印象が残りました。当時、小学生だった僕には「死」という概念すら理解しがたいものだったような気がしますが・・・。
 それでも「死に顔」というものを実際に目にし触るという体験は、今でも忘れられないものです。

<祖母と多喜二>
 若くして夫を亡くした祖母は太平洋戦争の混乱の中、僕の父親を含め6人の子供たちを育てました。そんな彼女は熱心なクリスチャンで昔から困っていた人を何人も助けてきました。そんな祖母が通う小樽シオン教会の近藤牧師は多喜二亡き後、小樽に転任してきた若い牧師でしたが、その頃セキさんの元をよく訪ね親しくしていました。そして彼女から、死を前にして自分の葬儀は教会で行なってほしいと依頼されました。もともと祖母は独身時代、多喜二の姉チマさんと同じ建物で働いていたことがあり、古くからの知り合いでした。(当時は事務仕事をする女性OLは珍しい存在で、自然と仲が良くなったそうです)そんな縁があって付き合いが続いていたこともあって、ある時祖母は僕と母親に多喜二のデスマスクを見せておこうという気になったのかもしれません。
 時代は1960年代後半。僕の小学校の担任の教師はバリバリの組合系の教師で、多喜二について、ソ連の社会主義体制について、熱く語っていました。時代は、確かに左よりだったはずです。まして、小林多喜二の育った街、小樽ですから、彼の存在は街が生んだ英雄として高く評価されていました。(つい最近までの日本では考えられないことでしたが・・・)当時、山本学主演で伝記映画も製作され、それを学校で(クラスで)見に行ったものです。当時、高度経済成長下の日本では急激な経済成長により貧富の差が拡大、世界的な学生運動の激化もあり多喜二が再び受け入れられる時代となっていました。
 あれから40年の時が過ぎました。そして、改めて彼の代表作「蟹工船」を久しぶりに読んでみました。先ずは、その作品を生み出すまでの多喜二の生い立ちから振り返ってみたいと思います。

<小樽に生まれ育って>
 小林多喜二は、1903年10月13日、現在の秋田県大館市に生まれました。実家は貧しい農家で当時まさに食うや食わずの状況だったため、一家は当時北海道最大の都市として発展していた小樽へと移住します。そこで北海道初のパン製造業で成功していた叔父の助けもあり、小樽のはずれ労働者の街(小樽築港)でパンを売る店を始めます。その叔父さんは多喜二らの教育費も出してくれ、そのおかげで彼は小樽商業学校を卒業することができ、現在の小樽商科大学にあたる小樽高商に入学することができました。
 当時、彼の家があった地域には多くの貧しい肉体労働者が住んでいたため、彼の家にはタコ部屋で働かされていた労働者が何度となく逃げ込み、母親のセキは彼らにパンを持たせ逃がしてやったこともあったといいます。
 彼にとって、その後の人生を変える小樽の街での体験は、こうして街の最下層の人々を知ることから始まったといえそうです。

<世界の中心だった小樽にて>
 当時の小樽は、北海道の縮図であると同時に日本の縮図であり、世界中の資本主義社会の縮図でもありました。1920年代、第一次世界大戦によってヨーロッパが大きな被害を受けたことで北海道の穀物がヨーロッパへと輸出され、それにより巨万の富を得る豪商が生まれていました。僕が住んでいるマンションはその中の一人、「小豆将軍」と呼ばれた高橋直治が作った素晴らしい石垣の上に建っています。そこで用いられている石はすべて船で近くの高島漁港近くの海岸から運ばれてきたそうで、どれも丸く美しいものばかりです。当時の豪商の財力は半端じゃなかったのです。
 小樽はその他にも、一世を風靡したニシン漁や石炭の輸出などによって財を築く者がいましたが、その恩恵はごく一部の資産家に集中していました。そうした経済構造は、北海道経済を支える一次産業の労働者の賃金が安く抑えられることで成り立つものでもありました。それは北海道開拓の歴史が、本州から飛ばされた武士や犯罪者、兵隊たちからなる屯田兵たちによって進められ時から始まっていたといえます。いくらでも人手を必要としていた北の大地には、その後も貧しさから逃れ一攫千金を夢見る人々が移住し、日本唯一のフロンティアとして発展し続けましたが、現実は想像以上に厳しいものでした。
 ヨーロッパの穀物相場を動かした当時の小樽の街は、グローバル化した資本主義が生み出した最初のバブル・シティーだったのかもしれません。その「北のウォール街」の中心に立った彼はそこから資本主義社会の全体像を眺め渡すことができたといえます。
 貧農の子として生まれ、貧しい労働者の街で育った彼が、大学を卒業し北海道発展の中心に位置する北海道拓殖銀行に就職するという地獄から天国への階段を駆け上がるというのは奇跡に近いことでした。しかし、こうした特殊な体験こそが彼の作品がもつ高い文学性とリアルな社会性、生き生きとした人間描写を生み出す最大の理由だったといえるでしょう。それと彼が見受けまでした女性、田口タキとの果たせなかった恋もまた彼の文学に大きな影響を与えたはずです。

<文芸活動と共産党活動>
 高校時代から文学に興味を持ち始めた彼は、大学時代には本格的に文芸活動を開始。友人たちと同人誌を発行します。そうした活動は大学卒業後、拓銀に就職してからも続きました。そして、同じ頃、1922年に日本共産党が創立され、非合法の組織として活動を開始。日本中にその思想が拡がり始めていました。マルクスらの著作をすでに知っていた彼もまた共産主義の思想を本格的に学ぶようになります。
 北海道経済の中心となっていた小樽の街は、共産党の活動がいち早く広がった街でもあり、その活動の拠点となっていました。しかし、こうした活動の急激な広がりに危険を感じていた政府は、現在にもつながる悪名高き法律「治安維持法」を成立させます。この法律によって、政府は現実に犯罪を犯さなくても「思想犯」として気に入らない人間を逮捕することが可能となり、それにより共産主義者を裁判なしで逮捕すること可能になったのでした。こうして、1928年3月15日全国規模の思想犯に対する一斉検挙が行なわれます。
 この時、まだ共産党員ではなかった多喜二は逮捕を免れますが、彼の友人の多くが警察によって逮捕され、厳しい拷問を受けることになりました。そして、盛り上がりをみせていたプロレタリア運動は一気に崩壊の危機に瀕します。そうした状況に危機感を感じた多喜二は、この事件を社会に明らかにし運動の復活の起爆剤となるようにと、初のプロレタリア小説「一九二八年三月十五日」を執筆します。こうして生まれた彼の処女小説は、プロレタリア芸術運動の機関誌「戦旗」に発表され大きな話題となりました。
 そして「蟹工船」は一躍その名を知られることになったプロレタリア作家、小林多喜二の第二作として、1929年再び「戦旗」に掲載されました。

<「蟹工船」誕生>
 多喜二は「蟹工船」を書くため、その船団の基地となっていた函館に週末ごとに取材に出かけています。小樽から函館までは今でも5時間以上かかる道のりですから、当時は往復だけで半日以上かかったはずです。なぜ、そうまでして「蟹工船」について書きたかったのでしょうか?たぶん、それは小樽の街が資本主義社会の縮図であった以上に「蟹工船」はその最も濃縮された存在だったからです。
 多喜二は、そんな「蟹工船」を舞台にすることによって何を描き出そうと思ったのでしょうか?
(1) この小説では、先ず初めに最下層の労働者がいかに厳しい生活を強いられているかが描かれています。そして、そんな労働者が選んだ最後の、そして最悪の選択肢こそ「蟹工船」   の乗組員だったのです。
(2) 「蟹工船」の乗組員と共産主義の本場ロシア人との出会い。これが描けるのは、ロシアとの国境海域で作業を行なう「蟹工船」だからです。
(3) 「蟹工船」を守る日本の軍艦と漁業会社、そしてその経営母体の商社との緊密な関係。これもまた「蟹工船」が国策産業としてロシアと対抗していたかれこそ描けることです。
(蟹工船の構造)
 最下層の労働者が作る蟹の缶詰の中には献上品として皇室にまで届く物もありました。日本の果てで行なわれていた最も危険な作業は、そのまま日本の中心に位置していた天皇にまでつながっていたわけです。「蟹工船」を描くことは、最も効率的に資本主義社会をまるごと描くことにつながったというわけです。
 「蟹工船」のトップには会社の指示を受けた管理者である監督がおり、彼は船の責任者である船長の上に立つ存在です。そこで働く側も、船を動かす船員、蟹を獲る漁夫、蟹を缶詰に加工する蟹工、船の雑用全般を担当する雑夫とに分かれていて、監督はそのグループを対立させることで船内で労働運動が起きることを防ごうとします。しかし、彼らのそうした反発を抑止する最も効果的な方法、それは彼らの仕事が日本侵略を企む敵国ロシアとの「聖戦」なのだと思わせることでした。日本国のため、天皇陛下のための戦争であるからには、賃金の不満などもってのほかであり、命の犠牲も仕方ないと思え!とうことです。
 こうした当時の状況を考えれば、21世紀初めの日本の状況はまだまだ恵まれているといえるかもしれません。
 蟹工船は、こうした資本主義、軍国主義のシステムの縮図だったからこそ、プロレタリア文学にとって最高の題材だったのです。

<主人公のいない小説>
 この小説は、「蟹工船」のシステムとそれに乗る人間集団を描く手法で資本主義の不正を正す手法をとったため、主人公が存在しません。そのため、登場人物がチェスの駒的存在となり、人間ドラマとしての描き方は弱いともいえます。それぞれの登場人物の人間性を描き出すという点では、その後に書かれた遺作ともいえる「党生活者」の方が優れたいるかもしれません。しかし、登場人物の人物像を描きこまなかったことで、この小説は時代を越えうる普遍性をもったともいえます。搾取する側とされる側の時代を越えた基本的な対立の構図は、21世紀になってもほとんど変わらないだけに、シンプルで分かりやすいこの小説は、国境を越えて海外でも受け入れられることになりました。
 それともうひとつ、この小説に主人公がいないことは、この物語の結末とも強く結びついているように思います。船に乗る労働者が一致団結したストライキは海軍の駆逐艦が介入することであっという間に押しつぶされてしまいました。運動の中心となり先頭に立ったメンバーが全員逮捕されてしまったのです。しかし、このことで彼らは非常に重要なことを学ぶことになりました。

「・・・間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部は、全部が一緒にやった、という風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引越してしまうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの。」

 この小説に主人公がいないのは、彼らの運動を続けるためには、その中心人物の存在を知られないようにする必要があったことと結びついており、さらにいうと誰もがその中心人物となれる組織でなければ闘いを続けられないことに基づいているのです。
 この小説も、「党生活者」も、どちらも労働者たちは闘いに破れていますが、どちらも敗北は次なるステップへの布石であるという捉え方されており、けっして暗い結末にはなってはいません。彼らは次ぎなる闘争では勝利をおさめるだろう、という希望を感じさせる終わり方になっています。

<新しい人間像>
 大江健三郎氏は、文学とは「新しい人」を描き出す行為であるといいました。そう考えると、多喜二の文学は、「プロレタリア」という一人ではない人間集団像を描いた新しい小説だったといえるのかもしれません。
 多喜二は、この小説を発表した後、1931年に共産党員となり、次々にプロレタリア文学の傑作を発表。活動の拠点を東京に移しますが、いよいよ警察からマークされる存在となり、ついには「党生活者」として、地下に潜ることになりました。この当時の生活をもとに書かれたのが「党生活者」です。しかし、彼の地下生活もそう長くは続きませんでした。
 1933年2月20日、彼は党の連絡を行なっていたところを逮捕されます。そして、裁判も何もないまま、激しい拷問を受け殺されてしまいました。まだ29歳という若さでした。彼がもし死なずにすみ、太平洋戦争をも生き延びていたら、その優れた人物描写力と優しさからどんな新しい小説を生み出したでしょう。
 思う存分自由な人間像を描けたら、きっとさらなる「新しい人」を生み出したに違いありません。悲しいのは、彼の存在感が増す時代は幸福な時代ではないということです。

<多喜二が愛した音楽、そして街>
 「多喜二が愛した音楽」というCDがあります。収められているのは、J・S・バッハの「主よ人の望みよ喜びよ」、フランス国家「ラ・マルセイエーズ」、イタリア民謡「オ・ソレミヨ」、滝廉太郎の「荒城の月」、チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」などなど。
 彼が音楽好きだったことは有名で、弟の三吾のために大金をはたいてバイオリンを購入し、それをきっかけに弟はプロのバイオリニストになったこともよく知られています。地下生活をしていた時期も彼は音楽を愛し続け、この世を去るわずか2ヶ月ほど前にも弟とともにベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏会に行ったそうです。元々画家を志していた彼は、平和な時代に生まれていたらきっと他にもやりたいことがあったことでしょう。
 音楽を愛し、絵画を愛し、文学を愛し、人間を愛した多喜二は、東京に住むようになってからも、小樽の街を愛し続けました。そして、彼の文学を生み出した原点。小樽の街について、こう書いています。

「冬が近くなると、ぼくはそのなつかしい国のことを考えて深い感動に捉えられている。
 そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある。
 そこでは人は重っ苦しい空の下をどれも背を曲げて歩いている。
 ぼくはどこを歩いていようが、どの人をも知っている。」

 小樽の街への愛、人への愛なくして、彼の命を賭けた生き方はなく、その文学も生まれなかったかもしれません。「愛こそはすべて」です。(彼が生きていたらビートルズだって聴けたはず)
 僕もまたその小樽の住人であることに誇りを感じるしだいです。I Love Otaru !

「蟹工船・党生活者」 1929年
小林多喜二
新潮文庫

映画「蟹工船」 1953年
(監)(脚)山村聡
(撮)宮島義勇
(音)伊福部昭
(出)山村聡、日高澄子、森雅之

映画「蟹工船」 2009年
(監)(脚)SABU
(撮)小松高志
(音)森敬
(出)松田龍平、西島秀俊

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