「おくりびと」

- 滝田洋二郎 Youjiro Takita -

<ピンク出身の監督たち>
 「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラ、「ロッキー」のジョン・G・アビルドセン、そして滝田洋二郎。この3人の監督たちに共通しているのは何か?正解は、3人はみなピンク映画の監督からそのキャリアをスタートさせていること、そしてアカデミー賞をとっていることです。アカデミー賞こそとっていないものの、他にもピンク映画出身の監督たちは数多くいますが、最近では低予算で自主制作映画が撮れたり、コンテストへの応募などにより、いきなり一般映画の監督としてデビューすることも難しくなくなっています。しかし、1960年代から1970年代にかけてはそうではありませんでした。
 当時は映画界にとってもっとも厳しい時代で映画会社はまったく新人監督を求人していませんでした。それでもなお映画界で働きたい、監督になりたいと考えた若者たちは、どうしたのか?
 ひとつには自主製作で映画をつくり、それを自主上映したり、フィルム・フェスティバルなどで入賞を獲得することで映画会社からのオファーを待つ方法があります。情報誌「ぴあ」によるぴあフィルムフェスティバルは、その登竜門として多くの才能を発掘しています。しかし、そうした自主製作映画からプロになった監督は当時はまだ少なく、それ以上に多くの才能を輩出していたのがポルノ映画業界でした。

<ロマン・ポルノの終焉>
 400万から500万円程度の予算で1週間程度の期間で映画を1本撮る。これを繰り返すポルノ映画の業界は規模が小さいがゆえに自由度は高く、ヒットさえすれば何でもありの世界でした。芸術性、倫理性、道徳性などは無視して、あくまで観客のエッチ心をくすぐり楽しませることだけが求められていました。金はなくてもアイデアで何とかする。それがポルノ業界で求められている才能でした。しかし、そのアイデアは人それぞれで、ポルノ業界の世界で芸術性、エロチシズムの美学を追求する者もいれば、娯楽映画として観客を楽しませることに集中する者もいました。
 こうして、そこから様々な才能が育ち、その後は一般映画の世界で活躍するようになりました。特にその中心となっていたのが、1971年からロマン・ポルノの製作を開始した日活でした。
 そうして生まれた監督たちの中には、神代辰巳、周坊正行、根岸吉太郎、黒沢清、相米慎二、高橋伴明、藤田敏八などがいますが、1980年代になるとAVビデオの時代が始まり、1988年には日活のロマン・ポルノも製作が終了し、ポルノ映画業界は過去のものになってゆきます。そんな消え行くポルノ映画業界が生んだ最後の逸材といわれるのが、滝田洋二郎です。

<ピンク映画の監督へ>
 滝田洋二郎は、1955年12月4日富山県の福岡町で生まれました。(現在の高岡市福岡町)テニスや野球に熱中する少年時代を送った彼は、高岡商業高校を卒業後、東京へと向かいました。当初、彼は観光専門学校に入学しますが、長続きせず遊びまわる日々を送ることになります。そんな息子の生活に危機感をもった両親に叱られた彼は大好きだった映画界で働きたいと、知人のつてで東映に入社しようとしますが、そうは旨く行かず、東映の下請けに就職することになりました。
 その就職先は向井寛監督を中心とする独立プロ「獅子プロ」で、彼はそこで営業として働くことになります。当初は電話番や運転手をしていた彼は、連日の撮影による慢性的な人手不足からしだいに現場での雑用を任されるようになり、いつの間にか助監督を務めるようになっていました。3年間その仕事を続けながら、親会社である東映の撮影現場で一般映画の撮影を見学するなどして勉強を続け、それから2年後にはついに監督に昇進していました。1980年この時、彼は25歳。監督になる年令としては若かったといえます。

<独自の映画づくり>
 彼は監督になると、自分なりの映画を撮ろうと考え、セックス・シーン以外でも観客を楽しませることができるストーリーを求めて、無名の脚本家だった高木功と組み始めます。そして、カメラマンの志賀葉一など若手のスタッフたちと監督第一作となった「痴漢女教師」(1981年)を完成させました。コメディータッチのこの映画は、師匠の向井からも高く評価され30万円の予算オーバーを自分でかぶるものの興行的にはヒットに結びつきました。
 次なる作品「痴漢電車もっと続けて」は、彼の十八番としてその後、延々と続編が作られシリーズ化されることになる「痴漢電車シリーズ」の第一作です。無許可で実際に電車の社内でゲリラ的に撮影を行ったというこのシリーズには毎回異なる遊び心が持ち込まれ、今でも映画ファンを喜ばせる仕掛けがあるといいます。(残念ですが、1本も見たことがありません・・・)
 ヒットすれば予算も増え、自由度も増してゆきました。シリーズ4作目「痴漢電車下着検札」ではついに本格的歴史ミステリー作品となり、張作霖のお宝「黒真珠」を巡って満州を舞台にする壮大な内容になりました。(もちろん、撮影は満州ロケではなく千葉の館山で行われたもののようです)ちなみに、この作品にはブレイク前の竹中直人が出演していて松本清張のパロディー版を演じています。
 「痴漢電車極秘本番」では、ついに時代劇ポルノに進出。「痴漢電車聖子のお尻」(1985年)ではグリコ森永事件のパロディー、「痴漢電車ちんちん電車」(1984年)では三浦和義のロス疑惑をパロディー化しています。
 「連続暴姦」(1983年)は、そんな中で彼が撮った本格派のサスペンス作品で、ピンク映画を対象とする第五回ズームアップ映画祭の作品賞、監督賞を受賞します。現在でもリバイバル上映されているというこの作品には、あの名優、大杉蓮が連続殺人犯役で出演その存在感を見せているとのことです。
 ヒッチコックへのオマージュがたっぷり注ぎ込まれたサイコ・サスペンス映画「真昼の切り裂き魔」(1984年)もまた高く評価され、前述のズームアップ映画祭で作品賞、監督賞を連続受賞。いよいよ彼には一般映画の方から期待の目が注がれることになります。

<内田裕也との出会い>
 彼に最初のオファーをくれたのは映画界の人間ではなくロック界の大御所内田裕也でした。1960年代から和製ロックの草分けとして活躍してきた彼は1970年代に後半に個性派の俳優として映画に出演するようになり、それをきっかけに自ら映画の製作にも取り組み出しました。1982年には若松孝二監督の「水のないプール」、1983年には崔洋一監督の「十階のモスキート」を発表。3部作の最後の作品として企画した「コミック雑誌なんかいらない!」の監督にピンク映画界の鬼才滝田洋二郎を抜擢します。

「コミック雑誌なんかいらない!」 1986年
(監)滝田洋二郎
(脚)内田裕也、高木功
(撮)志賀洋一
(音)大野克夫
(出)内田裕也、渡辺えり子、麻生裕未、原田芳雄、小松方正、ビートたけし、殿山泰司、常田富士男、郷ひろみ、片岡鶴太郎、桑名正博、安岡力也、おニャン子クラブ
   三浦和義、桃井かおり・・・
 芸能レポーターの梨元勝をモデルとしたキナメリ(内田裕也)が、様々な事件の現場を直撃インタビュー。その様子をドキュメンタリー・タッチで撮影することで、マスコミの愚かさとそれをテレビで見ながら一喜一憂する大衆の狂気を描き出した衝撃的作品。この作品は、カンヌ映画祭の監督週間でも公開されるなど、海外でも高い評価を得ることになりました。
 実際に松田聖子と神田正輝の結婚式会場の現場でゲリラ的に撮影を行ったり、豊田商事の会長殺人事件の犯人を演じたビートたけしの迫真の演技、その他にも多数の芸能人が実名で登場し虚と実がわからないスキャンダルな出来事が連続。事件映像と映画の映像の区別がつかなくなるほどの臨場感のある映像が、観客を1985年のお茶の間へとタイムスリップさせます。
 ラストに豊田商事会長刺殺を止めようとして負傷したキナメリが自分と同じインタビュアーたちに囲まれてこう言います。
「I Can't Fuckin' Japanese !」
 これぞ映像によるロックと呼べる傑作でした。この映画の脚本にも参加した高木功はこの作品の完成後、小説家に転向します。
いよいよ彼は一般映画の監督として次々に作品を撮ることになりますが、そのジャンルは様々です。それはもともと観客を喜ばせる作品ならなんでもありと、ピンク映画からスタートした彼にとっては当然だったのかもしれません。

「愛しのハーフムーン」(1987年)
 当時の人気アイドル伊藤麻衣子主演のラブ・ストーリー。原作は女優の原田美枝子。アイドル映画でありながらR15指定というきわどさも売りだった作品です。

「木村家の人々」(1988年)
 フジテレビがヘラルド・エース(映画配給会社)と組んで日本映画の新しい才能を育てようと始められた共同製作の第一弾として選ばれたのがこの作品でした。脚本は「私をスキーにつれてって」(1987年)を大ヒットさせた若手の一色伸幸。バブル全盛時代の1980年代末、小銭集めに熱中する不思議な家族を描いたこの作品は、彼が得意とするコメディー映画だったこともあり、再び高い評価と興行的な成功をもたらしました。

「病院へ行こう」(1990年)
 真田広之、薬師丸ひろ子主演の病院を舞台にしたブラックなコメディー映画。フジテレビの単独製作によるもので、フジテレビはいよいよ映画製作に本格的に力を入れてゆくようになります。興行的にも大ヒットしたこの作品は2年後、パート2となる「病は気から 病院へ行こう2」が製作されることになりま、その他にも「病院もの映画」が次々に作られるきっかけにもなりました。(「ボクが病気になった理由」(1990年)、「ナースコール」(1992年)、「大病人」(1993年)など)

「僕らはみんな生きている」(1993年)
 日本人の商社マンたち(真田広之、山崎哲、岸部一徳、嶋田久作)が東南アジアのタルキンスタン共和国という小さな国の軍事クーデターに巻き込まれ、戦場となった街を逃げ回ることになるという、これまた過激でブラックなコメディーです。タイでのオールロケや俳優たちの熱演もあり、この映画は彼の代表作となり日本アカデミー賞の優秀監督賞の受賞など高い評価を得ることになりました。
 この映画は1988年から企画があったものの予算面など様々な理由によりボツになっていました。そこで脚本家の一色は、絵を山本直樹に依頼して漫画版の「僕らはみんな生きている」を制作。漫画としてヒットさせることで映画化への布石を準備したのでした。今や多くの映画がマンガを原作として製作されていますが、この映画はその流れを自ら作った画期的な作品でもあったのです。

「眠らない街 新宿鮫」(1993年)
 大沢在昌の同名小説を映画化した彼にとって初のハードボイルド作品です。ほとんどの場面を新宿でのロケで撮影し、もう一人の主役「新宿」が生き生きと描かれた迫力ある映像が見所の一つです。主役は彼の作品には常連となっている真田広之。犯人役の奥田瑛二の不気味な演技もすごく、真田はこの作品で日本アカデミー賞の主演男優賞を受賞しています。

「シャ乱Qの演歌の花道」(1997年)
 当時大人気だったシャ乱Qのつんくが映画初主演した音楽もののお馬鹿コメディー映画です。ピンク映画時代の滝田お得意のジャンルともいえるハチャメチャなコメディー作品は隠れた名作と言われているそうです。(残念ながら未見です)

「お受験」(1999年)
 あの矢沢永吉が実業団の中年マラソンランナーを演じ、お受験に挑む息子を応援するため、マラソンレースに挑むという物語。彼の妻を演じているのは田中裕子で、リストラされたサラリーマンとして永ちゃんがエプロン姿の主夫も演じるというスポ根&ファミリー映画です。

「秘密」(1999年)
 2010年にはテレビ・ドラマ化もされ話題になった人気作家東野圭吾原作の同名小説を映画化したもの。死んだ妻(岸本加世子)の魂が娘(広末涼子)の身体に乗り移ってしまうという異色のファンタジー・ラブ・ロマンスです。

「陰陽師」(2001年)
 滝田作品としては、「おくりびと」以前最大のヒット作。原作は人気作家の夢枕獏。彼にとって初の本格時代劇であると同時にCGも用いたアクション・ファンタジー大作でもありました。主演の野村萬斎は初の映画主演ながら、その才能を見事に発揮。日本アカデミー賞など様々な主演男優賞を獲得しました。

「壬生義士伝」(2003年)
 滝田初のチャンバラ時代劇映画。それも幕末の新撰組を題材にしたもの。しかし、主人公は坂本竜馬でも土方歳三でもなく、まったく無名の田舎侍という異色時代劇です。南部盛岡藩の下級武士、吉村貫一郎(中井貴一)は、貧しい家族の生活を守るため、給金を求めてあえて新撰組に入隊します。
 家族のためにケチケチとお金をため、危険な任務を拒否する彼は隊の中でも浮いた存在となり、まわりから批判され続けます。しかし、剣の腕がたつ彼の存在はしだいに隊の中で重要な位置を占めてゆき、新撰組が危機的状況を迎えるとついに死を覚悟して敵に向かって行きます。
 現代社会にも通じるようなごく普通の男が英雄へと変身してゆく展開は世代を超えた感動を呼び、この映画は大ヒット。さらには日本アカデミー賞において、最優秀作品賞を受賞。ついに日本映画界の頂点に立ったのでした。

「バッテリー」(2007年)
 あさのあつこ原作の少年野球小説の映画化。少年時代から野球が大好きだった彼にとっては、野球映画もまた撮りたかったジャンルでした。少年を主人公にした「スポ根もの」といっても、そこには「いじめ問題」が過激に描かれるなど、けっして爽やかなだけのストーリーにはなっていません。主演俳優(林遺都)も3000人もの応募者の中から監督自身が選んだ素人で、演技は素人の子供たちを撮影現場の中でチームとして育てるという意識が作品に見事に生かされた作品だったと思います。


「おくりびと」 2008年
(監)滝田洋二郎
(脚)小山薫堂
(撮)浜田毅
(音)久石譲
(出)本木雅弘、広末涼子、山崎努、余貴美子、吉行和子、笹野高史、杉本哲太、峰岸徹

<本木雅弘と死体>
 僕はかつてインド旅行をした時、ベナレスを訪れてガンジス川のほとりのお葬式を半日ずっと眺めていたこととがあります。川べりの葬儀場(といっても屋根も建物もない石造りの舞台のようなものがあるだけなのですが)に遺体が運ばれ、それを囲むようにして短い儀式が行われます。その後、積み上げられた丸太の上にきれいに巻かれた状態の遺体が置かれ火がつけられます。火はかなりの勢いで燃えますが、人間の身体を灰になるまで燃やすのには、けっこうな時間が必要です。たぶん2時間ぐらいはかかっていたはずです。その間、手や足が下に落ちてしまった時は、それを木の棒で無造作にはさんで乗せ直します。ほとんどが灰になったところでそれを一気にかき寄せて川に落として儀式は終わります。実にシンプルな工程です。しかし、その作業を最初から最後までじっと見つめながら様々なことを考えていると、人の人生もまた意外にシンプルな作業なのだということに気づかされました。
「食って寝て出して、最後には死ぬ」それだけのこと。あとは、そのシンプルな工程に、いかにして自分なりの味付けをするか、その違いだけなのです。
 そんなガンジス川のほとりでの体験をした日本人はけっこういるのでしょう。その一人に、映画「おくりびと」の企画者であり主役を演じた本木雅弘がいました。

 彼は27歳の時、インド旅行に出かける際、友人から藤原新也の「メメントモリ」を読まされたそうです。当然彼は僕と同じようにガンジス川を訪ね、そこで人が世界から消えてゆく過程を目にした彼は、その後日本に帰ってからもなお「死」へのこだわりを持ち続けることになりました。「死」や「死体」に関する本を読み漁った彼は、そこで「おくりびと」のもとになった本「納棺夫日記」(青木新門著)と出会ったのでした。
 彼がインドを旅してから12年。2005年、映画化の許可を原作者から得て題材が暗すぎると否定的だった製作者を説得した彼はついに映画化の準備を始めました。

<納棺師という仕事>
 納棺師という仕事は、意外なことについ最近できた仕事です。葬儀の際、亡骸を扱うのは親戚や村の長であり、そのためのプロというものは存在しませんでした。1954年、大型の台風15号によって青函連絡船「洞爺丸」の転覆事故が起き、1155名もの死者を出しました。(映画化もされた水上勉の小説「飢餓海峡」は、この事故から始まります)
 この事故の直後、海岸には大量の死体が流れ着き、その遺体の処理にあたった人々の一部によって、1969年に株式会社「納棺協会」が設立されました。(この納棺協会の支部が山形県の酒田市にあったことから、映画は山形で撮影が行われることになります)もちろん、遺体の扱い方についての様々な作法については、それまでもそれぞれの地方なりに仕来りのようなものはあったのですが、それを決め事としてまとめたのは、納棺協会だったといえるのでしょう。

<オリジナル脚本の作品>
 この映画には原作小説はありません。そのストーリーはあくまで企画者である本木雅弘と脚本家の小山薫堂によるオリジナル作品です。しかし、そこで描かれている納棺の儀式における所作の美しさや音楽、映像の美しさ、そして曲者ぞろいの俳優たちの演技などがそれぞれに素晴らしく、ストーリー展開を補って余りあるものでした。メジャーで映画を撮り始めてからの滝田作品には、ほとんどに原作小説があり、それを忠実に映像化することが彼の仕事だったともいえます。ある意味ここで彼はかつてのピンク映画時代の原点に戻ったともいえそうです。
 プロ並みの美しい所作を習得し、観客を感動させた企画者でもある本木雅弘の素晴らしい演技。脇を固めた山崎努や余貴美子、吉行和子、笹野高史、杉本哲太、峰岸徹(この作品が遺作となりました)らの存在感。
 泣かせるだけの観客に笑いも提供したバランスの良いエンターテイメント性。
 美しいチェロの響きが美しい山形の風景。
 納棺協会の建物だけでなく、主人公が通う銭湯やロケに使用した建物もそれぞれ味があり、それらもまた俳優のような存在感を発揮しています。
 この映画は、すべての面において高いクオリテォーもつからこそ、日本の映画ファンだけでなく世界中の映画ファンからも高く評価され、アカデミー賞の会員たちにも認められたといえます。(この映画はアカデミー外国語映画賞も含め、日本国内外で69もの賞を獲得しています)

 こうして彼の人生を振り返った後、改めて「おくりびと」を見てみると、そこに描かれている遺体が、時にはエロティックに、時にはユーモラスに、時には厳粛に、時には悲しみに満ちて、また時には生きているかのように生き生きと描かれていることに気づかされます。それは、彼が撮り続けてきた様々な作品の要素が散りばめられているように思えます。
 「食って寝て出して、最後には死ぬ」人の生き様はそれにつきます。しかし、誰一人同じ生き方をした人はいません。だからこそ、納棺の儀式は厳粛にそして敬意をもって行われなければなりません。
  これからもまだまだ彼の作品を見ることができるはず。今度はどんな人のどんな生き様を見せてくれるのか、今から楽しみです。

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