
- Talking Heads,David Byrne -
<80年代をリードした音楽集団>
僕にとって、最も思い入れの深いバンドのひとつです。80年代にジャンルにこだわらず音楽を聴いていた人にとって、彼らの存在はある種理想的な音楽集団に思えたのではないでしょうか?
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに代表されるニューヨークのアンダーグラウンド・ロック・シーンの出身であり、P−ファンクの奇才バーニー・ウォーレルを準メンバーにしてしまった白人バンド、ブライアン・イーノというアンビエント・ミュージックの元祖とのコラヴォレーションを行ったバンド、「羊たちの沈黙」の監督ジョナサン・デミを一躍有名にした映画「ストップ・メイキング・センス」の主役でもあり、アフリカン・リズムを持ち込んだ先駆け的バンドでもありました。
それにメンバー個々の活動も多彩でした。トムトム・クラブの活動は、ラップを実にチャーミングに聴かせてくれ、その普及に大きな役割を果たしましたし、ジェリー・ハリスンのソロ・アルバムも渋くて良かったです。(ジャケットも格好良かった)
そして、デヴィッド・バーンは、ブラジリアン・ポップスのオムニバス盤を作ったり、サルサの女王セリア・クルーズと共演したりするエスニック・サウンドの紹介者であり、映画音楽だけでなく映画監督までやってしまう映像人間でもありました。ついでに言うと、デヴィッド・バーンは一時日本人の女性とつき合っていて、大の日本びいきだとか。
変に政治的な発言をすることもなく、あくまでアートにこだわり、音楽活動もそのひとつと考えていたところも、それはそれで素敵な生き方だったように思います。
そして何より、そこまであらゆるジャンルにこだわつつ、アート・スクール出身のセンスの良さを発揮していながら、「Stop
Making Sense センスなんてクソ食らえ!」と言い切るところが、潔くて良いじゃないですか!
<インテリ系パンク・バンド>
ニューヨーク・パンクとロンドン・パンクの違いは、かなり大きなものでしたが、その中でもセックス・ピストルズなどと比べて、最も遠い所に位置していたのが、トーキング・ヘッズだったと言ってよいでしょう。
1973年に、その前身バンドとして結成された時の名前は、ジ・アーティスティックでした。当然のごとく、彼らはアート・スクールに通う美術系の学生であり、仕事にあぶれた労働者階級の若者たちではありませんでした。(ベーシストが女性だったのは、パンクどころかロック・バンドとしても例外的でした)
そんなわけで、彼らはデビュー当初から、インテリ系パンク・バンドという言い方をされる場合が多く、「リメイン・イン・ライト」でアフロ色を強める前までは、どうも青白い学生さんたちの頭でっかちなバンドと思われる傾向がありました。
<デビュー>
クリス・フランツ(Dr.)、ティナ・ウェイマス(Bass)、そしてデヴィッド・バーン(Vo,Gui)の3人は、1975年にニューヨークで活動を開始。当時ニューヨーク・パンク最大の発信地だったクラブ、CBGB'sを中心に演奏活動を行い、1976年にサイアー・レコードと契約した。
1977年ジェリー・ハリソンがキーボード奏者として加わり、4人のメンバーがそろい、デビュー・アルバム「サイコ・キラー'77 Talking Heads:77」を発表。シンプルな編成でありながら、独自の知的センスが光り一躍注目を集めるようになった。なかでも、元ロキシー・ミュージックの奇才ブライアン・イーノは、彼らの才能に惚れ込み、自らプロデューサーをかって出た。
こうして、彼らのセカンド・アルバム「モア・ソングス More Songs About Building and Food」(1978年)が生まれ、このアルバムの中の彼らにしては珍しいカバー曲"Take
Me To The River"(オリジナルは、アル・グリーン)が全米26位にまで上昇、いよいよ世界的にも注目を集めるようになっていった。
<アフリカン・ファンクの追求>
1979年発表のアルバム"Fear Of Music"に収められていた"I Zimbra"において、彼らは初めてアフリカン・ファンクのリズムを導入した。そして、同じ年デヴィッド・バーンは、ブライアン・イーノとの共同製作でアルバムを録音、二人はブラック・アフリカのリズムだけでなくイスラム圏のサウンドもターゲットを広げ、時代の遙か先を行くアルバム「ブッシュ・オブ・ゴースト」を作り上げた。しかし、このアルバムは、サンプリングされた一部素材の権利問題で一時お蔵入りとなり、その間にヘッズ本体の新しいアルバム「リメイン・イン・ライト
Remain In Light」(1980年)が世に出ることになった。
このアルバムこそ、アフリカン・ファンクとロックの融合という、それまでになかった新しい音楽の扉を開いた歴史的アルバムであり、トーキング・ヘッズにとっても音楽的に頂点を究めた最も重要な作品となった。
<メンバー補強によるファンク力強化>
「リメイン・イン・ライト」からの曲を中心とするライブを収めたアルバム"The Name Of This Band Is Talking Heads"(1982年)をはさんで彼らはアルバム"Speaking In Tongues"(1983年)を発表。よりブラックなファンクを追求するため、外部からの補強メンバーを加えてライブを行うようになっていった。
そのひとりは、ソロ・ミュージシャンとして活躍もしているギタリストのエイドリアン・ブリュー。彼は、かつてはフランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションのギタリストとして活躍。その後1981年7年ぶりに再結成されたキング・クリムソンのギタリストに抜擢され、一躍その名を知られるようになった。その時発表されたアルバム「ディシプリン Discipline」は、90年代のクリムゾンを代表する傑作と言われ、「リメイン・イン・ライト」に匹敵するアフリカン・ファンクの代表作とも呼ばれている。それだけに、彼がヘッズのゲスト・メンバーとして参加した効果は大きかった。
もうひとりは、ジョージ・クリントンというカリスマ的指導者の元でファンクの新しい波を生み出したP−ファンクの最重要メンバーのひとり、バーニー・ウォーレルだ。あのジュリアード音楽院でクラシックを学んでいたという変わり種P−ファンカーの彼は、P−ファンク初期からのメンバーであり、クラシックとはまったく正反対に思えるぶっ飛んだフレーズを弾きまくるカリスマ的キーボード・プレイヤーでもあった。(後に発表されたソロ・アルバム"Funk Of Ages"はなかなかの傑作)
<歴史的傑作映画「ストップ・メイキング・センス」>
こうして、しだいにファンク・バンドとしての構成を整えていった彼らは、その集大成とも言える作品を発表した。それが、もうひとつの彼らの代表作、映画"Stop Making Sense"だ。監督は、後に「羊たちの沈黙」で一世を風靡することになるジョナサン・デミだった。(彼が映画監督として認められるきっかけとなったのが、この作品だった。彼はこの音楽映画の成功で、"Wild Thing""Married To The Mob"などのコメディー映画を撮るチャンスを得た。そして、「羊たちの沈黙」映画化のチャンスを得たのだった。("Wild
Thing"は、デヴィッド・バーンが音楽を担当、Feeliesがゲスト出演するという音楽ファンには、実にうれしい映画だった)
<ミュージック・ヴィデオの教科書>
この映画の面白さは、特にその構成の見事さと撮影の素晴らしさ、そしてパフォーマーとしてのバーンの才能とグループ全体が生み出すグルーブのカッコ良さにあると言えるでしょう。
特に、バーンがラジカセを持ってステージに現れ、1人で歌い始めるところから、ティナ、クリス、ジェリー、そしてそれ以外のサポート・メンバーが一曲ごとに加わってゆき、最終的に10人ほどのバンドへ、最後には観客たちまでが加わるという構成の巧みさは特筆ものだ!
ステージを少しずつ変えてゆく裏方の動きは、明らかに歌舞伎の黒子を意識しているし、光という最も単純で奥が深い演出手法だけで舞台を飾るシンプルだが高度なやり方もまた「禅」的で興味深い。それはまるで光による演出手法の見本市のようだ。
<次なる展開へ>
こうして彼らは、バンドの設立と成長の過程をそのままステージ上に再現しながら、映像と音楽によるバンドの集大成作品を作り上げた。
ここまでやってしまったら、次にやることはあるんだろうか?僕も含め多くのファンは、当時そう思ったに違いない。ところが、彼らは実にしなやかに次なる展開を見せてくれた。それが、1985年発表のアルバム"Little Creatures"だ。このアルバムでは、再び元のシンプルなバンド構成に戻り、複雑に組み上げていたアフリカン・ファンクのビートを、シンプルかつチャーミングなスカスカ・ファンクへと大胆に変身させた作品だった。それは、ジャケットの可愛らしいデザインも含め、彼らのアルバムで最も愛すべき作品となった。
<ラスト・アルバムまで>
1986年発表の"True Stories"は、デヴィッド・バーン監督の同名映画の中の曲をトーキング・ヘッズが演奏してアルバム化したものだった。(当然、映画のサントラ盤はまったく別もの)
アメリカ南部に位置する架空の田舎街を舞台とした不思議な物語のための音楽は、テックス・メックスやカントリーを取り込んだ新しい音楽になっていた。
そして、1988年トーキング・ヘッズのラスト・アルバムとなった"Naked"が発売された。このアルバムもまた素晴らしい内容だった。ファンク路線は継続されていたが、そこに新たに中南米のサルサやブラジリアン・ポップ、それにニューオーリンズ・ファンクなどエスニックな要素がふんだんに盛り込まれ、ワールド・ワイドなファンク・アルバムになっていた。
<エスニック・サウンドの紹介者として>
こうして、トーキング・ヘッズは、バンドとしての活動を終え、バーンはソロ・アーティストとして何枚かのアルバムを発表、よりラテン色を強めてゆきながら、自らが起こしたレーベル「ルアカ・ボップ」よりブラジリアン・ポップのオムニバス盤「ベレーザ・トロピカル」を発表してゆく。90年代に入り、いよいよその革新的で複雑なポップスが世界の注目を集め始めていたブラジリアン・ポップスだったが、ポルトガル語で歌われていたことや、その複雑な構造の故に一般受けせずにいた。(特にアメリカでは受け入れられなかった)バーンのオムニバス・アルバムは、そんな状況を変えるひとつのきっかけとなり、それ以後ブラジリアン・ポップスは90年代ポップスのひとつの潮流として、他のジャンルの音楽に影響をあたえ続けるようになってゆく。このアルバムをきっかけにレニーニ、シコ・サイエンス、マリーザ・モンチ、トン・ゼーらが次々と世界的評価を受けるようになっていった。
<映画音楽作家として>
デヴィッド・バーンは、アカデミー作曲集も受賞した映画音楽作家でもあります。アカデミー賞を受賞したのは、ベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラスト・エンペラー」(1987年)で、坂本龍一、コン・スーとの共同作品でしたが、これもまたエスニックなサウンドへの挑戦だったとも言えるでしょう。
こうして、デヴィッド・バーンはロック・ミュージシャンからスタートして、どんどん他の興味のある分野へと進出し、いつしかミュージシャンという枠からもはみ出してしまったのかもしれません。これは、トーキング・ヘッズが大好きだった人間にとっては、残念なことでしたが、典型的なボヘミアン・タイプの彼にとっては、そんな冒険的人生こそが、生き甲斐だったのでしょう。その点は、彼が実はイギリス生まれだったということを知り納得しました。(彼の生き方は、どうもアメリカ人的じゃないなあと、思っていたので・・・)
<追記>
2004年、デヴィッド・バーンは久々のアルバム「グロウン・バックワーズ」を発表しています。
<締めのお言葉>
「人はみな一軒のバーを目指して生きている
そのバーの名は「天国」
そのバー「天国」のバンドは、僕の大好きな曲を演奏してくれるという
それも、何度でも、一晩中演奏してくれるという」
トーキング・ヘッズのアルバム"Fear Of
Music"より"Heaven"(作者の愚訳)
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