さらば最後の生放送バラエティー

「笑っていいとも!」

- タモリ Tmamori -

<さらば「笑っていいとも!」>
 2014年3月31日、「笑っていいとも!」が終わってしまいました。
 あれからしばしの時がたちますが、未だにお昼時にテレビをつけるたび、何を見ようかと迷いながら「いいとも」を思い出してしまいます。(ちなみにその選択肢の中には、フジテレビの「バイキング」はまったくありません。ひな壇に芸人や芸能人を並べてコメントを語らせる形式の番組にはまったく興味がありません。それなら身体を張ったリアクション芸の方がよっぽど見たい)
 正直、仕事の合間に頭から15分ぐらいを見ていたものの、欠かさず見ていたわけではなく、番組の大ファンだったというわけではありません。でも、僕は「タモリ、たけし、さんま」ビッグ3の中では間違いなく「タモリ」のファンで「タモリ倶楽部」(内容により)、「ブラタモリ」(欠かさず)も好きだったし、「ボキャブラ天国」なんて大好きな番組でした。
 たぶん性格的にタモリが自分に一番似ている気がするからでしょう?

「難しいことを難しいまま言うやつ、あれ、馬鹿だよね」

 タモリさんはよくそんなことを言っていました。僕も同感なので、このサイトも自分が理解して説明できないことは書かないことにしています。(正直いうと、書いた当時は理解できていても今振り返ると、、もう難しくてわからない・・・という場合も多いのですが)

「笑っていいとも!」ってやっぱりすごいと私は思う。一時間も見ていたのに、テレビを消した途端、誰が何を喋り、何をやっていたのか、まったく思い出せなくなってしまう。
「身にならない」っていうのは、きっとこういうことなんだ。

吉田修一(著)「パレード」より

<タモリさんとの出会い>
 僕がタモリさんと出会ったのは、多くの人といっしょでラジオの深夜放送だったと思います。
 彼は、赤塚不二夫を中心とするサブ・カルチャー文化から出てきた異色のコメディアンでした。けっして大スターになるような芸人ではなく、マニアックで一部にだけ受ける一過性の存在にしか思えませんでした。それでもなぜか、1980年代の初めごろ、タモリのマネをするのが、僕にとってのマイブームでした。例えば、タモリがマネする寺山修司のマネをするのが僕の十八番で、それはけっこう周りでも受けていました。(今思えば、寺山修司のモノマネが受ける時代があったなんて、不思議ですが・・・)
 タモリが作った幻のレコード「戦後日本歌謡史」(発売は1981年ですが録音は1970年代)は、昭和歌謡のヒット曲のパロディ集で素晴らしい作品でしたが、著作権問題で廃盤となりCD化もされていません。(僕はかろうじてカセットテープで持っています)
 思えば1970年代のパロディー作品のほとんどは具体的な事件や人物への批判が目的でしたが、タモリの作品はメッセージ性や政治性とは一切無縁でした。1978年には、サザン・オールスターズがデビューし、新たな時代のパロディー曲「勝手にシンドバッド」を大ヒットさせています。そうした時代の先駆的存在がタモリだったといえます。
 ただし、タモリの当時のギャグはメッセージ性が無いといっても放送コードギリギリの過激なものもが多かったのも事実です。そこには、隠された「反権力」「反体制」のメッセージが込められていたようにも思えます。もちろん、本人は否定するでしょうが・・・。彼は「政治家」でもなく、「芸術家」でもない単なる「芸人」ですから、観客を楽しませる芸であれば、意味など不要なのです。
 ただし、タモリのギャグは「芸人」として売れることを目指して生み出されたものではなかったはずです。それは、赤塚不二夫ら周囲の仲間たちを満足させることだけを目的に磨き上げた芸だったと思うのです。彼は日本国民全体をファンにしようなどとは思ってもいなかったはずです。
 では、何故「笑っていいとも!」の最終回はあそこまで国民的な事件になったのでしょうか?
 その答えは簡単です。今や日本国民の文化そのものがサブカルチャー化してしまい、タモリの感性やギャグのセンスを共有する時代になっているからです。「笑っていいとも!」最終回に集まった芸人たちは、みな「タモリズ・チルドレン」であり、それを見ていた視聴者の多くもまた「タモリズ・チルドレン」もしくは「タモリズ・グランドチルドレン」なのです。
 ただし、タモリの影響は具体的な「芸」や「方法論」として受け継がれたわけではありません。「笑っていいとも!」の司会を継げる存在はいないし、「タモリ倶楽部」も「ブラタモリ」も、タモリ抜きではありえません。「タモリズ・チルドレン」は多くても、タモリに代われるわけではないのです。そこがタモリの偉大さなのです。

<タモリと笑い>
 作家、樋口毅宏の「タモリ論」の中にこうあります。
「笑いについて知るものは賢者だが、笑いについて語るものは馬鹿だ」
 もちろん、タモリは笑いについて語ったことはなかったのですが、唯一、赤塚不二夫への弔辞では本音を語っています。

「・・・
 あなたはギャグによって物事を無化していったのです。
 あなたの考えは全ての出来事存在を、あるがままに前向きに肯定し受け入れることです。
 それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ち放たれて、そのときその場が異様に明るく感じられます。
 この考えをあなたは見事に一言で言い表してます。
 すなわち、「これでいいのだ」と。

・・・」
 そう、それでいいのだ!

<タモリの外国語>
 2014年から始った「ヨルタモリ」で久々に披露されていたタモリお得意の様々な外国語のパロディ。彼がしゃべる言語の本物っぽさには理由があるはず、と常々思っていたのですが、茂木健一郎先生がその秘密らしきことを書いていました。

・・・日本語には日本語の音楽がある。英語には英語の、ドイツ語にはドイツ語の、フランス語にはフランス語の音楽がある。世界には、六千種類もの言語があるという。・・・あらゆる言葉は、意味はわからなくても音楽として聴くことができるし、それでも十分伝わることはある。・・・
茂木健一郎「すべては音楽から生まれる」より

 思えば、タモリがしゃべる様々な言語は、彼がそれぞれの国の言語を「音楽」として把握しているからこそ可能なものなのです。だからこそ、彼がその国の音楽を演奏したり歌ったりすることができるのは当然のことなのです。

(注)
「ヨルタモリ」で彼が披露したインド音楽は、あきらかにヌスラット・ファテ・アリ・ハーンのパロディなので「インド音楽」ではなく「パキスタン音楽」です。これは間違えてはいけないと思います。

<「笑っていいとも!」>
 「笑っていいとも!」の放送開始は、1982年の10月。本人も語っていたように、翌年4月までのつなぎ番組と考えられていたようです。番組のプロデューサーは「オレたちひょうきん族」を大ヒットさせ乗りに乗っていた横澤彪。番組の売りは「生放送」の特性を生かしたバラエティー番組ということだったので、そこでは様々なハプニングが起きました。いつしか、それが番組の魅力となっていったわけですが、そうなるためにはハプニングをトラブルではなくドラマに転換する優れた司会者の存在が不可欠でした。
 元々タモリは、自分自身が番組内でハプニングを起こす芸人であり、逆の立場だったわけですが、それが司会者として生かされることになりました。なぜなら、彼はどんなハプニングが起きてもそれを楽しむ余裕があり、事故を防がなければならない局アナとは大違いの立ち位置にいたかからです。
 タモリによってハプニングやトラブルが「笑い」に転化される瞬間を見たくて、人々は「笑っていいとも!」にチャンネルを合わせていたのかもしれません。もちろん、「テレフォン・ショッキング」の仕込や黒柳徹子らの番組占拠など、実はハプニングではなかった場合もあったのですが、それでもなお生放送である限りはそこにハプニングは存在していました。そんなハプニングを「笑い」に転化させる神業こそ「笑っていいとも!」の見どころでした。
 でも、タモリはなぜ自分の人生を捧げるかのように「笑っていいとも!」を続けてきたのでしょうか?

 タモリは「いいとも!」をやめないかぎり、田辺エージェンシーとフジテレビのスタッフの生活は保証されています。そのための労をいとわない。
 タモリの正体は、義理人情に篤い”はかたもん”なのかもしれないと思うときがあります。

樋口毅宏「タモリ論」より

 「笑っていいとも!」は、いつの間にか「サザエさん」や「笑点」のように日本の昼間になくてはならない存在になっていました。

 きょうは別に見なくてもいいや、というときは、チャンネルも変えてもいいし、外へ出かけてもいい。いつもやっている、いつでも戻ってこられるという安心感。「いいとも!」は日本に生まれ育った人にとって、郷土(ホームタウン)のようなものです。
樋口毅宏「タモリ論」より

 「笑っていいとも!」が終了することを知ってから、久しぶりに意識して見るようになりました。とは言っても、番組の初めの部分しか見られなかったのですが、「とんねるずの乱入」あたりからは、いよいよ録画してでも見ないという気分になってきました。いつしか我が家は最終回に向けて「タモさんモード」となっていました。(下は中2から54歳のオヤジまで)
 思えば、最終回が近づくにつれて「笑っていいとも!」の魅力である「生のハプニング」は毎日のように起きるようになり、視聴者は「最初で最後の奇跡」を楽しみにテレビから目が離せなくなっていました。
 こうして起きた奇跡のひとつ、最終回のステージ上に並んだ二度とないであろう顔ぶれの豪華さは忘れられません。(この日の録画は残してあります)
 思えば、テレビが死んだ日はあの2014年3月31日だった。そう言われるような気がしてなりません。
 少なくとも「生放送」の特性を生かしたテレビのバラエティー番組は2014年で終わったのだと僕は思います。タモリは20世紀が生んだ最後の「生本番芸人」であり、彼とともに「生放送」の文化は終わりを迎えたのだと思います。タモリが未だに好きでもない歌番組の司会を続けているのは、それが生放送だからなのだと思います。

 ギャグ漫画家が東京に連れてきたアングラ芸人は、転がる石の角が削られて丸みを帯びていくように、すべてをあきらめて聖人になった。
樋口毅宏「タモリ論」より

 2014年10月からタモリさんの新番組が始まるようです。
 じっくりとした対談番組(スタジオを出て料理を作りながらとか散歩をしながら)か旅番組(海外は嫌でしょうから国内の遠いところへ)、音楽番組(もちろんジャズ中心でしょう)、手作り料理番組(素材選びから)をのんびりとやっていただければ、と僕は思っています。

<参考>
「タモリ論」 2013年
(著)樋口毅宏
新潮社 

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