ある女優・監督の生涯・田中絹代 |
<生い立ち>
田中絹代は、明治42年(1909年)11月29日山口県下関に生まれています。
下関での生活は長くはなかったのですが、彼女にはなまりが残っていたようで、それが彼女独得の魅力になったとも言われます。
生まれた当時、彼女の家は裕福でしたが、父親の死から一家は次々と不幸に見舞われます。
彼女自身も病により寝たきりになり、やっと学校に通い出すと、目指していた琵琶奏者としての練習が学業と両立できず自主退学。
行き場を失った彼女は、役者の世界を目指すことになります。こうして彼女の俳優活動が大阪の琵琶少女歌劇からスタートします。
そして、14歳で彼女は松竹下加茂撮影所に入り、かわいらしい少女役として映画での活躍を始めます。
1931年、彼女は日本初のトーキー映画となった五所平之助監督の「マダムと女房」に主演。
身長150センチで正統派の美人とは言えない顔立ちの彼女でしたが、女優としての演技に対する真面目さは誰にも負けず、監督たちからの信頼を得ていました。
美人ではないその容姿は、大衆受けすることになり、アイドル女優として映画界を代表する存在となります。
そんな彼女の人気を決定的にしたのが1938年に第一作が公開された野村浩将監督の大ヒット映画「愛染かつら」への出演でした。
しかし、映画界はその後、第二次世界大戦の混乱に巻き込まれます。
戦時中、彼女は多くの映画人と同じように戦意昂揚のための国策映画に関わることになります。
木下恵介監督の「陸軍」(1944年)で、彼女は息子を戦場に送り出す母親を演じて、母親役でもその実力を発揮し始めました。
その作品の中で、出征する息子のために手を合わせた彼女の演技は、武運を祈る母親というよりも、無事の帰還を願う母の姿に見えると一部に批判があったのも当然でした。
戦争が終わると、彼女はいよいよ母親役が本業となり、成瀬己喜男監督の「おかあさん」(1952年)などで見事な演技を見せるようになります。
<投げキッス事件>
1949年から1950年にかけて、彼女は日米親善使節のメンバーとして渡米。
戦後まだ間もない時期にハリウッドに招かれた彼女は、多くの有名女優と会い、最新のメイク術なども学びました。
当然ながら、彼女はその後の日本人よりも遥かに早く映画だけでなくアメリカの文化を吸収し帰国したのでした。
空港で彼女を出迎えた人々に対し、サングラスをかけ、毛皮のコートや流行のワンピースに身を包んだ彼女はオープンカーから投げキッスをしてみせました。
ところが、そんな彼女の行動を、マスコミはアメリカに魂を売り渡した逆賊として批判。この「投げキッス事件」により、彼女の人気はがた落ちとなります。
彼女や原節子だけでなく多くの女優が戦争中、国策映画に出演し、銃後を守る理想の女性を演じてきましたが、彼女たちは終戦後にあっさりと転向しました。
それは仕方のないことでしたが、彼女はそうした転向女優の象徴としてバッシングを受けることになったのかもしれません。
こうして女優として大きなスランプに陥っていた時期に彼女が出演した映画が、巨匠小津安二郎監督の「宗方姉妹」でした。
この映画で共演した高峰秀子を彼女は妹のようにかわいがります。
しかし、その後、高峰は映画に生涯を捧げることなくあっさりと女優業を辞め結婚します。
それに対して、田中はその後も映画と共に生き続けることになりました。
「安宅家の人々」 1952年
(監)久松静児
(原)吉屋信子(脚)水木洋子(撮)高橋道夫(音)古関祐而
(出)船越英二、田中絹代、乙羽信子、三橋達也、三條美紀、山村聡、本間文子、大泉滉
<あらすじ>
養豚業を営む資産家の家、知的障碍者の家長の妻がすべてを仕切っています。そこに事業を失敗した次男が嫁を連れて転がり込みます。
若く美しく優しい嫁は、義理の兄にも優しく接し、すぐに仲良くなりますが、次男は家の資産が目当てなのは明白でした。
彼は養豚場で働く従業員にストライキをさせ、姉を追い出すための策略を進め始めます。女性経営者を演じる田中絹代の苦難が続くフェミニズム映画の名作。
親族の理不尽な仕打ちに対し、かなりイライラさせられますが、ラストに見事などんでん返しがあります!
教会が運営する知的障碍者のための施設が大きな意味を持ちます。
乙羽信子がなんとも可愛い!それに対してくず夫役の三橋美智也ははまり役!
公開当時は、女性経営者など珍しく違和感があったのかもしれませんが、今は正当に評価できる作品。
<溝口健二作品で世界へ>
この後、彼女は女優として世界的知名度を獲得することになります。それを実現させたのが世界の巨匠、溝口健二でした。
溝口と田中は、師弟関係であると同時に恋愛関係にもあったと言われます。
彼女は若い頃に一度結婚していますが、すぐに離婚し、その後は一度も結婚することはありませんでした。
そもそも溝口には精神を病んでいた妻がいて、彼女はその妻と別れるとは言えなかったとも言われます。
後に溝口のドキュメンタリー映画「ある映画監督の生涯・溝口健二の記録」(1975年)の中で、新藤兼人監督に二人の仲について聞かれ、こう答えました。
「先生は”田中”を愛したのではございません。
”田中”に演じさせた役を愛されたのでございます」
「西鶴一代女」 1952年
(監)溝口健二(製)児井英生(原)井原西鶴(脚)依田義賢(撮)平野好美(美)水谷浩(編)後藤敏男(音)斉藤一郎(振付)井上八千代
(出)田中絹代、山根寿子、三船敏郎、宇野重吉、菅井一郎、進藤栄太郎、大泉滉、加藤大介、清水将夫<あらすじ>
娼婦にまで身を落とした女が寺で自らの人生を振り返ります。
武家の娘から一度は大名家の後家となり子供を生みましたが、側室に憎まれて家に帰されます。
金に困った父親は彼女を島原の女郎屋に売ってしまいますが、そこも追い出されます。
資産家の商家に働きに行くも、女郎屋にいたことを知られ、そこの旦那に迫られてまた追い出されます。
扇などを商う真面目な男に見染められて嫁入りしますが、そこでも不幸が・・・井原西鶴の「好色一代女」を脚色した作品。年老いた娼婦お春(田中絹代)が過去の男性遍歴を回想する物語。
江戸時代という男性中心の社会を生きた女性の苦難の人生を田中が熱演。ワンシーン・ワンショットの手法が見事に生かされた名作。
この作品は、1952年のヴェネチア映画祭で国際賞を受賞。
溝口健二と共に田中絹代も海外からも注目されることになります。
彼女に不幸な女性を演じさせるため、溝口はとことん彼女を精神的に追い詰めました。(今なら完全にパワハラ)
幸いそこまでのこだわりは海外の観客の心もつかみ、この映画はベネチア国際映画祭で国際賞を受賞しています。
「山椒太夫」(1954年)
(監)溝口健二(原)森鴎外(脚)八尋不二、依田義賢(撮)宮川一夫(美)伊藤憲朔(衣)吉実シマ(音)早坂文雄
(出)田中絹代、花柳喜章、香川京子、進藤英太郎、河野秋武、菅井一郎、津川雅彦、浪花千恵子、毛利菊江<あらすじ>
平安時代、民を助けるために島流しにされた父親と別れ匡元に母親と共に帰る途中、安寿と厨子王は人買いにさらわれます。
その後、二人は山椒大夫の元で奴隷として働かされることになります。
大人になった二人は、そこから逃げて両親との再会をしようとしますが、安寿は厨子王を逃がすため自ら犠牲となります。
無事に逃げ延びた厨子王は、都へ向かいそこで父親の上司だった関白に直訴。
父親の仕事を継ぐことになり、国守として逃げてきた土地に戻ることになります。
彼はそこで奴隷禁止のお触れを出し、山椒大夫を逮捕し、奴隷たちを解放することにも成功しますが、妹の死を知ります。
とそして、最後の望みとなった母親の元へと向かいますが・・・。美しい風景とリアルに無法地帯の現実を描いた重い内容の作品。
しかし、最後にはヒューマニズムの価値を認める希望のあるラストが用意されています。
決して単純なハッピーエンドではない物語の展開は見る者をハラハラさせ飽きさせません。
エンターテイメントとしても、見事にできています。さすがはヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作です。
<監督デビュー>
1953年、彼女は女優としての寿命を見すえたからか、映画「恋文」で監督としてデビューを果たします。
その後、彼女は6作品を監督し、日本の映画史にその名を刻みました。
彼女に監督のノウハウを教えたのは、溝口ではなく成瀬己喜男監督でした。
強い師弟関係にあったはずの溝口は彼女が監督になることに反対。
監督協会の会長でもあった彼は「田中の頭では監督は無理だ」と言ったといいます。
二人の関係はこれで完全に終わったのかもしれません。
ちなみに、彼女の監督作品に対する評価が当時あまり良くなかったのは、そうした溝口の影響もあったのかもしれません。
実際は、彼のような古い世代の男性に彼女が描く新たな時代の女性像は理解できなかったのだということが今や明らかになりました。
海外で彼女の監督作品が今になって再評価されていることからも、それは明らかです。
「月は上りぬ」 1955年
(監)田中絹代(製)児井英生(脚)斎藤良輔、小津安二郎(撮)峰重義(編)近藤光雄(美)木村威夫(企)日本映画監督協会(音)斎藤高順
(出)笠智衆、佐野周二、山根寿子、杉葉子、北原三枝、三島耕、安井昌二、田中絹代、塩田順二、小田切みき、汐見洋<あらすじ>
戦争で奈良へ疎開していた浅井家に久しぶりに来た戦争未亡人の長女の友人に二女が恋をしていると察した三女。
なんとか二人をくっつけようと作戦を練ります。そして、月の出る夜にその作戦が成功します。
ところが二女もまたもう一人の友人に恋をしてますが、それを言えずにいました。姉妹のことには積極的になれるのに自分のことはそうなれない純情三姉妹の恋愛模様を描いたラブ・コメの名作。
最後にケチはつくものの、今も輝く名作にはなっています。2作目の監督作。
3姉妹の恋を見事に対比させ、月明りとともに描きます。見事な脚本は小津安二郎によるもの。
恩師の溝口には五社協定に参加していなかった日活での撮影に反対されたが、小津のおかげで完成できた。
終盤までは素晴らしいのですが、最後になって主人公の三女に恋人の安井が「これからは妻として働け!そのぶん可愛がってやる」 と宣言。
これが余計だった。残念です。せっかく傑作になると思ったのに。
フェミニズム映画の傑作にはなれなかった。でも彼女がラブ・コメもとれることを証明した貴重な作品。
「乳房よ永遠なれ」 1955年
(監)田中絹代(製)児井英生、坂上靜翁(脚)田中澄江(原)若月彰「乳房よ永遠なれ」、城ふみ子「乳房喪失」「花の原型」
(撮)藤岡粂信(編)中村正(音)斎藤高順
(出)月丘夢路、葉山良二、大坂志郎、阿部徹、緒本順吉、川崎弘子、森雅之、杉葉子、北原文枝、田中絹代、飯田蝶子、左卜全<あらすじ>
結婚し二人の子供がいるふみ子は夫の浮気もあり、離婚して実家に戻っていました。
ところがある日胸の痛みに倒れ、乳癌だあるとこがわかり緊急手術を受けて両乳房を切除します。
しかし、癌の完全除去はできず、彼女の余命は短いことがわかります。
そんな中、彼女が書き溜めていた短歌を彼女がかつて愛していた旧友が紹介してくれたおかげで出版されます。公開当時、主人公の自由奔放さが批判されたといいます。
確かに主人公は単純な悲劇のヒロインではなく、時には不倫しかねない悪女でもあります。
彼女のショート・ヘアーも象徴的で魅力的。
それが実に人間的で多層的な描き方で魅力的なのですが、当時はそれは受け入れられなかったわけです。
監督の田中絹代はそのことにショックを受けたようです。もし、彼女の作品が正統に評価されていたら、もっと監督作は多かったかもしれません。
今この作品が高い評価を受けるのは、その評価基準が変わったからです。
子供が連れて行かれるのを見送る主人公の背中。東京に戻る彼女が最後に愛した記者を見送る主人公の後姿。
手鏡に映る記者の笑顔。風呂場の窓からのぞく主人公の不気味な笑顔。
主人公が死亡したご遺体が運ばれるのを追って霊安室に向かう廊下。
様々なカットが実に計算され、無駄なカットやセリフがほとんどない完成された作品です。
そこを自身が遺体となって運ばれるのを追ってきた関係者の最後には二人の子供。人はみなここへ向かって生きているのだ、と言っているよう。
でも二人はそこには入れません。まだ君たちには早いから生きなさい、と言われているようです。
ふみ子の子供、茂を演じていたのは緒本順吉でした。
今後、この作品の評価はもっと高くなり、世界のオールタイムベスト100に入る可能性もあるかもしれない。そんな気がします。
まだ3作目でこの傑作。なぜ、もっと評価されなかった!
遺産なき
母が唯一のものとして
残してゆく死を子等よ受け取れ
<映画と共に生きて>
その後も彼女は引退することなく映画女優として生き、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館・望郷」(1974年)での老女の役まで女優として働き続けました。
そして、1977年3月21日に脳腫瘍のため67歳でこの世を去りました。
女優として華やかな暮らしを続けた彼女は死後、巨額の借金を残したといいます。映画の黄金時代が終わったことで彼女の収入は激減していたようです。
結局、最後に彼女に残されたのは、映画だけだったようです。
それでも、21世紀の今になって彼女の監督作品がヨーロッパを中心に再評価されていることは、彼女にとっても、女性の映画関係者にとっても幸いなことです。
「乳房よ永遠なれ」の主人公が「悪女」として批判された公開当時と違い、今なら彼女は自由に生きる女性として魅力的に見えるはずです。
そしてそんな映画を生み出した監督、田中絹代の評価も、公開から70年近くたった今、やっと正当に評価されるようになりました。
改めて、彼女のご冥福をお祈りします。
<参考>
「昭和の女優 今も愛され続ける女神たち」 2012年
(著)伊良子序
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