- 岡本太郎 Taro Okamoto -

<20世紀を代表する芸術家>
 2011年放送のテレビドラマ「TAROの塔」で改めて岡本太郎という20世紀を代表する芸術家の存在を知った方も多いのではないでしょうか。多くの人は、「太陽の塔」の存在は知っていても、彼の他の作品はほとんど知らなかっただけに、彼の芸術家人生に驚かされたのではないでしょうか。1996年に彼がこの世を去って以後も、彼のパートナーだった岡本敏子によって、彼の再評価が進みました。この勢いだと、彼の残した「芸術は爆発だ!」という名文句によって、その存在は永遠不滅のものとなるのかもしれません。それにしても、岡本太郎とはいかなる人物だったのでしょうか?改めて、20世紀の日本を代表する芸術家、岡本太郎の肖像に少しだけ迫ってみようと思います。

「自分で自分の存在を見かえすと、何か風景のように見える。無条件の風景。透きとおって、遠く、そして近い。
 いずれにしても、すべてが風景ではないか。思い出。夢。・・・・・」

「リリカルな自画像」 岡本太郎(著)

<この親にしてこの子あり>
 当たり前のことですが、生まれた時から芸術家になることを運命づけられた人は、そうはないでしょう。まして、彼が生まれた1911年といえば、日韓併合の翌年です。日本はファシズム国家としての道を突き進んでいた時代です。そんな時代に朝日新聞に社会風刺漫画を描いていた父親(岡本一平)と歌人・小説家として生きると同時に恋多き女としても生きた母親(岡本かの子)との間に生まれたのが、岡本太郎少年でした。仕事と酒に生きる父親と恋と芸術に生きる母親は、彼を子供として育てるのではなく、芸術家仲間として対等に付き合い「芸術家の魂」を注ぎ込んでいきました。
 しかし、そんな育てられ方をした子供が幸福に生きられる保障はもちろんありません。むしろその逆の可能性が高いでしょう。

「純粋な人間は子供のときから身の内側に燃え続ける火の辛さに耐えなければならない。その火の故に孤独である。暗い。それが聖だからこそ、冒される予感におびえる。純粋に燃えているにかかわらず、火を抱いているということは不安であり、一種の無力感なのだ。・・・」
「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

 彼はあまりにも純粋な心をもたされたがゆえに苦しみ続けます。そして、その回答として生きる道へと歩み出すことになったのでした。

「もの心がついた年ごろから、二十代の終わりごろまで、私は自分がこの世に生まれたこと、生きていることを絶えず悔い続けていた。世の中と自分が絶望的にズレていたからだ。それはいい替えれば、私の目の前で世界が引き裂かれているかのようでもあった。」
「リリカルな自画像」 岡本太郎(著)

 さらに彼は自分が愛し、尊敬していた母親が、世間からは、母親としての生き方を捨てたどころか、娼婦のように夫以外の男を家に引き入れる魔性の女と見られていることを知り、愕然とします。確かに、彼女は一時期、夫とは別の愛人を住まわせ不思議な共同生活をしていた時期がありました。21世紀の今でも考えられないような家庭環境で育った太郎少年が、普通の子供に育つとは考えられません。

「(母の)神のような純粋さを子供の私は信じていた。しかし、やがてもの心ついて、周囲のことがわかるようになってきた小学校一、二年頃から、近所の人や、世間の考えている岡本かの子観がおよそそれと反対なのに驚いた。私は耳に入ってくる噂を恐怖的に聞いた。まるで母が嘘と作為にみちた、きざでいやらしい、むしろ不潔な人間のようだ。
 私にとってはひどい精神的打撃だった。あんなに純粋で潔癖な人間を、どうして汚くゆがめて見るのか。どうしてそんな不公平な、意地悪な、ひどいことがあるのか。その不当感 - 憤りというよりも絶望感が幼な心に焼きついた。
 私が、社会、人間に対する嫌悪感と恐怖感をおぼえた、それが最初のきっかけではなかったか。その一種の不信と復讐心のようなものは、今日でも私の孤独感の根底にある。」

「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

<芸術の都パリにて>
 彼には家族を否定するか、社会を否定するか、二者択一しかなかったのでしょう。そして、その回答は日本ではなく遠くヨーロッパで与えられることになります。1930年父母と共にヨーロッパに渡った彼は、そのまま一人でパリに住み始めました。そうした海外生活は、岡本家の財力があったからこそ可能になったのでしょうが、実際にパリで世界に名だたる芸術家たちと渡り合うことができたのは、彼の優れた才能があったからこそでしょう。
 彼はフランスに行ってからフランス語を一から学んだだけでなく、美術の道を休止して、パリ大学で哲学、社会学、民俗学を学び、あらゆるヨーロッパの文化を吸収していたのです。彼はこの時、画家になることだけを考えていたのではありませんでした。いったい彼はこの時、何を目指そうとしていたのか?この時、すでに彼は単なる画家ではないより大きな存在を目標としていたのかもしれません。後に、彼はあるインタビューで、あなたの本業はなんですかと聞かれ、こう答えています。

「本業?そんなものはありませんよ。
 強いて言えば、人間。猛烈に生きる人間だな。」


 パリでの彼の生活は、「恋」と「友情」と「吸収」、そして「創造」の毎日だったようです。そこでの彼の生活を描くことで、1930年代ヨーロッパの芸術、文化の世界が一本の映画のように見られるはずです。それは想像するだけでワクワクするような時代だったに違いありません。

ジョルジュ・バタイユ、コジェフ、ジャン・ヴァル、ミッシェル・レリス、ピエール・クロソウスキー、ロジェ・カイヨワ、そして兄弟以上の親友、パトリック・ワルドベルグ、ジャン・アトラン・・・
 日本で、岡本太郎ほどヨーロッパ第一線の知性と交わり、まったく同志的な、切れば血の出るような附きあいをした人はおそらくいないのではないか。バタイユとは秘密結社まで作ったそうだ。・・・」

「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

 持ち前の明るい性格と真面目さと頭の良さによってパリで多くの友人を得た彼は、自分が孤独ではないよいうことを知り、生き方に自信を得ることが出来ました。彼がもし「日本」という閉ざされた世界に閉じ込められたままだったら、その人生は爆発することなく、きっと短いものになっていたに違いないでしょう。ヨーロッパにおいて、彼は自分が正しく社会が間違っていると確信したのです。

「パリ時代の終わりに得た結論は、芸術家は社会内において徹底的にノーと言うこと、対立物として己をつきつけることに存在の意味があるのだ、ということ。」
「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

<戦場へ>
 当初、彼は死ぬまでフランスに積み続ける覚悟でした。しかし、運命は彼に故国へと戻るよう選択を迫ることになります。1940年に第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツがフランスに侵攻してきたため、彼はフランスを脱出せざるを得なくなったのです。日本にもどれば、徴兵の対象になると知りながらも、1940年に帰国した彼は2年後フランスでとっていた自動車免許のおかげで、陸軍の自動車部隊に配属されます。
 すぐに中国へと出征した彼は、軍隊で徹底的にいじめられました。それは彼がヨーロッパ帰りのインテリであることから、当然の仕打ちでしたが、それに対し彼はある時期から開き直り、自ら危険な任務へと向かうようになります。この時、彼は自らの死を覚悟し、あえて危険な選択をするようになったいたようです。そして、この生き方が、その後帰国した彼の生き方にも大きな影響を与え続けることになります。

「『あれか、これか』岐路に立たされたとき、絶対に、危険な方、自分に不利な方を選ぶという信念だ。これも岡本太郎らしい哲学だ。・・・
 すぐそこに落とし穴があるか、断崖に転落しておしまいになるか、どんな難関が待ち構えているか、そういうものに惹かれる。何故か。危険、つまり死に直面したとき、生命がパッと燃え上がる、それこそ生きる実感だからだ。」

「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

 終戦により、彼は1946年無事日本に帰りつきます。戦後の混乱期にも関わらず、彼はすぐに創作活動を開始。貧しい生活をしながらも、彼にとって芸術家以外の生き方など思いもよらなかったのでしょう。

「・・・むきだしの戦後風景の中で、みんなが不思議な活気に酔っていた、あの頃の人間一人一人がスッパダカになったような雰囲気は、いま思い出しても楽しい。だが、それも僅かな間であった。・・・」
「疾走する自画像」 岡本太郎(著)

<日本の復興とともに>
 彼には再びパリに戻って芸術活動を続ける道もありましたが、あえて日本での活動を決意します。これもまた彼ならではの選択だったのでしょう。しかし、そこには敗戦した日本が潜在的にもっている力に対する彼の熱い期待があったのかもしれません。

「今日『日本』と考えられているものは、実は近世的なゆがみであるにすぎない。ほんとうの日本はあんなものじゃない。 - たとえば私は縄文土器の美しさに身震いする。あの猛烈なエネルギー。それは日本人の心の奥深い、秘められたまま、なお生きつづけている。この積極的な美感こそ、民族への信頼をおぼえるのである。」
「疾走する自画像」 岡本太郎(著)

 彼がやりたかったこと。それは日本で芸術家として成功することではなく、自らの芸術で日本を変えることでした。

「もしオレのやり方で、岡本太郎を貫き、殺されずに、やりぬいたら、それを見てああオレもやろう、あたしも、というやつらがワアッとあらわれて幾何級数的にあふれてくるだろう。そういう日本を創りたい」

「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

<太郎の芸術論>
  彼にとっての芸術は、他人に認められるためのものではなく、自分を表現するものであり、それ以上に他人を変えるものでなければなりませんでした。

「今日の芸術は、
 うまくあってはならない。
 きれいであってはならない。
 心地よくあってはならない。」

「今日の芸術」 岡本太郎(著)より

「もう一つ、私が貫いて来た筋は、抽象の中にありながら、抽象芸術への不信、反抗である。その美学主義は納得できないのだ。何か異様に語りかけてくるドラマがなければ - 。
 私はいつでもナマなものがつかみたかった。手にふれられるような - パルパーブルなもの。生命の根源的な情感、そのなまなましさ。
 私の作品が単なる抽象ではなく、見るものに一種の抵抗をおぼえさせる形としてあらわれてくる理由である。
 芸術表現は意味と無意味の接点に、絶対感としてひらかれるのだ。自然主
義のにぶさに絶望し、また抽象絵画のアカデミズム、美学主義に空虚を感じる私は、幅広い生活空間にかけわたした形の上で、アクロバシーを試み続けるのである。」
「疾走する自画像」 岡本太郎(著)

「芸術は専門家だけのもであってはならない。だれでも自分でやり、創造によって自己発見すること、そこに意味がある。芸術界はあまりにも職業化されすぎている。声のいい人だけが歌い、格好のいい人だけが踊り、器用な人だけが絵を描いて発表する。一般はせいぜい鑑賞だけ
だから技能偏重の職人芸ばかりになってしまうのだ。そして多くの人はそろそろ多くの人はそういうシステムにスポイルされて、芸術に関心を失っておる。・・・」

「疾走する自画像」 岡本太郎(著)

 彼は絵画や彫刻だけでなくあらゆる芸術活動に興味をもっていました。映画もそのひとつだったようです。

「絵画にしても映画にしても、芸術はすべて実験である。それに言いようのないアバンチュールがともなう。いま、映画の世界でもようやく純粋な形でこの貴重な実験をつきつけるときが来た。これは、優れた作家、企業家の情熱であると同時に、時代の要請なのである。
 こういう意味深い運動に対して、すべての芸術家がいろいろな形で協力すべきだと思っている。そこから生まれてくる可能性は、将来、非常に豊かである。
 芸術家はすべて実験、それにはいいようのないアバンチュールが、そして芸術家の協力が豊かな可能性を生む。」

岡本太郎(1962年)

<太陽の塔>
 彼は日本で抽象絵画の世界だけでなく彫刻やエッセイ作家、思想家としても活躍。日本の美術界における第一人者として高い評価を獲得してゆきます。しかし、型破りな彼の生き方は、美術界の大御所や保守的な人々にとっては、けっして扱いやすい存在ではありませんでした。政治家だろうが、そのへんのおじさんだろうが、まったく区別することなく付き合う彼の生き方は、一歩間違えば権威によって叩き潰されかねないものでした。しかし、その憎めない性格と海外での高い評価のかげで、彼は周囲の人々から愛され、守られることになり、その活躍の場を広げてゆきました。そんな彼のジャンルの枠組みを越えた活躍の頂点となったのが、1970年に開催された大阪万国博覧会のために建てられたシンボルタワー「太陽の塔」でした。それにしても、よくぞ、彼を万博のテーマ・プロデューサーという重要な地位につけたものです。
 NHKのテレビ・ドラマ「TAROの塔」でもあったように、彼は就任記者会見でいきなり「人類の調和と進歩」というテーマを否定しまったのです。今なら絶対にあり得ないことですが、それが許されるほどに当時の日本にはまだ自由があったといえるのかもしれません。
 当時の日本は、70年安保に揺れる混乱の時代でした。「万博」はそんな大衆の運動を抑えるため、目をそらすための餌なのではないか?という疑いの目が向けられていました。(実際、そうした側面はあったのでしょう)それだけに「万博」は、当時の反体制派の若者たちにとって「反動」の象徴と写っていたのです。現代美術を代表する作家が、そんな反動勢力のお先棒を担いだとなれば、批判されるのは間違いありませんでした。しかし、彼はあえてその依頼を受け、万博の準備に挑む選択をします。これもまた彼の選んだ危険な道の一つだったのです。

「・・・博覧会は教室ではない、大きく無邪気な驚きをぶつけて、もっと理屈ぬきにふくらみたい。それはむしろ”学ぶ”というよりも、学ぶ常識、頭の中にいっぱいつめ込んでいるものを逆に捨て去る、ふきとばして、からっぽにしてしまうのだ。すると新しい世界が無限にわき上がってくる。「人類の進歩」も「調和」もそこに直感的に生きがいとしてつかみとる。・・・そういうテーマ展示が出来たら大成功だ。」
「疾走する自画像」 岡本太郎(著)

 こうして誕生した「太陽の塔」は、映画・マンガの「二十世紀少年」での使い方だけではなく、昭和の日本を象徴する存在として今後も長く語り継がれることでしょう。そんなことを思いながら、改めて眺めて見たいものです。
(僕の万博の思い出)
 当時、僕はさんざん両親に連れて行って欲しいと頼んだのですが、万博に連れて行ってもらえませんでした。しかし、万博の解説本を暗記するほど読み、そのおかげで世界の国の国名、首都、特産物などをまる暗記することができました。壁に大きな世界地図をはり、世界への旅を思い描いたものです。日本中の子供たちがそんな思いを少なからず描いた機会になったように思います。

「・・・進歩などという時間的観念を超えて、大地からむくむくとのび、生えあがったような。そして、あくまでも人間。無邪気、おおらかで、宇宙全体と響きあう、根源的な人間像。職能的に細分化され、システムに組み込まれ、全体性を失った現代の空しい状況に対しての挑みである。にっこりと、無条件に挑んだのだ。
 歴史の中でも、あんなに人目を気にしない、平気な形で、青空に向かって手を広げている、いわば無邪気で、ユニークなモニュメントはないだろう。現代に欠けているからこそ、平気でベラボウさが人々をひきつけたのだと思う。
 太陽の塔は実にシンボルではなかったのだ。無条件に作ったものだ。いつの間にか、万国博に集まってきた大衆が、あれをシンボルにしてしまったのあ。いわゆるインテリ達より、ピープル、生活者にこたえ、シンボル化されたのである。」

「疾走する自画像」 岡本太郎(著)

<爆発し続ける芸術家>
 その後も彼は活躍を続け、1980年代に入るとCMにも登場し、彼自身が「芸術の象徴」としてマスコミのアイドルとなり、一時代を築くことになります。「芸術は爆発だ!」の時代です。

「1982年に作られた『芸術派は爆発だ!』というコマーシャルが馬鹿に有名になった。世間ではその頃から爆発が始まったように思っているようだが、岡本太郎は最初からずっと爆発しつづけていた。それは彼の生き方の自然であり、信念であって、決してCMのために言った言葉ではない。・・・」
「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

 僕にとっても、この頃から岡本太郎=『生きる芸術作品』というイメージをもつようになり、『芸術』というものについて考えるきっかけをもらったような気がします。普通だとこうしてマスコミに利用されることによってアーティストとしての「賞味期間」は、急激に減ってしまい一年もたずに消えてしまうはずです。
 ところが、岡本太郎というアーティストはそうはなりませんでした。なぜなら、彼にとって芸術とは常にその瞬間、瞬間の表現であり、毎回ゼロに帰って再び新たな自分を再発見することの繰り返しだったからです。彼には露出することで失われるような守るべきものなど初めから無かったのです。

「人生は積み重ねだとみんな思っている。コツコツと努力し積み上げ、だんだんに達成して行くものだ、と。そうじゃないんだ。積みへらすべきだ。一瞬一瞬、今まで積み上げて来たものを、ドカンと蹴飛ばして、まったく無にかえる。いつでも新しく、まったく素っ裸で踏み出すんだ。それが人生の極意だよ」
「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

 怖いものなどない彼の人生でしたが、運命は彼にも試練を与えます。1990年代に入り、彼は不治の病のひとつパーキンソン病と戦うことになりました。しだいに身体を自由に動かせなくなる中、それでも彼は創作活動を続けました。やはり、「病い」も「老い」も彼にとっては芸術の敵ではなかったのかもしれません。

「老いるとは、衰えることではない。年とともにますますひらき、ひらききったところでドッと倒れるのが死なんだ」
「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

<死してなお爆発を続ける魂>
 死ぬまで芸術を爆発させ続けた彼は、1996年1月7日、この世を去りますあ、死後もその爆発は収まっていません。その仕掛け人の中でも最も重要なのは、秘書として彼の活動に常に関わり続け、その後彼の養女となった岡本敏子です。彼のマネージャーであると同時に作品作りのアドバイザーでもあった彼女は、岡本太郎の分身ともいえる存在だったようです。

「創造は孤独な営みだ。生きること。挑むこと。ノーと言うこと。どんなに好きだって、どうしてそこに立ち入ることが出来るだろう。
 だから私は彼の創造に一センチも、一ミリも役立ったとは思わない。ただ、『わあー、凄い』『いいわねえ。いい。いいなあ』と、一人でよろこんだ。時には涙を流しながら。
 私は歓びの天才だと思っている。ほんとに無条件で、全身、全存在でよろこんでしまう。また眼を輝かして彼の話に聞き入り、必死でメモをとる。精魂こめて、何かの役に立ちたいと眼をいっぱいに見開いて。
 それだけしか出来なかったから。それだけでも私の手にはあまることだった。」

「岡本太郎が、いる」岡本敏子(著)

 誰よりも岡本太郎を知る彼女の著作などによって、死後再び彼の評価は高まり、新たな岡本太郎伝説が生まれることになりました。死してなお、爆発を続ける岡本太郎。彼は生まれて「オギャー」と泣いた時から、世界に対し「ノン」と言い続けました。その生き方は、生まれてすぐに選択され、生涯変わることはありませんでした。

「デシジョンというのは、ある時点において決意するものだと考えられている。だが私にはどうも納得できない。ほんとうのデシジョンは、すでにされてしまっている。されていなければならないものだと思うからだ。だから選択・決定ではなく、本質的には再確認なのだ。
 しかし、人間は弱い。迷う。すでに決定している、己の筋、運命に飛び込むことが怖い。わざと目をふさぎ、自分をごまかそうとしたりする。迷いの多くは、自己回避にすぎない。・・・」
「私は毎日、朝、目をさまして、己とその周囲を見かえすとき、いつも『オギャーッ』と叫びたくなる。いま生まれたように。
 平気で強烈な生き方、自由なあそび、それは生きるデシジョンをあらためてつかみ取ることなのだ。」

「疾走する自画像」 岡本太郎(著)

 そして、毎日生まれることは、毎日古い自分を殺すことでもあると彼は語っています。

「禅の教えの中のひとつ『道で仏に逢えば仏を殺せ』に対し、彼は仏に道で会うわけがないといい、こう続けました。
『では、誰に逢うと思いますか?』
 みんな顔を見合わせて、けげんな顔。
『自分に逢うんです。そうしたら、自分を殺せ!』」

二千人以上の僧を前に行われた講演より

 運命を受け入れ、迷うことなく芸術の道を歩んだ彼は、自分が幸福であっただけでなく岡本敏子だけでなく、周りの多くの人々をも幸せにしました。芸術は人を不幸にすると思われがちですが、けっしてそうではないということを彼は自らの人生で証明してみせたともいえます。その意味では、彼にとっての最高傑作は、その人生であり、「人生=芸術=爆発」とも名づけられた「生き様」そのものだったといえそうです。
 「人生は悲し、されど芸術は楽し」とは、アメリカの作家ジョン・アーヴィングの小説「ホテル・ニューハンプシャー」の中の言葉です。しかし、「人生=芸術」としてしまえば、「人生もまた楽し」なのかもしれません。(その逆もあるのでしょうが・・・)
 さあ、あなたは芸術に生きてみますか?
 ならば、「人生=芸術」を目指してみてはいかがでしょう。


<参考資料>
「岡本太郎が、いる」 岡本敏子(著) 新潮社 1999年
「疾走する自画像」 岡本太郎(著) みすず書房 2001年
「リリカルな自画像」 岡本太郎(著) みすず書房 2001年

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