
- 山下達郎 Taturou Yamashita -
<山下達郎という存在>
歌謡曲からJ−ポップへとつらなる日本のポピュラー音楽の歴史において、「クリスマス・イブ」という永遠の名曲を生んだ作曲家というだけでも、山下達郎の名は消えることはないでしょう。(ちなみにこの曲、2011年時点で26年連続してオリコン・チャートベスト100にランクインしている唯一の曲なのだそうです!)また、彼は和製R&Bのスタイルを追求し、20世紀末のJ−ポップのメインストリームの基礎を築いた人物という意味でも重要な存在です。しかし、彼が本当にやりたかったことは、1980年の名作「オン・ザ・ストリート・コーナー」を初めとするアカペラ3部作のような作品を作ることにあったのかもしれません。彼は、それが売れる売れないに関わらず、とにかく作りたかったのです。(実際、彼はインタビューで、この手のアルバムなら、まだまだ何枚でも作りたいと、意欲をみせています)
<幻のバンド、シュガー・ベイブ>
1972年、和製ロックの先駆けとなった歴史的バンド、はっぴいえんどが解散し、プロデューサーとして新たな活動を始めようとしていた大瀧詠一は、自らがプロデュースするバンドのヴォーカルの弱さをカヴァーできる優れたコーラス・グループを探していました。
そんなある日、彼の友人、伊藤銀次が行きつけの喫茶店でご機嫌な曲を耳にしました。ところが、それはまったく無名のグループの自主制作盤だといいます。そして、それが今や幻のグループとなった「シュガー・ベイブ」結成前の自主制作アルバムだったのです。伊藤は、このバンドのアルバムを大滝に聴かせました。こうして、山下達郎と大瀧詠一は出会うことになったのです。
<不遇の時代>
こうして、山下達郎と大貫妙子という二枚カンバンを持つシュガー・ベイブは、1973年にはっぴいえんど解散コンサートでデビューを飾りました。(大瀧詠一のバック・コーラスという形ではありましたが)そして大瀧詠一のプロデュースの元、デビュー・アルバム「SONGS」を録音、1975年に発売となりましたが、翌年不運なことにレコード会社が倒産、バンドも解散に追い込まれてしまいました。残念ながら、時代はまだ彼らのサウンドを受け入れる準備ができていなかったのです。
1976年、達郎は再び大瀧詠一と組み、伊藤銀次を加えた3人で「ナイアガラ・トライアングル・Vol.1」を発表、同年「サーカス・タウン」でソロ・デビューを果たしました。その後は「スペイシー」「イッツ・ア・ポッピング・タイム」「ゴー・アヘッド!」「ムーン・グロウ」と着実にアルバムを発表しますが、今ひとつ人気は盛り上がりませんでした。まだ時代は彼に微笑んでくれなかったのです。
<「ライド・オン・タイム」>
流れが変わったのは、1980年でした。彼のシングル「ライド・オン・タイム」がCMに採用され大ヒット。同タイトルのアルバムも売れに売れ、彼は一気に売れっ子の仲間入りを果たしたのです。そしてその時、彼は以前からやってみたかったことを実現するチャンスが訪れたことを確信しました。
<「オン・ザ・ストリート・コーナー」>
1980年発売のアルバム「オン・ザ・ストリート・コーナー」は、彼にとっての音楽的原点であり最も愛着のある50〜60年代ドゥーワップへの愛情表現ですが、同時に一人多重録音という最新テクノロジーによる新しい音楽創造への挑戦でもありました。しかし、その挑戦が商売として成り立つ保証はどこにもありませんでした。「ライド・オン・タイム」以前の達郎なら、その企画は到底実現不可能だったはずです。だからこそ、彼はその実現が可能な時の訪れを感じていました。
彼の予感は間違っていませんでした。「オン・ザ・ストリート・コーナー」は、マスコミの好評果を得ただけでなく、着実に売れ続けるロング・セラーとなったのです。
<「オン・ザ・ストリート・コーナー」のヒップ・ホップ性>
今考えると、アカペラによる一人多重録音という方法は、ヒップ・ホップにおけるサンプリングの手法に限りなく近いものがあります。それは、自分の声をサンプリングしてコラージュしてゆくこととほとんどイコールなのです。その意味でも、達郎は時代の先を行っていたといえるでしょう。
<変わらぬ創作意欲>
時代はこうして、彼に追いつきました。しかし、彼はそんな時代の流れに乗っても、けっして浮かれるようなことはありませんでした。1983年に発表された「メロディーズ」からは「クリスマス・イブ」という永遠のベスト・セラーが生まれましたが、「アルチザン」「コージー」とオリジナル・アルバムの発表には、ほぼ5年づつという時間をかけ、より以上に完璧さを追求しています。当然その完成度は高く、売上も、けっして期待を裏切ることはありませんでした。おかげで、「オン・ザ・ストリート・コーナー」は、ヴォリューム3まで、発表されています。こうした、自分のやりたいことに対するこだわりと情熱があったからこそ、彼は和製ポップス界最高のソングライター&シンガーになれたのかもしれません。
<素晴らしき伴侶>
完璧主義者であるがゆえに、ひとりだけの作業に閉じこもりがちな天才のそばに、常に愛情と理解をもって支えてくれる人がいたことも忘れてはいけません。(もちろん、竹内まりやさんのことです)これは、あくまでも推測ですが、きっとそうだろうと思います。(これは、秘かにうちの奥さんへの感謝の気持ちでもあります)
<締めのお言葉>
「もし、あなたに何か願いがあるのなら、そのことをいつまでも願い続けなさい。そうすれば、かならず願いは、かなうはずです」 榊原楼蘭(占い師)
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