- テッド・ターナー Ted Turner -

<世界制覇を夢見た男>
 アレキサンダー大王、チンギス・ハーンとはどんな人物だったのでしょうか?優れた策略家、カリスマ的指導者、世界一の殺人者、世界制覇を夢みた男などなど、様々な呼び名が思い浮かびます。しかし、彼らが多くの国を武力で征服し多くの人々を命を奪ったのは、彼らが生まれつきの殺人者だったわけではなく、まして殺人が趣味だったわけでもないでしょう。たぶん彼らにとって、世界を我が手におさめるにはその方法しかなかったからなのです。幸いなことに、現代では世界の頂点に立つのに人を殺す必要はありません。イチローのようにバットで世界の頂点に立つことも可能だし、「アカデミー賞」や「ノーベル賞」など様々なジャンルの頂点ともいえる賞を獲得するという方法もあります。
 もちろん、イチローとアレキサンダー大王を比較するなど馬鹿げた話ではあります。しかし、CNNの創設者でありメディア・ビジネス界の反逆児テッド・ターナーが、もしはるか昔に生まれていたとしたら、彼ならアレキサンダー大王と覇権争いをしていたのではないか?そんな気がします。武力こそ用いないものの、彼の生き方の根本には、世界を征服したいという強烈な欲望があるように思えます。幸か不幸かテッド・ターナーはヒトラーにはならず、アメリカの大統領にもなりませんでした。(一時期は本気でそれも考えており、大統領候補に推薦されたこともあったようなのですが・・・)
 もし彼の生き方がどこかで方向を変えていたら、世界はまったく異なるものになっていた可能性もあるでしょう。そんなことを考えさせるほどの大物は、20世紀も後半になるとほとんどいなくなった気がします。世界を自らの意思と行動で変えようとした数少ない民間人であり、武力を用いない革命家、テッド・ターナーの活躍を追ってみたいと思います。

<不幸な少年時代>
 テッド・ターナー Ted Turner は、1938年11月19日オハイオ州のシンシナティーに生まれています。父親のエド・ターナーは1941年に海軍に入隊し、各地の基地を渡り歩く生活を続けていました。しかし、父親のエドは妻とテッドの妹は連れて行きましたが、彼は早くから寄宿学校に入れられてしまい、その後も家族とは離れて暮らすことになります。
 終戦後、父親は屋外広告の会社を設立。するとその会社はアメリカ経済の好調の波に乗って急成長を遂げました。こうして経済的にも社会的にも成功をつかんだ彼の父親ですが、どうやらその反面躁うつ病体質だったらしく、機嫌が悪い日に彼の家では家庭内暴力が絶えることがありませんでした。(「躁うつ病」という病名は当時は存在せず、父親の異常な行動は病気とは考えられてもいませんでした。古い慣習の残る時代、彼は周りから単に躾に厳しい父としか考えられていなかったようです)そんな父親の姿を見て育った彼は、その影響を良くも悪くも強く受けることになりました。
 1956年、彼の妹が難病に冒され長い闘病生活の末に15歳の若さでこの世を去りました。家族皆が病気に苦しむ彼女にかかりっきりになっていたことで、一時は妹を恨んでいた彼もその悲惨な死に衝撃を受けます。そうしたことから学校にまともに通わなくなった彼を躾けるため、父親は彼を軍隊式の厳しい士官学校に入学させました。反発しながらも、そこを無事に卒業した彼はその後ブラウン大学に進学、そこで父親が好きだったヨット・レースと出会い、選手として活躍することになりました。しかし、相変わらず反抗的な生活を続ける彼は校則違反を繰り返し、ついに大学を退学させられてしまいます。こうした複雑な家庭環境の影響もあり、彼は学校の決めた枠組にはめられることを徹底的に嫌う人間になっていました。しかし、そうした反逆児的な性格の反面、彼は軍隊式のやり方が大好きなタカ派で保守的な人間でもありました。
 1959年、大学を退学させられた彼は、父親の会社で働き始め、翌年にはジュディ・ナイという女性と最初の結婚をします。

<父親の死>
 1963年、家庭の中で絶対的な権力を持っていた父親が突然自宅でピストル自殺をとげてしまいます。躁うつ病だったエドは、精神的なアップダウンが激しく、自らが目標としていた企業家としての成功を収めた時点で人生の目標を見失ってしまったのかもしれません。これからの人生は、下り坂しかないに違いない、そう彼は思い込んでしまったらしいのです。こうして、妹と父親を若くして失ってしまった彼は、自らも早くに精神を病んでしまい自殺してしまうのではないのか?そう思うに至ったようです。さらに彼は、人生においては果たしきれないほどの目標を設定したほうがよいと心に誓いました。その思いが、世界制覇を目論む彼の休むことのない仕事ぶりのモチベーションなのかもしれません。

<放送業界への進出>
 父の死後、彼は会社を引き継ぎ、最初の妻と離婚。翌年、二人目の妻としてジェーン・シャーリー・スミスを迎えます。屋外広告という古い業界に将来性はないと感じていた彼はテレビ業界に進出することを考え、つぶれかかっていたUHF局を買収します。それまでに父親が蓄えていた資金を使い、他局の番組を買い取り、さらには大リーグの弱小チーム、アトランタ・ブレーブスを買収。放映するプログラムを増やすことで少しずつ視聴率を上げてゆきました。続いて彼はさらなるメディア業界の展開の場として衛星を使った中継放送や番組の制作を思い立ちます。こうして彼は衛星を使う権利を取得し全米のケーブル・テレビ局に番組を配信するビジネスを立ち上げます。しかし、当時ケーブル・テレビの業界は、政府の補助によって立ち上げられたものの、その後完全に行き詰まっており、彼が設立したターナー・ブロードキャスティング(TBS)による「スーパー・ステーション」も放送業界の人々からは無謀な試みと言われました。

<右にも左にも広がる友達の輪>
 1977年、ブレーブスに続き、彼はプロバスケット・ボール・チーム「アトランタ・ホークス」も買収。さらにこの年、彼は自らクルーとして参加したヨットで、ヨットレースの最高峰アメリカズ・カップを制覇するという快挙を成し遂げます。彼はこれらのヨットレースで世界各地の企業家や政治家、それに王族、貴族と知り合う機会に恵まれました。
 彼のざっくばらんなで正直な性格は誰にでも受け入れられ、そのおかげで彼はアメリカの天敵だったキューバのカストロとも親しく付き合っています。後に彼は左派よりという批判を受けることになりますが、彼はそうした批判に影響されることはありませんでした。
 そして、こうした主義主張に関わりのない彼の人間関係は、この後CNNを設立した際、世界各地の取材で大いに役立つことになります。

<たった一年でのCNN設立>
 1978年、彼は以前から頭の中にあった衛星を用いた24時間連続放送のニュース専門チャンネルを立ち上げることを発表します。そして、1979年5月21日、公式にCNN(ケーブル・ニュース・ネットワーク)を設立。そのトップにはニュース業界の異端児と呼ばれていたリース・ショーンフェルドを抜擢し、翌年の6月から放送を開始すると記者発表を行いました。しかし、この時に決まっていたのは、トップの人事と大枠の予算のみで、人員の確保も設備も会社の建物も何も決まってはいませんでした。それでも、彼は翌年予定通りにCNNをスタートさせます。彼の凄さは、事業についての誰にも負けない先見性にありました。しかし、それ以上に自分の見出したビジョンを実現する素早い行動力とスタッフたちをひっぱり、やる気を起こさせるリーダーシップにもありました。
 彼はCNNの本社ビルの建設現場で新聞記者たちを前にこう言いました。
「・・・アメリカ国民が徹底したニュースを求めているものと確信している。だから、そうしたサービスを提供するためなら、何があろうと、どんなリスクでも喜んで負うつもりだ。6月1日に放送を開始すると言ったからには、6月1日に必ず開始する。そして、この世が終わるまで放送をやめないよ。世界の終末を生放送で伝えるんだ!」

 この時、彼が取り入れた方法の中でも特に凄いのは、1000人の大学生を採用し、彼らを2ヶ月という短期間に一人前のビデオ・ジャーナリストに育て上げCNNの特派員として世界各地に派遣したことです。彼らはそれまでの記者と違い取材や撮影などを一人で全てこなせるように教育されていました。それにより、世界各地、全米各地に配置する人員の数は大幅に少なくてすみ人件費を削減することができました。(といっても、それが可能になった最大の原因はCNNには組合がなかったために人件費が大幅に安くすんでいたからなのですが・・・)
「僕には送るべき人生が最低五つはある。送るべき人生がたくさんあって、全部送っている時間がない。だからこそ、ぼくは仕事にこれほど時間をかけて一生懸命働くんだ。ぼくには信じられないほどやることがたくさんある。しかも、くそ、どれもこれも、楽しくてたまらないんだ!」

<CNN勢いに乗る>
 当初、素人集団による24時間放送のCNNは、技術的にも経営的にも長くは続かないだろうと思われていました。しかし、幸いなことにCNNのスタートに合わせるように大きな事件が起きたことで、24時間放送というスタイルが大きな役割を果たし、視聴率を稼ぐことができました。(セントヘレンズ火山の大噴火、この当時20年ぶりの巨大ハリケーンとして上陸した「アラン」、共和党、民主党の大会と1980年の大統領選挙のキャンペーンなど)
 勢いに乗るCNNに対して、アメリカの3大ネットワーク、ABC、NBC、CBSはいよいよ対抗策として、数々の妨害工作や買収工作を仕掛け始めます。それに対し、テッド・ターナーは徹底的に3大ネットワークを批判し、良い条件で売却するのではなくあくまでも彼らに追いつき追い越すことを目的に闘いを挑みます。
「ネットワーク・テレビの主力商品である低俗なセックスや暴力を扱った番組がわれわれの都市に道徳的腐敗をもたらしている。・・・ネットワーク・ニュースは人々を憂鬱にさせる暗いニュースを集中的に流している。・・・彼らは役人のスキャンダルには軽く触れるにすぎない。・・・彼らの抱えるニュース・キャスターはニュースよりも大きく扱われている。・・・・・」
 彼はこの頃自らの夢について4つあげていました。
 1つ目は、自らの放送局を3大ネットワークに次ぐ存在にすること。2つ目は映画産業に進出すること。3つ目はアメリカNo.1の資産家になること。そして最後のひとつが大統領になることでした。彼はその夢を果たすべく着々と実績を積み上げてゆきます。

<環境保護派への転向>
 父親同様に躁うつ病だった彼は、当時広まりつつあったリチウムによる治療を受けるようになり、その効果が出始めます。それにより彼の仕事に向かう姿勢も変わり始めます。それはアグレッシブだった仕事の進め方を抑えるようになっただけでなく、タカ派だった政治姿勢をハト派に、経済第一主義から環境保護重視へと生き方自体を変えることにつながってゆきます。
 1985年、彼は「ベター・ワールド協会」を設立。地球のためにできることをテーマとした活動に自らの資産を注ぎ込むようになります。環境問題の専門家でもあるジャン・ミシェル・クストー(ジャック・イブ・クストーの息子)などの仲間を得た彼は、環境保護問題についてのドキュメンタリー映画を製作するなど、積極的に地球の未来のために取り組み始めした。とはいえ、そこはテッド・ターナーです。そうした活動にただお金を注ぎ込むのではなく、そこから自らの企業にとって将来役に立つビジネス・チャンスを見出すことにも抜け目がありませんでした。
 モンタナ州に広大な土地を購入した彼はそこで絶滅の危機にあったバファローを自然環境の中で飼育、繁殖させ、全米一のバファロー所有者となります。もちろん、彼はその後、しっかりとその取り組みを生かすため、バファローの肉を牛肉よりもヘルシーな肉として販売する取り組みにも挑戦しています。
 彼の環境問題への取り組みは、けっして金持ちの道楽ではなく、将来を見越す彼の視線が教えた未来の成長産業である環境産業への一足早い参入だったともいえそうです。

<映画界との関わり>
 1986年、彼は多くの映画ソフトを所有する老舗の映画会社MGM/ユナイテッド・アーティスツを買収します。彼自身大好きだった膨大なソフト(白黒映像の名画)を自分のものにするものの映画の製作会社としては最悪の状況にあったため、その買収は大失敗と業界からの嘲笑を浴びます。しかし、当時は価値がないといわれていたそれらの古い作品も、レンタル・ビデオの登場やテレビ・チャンネルの増加、DVDの発売などによりその価値を高めてゆくことになり、大きな財産だったことが明らかになります。
 1991年、彼は女優ジェーン・フォンダと3度目の結婚をします。2度の結婚以外にも女優、モデルなど、数多くの女性との関係が知られる彼ですが、この出会いだけは彼にとって、まったく異なる意味をもっていました。それは、ジェーン・フォンダと彼の人生がその生い立ちから出会いまで、数多くの点で一致していたからです。
<ジェーン・フォンダとの出会い>
 ジェーン・フォンダの父親は、アメリカを代表する名優のヘンリー・フォンダです。「怒りの葡萄」や「十二人の怒れる男」など、アメリカの良心を象徴する人物を演じ続けていたヘンリー・フォンダが実はプライベートでは家庭内暴力をふるう暴君で、なおかつ外では浮気を繰り返す最悪の夫だったことはあまり知られてはいません。夫のあまりの無軌道ぶりと家庭内暴力に耐えかねたヘンリーの妻はついに自らの喉を切り自殺してしまいました。そんな父親に対して、嫌悪感と恐怖を感じていた二人の子供たち、ピーターとジェーンが若くして家を出てしまうのは当然の成り行きでした。
 ジェーンの弟、ピーターは、その後、反抗する若者文化の象徴となる歴史的映画「イージー・ライダー」を製作、主演し映画界の寵児となります。そして、ジェーンもまた女優として大活躍し、アラン・J・パクラ監督の映画「コールガール」(1971年)では見事にアカデミー主演女優賞を受賞。その後は、反戦運動など政治活動家としても活躍。左翼の活動家、政治家としてアメリカの60年代を代表する存在だったトム・ヘイデンと結婚。しかし、彼女はその結婚式に父親を招待しませんでした。二人の親子関係は、60年代の世代間対立を象徴するものだったともいえます。この二人の関係がやっと修復されたのは、1982年ヘンリー・フォンダがキャサリン・ヘップバーンと共演した「黄昏」で念願のアカデミー賞を受賞した時でした。この時、77歳のヘンリー・フォンダは癌に冒されており、二人が長年のわだかまりを忘れて抱き合った時、もう時間はわずかしか残されていませんでした。
 この時の思いを彼女は後にインタビューでこう語っています。
「忘れないでね。私はスタートが遅いことにかけては誰にも負けない人間なの。”遅すぎるということは絶対にない”という言葉の生き証人なのよ」

 二人の出会いは、こうした体験の後のものでした。これは幸いなことだったのでしょう。二人の出会いは、遅すぎたからこそよかったのかもしれません。(ただし、やはりテッド・ターナーに結婚は似合わなかったのでしょう。この完璧なはずの相手とも結局2001年には離婚に至ってしまいます)

<頂点へ接近>
 1992年、CNNの利益は3大ネットワークのどれをも上回りました。彼にとっては次なる目標として「大統領になる」も夢ではなくなりつつありました。この頃、彼は大統領候補として名前があがったこともあるのです。1992年の大統領選挙にブッシュとクリントンの対抗馬として、南部の政界から立候補したロス・ペロー。この時、彼ともう一人、同じ人脈からの候補者として、デヴィッド・ターナーの名もあがっていたのです。ただし、彼はこういって断ったとか・・・。
「すでに一人の政治家と結婚したことのある妻が、別の政治家と結婚生活を続けるつもりはないと言った」

 どちらにしても彼は、この頃大統領としてアメリカ政府のトップに立つことを望んではいなかったようです。彼にとっては、アメリカを動かすよりも世界を動かす方が楽しいに決まっているのですから。彼はこう言っています。
「政府というのは、どれもみんな反動的なんだ。人は、もし政府の一員だったら、政府に楯突くわけにはいかないだろう。ずっと先のことを考える未来学者のような指導者を持てたらすばらしいけど、そんな人間が選ばれることは、ごくまれにしかない。それは、継続する体制の中で既得権を握っている連中がいるからで、世の実力者はみんなそうだ。ビジネス界の全員-ほぼ全員-にとって大切なのは、現状を維持することだ。だから、誰かが外へ出て指導しなければいけないんだよ。テレビでなら、指導することができる。事を起こすことができる。アメリカ政府が事を起こしたことなんて、親善大会の例でもわかるように今まで一度もないんだ」

<CNN大活躍>
 CNNはその機動力をいかし、その間も世界各地の大事件をリアルタイムで伝えることで、どんどんその存在感を増してゆきました。
 フォークランド紛争、ポーランドにおける「連帯」の民主化運動(1981年)、レーガンvsゴルバチョフの首脳会談(1985年)、メキシコ大地震、スペースシャトル、チャレンジャー号の事故(1986年)、天安門事件(1989年)、湾岸戦争(1991年)・・・etc.
 ただし、CNNについては、その内容いついて批判的な意見も確かにあります。
「・・・・・批評家たちは、CNNが突発的なニュースや生中継ではずば抜けているけど、意義のある分析や解説はめったにしないと認めていた。CNNで見るものが実際には何を言わんとしているのか誰にもわからない。リース・ショーンフェルドですら、CNNの幅は1マイルあるけど、奥行きは1インチしかないと言ってたくらいだ」
ダン・ショア(CNNの特派員)

 CNNのカメラは世界各地の紛争地で撮影を行い、その地で行われようとしている残虐行為を抑止する役目も果たしました。
 CNNのカメラは世界中の人々の目でもありました。だからこそ、その前ではデモ隊への暴力行為や捕虜への拷問は不可能になります。中国での天安門事件の際は、CNNカメラ・クルーが北京から締め出された後、何百人もしくは何千人規模のデモ隊が虐殺されることになっています。だからといって、CNNのカメラが世界の良心を代表しているわけではありません。なぜなら、テッド・ターナーはこうも言っているからです。
「CNNにとって最も望ましいのは継続的な大事件が置きることだ。中国の事件はすごかった。われわれに必要なのは、学生がここで暴動を起こしてくれることなんだ」
「もちろん、これは冗談だよ」


 彼は21世紀を前に考え方を変えたようです。
「ぼくは、政治的には保守派になるような育ち方をした。でも、この15年間、いろいろな経験をしてむしろ進歩的になった。熱烈な国粋主義者だったものが、熱烈な国際主義者になった。屋外広告業界の人間からテレビ業界の人間となり、ヨットを走らせる人間から、主に・・・ぼくの一番の趣味は手鉤釣りなんだ。これはほとんど禅の修業だね。180度の転換だ。・・・・・」

 ただし、彼の負けず嫌いだけは変わっていないようです。彼にとって未来を先取りしたはずのテレビの時代は21世紀を前にすでに終わりが見え、インターネットの時代になりつつあります。テッド・タ−ナーはそんな21世紀にどう挑むのでしょうか?

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