国家とは悪なり、だからこその抵抗

「抵抗論 国家からの自由へ」

- 辺見庸 Yo Hemmi -

<安倍政権の暴走>
 安倍政権の暴走が止まりません。日本中の多くの人がこのままではまずいことになるのではないか?そう不安になっているずです。(2014年1月)
 それでも、日本にはアメリカからもたらされた民主主義があり、人々の多くは馬鹿ではないのだから、そのうち彼らの暴走には待ったがかかるはず、そう思っている方もまた多いかもしれません。しかし、すでに民主主義の母国アメリカの政治状況自体すでに新たなタイプの全体主義国家になってしまったという意見もあります。元々「民主主義」とは、自由であるがゆえに、国民さえ望めば「ファシズム」へも簡単に方向転換できるものなのです。

<逆全体主義の時代>
「・・・今生まれつつある政治システムを「逆全体主義」と名付けることにする。なぜ逆かというと、現在のシステムとそれを動かしている要員は、無制限の権力への欲求と攻撃的な膨張という点ではナチズムと同じであるが、手段や行動は逆転しているからである。例えば、ナチスが政権を取る前、ワイマール・ドイツでは、『街頭』は全体主義的志向のあるごろつき集団によって占められており、デモクラシーがあるとしたら、それは政府の中に限られていた。しかしながら、合衆国では、デモクラシーが最もいきいきしているのは街頭であり、いよいよ暴走しつつある政府こそが最も危ないのである」
シェルドン・ウォーリン(米国の政治学者)

 僕がなぜアメリカが好きかと言うと、アメリカの自由主義が素晴らしいからです。しかし、そんなアメリカの政治体制は、国民の自由に逆行するように一部の権力者が支配するファシズム体制に限りなく近づいてしまっています。(軍産複合体はその中心)それが今のアメリカを動かしている「システム」です。
 この傾向は今の日本にも、そのままあてはまります。いや、今やアメリカ以上に日本はその傾向が強まりつつあります。この状況は変えられないのか?それ以前に、なぜ今こんな状況になってしまったのか?新聞記者として働いた後、芥川賞受賞作「自動起床装置」(1991年)で小説家デビューをし、さらに講談社ノンフィクション賞受賞の「もの食う人びと」(1994年)でノンフィクション作家としての地位を確立した辺見庸の「抵抗論」を読みながら考えてみたいと思います。

 この時代、いずこにあっても議論、争論、激論のたぐいが、まるで忌むべき病のように避けられていることも知っている。怒りでも共感でも同情でもなく、嘲りや冷笑や、せいぜいよくても自嘲が話しに常につきまとい、議論の芯のことろをすぐに腐らせてしまう時代であることも私は知っている。
 じつは感覚がどこかやられてしまったのではないかと私は目星をつけている。私もあなたも、怒りをつかさどる感覚が機能不全におちいっているのではないか。いや、機能不全におちいらなければ、すなわち怒りを無化することなしにはやっていけない時代がすでにきているのではないか、と私は感じている。


 「怒り」のない時代だからこそ、その怒りが弱者に向けられるのが21世紀の日本だといえます。しかし、いつから日本人は怒ることを忘れてしまったのでしょう。少なくとも1970年代ぐらいまでは日本にはまだ「怒れる若者」は存在していたはずです。今、思い返すと、あの頃、「蒲田行進曲」や「熱海殺人事件」の作者・演出家のつかこうへいは、「テレビは馬鹿になる光線を発している」と警告を発していました。それに寺山修司もまた「書を捨てよ街に出よう」と叫んでいました。でも、僕も含めて日本人の多くはテレビにどっぷりとつかるようになり、いつしか思考停止の状態に安心感すら覚えるようになっていました。

・・・私たちはあまりに多くのことを思わないほうがいいとされるような時代に生きています。テレビや新聞は日々われわれに「思うな!」「考えるな!」といいきかせているようでもあります。あまりに深く、多くを思うと、生きること自体辛い時代です。むしろ、だからこそ「思え!」は大事ではないでしょうか。

 こうした状況の中、少しずつ日本型のファシズムが浸透し始めているようです。いや「浸透」ではなく我われが「招き入れた」というべきなのでしょう。

 マスメディアが深く深く介在するそこに、強権発動を少しも要しない協調主義的な日本型ファシズムが生成される微温かく湿った土壌がある。
 個体知の怒りはメディア知によって真綿で首を絞めるように殺され、消去されていく。おそらく犯意はどこにもない。


 日本型ファシズムを生み出した主体は右派政権ではありません。その右派政権を選んだ普通の日本国民であり、そうした意志をもつように世論を動かしたマスメディアの責任でもあります。(もちろん意識的に行ったとはいえません)それを著者は「国家にまつわる意思のように見えるもの」と称しています。

 こうした内面の自由の領域を侵害するものとは、いったいどのようなものなのか。・・・それこそが、「国家にまつわる意思のようなもの」なのではないか。やや抽象的だが、政府や警察権力や特定の行政機関の具体的意思そのもののみを意味するのではなく、それらを広く包摂する、国家幻想を背負った者たち相互の関係性の総体から醸成される空気に似たなにかである。

<国家とは何か>
 では「国家」とはそもそも何なのでしょうか?
 「国家」とは「ある国土に住む国民を守るために選ばれ組織されたシステム」といえるかもしれません。では国民を守るための国家は抜本的に「善」なるものと考えられるのでしょうか。そのことについて、エンゲルスはこう書いています。

「ひとびとは世襲諸君主国にたいする信仰から解放されて、民主的共和国を信奉するようになりでもすれば、まったくたいした大胆な一歩をおし進めたかのように思っている。しかし実際には、国家は、一階級が他階級を抑圧するための機関にほかならず、しかもこのことは、民主的共和制においても、君主制におけるとすこしも変わりはないのである。もっともよい場合でも、国家はひとつのわざわいであり、このわざわいは、階級的支配を獲得するための闘争で勝利をえたプロレタリアートにもうけつがれる」
エンゲルスによる「フランスにおける内乱」序文より

 元々「国家とは悪である」これは無政府主義思想のことでしょうか?いや、著者は「国家は悪であったとしても、存在を否定されるわけではないと考えているようです。考えてみれば、国家が悪だと考えるからこそ、「三権分立」という民主主義の基本が生まれたわけだし、その暴走を防ぐために「憲法」があるわけです。すべては、ここから始めるべきなのです。

<憲法の存在意義>
 ここで、国家を永遠の災厄とする考えにくみするのならば、なぜ、国家存立の基本的条件を定めた根本法である憲法を受容するのか、という問いに再び戻る。私の正直な答えはこうである。それは、日本の現行憲法の根幹が、言葉のもっともよい意味において、すぐれて「反国家的」だからだ。国家の根本法が反国家的とは、なんとすばらしいことであろうか。国家の最高法規が自身に制約どころか掣肘をくわえている。未来の暴走を予感してあらかじめみずからを厳しく拘束している。国家の基本法が国家の幻想を戒めている。

 日本国憲法における第九条は、そうした日本の目指すべき方向性を定めた重要な部分ですが、少しずつそのまわりは切り崩されつつあり、いつその改正案が国会に出されるかわからなくなりつつあります。1947年に文部省が発行し、1952年まで中学校で使われた社会科教科書の「新しい憲法のはなし」の中にこうあります。

「・・・このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の国がけっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これは戦争の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかし、みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」


 なんと美しく志の高い思想でしょう!「積極的平和主義」とはこのことをいうはずです!
 ただし、そんな理想論でいざという時、本当に国が守れると思うのか?今や、そんな声が大勢をしめつつあるかもしれません。確かに北朝鮮はもちろんのこと、中国の最近の政治姿勢は危険に見えます。しかし、「理想」を捨てた瞬間から、もう残されるのは「暴力」だけになるでしょう。そして、日本の方向転換はさらに事態を危機的な方向に向かわせ、負のスパイラルは歯止めが利かなくなるでしょう。どこかで誰かがその流れを変えなければなりません。現状では、そうした時代の流れをかろうじて止めることができる最後の砦が「憲法九条」です。

「・・・国軍を持たないこと、そして国が開かれていること、いざとなれば国民が自由に政府をリコールできる法的装置が整い、国民にその実質的な力が備わっていること、これが僕の考える理想国家の条件です」
吉本隆明「わが『転向』」より

 国家は他者から見て初めて国家としての姿をもつ。だからこそ、周囲から見た日本の姿を常に意識する必要があるはず。他国からどう見えようと関係ないと思った時、その国は方向性を失い、全体主義という思い込みからなる愚かな「裸の王様」になってしまうのだと思います。

「国家は共同幻想だというのは、内部から見た時にのみ言えることです。国家は、何よりも他の国家に対して国家なのです。共同幻想という考えは、そのような外部性を消してしまいます」
柄谷行人「倫理21」より

<マスコミへの批判>
 著者はこうした状況を許しているマスコミの現状について、厳しく批判しています。例えば、9・11以後に行われたアメリカ軍によるイラクへの報復攻撃とそれに対するイラクでのアメリカ軍へのテロ攻撃?についての報道はどうだったでしょうか?

・・・イラクで今起きていること、あれは単なるテロでしょうかね。家族を殺され、自国を理不尽に占領された者たちのレジスタンス、抵抗運動じゃないですか。日中戦争のときの八路軍、のちの人民解放軍、あれはテロリストですか。、南ベトナム解放戦線の反米闘争、あれはブッシュがいうような意味でのテロですか。・・・新聞はなぜそれを抵抗と書けないのか。宿命的に権力的だし、政府的なんですよ。マスコミというのは。

 結局イラクには疑われていた大量破壊兵器など存在しませんでしたが、アメリカは散々国を破壊し、多くの一般市民を殺しても裁かれることがありませんでした。そのことを新聞はほとんど書いていません。著者が新聞社を辞めたのはそうした現状に自らけじめをつけたかったこともあるのでしょう。

・・・例えば大学もテレビ局も市場原理のなかにある今日的メディアであるということ。そこの空気では批判的言説が育たない、ということ。というより、批判的言説は居場所がない。大学もテレビも、もっぱら「非政治的」というあざとい政治性と愚昧な思想を外の世界に発信している。

・・・マスメディアを人間個体のように人格的存在のように考えるのは錯覚だと思います。個体は内省したり反省したりしますが、メディア総体は反省したりしないし、「良心」なんかもちあわせちゃいない。だから、期待をつなげるとしたら、個別の新聞社などの報道機関ではなくて、群に固化しない例外的な記者個人だとぼくは考えています。・・・


 著者は新聞も含めたメディア全体と大学も含めた教育機関に絶望しているのですが、自分も含め最後には個人の意識の問題としています。そして、改めて重要なこととして「国家からの自由」について書いています。

・・・大学やマスメディアがすでに失いつつある自明性のなかでも、もっともかけがえのない理念とはいったい何でしょうか。ぼくは、「国家からの自由」というじつに尊い共通認識といいますか理念がそれだと思います。

 「国」を愛することは、その国の自然、文化、国民を愛すること。それに対し、「国家」を愛することは、その国の「システム」を愛することであり、根本的に違うことです。ましてや「国家を愛せ」という強制や教育が行われる時代は、「国」を動かすシステムを愛せということであり、人を愛することではありません。
 税金をちょろまかして懐に入れる政治家よりも、「国家を愛せよ」と自らの愛国心を押し付け、その行為に酔う不気味な政治家の方がずっと怖いし、危険です。それをいち早く見分けなければ。また日本は安倍さんの祖父の時代へと退行してしまうことになりかねません。

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