伝説のテンプル騎士団はどこから来てどこへ行ったのか?


「テンプル騎士団」
Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici


<「テンプル騎士団」とは何か?>
 以前から気になっていました。様々な映画や小説や歴史書に中世ヨーロッパの謎の組織として登場するこの名前のことが・・・。
 「ダヴィンチ・コード」、「ナショナル・トレジャー」などの映画やウンベルト・エーコの小説「フーコーの振り子」など。
 彼らはいったいどんな組織なのか?それは、今でも存在するのか?
 「キリスト教を守る伝説的英雄?」、「フリーメイソンの元祖?」、「歴史と伝説が混じりあう存在」・・・どこまでが史実で、どこからが伝説なのか?
 最新の本「テンプル騎士団」(著)佐藤賢一を読んで、その謎の多くが解けました。
 どうやら「テンプル騎士団」は、思っていたよりもずっと巨大な組織で、その軍事力と財力は、ヨーロッパ全土を支配できるほどだったようです。
 ではなぜ、そんな凄い組織が歴史上から消えてしまったのか?まとめてみました。

<テンプル騎士団の誕生>
 テンプル騎士団の歴史は、1099年に十字軍がエルサレムをアラブの支配から奪還したところから始まります。ローマ教皇ウルバヌス2世を中心に結成された十字軍の活躍で見事にエルサレムを解放したものの、兵のほとんどはその後すぐに西方の母国に帰還してしまいました。そうなると、いつまたアラブの軍勢が襲ってくるかもしれないし、そもそもエルサレムへの道のりは危険すぎて巡礼者たちが旅をすることができませんでした。これではエルサレムの解放は意味がない。そこで、エルサレムの街だけでなく、その道中まで含めた護衛隊が必要とされることになりました。そしてその求めに対し、最初に手を挙げたのが、テンプル騎士団の初代総長となるユーグ・ドゥ・パイヤンとその友人ゴドフロワ・ドゥ・サントメールの二人でした。

 ユーグ・ドゥ・パイヤンは、フランス、シャンパーニュ地方の出身で、領主の息子でした。彼には兄がいましたが、父や兄が早くに亡くなり、その後を継ぎました。彼は聖地巡礼の旅に参加した際、自分と同じ北フランス出身の騎士ゴドロフと知り合い意気投合。そのままエルサレムに残る決心を固め、ゴドロフと共に守備隊結成の準備を始めます。彼らの求めに答え、9人の騎士から成る「テンプル騎士団」が誕生することになりました。
 1120年1月16日、エルサレム王ボードワン2世により「キリストの義勇隊」(後のテンプル騎士団)結成が認められました。こうして公的なお墨付きを得た彼らは、エルサレムの街中に建物を与えられ、そこを騎士団本部とします。しかし、彼らには何の収入もなく、寄付だけでは食べて行くことしかできませんでした。厳しい生活をしなが、彼らはボランティアで巡礼者たちを守る活動を続けます。すると、彼らの存在はしだいに知られるようになります。そして、彼らの故郷のシャンパーニュ伯ユーグが、彼らの活動に賛同し、地位と財産を捨てて仲間に加わります。大諸侯の一人が騎士団に参加したことは、ヨーロッパ全体の話題にとなり、その後、次々と各地の騎士たちが地位と財産を捨てて参加し始めるきっかけとなりました。

 テンプル騎士団は、それまでの騎士たちとは異なる存在でした。それは彼らが騎士であるだけでなく、修道士でもあるということです。騎士としての能力を生かしながら、神のために生きることができる・・・それはキリスト教徒にとっては最高の英雄的生き方に思えたのでしょう。そのために死ぬことがあっても、間違いなく天国に行けるのです!
 こうして多くの騎士たちが、自らの身分を捨て、財産を処分して騎士団に寄付してまで騎士団に参加する道を選択したのです。12世紀から13世紀にかけて、テンプル騎士団は急速な成功を遂げることになるのです。その間、会則が作られ、ヨーロッパ各地に支部も作られる、巨大な組織が形成されて行くことになりました。

<テンプル騎士団の闘い>
 財力と兵力が充実したテンプル騎士団は、エルサレムだけでなくキリスト教の布教とイスラム教徒征伐を目的に、第二回十字軍の中心として戦闘に参加します。神聖ローマ帝国皇帝コンラッド3世、フランス王ルイ7世を旗頭とした軍隊の中心となり、戦場で力を発揮したのはイスラム兵のことを知り尽くし、地域の情報を持ち、それ以上に宗教的信念をもつ強力なテンプル騎士団でした。白い衣装に赤い十字架を描いたテンプル騎士団は、いつしか軍団の前衛もしくは後衛を任されるようになります。
 当時、それぞれの王が率いていた軍隊は、戦争を行うために、そのつど召集された臨時雇いの兵隊か、お金によって雇われた傭兵かどちらかでした。片や王の命令で集められた集団、片やお金目当てで集められた集団です。神のために命を落とすことを自らの役目として喜んで受け入れるテンプル騎士団との戦闘力の差は歴然としていました。
 最強の軍隊を得たキリスト教軍団は、一時はエジプトにまで達する勢いでイスラム圏に攻め込みます。しかし、元々が聖地エルサレムの解放を目的とした十字軍は、しだいにモチベーションの違いから内部分裂し始めます。そこへ、イスラム側アイユーブ朝にサラディン王という英雄が登場し、一気に形勢が逆転します。
 聖地エルサレムを再び奪われたキリスト教勢力は、その後、第三回十字軍、第四回十字軍、第五回十字軍と攻撃を仕掛けますが、13世紀の終わりにはエルサレムは完全にイスラム勢力の手に落ちてしまいます。この間、多くの騎士団員が命を落とすことになりましたが、生き残った団員たちはそれぞれの故国、支部へと戻ることになりました。本当なら、これで騎士団の役割は終わりを迎え、解散するべきところでした。

<テンプル騎士団の巨大化>
 解散するべき騎士団は、実はここから新たな役割を担い、さらなる発展を遂げることになります。なぜなら、彼らはこの時すでにヨーロッパ最強の軍隊組織として各国、各地域に基地を持ち、なおかつ、どの国にも属さない独立組織としての地位を確立していたのです。そうなると、修道士として信頼できる彼らには様々な仕事の依頼が舞い込むようになります。先ずは、それまで通り、護衛として移動する警護の仕事を請け負いました。当時は、「警察」など存在せず、自分の身は自分で守るしかありませんでした。どうせお金を出して警護を雇うなら、教会への寄付寄付にもなり、信頼も出来るテンプル騎士団なら文句なしだったのです。そこまで信頼できるなら、「彼らにお金も預けよう」、そう考えるのも当然でした。騎士団はいつしか旅人の警護だけでなくお金や資産の運搬も請け負うようになります。
 こうなると、新たな発想も生まれます。彼らにお金を預けるなら、フランス支部に預けたお金をイタリア支部で引き出すことも可能ではないか?それもお金ではなく入金について記した書類を移動させれば、お金を運ぶ必要もないのではないか?
 こうして、ヨーロッパ全体に支店をもつ巨大な金融機関が誕生することになりました。

 さらに騎士団は各地に寄付された農地なども所有していて、その運営業務も行うだけでなく、地域の教会や医療機関としての役割も担う場合もありました。そして、こうした仕事から得られた収益には、国からの税金はかからない仕組みになっていました。なぜなら、彼らはキリスト教の最高指導者である教皇にのみ仕える存在だったからです。

 こうして、騎士団にはどんどんお金が集まることになり、その有り余るお金は今度は貸し出しに回ることになります。ただし、キリスト教世界では当時、「金貸し」は嫌悪の対象でした。聖書ではお金を貸して利益を得ることは汚れた行為とされ、その仕事を請け負うユダヤ人たちは汚れた民族として差別の対象になっていました。それだけに、ユダヤ人に借りるぐらいなら、別のところから借りたいと考える人も多く、それがお金を持て余す騎士団へ回ってきたわけです。それも彼らは巨額の資金を有していたため、貴族や王族からの借り入れの申し込みも多く、中には戦争のため巨額の借金をする王もいたようです。こうなると、騎士団は貸し出しのために、借主の信用調査をする必要が生じます。そして、場合によっては、貸し出しを断ったり、その使い道に口出ししたりする場合も生じるようになります。こうして、いつしかテンプル騎士団はヨーロッパ最大の金融機関であり、経済・政治をも左右する巨大な存在になって行きます。
 しかし、そのことによってテンプル騎士団は、知らぬ間に敵を作り出すことになり、自分たちの役割についても疑問を持つ始めることになって行きます。

<テンプル騎士団の敵>
 テンプル騎士団を敵と考える王族はいたものの、彼らに闘いを挑むとなるとそう簡単なことではありませんでした。ヨーロッパ最強の軍事力と資金力をもつ組織ですし、そのバックには教皇をトップとするキリスト教界がいます。たとえ、どこかの国の支部をつぶしても、ヨーロッパ中に支部をもつ組織を全滅させることは不可能です。
 そこまで無謀なことを考える人物がいるとは思えない。騎士団側はそう考えていたはずです。ところが、そこまで無謀なことを企むバカ者がいたのです。それは当時、国としては最強の存在だったフランスの国王フィリップ4世でした。彼は何度も戦争を起こし、そのたびに騎士団に借金をしており、彼らに頭が上がらない状態に追い込まれていたようです。そこで、膨大な借金を騎士団ごと消し去ろうと考えたのです。
 1307年10月13日の早朝、彼はテンプル騎士団の総長ジャック・ドゥ・モレーをパリに呼び寄せると、武装した兵士によって、彼と共に着ていた騎士たちを一気に逮捕。同時にフランス国内の支部を急襲し、多くの騎士たちも拘留してしまいます。秘密裏に進められていたこの作戦を予測できなかった騎士団員たちは、ほとんど抵抗することなく逮捕されてしまいました。彼らはまさか自分たちがフランスの国王によって逮捕されるとは思ってもみないし、すぐに解放されるだろうと考えていたのかもしれません。

 この時の逮捕の理由は、騎士団内で行われている入会の儀式などがキリスト教の教理からはずれた異端といえる行為だという密告によるものでした。(キリスト教では認められていない同性愛的な儀式が行われているという密告があったようです)しかし、そんなものは誰かが陥れるための偽証であり、すぐにそのことは明らかになると彼らは考えていたようです。ところが、フィリップ4世は騎士たちの予想を上回る恐るべき人物であり、策士でした。
 彼は騎士団員たちに異端審問という名の拷問を行わせ、強引に自白をさせ、次々に火破りの刑にして行きました。当然、事態に気づいたローマの教皇は怒り、その行動にストップをかけます。実は、教皇にとっても騎士団は目の上のタンコブ的存在になりつつあったのですが、それでも、フィリップ4世の行為は教会に対する反逆であり許せないことでした。すぐに教皇は、フィリップ4世を破門するという最終手段に出ることを考えます。ところが、ここでもまたフィリップ4世は教皇の先を行く行動に出ます。
 彼はいち早くローマ入りさせていた部下に教皇ボニファキウス8世を誘拐させてしまったのです。まさに神をも恐れぬ行為です。当然ながら、こうした、行動はローマで多くの市民から非難されることになり、すぐに教皇は解放されますが、その精神的ショックのためかその後すぐに教皇はこの世を去ってしまいます。すぐに後任を選ぶための選挙が行われることになりますが、新たに選ばれた教皇もまたすぐに謎の死を遂げることになりました。(一説では毒殺されたとも言われています)
 そうなるともう教皇のなりてもいなくなりそうですが、なんと次に選ばれたのはフランス人ベルトラン・ドゥ・ブーでした。その上、教皇庁もまたローマではなくフランスのアヴィニョンに置かれることになりました。(1309年)これは完全にフランス王室によって、仕組まれたものでした。
 この後、フィリップ4世はテンプル騎士団の活動を停止させただけでなく財産、権利、所有地などを没収しただけでなく、多くの主要メンバーを処刑してしまいます。フランス国外の騎士団員は、それでも他の騎士団に移ったり、修道士になったりして、生き延びますが、ほとんどの支部は解散してしまいます。

<テンプル騎士団のその後>
 ヨーロッパの中でも教会の影響が弱かったスペインやポルトガルなど西ヨーロッパへも多くの団員が逃れて行くことができました。彼らの一部は、ポルトガル王ディニス一世の後ろ盾を得て、「我らが主イエス・キリストの騎士団」を結成。1420年には国王ジョアン一世の3番目の息子エンリケ王子が騎士団総長に選ばれます。そして、彼が率いる船団はアフリカへの新航路を発見するなどポルトガルの海外進出への道を切り開き、「エンリケ航海王子」と呼ばれることになりました。
 さらに、インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマもまた同じ騎士団のメンバーで、アメリカ大陸を発見したコロンブスの義理の父親も騎士団の総長でした。テンプル騎士団の末裔たちは、こうして世界中の航路と新大陸発見への道を切り開くことになります。「アーサー王伝説」や「指輪物語」でも、物語の最後は主人公が海の彼方へと旅立つことで終わります。「テンプル騎士団」もまた同じように海の向こうへと消えていったのかもしれません。
 唯一、イギリスの騎士団は処分を免れ、彼らの末裔は現在もなお存在する謎の組織フリーメイソンの基礎になったという説もあります。(実際は、精神的・理念的な後継者と考えられます)
 でも、なぜヨーロッパ最強の組織が、簡単に世の中から消えてしまったのでしょうか?そこが疑問です。

<テンプル騎士団が消えた理由>
 あまりにあっさりと彼らが消えたことから、彼らは自分たちの意思で消えただけで、実はまだ世界のどこかで活動を密かに続けているのではないか?という都市伝説が昔からあります。
 それが様々な映画や小説に謎の組織として「テンプル騎士団」が登場する理由となっているのでしょう。
 では、なぜそんなにもあっさりとテンプル騎士団はこの世から消えてしまったのでしょうか?
 たぶんフィリップ4世による秘密裏の急襲作戦が見事だったからであり、修道士である自分たちが処刑されるはずはないと高をくくっていたとも考えられます。
 しかし、もしかするとその根本的な理由は、彼らが活動を続けるためのモチベーションにあったのかもしれません。元々彼らの活動目的は、イエス・キリスト生誕の地である「エルサレムの解放」にありました。しかし、十字軍の撤退により、西欧諸国はエルサレムの解放をあきらめてしまいました。そうなると、彼らには軍隊としての活躍の場はもうなくなり、目的を完全に失ってしまったと言えます。戦闘の中で命を失うことこそが最大の幸福だったはずの彼らは、その死に場所を失ってしまったのです。彼らはそれまでに溜め込んだ財産で修道士として生きて行くことは可能だったかもしれません。しかし、それではもっとも卑しいとされる金融業で生きて行くことになりかねません。なんとも皮肉なことです。
 本当は、十字軍がエルサレム解放をあきらめた時点で、騎士団は解散するべきだったのかもしれません。

「テンプル騎士団」 2018年
(著)佐藤賢一 Kenichi Sato
集英社新書
 

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